学位論文要旨



No 124088
著者(漢字) 宮地,鼓
著者(英字)
著者(カナ) ミヤジ,ツヅミ
標題(和) 日本の完新世沿岸気候変動に対するカガミガイの殻成長特性の応答
標題(洋) Response of daily and annual shell growth patterns of an intertidal bivalve Phacosoma japonicum to the Holocene coastal climate change in Japan
報告番号 124088
報告番号 甲24088
学位授与日 2008.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5270号
研究科 理学系研究科
専攻 地球惑星科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 茅根,創
 東京大学 准教授 大路,樹生
 東京大学 講師 横山,祐典
 東京大学 教授 棚部,一成
 東京大学 准教授 佐々木,猛智
内容要旨 要旨を表示する

近年,二酸化炭素の増加に伴う全球規模の地球温暖化が危惧され,生態系の変化や気温の上昇などの環境変動を引き起こす可能性が指摘されている.その将来の予測および解決に向けて,最も新しい地質年代である完新世の地球環境変動の実態とそれに対する生物の応答を明らかにすることが,人類共通の重要な課題の一つとなっている.そこで,本研究では北西太平洋における微細成長縞研究のモデル生物であるマルスダレガイ科二枚貝の1種であるカガミガイ(Phacosoma jgponicum)を対象として,現生・化石貝殻の貝殻成長特性の解析と生物地球化学分析を行ない,(1)現生貝殻から化石に応用できる指標を探ることと,(2)化石貝殻から過去1万年間の日本列島周辺における沿岸気候変動に対する貝類の応答様式を高時間精度・高分解能で明らかにすることを目指した.

本論文の第2章では,先行研究を基礎として,成長履歴のわかった現生個体を対象として,微細成長縞の成長パターンを解析し,それと成長期間を通じての生息場での環境パラメーターを比較し,成長を主にコントロールする要因を考察した.解析の結果,瀬戸内海の干潟から採集された標識個体の観察から,追跡期間に形成された微細成長縞数と朔望日数が一致することが確認され,本種における最小オーダーの微細成長縞(2本の数μmの狭い層と2本の数10μmの幅広い層のセットで形成)は1朔望日(24時間50分)ごとに形成されることが明らかになった.これらの事実に基づき,東京湾で採集した個体について各年齢での微細成長縞付加パターンに日レベルで時間目盛りを入れ,微細成長縞幅の時系列的変化と採集地点付近での海水の環境データ(表層水温,塩濃度,溶存酸素量,植物プランクトン量など)の経時的変化との比較を試みた.その結果,本種では,殻成長最適海水温(21-25℃)を超えると,微細成長縞幅が減少する傾向があることが判明し,朔望日輪の成長と表層海水温の関係は,温度と生物代謝の関係式であるアレニウスモデル(多項式)で近似できることがわかった.この研究によって,カガミガイの貝殻微細成長縞を用いて日精度の成長履歴とそれに関与する環境要因を特定することができた.

第四紀のグローバルな氷河の消長に伴って日本列島においても陸域および沿岸の気候が周期的に変化し,貝類相もこれに対応して分布域や構成種を変えたことがわかっている(松島,1984;Kitamura et al,1994;2000).しかし,特定種の時空分布域での生息環境の変化に対する応答などは明らかとなっていない.そこで第3章では,二枚貝類の硬組織に観察される微細成長縞を用いて過去1万年間の日本列島周辺における沿岸気候変動に対する貝類の生活史特性の応答様式の変遷を日から年スケールの高時間精度で検討した.

研究に用いた化石貝殻試料は全国各地の自然貝層や考古遺跡(貝塚)から得られた計29個体である.加速器質量分析によってこれら貝殻試料の14C年代を測定し,生息年代が明らかになった個体について蝶番部での年輪解析を行うとともに,殻外層の性成熟以前の3齢での結果微細成長縞プロフィールに時間目盛りを入れて,日輪成長量の年変動パターンの解析を行った.その結果,東京湾周辺から得られた化石貝殻の生活史特性は約7000-5000cal yr BP,1350-1010cal yr BPの年代値が得られた個体では,5齢時の蝶番部のサイズが小さく,年間形成微細成長縞本数が多く,日平均微細成長縞幅は狭いことがわかった.これに対して2140-1270cal yr BP,510.450cal yr Bpの年代値が得られた個体は上記傾向とは逆の成長様式を示すことが明らかになった.これらの生活宙特徴とこれまでの研究から明らかになっているそれぞれの時代の古気候復元結果と比較したところ,約7000-5000cal yr Bp,1350-1010cal yr BPはそれぞれ縄文海進時期(Holocene Climatic Optimum),中世の温暖期(Medial Warm Period)の温暖であったとされる時代に,そして140-1270cal yr BP,510-450cal yr BPは古墳寒冷期,小氷期(Little Ice Age)の寒冷であった時代に,それぞれ対応することが判明した.これらのことから,カガミガイの生活史特性は温暖であった時代では同湾の現生貝殻集団よりも低緯度地域集団(瀬戸内海,鹿児島湾)と類似し,これに対して寒冷期においては高緯度地域集団(函館湾,石狩湾)と類似することが明らかとなり,貝殻の成長様式は,完新世の陸域および沿岸域の気候変動に応答して変化したことが強く示唆された.また,貝殻の酸素同位体比の値から温暖期,寒冷期の化石貝殻の日輪成長の年変動パターンは水温の年変動や夏季のモンスーンの強度を反映していることが推定された.

近年,成長履歴や環境要因を記録したアーカイブスである軟体動物,サンゴや有孔虫などの付加型硬組織を用いた微量元素組成分析が精力的に行われ,古環境復元の指標としての有効性が議論されている.しかしながら,これまでの二枚貝類を用いた研究(例えばStecher et al.1996;Gillikin et al.2005)では,個々の種によってその結果が異なり,未だに元素組成比の環境プロキシとしての有効性についての一般的なコンセンサスが得られていない.

そこで第4章では現生カガミガイ殻体における微量元素組成の古環境解析指標としての有用性を検討した.具体的には,東京湾西部横浜市野島海岸より採集した個体を用いて,貝殻断面に見られる微細成長縞観察および超微小領域での化学組成分析(NanoSIMSによる定量分析およびEPMAによる定性面分析)を行ない,さらに生息場での水温や塩濃度などの海洋環境データとの比較から,日レベルでの古水温や古塩濃度等の環境因子の抽出を試みた.NanoSIMSおよびEPMAでの分析結果より,Srは微細成長縞に沿って,Mgは貝殻結晶構造に沿って,それぞれ濃集していることがわかった.さらに,有機物由来と考えられるSも微細成長縞に沿って濃集しているが,明瞭な暗色成長縞においてはその濃度が低いことが観察された.分析範囲に時問目盛りを入れて,その期間での東京湾の海洋環境データ(日平均)と比較を行った結果,短期間におけるカガミガイの微量元素組成の変動パターンには海水温よりも朔望日輪における有機質層(微細成長線)と石灰質卓越層(微細成長縞)の違いやメソスコピックな殻体構造が強く関与していることが示された.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は日本列島の潮間帯-潮下帯に生息するマルスダレガイ科二枚貝の一種カガミガイ(Phacosoma japonicum)を素材として、殻体成長縞形成パターンの時空的変遷を過去8000年間にわたって日から年のスケールの時間精度で解析し、日本の沿岸気候変動に対する殻成長特性の応答様式を初めて明らかにした独創的な研究である。

有孔虫殻・サンゴ骨格・貝殻・魚鱗・樹木年輪などの付加型硬組織は、それらを作った生物の成長とそれを支配する環境要因を時系列的に記録しているため、生物-環境相互作用の研究に広く利用されている。しかし、これまで年レベル以下の時間分解能で行われた研究はほとんどなかった。そこで、論文申請者は、カガミガイの素材としての有利性、すなわち1)殻成長を含む生活史特性の生態学的・遺伝的背景がよく調べられている、2)殻体内部に年輪のほかに日輪と考えられる微細成長縞が観察される、3)化石が日本列島各地の第四紀海成層や貝塚から多産する、という点に着目して、本研究を行った。

本論文は、5章から構成される。第1章では、二枚貝類の成長縞を用いた先行研究のレビューと本研究の目的が示されている。第2章では、現生個体についての研究結果がまとめられている。重要な成果として、生体染色個体の解析から本種の微細成長縞(2本の狭い線と2本の幅広い縞のセット)が1朔望日(24時間50分)ごとに形成され、その幅の変動パターンは海洋潮汐の周期を反映していることが確認されたことが挙げられる。この事実に基づき、2003年に東京湾の干潟から採集された3齢個体の成長縞プロフィールに時間目盛りを入れて、朔望日輪の成長と生息場の環境データとの比較が行われた。その結果、本種は, 1)冬の低水温期に微細成長縞の付加を停止し、年輪(冬輪)を形成する、2) 冬輪形成後の成長開始時期は表層水温に支配されている、3)朔望日輪の成長におもに関与する環境因子は表層海水温(成長最適水温は21-25℃)であるが、それ以外に塩分や餌となる植物プランクトン量も寄与している、などの事実が明らかになった。

第3章では、日本列島各地の完新世自然貝層や貝塚などから得られた化石カガミガイ計29個体についての研究結果がまとめられている。これらの個体は放射性炭素年代測定法により生息年代を決定した後、年輪・朔望日輪の解析が行われた。その結果、東京湾周辺産の化石貝殻の年間成長日数、日平均成長量、朔望日輪の年間付加パターンは完新世の気候変動に応答して変化し、温暖期(約7000-5000 cal yr BP、完新世気候極相期;1350-1010 cal yr BP、中世温暖期)の個体は現世の東京湾以南の個体に、また寒冷期(1400-1270 cal yr BP:古墳寒冷期; 510-450 cal yr BP;小氷期)の個体は現世の北海道沿岸の個体に比較されることが示され、本種の殻成長特性は完新世の沿岸気候変動に応答して変化したことが明らかになった。また、夏から初秋の時期に形成された貝殻が示す酸素同位体比の著しく軽い値や朔望日輪成長量の一時的な下降などから、温暖期の朔望日輪の成長は夏のモンスーンや秋の台風による塩分の低下を反映している可能性が示唆された。

第4章では、NanoSIMSおよびEPMAを用いた現生カガミガイの微細成長縞中の微量元素組成の高分解能解析結果がまとめられている。分析結果から、一定の表層海水温で形成された殻体部分でも微量元素組成は大きな変動を示し、Srは微細成長縞に沿った分布を、またMgは微細成長縞ではなく複合稜柱構造に対応した分布パターンを、それぞれ示すことがわかった。このことから、貝殻構造上の違いがこれらの元素組成変動に寄与していることが示唆された。第5章では、全体の結論と今後の展望がまとめられている。

本論文の独創性は,カガミガイという有利な素材を用いて、付加型硬組織の成長を日-季節レベルの時間分解能で解析する手法を確立するとともに、二枚貝類の殻成長特性の時空的変遷が完新世の沿岸気候変動に応答していることを世界で初めて示した点にある。この手法は他の現生・化石二枚貝類に広く適用できるため、過去から現在にわたる生物-環境相互作用を月~日スケールという高い時間分解で復元し、研究する道を拓いた。また、本論文は古生物学・生態学・気候学・水産学・考古学などを横断する新しい分野の展開につながる可能性を有しており、地球表層環境システムの未来変動予測に直結した基礎研究と位置づけられる。

なお、本論文は棚部一成・Schone Bernd・横山祐典・松崎浩之・松島義章・佐藤慎一・佐野有司・白井厚太朗との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析し、考察を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、本論文の独創性・萌芽性と今後の生物-環境相互作用の研究への新たな前途を開拓した点を高く評価し,審査委員会では全員が本論文を博士(理学)の学位に受けるに値すると判断した。

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