学位論文要旨



No 124103
著者(漢字) 伊藤,喜彦
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,ヨシヒコ
標題(和) スペイン十世紀レオン王国の建築と社会 : モサラベ史観批判およびイスラム建築の影響の再検討を中心に
標題(洋)
報告番号 124103
報告番号 甲24103
学位授与日 2008.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6872号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 難波,和彦
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 准教授 藤井,恵介
内容要旨 要旨を表示する

目的と意義

本研究の目的は、初期中世スペインが孕む文化的フロンティア性とその建築における表出を分析することで、大文字の西洋建築史がこれまで枝葉として目をつぶってきた驚くべき豊かさ・多様性の発見を促すばかりでなく、建築文化が接触・伝播・受容によってどのように変質し、特殊化するかという問題を考えることである。西方イスラム文明の白眉であるコルドバの後ウマイヤ朝がその大半を制圧していた十世紀のキリスト教建築というテーマは、そうした問題の極めて典型的な事例として捉えることができよう。

我が国における西洋建築史研究は近年飛躍的な進歩を遂げているが、スペインやラテンアメリカに関する研究は残念ながらまだ極めて遅れた状態にあると言わなければならない。とりわけ、800 年近くにわたりイスラム教徒とキリスト教徒の支配が並存するという、ヨーロッパでも、あるいは現在のイスラム圏諸国と比較しても、きわめて特異な状況を経験した中世スペインの建築に関しては、現在までのところ我が国にはほんの一握りの研究者が暗中模索で研究を試みてきたに過ぎない。同時期の他の西ヨーロッパ諸国に比べて豊富な、そして状態のよい遺構に恵まれた、小規模ながら独特で魅力あるスペイン(イベリア半島)初期中世建築が我が国において本格的研究の対象となったことはほとんどなく、その嚆矢となること自体、本研究の意義の一つとして挙げることが出来るだろう。

国外、とりわけスペイン国内での研究に目を向けると、先行研究の層はぐっと厚くなる。しかし、拙論第一部で述べるように、二十世紀初頭の成果を方法的・内容的・論理的に完全に乗り越えることができた研究は未だなく、さらに、西ゴート期建築に関しては大きな見直しの提案が近年出たものの、結局は進展以上の混乱を引き起こしているという状況である。本論では研究史を規定してきた百年来の古典説であるモサラベ建築史観の批判的再検討のために、その論拠となってきた社会的背景と建築の造形的部分の二つをとりあげ、幾つかの点で古典説の重要な点について見直しを図った。いずれの分析に関しても、スペイン十世紀を捉えなおすための示唆的な結論を呈示することができたと考える。

研究方法

現在の西欧中世建築研究において、史料や遺構の新発見による史観の大転換というのは起こりにくく、したがって、新しい研究の対象から新しいことがらを導き出すかわりに、既知の対象の解釈を修正することが近年の研究者の主たる関心といえる。一部の考古学者は、より精密とされる科学的測定を取り入れた新しい手法(炭素同定、壁面の全石層分析など)を用いて、遺構の年代を何世紀もずらすという荒業をやってのけたりもするが、こうした手法は年代の推定や建設フェーズの追跡など限られた事実の解明にしか用いることが出来ず、しかもしばしば極端な決定論に陥りがちである。こうした動きを参考にしつつも、筆者は既出の文献や考古学的情報をより厳密な資料批判の上で用いることに加え、現存する遺構の造形的な部分を具に再検討していくことや、より広範囲で複数の建造物の比較分析を行なうこと、そして集められた手がかり全体から導き出される蓋然性を重視した。また、これまでの研究では、平面図分析による機能論、彫刻・絵画の分析による様式論・図像論、切石造やヴォールト造など工法を進化・退化・革命の流れに押し込む建築考古学が主流であったが、筆者は、取り上げられることのあまりなかった意匠と工法の有機的関係に注目し、建築要素の共有を「影響」や「混合」の一言で済ませる従来の中世建築史研究と一線を画す視点を導入した。それによって、取り上げる題材の幾つかの盲点、あるいは看過されてきた点を、それ以外の既知の事実全体の整理・統合、紹介と併せて論じ、説得力のあるひとつの歴史/ストーリー(Historia)を語りたいと考えた。

とりわけ第三部において気をつけた点としては、二十世紀中盤以降、美術史家と考古学者の各々あまり接点なき領分になってきたこの分野を、なるべく建築という視点から見ようと思ったこと、そのために近年ではあまり論じられることもない工法や建設的な部分にも注意を払ったことが挙げられる。また、実測の機会がなかったために論拠を十分に展開することができなかったが、建築空間やプロポーションについても検討し、その際に安易な決定論の陥穽に嵌らないように注意した。

一方、第二部では、考古学や美術史の専門家がわざわざ語ることもないモサラベ移民の問題を固有名詞研究などからヒントを得て分析し、広く流布するモサラベ建築史観の一つの重大な論拠を崩すことを試みた。それ自体は直接建築との関わりが証明できる類の問題ではないが、逆に関わりがないものをあるかのように論じた説が現在定説となっている以上、そういった面も含めて、批判的検討が必要であった。

資料

第二部第二章、第三部第四章、第四部を中心に用いた文献資料は、一部の修復記録を除き、全て活字化されたものを用いた。とりわけ多用したのが、年代記のエディションとここ三十年ほどで充実したレオン大聖堂、サアグン修道院等各所公文書アーカイヴのコーパスである。アラビア語年代記は基本的にそれを翻訳した二次資料を用いた。また、考古学的発掘調査の結果や建造物に関する各種データは、出版された発掘報告書や修理報告書、それを元にしたモノグラフから抽出されたものである。スペイン初期中世キリスト教建築以外の建築に関する情報の多くは、図版も含め先行研究に拠った。これら用いられた情報の引用元は全て本文・注・引用文献リスト・図版リストに掲載した。

構成と各部の内容

本論攷は以下のように構成される。

まず第一部は、スペイン初期中世キリスト教建築のヒストリオグラフィーを取り扱う。かなり多くの紙面が先行研究の紹介とその分析に割かれることになり、また必ずしも十世紀に限定されない範囲を扱うことになるが、それにはいくつかの理由がある。一つは、単純にそれが面白いからで、建築史がいかにイデオロギーの代弁者としての役割を課せられてきたのかが明らかになるだろう。また、本論の大きな課題の一つが二十世紀初頭から現在まで主流であるモサラベ建築史観批判であることから、この史観がどのように支持され、どのような反駁を受けてきたかを記すことは重要であろう。さらに、同類の試みがこれまでなく、長年の論争の経緯と成果をまとめておくことも意義深いと思われる。第一章が1919年の『モサラベ教会堂』まで、第二章がそれ以降の西ゴート期、アストゥリアス王国期の建築研究史、第三章が批判的「モサラベ」建築研究史、第四章が西欧初期中世史の中のスペイン、第五章が近年の新しい動向についてである。終章ではこうした研究史を踏まえ本論でどのような内容が展開されるか述べた。

第二部では、十世紀にイベリア半島北西部でアストゥリアス王国から発展したレオン王国(アストゥリアス=レオン王国)の建築を取り巻く背景と状況を描写した。まずレオン王国誕生までとその瓦解について概観したあと、建築の影響関係の歴史的裏付けとしても重要な「無人化」「再入植」の問題についてまとめ、また、レオン王国におけるモサラベ移民の存在について、体系的批判を加えた。その後、レオン王国がどのような社会であったかを描写し、そうした社会における建築のあり方についてまとめなおした。とりわけ重要なのが第二章第二節で、レオン王国の主要公文書におけるアラビア語系人名の定量的分析およびいくつかのケーススタディーを通じて、大量のモサラベ移民で構成されていたという幻想を打破した。

第三部では、十世紀レオン王国の建築を捉えるためのいくつかの決定的側面に脚光を当て、第二部を踏まえながらも、より純粋な建築的問題としてそのあり方を再検討する。徹底的検討を加えられた要素から、単に一つの切り口を与えて建築群を再整理するために挙げられた要素まで様々だが、ヴォールト、アーチ、建設材料、建築を巡る言説がその主題となった。サンティアゴ・デ・ペニャルバの穹稜ドーム状ヴォールトの検討を通しては、そのイメージ・ソースが古代の浴場を転用したレオン大聖堂にあるのではないかという説を呈示し、ア・プリオリにイスラム建築の影響を強調する態度を批判した。また、同じく馬蹄型アーチの用いられ方についても、イスラム建築からキリスト教建築への影響が純粋に視覚的面にとどまっていることを指摘した。

第四部は、レオン王国十世紀を代表し、様々な共通点を持つ四つの建築、サンティアゴ・デ・ペニャルバ、サン・ミゲル・デ・エスカラーダ、サン・セブリアン・デ・マソーテ、サン・ミゲル・デ・セラノーバのそれぞれについて、これまでの研究成果をまとめると共に、幾つかの個別の問題について検討を加えた。とりわけ、史料と実際の遺構の分析を通じて、建設フェーズと建設時期について改めて筆者の見解を述べた。

以上の検討を通じて、イベリア半島北西部、初期中世という、西欧建築史全体で見れば、特異でどちらかといえばマージナルな地域・時代のより正確な像の構築を試みると共に、古代と中世、地中海、ヨーロッパ、そしてイスラムというより大きな問題系が、どのような関係性をそこに表出させているのかを探ることができた。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、初期中世スペインがもつ文化的フロンティア性とその建築における表出を分析することで、西洋建築史がこれまで枝葉として目をつぶってきたスペイン建築に存在する驚くべき豊かさ・多様性を発見し、建築文化が接触・伝播・受容によってどのように変質し、特殊化するかという問題を考えるものである。

まず第一部では、スペイン初期中世キリスト教建築のヒストリオグラフィーを取り扱う。本論の大きな課題の一つが二十世紀初頭から現在まで主流であるモサラベ建築史観批判であることから、この史観がどのように支持され、どのような反駁を受けてきたかを記すことは重要である。こうした試みがこれまでないので、長年の論争の経緯と成果をまとめておくことも意義深い。第一章は1919年の『モサラベ教会堂』まで、第二章はそれ以降の西ゴート期、アストゥリアス王国期の建築研究史、第三章は批判的「モサラベ」建築研究史、第四章は西欧初期中世史の中のスペイン、第五章は近年の新しい動向について述べている。終章ではこうした研究史を踏まえ、本論での展開が述べられる。

第二部では、十世紀にイベリア半島北西部でアストゥリアス王国から発展したレオン王国(アストゥリアス=レオン王国)の建築を取り巻く背景と状況を描写する。まずレオン王国誕生までとその瓦解について概観したあと、建築の影響関係の歴史的裏付けとしても重要な「無人化」「再入植」の問題についてまとめ、また、レオン王国におけるモサラベ移民の存在について、体系的批判を加えた。その後、レオン王国がどのような社会であったかを描写し、そうした社会における建築のあり方についてまとめなおした。とりわけ重要なのが第二章第二節で、レオン王国の主要公文書におけるアラビア語系人名の定量的分析およびいくつかのケーススタディーを通じて、大量のモサラベ移民で構成されていたという通説を訂正した。

第三部では、十世紀レオン王国の建築を捉えるため、ヴォールト、アーチ、建設材料、建築を巡る言説に脚光を当て、第二部を踏まえながらも、より純粋な建築的問題としてそのあり方を再検討する。サンティアゴ・デ・ペニャルバの穹稜ドーム状ヴォールトの検討を通しては、そのイメージ・ソースが古代の浴場を転用したレオン大聖堂にあるのではないかという説を呈示し、ア・プリオリにイスラム建築の影響を強調する態度を批判した。また、同じく馬蹄型アーチの用いられ方についても、イスラム建築からキリスト教建築への影響が純粋に視覚的面にとどまっていることを指摘した。

第四部は、レオン王国十世紀を代表し、様々な共通点を持つ四つの建築、サンティアゴ・デ・ペニャルバ、サン・ミゲル・デ・エスカラーダ、サン・セブリアン・デ・マソーテ、サン・ミゲル・デ・セラノーバのそれぞれについて、これまでの研究成果をまとめるとともに、史料と実際の遺構の分析を通じて、建設フェーズと建設時期について改めて筆者の見解を述べた。

以上の検討を通じて、イベリア半島北西部、初期中世のより正確な像の構築を試みると共に、古代と中世、地中海、ヨーロッパ、そしてイスラムというより大きな問題系が、どのような関係性をそこに表出させているのかを明らかにした。以上は興味深い成果をもたらした西洋建築史研究であり、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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