学位論文要旨



No 124104
著者(漢字) 鈴木,真歩
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,マホ
標題(和) 19世紀ニューヨークにおける不動産経済とブルジョワの都市居住観
標題(洋)
報告番号 124104
報告番号 甲24104
学位授与日 2008.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6873号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 難波,和彦
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 准教授 藤井,恵介
内容要旨 要旨を表示する

本論文は19世紀のニューヨークにおけるブルジョワの都市観、都市居住観について、不動産経済を軸に考察したものである。

独立戦争以後本格的に人口増が始まったアメリカでは、民主主義と私的財産権の尊重が是とされる体制の下でその基本的な骨格がつくられた。これまでのアメリカ都市史の研究者はそうしたやや自由放任の状態の都市よりも、19世紀末から20世紀初頭にかけて、専門家や知識人が「公共善」やあるべき「都市像」を形成する過程を重視していた。ただ、直接都市建設を行う地主や土地への投資家は、それ以前から継続的に関わり、またそうした秩序形成の時期にも同様に力を持った。また、地主を含むブルジョワは都市住宅の消費者でもあり、彼らの住む界隈がマンハッタンで最も不動産的価値を高めることもあった。19世紀のニューヨークは彼らの行動によって左右された都市と考え、その土地開発に対する考え方、彼ら自身が都市に住居することに対する考え方を明らかにする。

第一章では、コミッショナーズ・プランから1916年ゾーニング条例制定までの間にニューヨーク市政がマンハッタンの都市発展に関して行った施策について、特に不動産にとっての意味合いを考察し、そのうちコミッショナーズ・プランについては地図資料を用いた再検討を行った。以下要約すると、独立戦争後のアメリカ社会では、私的権利の追求を重視する「自由主義」者が勢力を持った。また継続的、統一的意思が持ちにくい議会政治の下、治安、火災、衛生にかかわることはすばやくくまなく行われたが、下水道や舗装、鉄道の敷設、公園の設置などについては、市全体のバランスではなく声高に要求があったところから、その要求に沿って進められる傾向があった。また重要な公共事業の周辺の土地も私的な開発に任せたため、政治腐敗、土地バブルなど様々な問題を引き起こした。そして、地主の利益を損ねかねない法規制は先延ばしにされた。そうした中で、1811年に街区を定めたコミッショナーズ・プランは、マンハッタンのほとんどに対して強制力を持って行われた、という点で珍しい。しかしそこで考慮された「公共善」は土地の計算しやすさだけであり、またその後建物が建った状態の都市への関心は薄かった。この時点では徴税に対しての意識はあまり見られなかったが、その後、歳入を固定資産税に依存するようになると、その政策には「地価上昇」「地価安定」がキーワードとして現れることになる。すべての政策が土地のためだけに決められたわけではないが、財政基盤が固定資産税である限り、これらは行政の関心事であり続け、またそれは民間主導で行われることが前提だった。このように行政に都市成長のコントロールについてイニシアチブを期待することは難しかったが、20世紀初頭においては地主の財産権に踏み込むような規制、すなわち「1901年テネメント法」と「1916年ゾーニング条例」が。前者については、慈善運動家やジャーナリストに促される形で、後者については顧客の意向に沿わなければならない小売店の要請で始められた。ただいずれの場合も、最終的に不動産関係者を同意させたのは不動産価格の安定であり、またルールがあることで反社会的な競争に巻き込まれないようにするための、地主達の自衛策でもあった。

第二章では住宅建設にかかわる土地売買の中に反映される地主の土地に対する考え方、そして都市像を考察した。土地に対する態度の違いから(1)集積し続ける地主(アスター、ゴーレット、ラインランダー、スカイマーン)、(2)不動産資産の開発に専念した相続人(ムーア、スタイヴェサント、ビークマン)、(3)投機的住宅建設者、(4)投機的土地購入者の4つに分類、分析した。以下要約すると、独立戦争後のニューヨークにおいて資本を持つ人々にとっては、土地所有は非常に開かれた投資対象であり、特に19世紀初頭に市街地の外側の土地を購入で切れば相当の儲けが期待できた。相続による地主のうち土地以外の収入が少ない場合は、税金や道路開削費用の負担などが売却のきっかけになったようだ。ただ彼らも、一番もうけがでるように「売るときは区画単位で」を実践した。土地の売買、リースにおいては、収入の確保のため、また土地価格の下落を防ぐための「制限付き約款」が見られた。そして好景気にわいた1820年代半ばからロウハウスのデザインの統一やレジデンシャル・スクエアの設置など住宅の高級化の手法が蓄積されていった。30年代にはかなりの土地を買い集めて土地利用をコントロールしようとしたデヴェロッパー、サミュエル・ラッグルズが登場したが、彼の能力と志の高さとはやや例外的であった。そして、1850年代に土地取引の90日ルール(割賦契約)の復活や1860年代の政治的環境から土地投機が横行すると、土地所有は細分化の一途をたどる。このため、広い地所を所有して街路のレイアウトを変えることなどはほぼ不可能になり、コミッショナーズ・プランの区画の中で建物の大型化によって収入増が図られるようになった。

二章の後半では1870年以降登場したアパートメントの不動産上の位置付けについてまとめた。ロウハウスが主流のニューヨークで社会的にやや低く見られていたアパートメントが受け入れられるのには時間がかかったが、ここではそうした価値観の転換期に、不動産関係者が事業としての収支を合わせながらどのように新しい住宅形式の導入を成功させていったのかに注目した。最初のアパートメントの施主は資金的に余裕のある相続による地主スタイヴェサントであったが、だが彼もその動機は収入増であり、また一旦アパートメントが受け入れられれば、元手のないデヴェロッパーも参入するようになった。彼らは不況であった70年代の間は新しい試みには消極的だったが、80年代前半には、より大きな利益の見込みに駆られ、富裕層の趣味を意識し魅力ある景観形成も期待した高級大型アパートメントを試みた。ただ、なじみのない建物規模は見積もりの不備などを招き、更にロウハウスの所有者からの圧力による高さ制限の法律で、高層化の方向は一時停滞する。その後、ロウハウスの建設を終息させたのは、鉄骨構造と電動エレベータの登場によるアパートメントの収益率増加と、それに伴う地価上昇だった。

第三章では、マンハッタンの他の地域と違って個別に邸宅が建てられることが多かった五番街で、最富裕層が都市の住生活に何を望んでいたのかを考察した。それは住宅地として川沿いの悪い環境から最も遠い立地にあるというとともに当時興りつつある社交界の存在が五番街の不動産的価値を一層高めた。そして普段機会費用の原理で動いている資本家が、消費者としてこの場所に住むために、そして一戸建ての住宅地としての性格を保つために出費を惜しまずなかったが、商業が近づいた地域では入居希望者が現れなくなった。また金持ち達自身の価値観の変化により、都市型豪邸に住まうことの意味が失われ、自らアパートメント生活を選ぶようになった。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、19世紀のニューヨークにおけるブルジョワの都市観、都市居住観について、不動産経済を軸に考察したものである。論文は3章からなる。本論文に用いられているブルジョワの範囲は、19世紀前半までは、海上貿易を行う商人、銀行家のほか、弁護士、地主などが中心で、同世紀後半になるとこれに鉄道資本家や製造業の関係者が加わり、さらに1870年以後は株式市場などの存在によって集まるようになった国中の富豪層を含む。

1章では、独立戦争後からゾーニング法が定められた1916年までの間にニューヨーク市政が行った施策から、マンハッタンの不動産の基盤、背景を確認した。1811年に街区割を定めたコミッショナーズ・プランは、マンハッタンのかなりの部分に対して強制力を持って行われた。市はその所有地を「町場の街区」にわけて高く貸し出したい思惑があった。20世紀になると住宅の建蔽率を一律に決定した「1901年テネメント法」や、地域別の高さと用途の制限を定めた「1916年ゾーニング条例」など、地主の財産権に踏み込むような規制が実現したが、この背景には、不動産の供給者にとってもこうした規制には価格の安定につながるというメリットが理解されたことがあった。

2章の前半では、独立戦争後、ブルジョワジーの住まいが、建売のロウハウスを中心としていたことから、その建設過程に現れる地主としてのブルジョワの土地、住居に対する考え方を考察した。

この時代に土地を所有した人々については(1)集積型大土地所有者、(2)不動産資産の開発に専念した相続人、(3)投機的住宅建設者、(4)投機的土地購入者の4タイプが見られた 。(1)のうち同時代の不動産王と呼ばれたジョン・ジェイコブ・アスターに関する既往研究からは「買うときはエーカー単位で、売るときは区画単位で」という言葉に代表される、細分化して最も利益が大きくなるように売却する態度があったことを指摘した。

2章の後半では、ロウハウスが主流のニューヨークで社会的にやや低く見られていたアパートメントの登場に注目した。最初のアパートメントの施主はスタイヴェサントであったが、彼の不動産台帳の分析により、彼は理想主義的に建蔽率の減少に取り組んだわけではなく、市場の拡大と利益率向上が主眼にあったことを指摘した。デヴェロッパーも富裕層の趣味を意識し魅力ある景観形成も期待した高級大型アパートメントを試みた。ロウハウスの建設を終息させたのは、鉄骨構造と電動エレベータの登場によるアパートメントの収益率増加と、それに伴う地価上昇であり、こうして経済状況が変わると、人々はアパートメントを選ばざるをえなくなった。他の不動産の投資対象である高層オフィスビルと比べ、住宅はより純粋に投資の対象になっていた。

3章の前半では、これまでの19世紀前半の個別の地主の努力とは異なる次元で高級住宅地の地位を獲得した五番街で、最富裕層が都市の住生活に何を望んでいたのかを考察した。五番街は「人に見せるための通り」とされたが、それは全都市住民に向けたものではなく、「住宅地」の中で同一階級の人々同士で行われるものだった。五番街の社会的文脈は、本格的な豪邸のさきがけであるヴァンダービルト邸がむしろ59丁目以南に建てられたことにも表れている。富裕層は五番街に既に住む名士の隣に住むことに満足し、また土地細分化による住宅地の単調さには不満を持たなかった。

3章の後半では、ブルジョワ向けのアパートメントとその立地との関係について論じた。1870年以降に登場したアパートメントは、一戸建て住宅に比べ匿名的であり、街路や地域から受ける影響が小さく、これまで好ましくないと考えられていた市街地でも比較的居住しやすくなっていた。五番街の大富豪たちも、1910年代頃から都市型豪邸に住まうことの意味を見失い、自らアパートメント生活を選ぶようになった。

19世紀のニューヨークのブルジョワの都市居住観をまとめると、地主としてのブルジョワは19世紀を通して徹底的に利益を追求し、土地所有の細分化に対して抵抗感を持たなかった。20世紀初頭には多少私有財産権が侵害されても不動産価格の安定を取るという発想を受け入れるようになっていた。富裕層は都市住宅を選ぶ際、都市空間の豊かさより社会的な文脈の方を期待した。また後に一戸建て住宅を最上のものとする価値観がくずれ、大金をつぎ込んだ豪邸が1世代とたたないうちに不用になった。以上は興味深い成果をもたらした西洋都市・建築史研究であり、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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