学位論文要旨



No 124169
著者(漢字) 平野,宏子
著者(英字)
著者(カナ) ヒラノ,ヒロコ
標題(和) 母語話者と学習者の日本語朗読音声に現れる韻律的特徴
標題(洋) Prosodic Features of Japanese Sentences Read Aloud by Native and Non-native Speakers
報告番号 124169
報告番号 甲24169
学位授与日 2008.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第386号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 基盤情報学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 広瀬,啓吉
 東京大学 教授 柴田,直
 東京大学 教授 相田,仁
 東京大学 教授 相澤,清晴
 東京大学 准教授 杉本,雅則
 東京大学 准教授 峯松,信明
内容要旨 要旨を表示する

日本語を第二言語として学ぶ学習者は年々増加傾向にあり,在日留学生数は現在12万人近くに達する.近年,学習者層や学習環境も多様化し,特に日本に暮らす学習者にとって,日本語らしい自然な発音・イントネーションで話すことは重要な学習目標である.

学習者が学ぶ日本語教育機関では,現状,音声指導が計画的に行われていない.また,指導の中心は,発話の明瞭さに関わる,特殊拍(長音・促音・撥音)や清濁(たいがく・だいがく)などの単音であり,発話の自然さに関わる,アクセント・イントネーション・リズム・ポーズなどの韻律には,ほとんど時間が割かれていない.理由は,時間的余裕がない,指導法が分からない,教材がない,音声は自然に身につくものという教師の教育観などが挙げられている.

言語情報・パラ言語情報・非言語情報など多くを伝える韻律は,その不適切な使用によって,コミュニケーションを阻害したり,相手の感情を害したり,自己の能力を低く見られるといった,学習者の意図しない不利益を生ずる場合がある.思わぬところで友人関係を壊したり,アルバイト等の面接で仕事を断られたりということもある.

近年,韻律の重要性に対する認識の高まりとともに,教材出版と教育実践報告も増えているが,文法や読解教材と比べて音声教材は数えるほどしかない.教師が日々の教育活動の中で学習者の韻律のどこが不自然であるのかを瞬時に捉え,すぐさま指導に結びつけることは困難である.母語話者性・非母語話者性を特徴付ける音響の分析や,母語話者知覚実験による自然性判断の要因調査といった基礎研究の充実が重要である.本研究は,指導法の確立,教材の開発,CALLシステムの構築を最終目標としており,そのための韻律研究を行ってきた.

本研究では,主に,在日留学生の約3分の2を占める中国語話者の日本語朗読音声に現れる韻律特徴を,母語話者との比較によって分析した.特に,ピッチ・アクセント言語の日本語において主要に関与すると言われる基本周波数パターンについて調べた.

日本語を学習する中国語(標準語)話者と母語(東京方言)話者の朗読音声のF0パターンの形状を観察し,文中の文節毎のレンジの推移を,正規化F0の最大値,中央値,最小値により表現し,両者の違いを明らかにした.また,母語話者評価から得たスコアとそれを利用したパターングラフによって,習熟度に従って現れる様相を段階的に示した.母語話者が,統語的,意味的まとまりを,なだらかな丘状のF0パターンとともに,文節毎にF0最大値を調節し,大小のレンジ変化をつけ音響的に表現する一方,中国語話者は,急峻で直線的な形状,文節毎に画一的なレンジを持ち,文末のF0の高さ,レンジの広さ,急激な下降が目立ち,時に強い口調として知覚された.中国語話者は,F0パターンのなだらかな上昇下降の形状,レンジの適切な調整を学習する必要があることが分かった.

以上のように,表層のF0パターンを観察することによって,中国語話者と母語話者の違いが明らかとなった.但し,F0パターンは語句のアクセントやそれに覆い被さるイントネーションが合わさって実現しているものであるから,アクセント型が異なれば,表層のF0パターンの形状は異なる.学習者の場合,アクセント型がしばしば揃わないという問題があり,同一のアクセント型を前提とした1文を通じてのF0パターンの分析が困難である.

そこで,次の段階として,この2つの成分を分けて分析することが可能な基本周波数パターン生成過程モデル(以下,F0モデル)を用いて,パラメータレベルでの解析を行った.

F0モデルは,F0パターンを生成する過程の声帯振動制御機構を,咽頭の生理的・物理的特性に基づいて定量的にモデル化したもので,Fujisakiらによって提案された.発話の言語学的情報と密接な関係にあるアクセント指令・フレーズ指令といった少数のパラメータから実測のF0パターンに極めてよく近似するパターンを生成することが知られている.合成音声の分野ではすでに幅広く用いられ,日本語以外の様々な言語に適応可能であることが実証されているが,F0モデルを用いて第二言語・外国語話者の発話分析が定量的に行われた例はほとんどない.今後,様々な背景母語を持つ学習者の音声を母語話者と比較して定量的に分析する際の,統一的な枠組みを提供するものとして利用が期待できる.さらに様々な言語の韻律記述に役立つという点で,今後,同一モデル上で複数言語間における韻律の'cross-language study'が可能になると考える.また,既に知られた学習者発話の韻律的特徴を,生成過程という観点から改めて眺めることにより,新たな知見が得られる可能性がある.

F0モデルを用いて中国語話者と母語話者の日本語朗読音声を分析した結果,次のことが明らかとなった.1)中国語話者は男女とも,母語話者より基底周波数が高く,個人内・個人間でばらつきが大きい.2)フレーズ指令,アクセント指令がどちらも過剰生成される.アクセント指令は,母語話者はほぼ内容語のみに生成するが,中国語話者は機能語にも多く生成し,文節内の韻律語が分断される.3) フレーズ指令,アクセント指令の大きさが文節毎に画一的である.4)局所的な負のアクセント指令の導入が実測のF0パターンを良く近似する.また,5)母語話者男女の指令の生成数,大きさの変化に違いが見られた.1)-3)は非母語話者性を知覚させ,2)-3)は発話のフォーカスを不明瞭にし,聞き手側に韻律的なまとまりの再構築を要求し, 4)は話者が意図しないパラ言語的情報が付加される可能性がある.これらの特徴は,音節毎に声調型を持つ中国語の影響,第二言語発話の不慣れ,適切な韻律指導の不足に起因すると考えられる.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は[母語話者と学習者の日本語朗読音声に現れる韻律的特徴]と題し、中国語あるいは英語を母語とする日本語学習者と日本語母語話者の日本語朗読音声に現れる韻律的特徴の違いを定量的に調べ明確化したものであって、全10章からなる。従来、明示的に考慮されることの少なかった、発音学習における母語の影響を具体的に示し、それを考慮した学習方策の必要性を示唆している。第1章は「序論」であって、まず、日本語学習者の増加に対応した効果的な発音教育システムの必要性を述べた上で、現状のシステムの問題点を指摘している。次に、発音教育における音声の韻律的特徴の重要性に着目し、本論文では、中国語母語学習者の日本語朗読音声の韻律的特徴を、日本語母語話者のそれとの差異として定量的に調べることによって、効果的な発音教育手法を確立する基礎を構築することにあるとしている。このために、韻律の観点から日本語、中国語と大きく異なる英語に着目し、英語母語学習者の日本語朗読音声も含めて比較研究することにより、発話の問題点を、学習者の母語に起因するものとそうでないものとに整理することを行うとしている。最後に本論文の章立てを示している。

第2章は「関連研究」と題し、まず、音声の特徴の概略を述べた上で、研究の基盤となる、基本周波数パターン生成過程モデル(FOモデル)を紹介している。次に、日本における留学生の動向と、求められる日本語能力を、資料に基づいて詳細に議論した上で、現状の日本語教育の発音指導を概観し、韻律に着目した発音教育手法を、学習者の背景母語を考慮しつつ構築することの重要性を指摘している。

第3章は「コーパスの作成」と題七、本論文で分析対象とした音声コーパスと分析手法について述べている。音声コーパスは、中国語母語学習者と日本語母語話者の日本語朗読音声を収録したもの、標準中国語母語学習者、上海語母語学習者、アメリカ英語母語学習者、日本語母語話者の母語朗読音声と日本語朗読音声を収録したものからなり、前者は中国人日本語学習者の特徴を調べるため、後者は母語の影響について調べるためのものである。分析手法は、音素ラベリング、基本周波数抽出とFOモデルパラメータ抽出を基本とする。

第4章は「文中における文節毎の基本周波数パターンの変化一母語話者と中国語話者の比較-」と題し、中国語母語学習者と日本語母語話者の基本周波数パターンを比較し、母語話者では、文節ごとの基本周波数パターンのレンジを調整して統語・意味のまとまりを適切に表現しているのに対し、学習者では、各文節のFOパターンが個別に制御される傾向にあることを示している。また、学習者では、文節末で基本周波数を上昇させる現象が顕著であるとしている。このような、学習者の急な基本周波数パターンの上昇・下降といった特徴が、日本語母語話者に"強い口調声"と感じさせる要因となっているとした上で、声調言語である中国語に起因する部分かあると推測し、母語の影響を考慮した発音教育の必要性を指摘している。

第5章は「FOモデルに基づく分析一母語話者と中国語話者の比較一」と題し、前章でみられた学習者と母語話者に見られる韻律的特徴の差異をより定量的にみるために、FOモデルによる分析を行っている。分析の結果、標準中国語母語学習者では、基底周波数の上昇、指令数の増加、指令の大きさの画一化、負のアクセント成分の生成といった特徴がみられるとし、これらが前章での差異に反映されるとしている。

第6章は「FOモデルに基づく分析一英語・中国語・母語話者の比較-」と題し、学習者の日本語朗読音声の基本周波数パターンに現れる母語の影響について調べるため、アメリカ英語母語学習者も加え、基本周波数パターンの特徴の、FOモデルに基づく統合的な比較を行っている。その結果、アメリカ英語母語学習者でも指令数の増加がみられるが、その傾向は標準中国語母語学習者の方が顕著であること、母語話者と異なり学習者では、内容語、機能語に対応するアクセント指令の大きさに大きな差異が見られない(母語話者では内容語に対応するアクセント指令の大きさが有意に大きい)こと、アメリカ英語母語学習者では文節を跨ぐアクセント指令の形成がみられ、標準中国語母語学習者と比較して、基本周波数の変動が緩やかな傾向にあること、助詞や助動詞などの文節末での基本周波数パターンの上昇は両学習者で顕著なものの、アメリカ英語母語学習者では、基本周波数パターンの上昇のみが観測され、標準中国語母語話者に見られるような、急激な下降は見られないこと、などを明らかにし、これらの傾向が、学習者の母語の特徴が反映したものであるとしている。

第7章は「日本語と母語発話のFOレンジと高さ」と題し、学習者音声と母語話者音声について、文ごとの基本周波数の平均値、レンジ等を比較している。その結果、母語話者と比較し、学習者では基本周波数のレンジが有意に小さい、中国語母語学習者では基本周波数が有意に高い、学習者では、話者間の特徴の差異が大きい、といった傾向にあることを示している。

第8章は「FOの局所的な下降部での高さとレンジ」と題し、前章の基本周波数の文全体の特徴分析に加え、局所的な特徴分析の必要性を指摘した上で、アクセント核に対応した基本周波数の下降部分に着目して分析するとしている。基本周波数の最大値、最小値、平均値、レンジ、時間長を調べた結果、標準中国語母語学習者で時間長が短い傾向にあることなどに、母語の特徴が顕著に現れるとしている。

第9章は「発話時間長と休止時間長」と題し、休止長と発話時間長を比較している。その結果、学習者では発話時間長が長く、特に休止長が顕著に長いこと、母語話者では、休止長が2種類ぐらいにまとまっているのに対し、学習者では短い休止が多くあるとともに、ばらつきが大きいこと、母語話者の休止の安定した傾向は、発話速度を遅くした場合にも見られること、などを示している。この結果から、休止の位置と長さの適切な制御が、発音学習において重要であるとしている。

第10章は「結論」であって、本研究で得られた成果を要約し、将来の課題・展望について言及している。

以上を要するに、本論文は、発音教育システムにおける韻律の重要性を指摘した上で、中国語あるいは英語を母語とする日本語学習者と日本語母語話者の日本語朗読音声に現れる韻律的特徴の異同を、母語の影響を考慮しつつ、定量的に調べたものであって、発音教育に対する重要な知見を与えるとともに、言語学における重要テーマである多言語比較研究において、客観的な分析の必要性と有用性を明示的に示している。この観点から、音声科学、情報学の基盤に貢献するところが少なくない。

よって、本論文は博士(科学)の学位請求論文として合格と認められる。

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