学位論文要旨



No 124188
著者(漢字) 田中,博人
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,ヒロト
標題(和) チョウの羽ばたき飛行運動における翅脈構造の機能
標題(洋)
報告番号 124188
報告番号 甲24188
学位授与日 2008.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(情報理工学)
学位記番号 博情第207号
研究科 情報理工学系研究科
専攻 知能機械情報学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 下山,勲
 東京大学 教授 河内,啓二
 東京大学 教授 佐藤,知正
 東京大学 教授 中村,仁彦
 東京大学 教授 神崎,亮平
内容要旨 要旨を表示する

1.序論

本論文では,チョウの翅を規範とした翅脈と薄膜から成る人工翅と,チョウと同じ質量と羽ばたき周波数を持つ羽ばたき機を用いて,チョウの飛行運動における翅脈の機能を実験的に明らかにした.チョウの羽ばたき運動の自由度は少なく,羽ばたき面は体軸に垂直な方向に固定され,フェザリング(ねじり)運動やリードラグ(前後)運動はあまり見られない.一方,チョウの翅は翅脈の間に薄膜が張られた構造をしており,柔軟で飛行中に弾性変形している.能動的な羽ばたき運動の自由度が少ない分,受動的な翅の変形が飛行運動に大きく影響すると考えられ,翅脈の形状による翅の剛性の違いがどのようにチョウの羽ばたき飛行に作用するかを調べることがチョウの羽ばたき飛行メカニズムを理解する上で重要であるが,実際のチョウを用いた実験では翅脈の形状を任意に変更して比較することが不可能であるため,これまで実験的に翅脈の形状と飛行運動の関係が調べられたことは無かった.本論文では,MEMS (Micro Electro Mechanical Systems) プロセスによってチョウと同じサイズで精密な翅脈構造を持つ柔軟な人工翅を実現し,これをチョウと同じ質量と羽ばたき周波数のゴム動力羽ばたき機に取り付けて自由飛行運動を計測するという実験方法を提案した.これによって,翅脈の形状を任意に変えて自由飛行運動を比較することが可能となった.本論文で着目したチョウの翅脈の形態的特長は,翅面内の翅脈の放射状の広がりと,基部ほど太く外縁ほど細いという太さ分布である.これらの形状の機能を調べるために,実際のアゲハチョウの翅脈形状を規範とした基準人工翅と,前縁と内縁のみに翅脈を持ち翅面内に翅脈を持たない無翅脈人工翅,すべての翅脈が基部と同じ太さを持つ厚脈人工翅を製作し,それらの翅脈形状の違いが定常流中での翅の空力特性に与える影響,および羽ばたき機に取り付けたときの自由飛行運動に与える影響について述べる.

2.人工翅の設計と製作方法

設計の方針として,実際のチョウの翅の平面形と脈相を同じサイズで再現することを目指し,規範とするチョウとしてカルナルリモンアゲハ Papilio karna を選び,まずその前翅と後翅の平面形と脈相をトレースして飛行状態と同じように配置し(Fig. 1 (a)),この平面形と脈相に基づいて基準人工翅を Fig. 1 (b) のように設計した.チョウの前翅と後翅は一体化して一枚の翅のように羽ばたくため,人工翅では前翅と後翅を完全に一体化した.人工翅の翅脈の断面形状は製作の容易さから長方形に単純化し,太さは標本の翅脈の計測値に基づいて 4 種類に分類して配置した.この基準人工翅に対して,翅面内の翅脈の広がりの機能を調べるために翅面内の翅脈をなくして前縁と内縁のみに翅脈を持つ無翅脈人工翅を Fig. 2 (a) のように設計し,また翅脈の外縁ほど細くなる先細り形状の機能を調べるために全ての翅脈を翅の基部と同じ太さとした厚脈人工翅を Fig. 2 (b) のように設計した.その際,無翅脈人工翅では翅面内の翅脈を前縁と内縁に寄せるという考え方に基づいて翅脈厚さはすべて 600 mm と厚くし,厚脈人工翅では前縁の細い翅脈が密集していた部分を太い翅脈に統合した.

材料は,翅脈をポリウレタン樹脂,翅面をパラキシレン(パリレン)フィルムといずれもプラスチック材料とすることで翅の柔軟性を再現する.製作方法として,ガラス板に成膜したパリレンフィルム上に翅脈となるポリウレタンを型成形して翅脈と翅面を一体化するという手法を開発した.製作手順を Fig. 3 に示す.シリコンウェハに翅脈と樹脂流路を ICP-RIE による垂直異方性エッチングで掘り込み反転原型とする.これをシリコーンゴム (PDMS) で型取りしてシリコーン原型を製作し,表面をフルオロカーボンで CVD でコーティングした後,さらにシリコーンゴムで型取りしてシリコーン型を得る.これをガラス板に成膜したパリレンフィルム上にかぶせて,樹脂注入用のシリンジを埋め込んだシリコーンゴムブロックではさみ,上からアクリルブロックを介してプレスした状態でシリンジから低粘度熱硬化性ポリウレタン樹脂を注入して成形する.15 分後に樹脂が硬化した後,シリコーンゴム型を剥がし,同時に成形した翅の外形線の内側に沿って翅面をメスで切り取り,ガラス板から翅脈と翅面が一体化した人工翅を剥がす.羽ばたき機に取り付けるための鉄線を前縁に接着剤で取り付けて完成である.製作した基準人工翅の写真を Fig. 4 に示す.基部ほど太く外縁ほど細いというチョウの翅脈の特徴が再現されていることが分かる.Table 1 には各人工翅の質量を示し,Fig. 5 には重心位置を示した.外縁部の細い翅脈を太くすることで厚脈人工翅の質量が特に大きくなり,重心は翅端よりに移動した.

3.定常流中での空力特性

Fig. 5 のように各人工翅をロードセルに取り付けてリニアステージで並進させ,定常流中での揚力と抗力を計測した.並進速度 1.42 m/s, 迎え角 30° における各人工翅の正面写真を Fig. 6 に示す.基準人工翅が幅方向に曲げ変形しているのに対して,無翅脈人工翅は翅面がまくれて後縁が上がりフェザリングしており,厚脈人工翅はほとんど変形しなかった.ロードセルによる計測から求めた各人工翅の揚力曲線と抗力曲線を Fig. 7 に示す.無翅脈人工翅の揚力曲線の傾きは基準人工翅よりも小さく,抗力係数も基準人工翅より常に小さいが,これはフェザリングによって翼断面の実際の迎え角が小さくなったためである.一方,厚脈人工翅の揚力曲線の傾きは基準人工翅よりもやや大きく,抗力係数も常に大きい.これは,基準人工翅の曲げ変形によって翼断面の迎え角が減少したためだと考えられる.この結果から,揚力,抗力係数の大きさという点では,厚脈人工翅が最も大きくて優れており,無翅脈人工翅が最も小さい.また,揚力係数が増加しなくなる迎え角である失速角の観点からは,無翅脈人工翅が最も失速角が大きく優れており,厚脈人工翅が最も小さい.

4.自由飛行運動の解析

製作した基準人工翅を搭載したチョウ型羽ばたき機を Fig. 8 に示す.羽ばたき機の機体はバルサで製作され,てこクランク機構がゴム動力で駆動されて羽ばたき,羽ばたき面は体軸に対して垂直である.翅やゴム,おもりを全て含めた質量は 0.39 g と実際のアゲハチョウとほぼ同じであり,約 10 Hz の低羽ばたき周波数と約 1 N/m2 の低翼面荷重というチョウと同じ特徴を有している.この羽ばたき機の飛行を真横から高速度カメラで撮影して運動解析を行い(Fig. 9),各人工翅の飛行運動を比較した.

基準人工翅機の自由飛行において体軸迎え角が羽ばたきに同期して約 0° から 40° の間で振動するという特徴が見られた(Fig. 10).この体軸迎え角変化によって打ち下ろし中の方が打ち上げ中よりも翅の迎え角が大きくなり,打ち下ろしによる上向きの揚力が打ち上げの下向きの揚力にまさっていた.厚脈人工翅機でも同様の体軸迎え角の振動が見られたが,無翅脈人工翅機では振動が約 10° から 20° と小さかった.

各人工翅機の飛行を羽ばたきサイクル単位で比較すると,基準人工翅機の飛行速度は他の人工翅機に比べて遅く (Fig. 11),低速で大きな体軸迎え角振幅で飛行し,無翅脈人工翅機は高速で小さな体軸迎え角振幅で飛行していた.また厚脈人工翅機は高速で大きな体軸迎え角振幅で飛行していた.

このような飛行運動の違いは,各人工翅に働く空気力が異なることを反映している.羽ばたき機の重心の加速度から計算した前縁中央部における揚力(絶対値)と抗力の単位羽ばたき当りの値を Fig. 12 (a) に,同じく揚力係数(絶対値)と抗力係数を Fig. 12 (b) に示す.無翅脈人工翅は翅面のまくれによるフェザリングの影響で揚力と抗力が基準人工翅よりも小さく(Fig. 12 (a)),揚力係数と抗力係数も小さい(Fig. 12 (b)).これが小さな体軸迎え角振幅と高速飛行をもたらしている.揚力・抗力係数の値は,無翅脈人工翅は定常流中の値よりやや小さかったが,基準人工翅は定常流中の値の約 1.9 倍だった.これは基準人工翅が打ち下ろし中に非常に大きな揚力・抗力係数を示すことによる.

厚脈人工翅の揚力と抗力は基準人工翅よりも大きいが(Fig. 12 (a)),揚力係数と抗力係数は基準人工翅よりも小さく,飛行速度の増加をもたらす.厚脈人工翅では打ち下ろし中に失速と思われる空気力の減少が見られ,これが羽ばたき単位の揚力・抗力係数の減少を招いている.基準人工翅では失速は見られず,基準人工翅の曲げ変形による迎え角の減少が,過大な迎え角の増加を防いで失速を防止していると考えられる.

5.結論

チョウの羽ばたき飛行運動における翅脈構造の機能を調べるために,チョウの翅と同様に翅脈と薄膜からなる人工翅を MEMS プロセスを用いて製作し,異なる翅脈構造を持つ人工翅をチョウと同じ質量と羽ばたき周波数を持つ羽ばたき機に取り付けて自由飛行運動を比較することで,実験的に翅脈構造の機能を明らかにするという方法を提案し,実現した.その結果,翅面内に翅脈が存在することで翅面のまくれによるフェザリングが防がれ,大きな揚力・抗力係数が保たれることが分かった.この翅脈の有無による揚力・抗力係数の違いは定常流中よりも体軸迎え角の振動を伴う自由羽ばたき飛行時の方が大きかった.また,翅脈が先細りであることによって翅が軽量化され,翅脈の細い部分の曲げ変形が飛行中の失速を防ぎ,大きな揚力・抗力係数が保たれることが分かった.こうした大きな揚力・抗力係数は飛行速度が小さくても水平飛行に十分な空気力を発生できることを意味する.本研究は翅脈構造によってチョウ型の羽ばたき飛行運動が変化することを初めて実験的に示し,チョウの翅脈構造が大きな揚力・抗力係数を実現して低速飛行を可能にするものであることが示唆された.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「チョウの羽ばたき飛行運動における翅脈構造の機能」と題し,6 章からなっている.チョウの翅面に走る翅脈は,翅の弾性と羽ばたき飛行中の翅の変形に影響すると考えられている.本論文は,翅脈形状による羽ばたき飛行運動の違いを実験的に比較するために,羽ばたき機に人工翅を取り付ける実験方法を提案し,アゲハチョウのような大型のチョウの羽ばたき飛行における具体的な翅脈の機能を解析した.

第 1 章「序論」では,研究の目的と背景について述べている.

第 2 章「人工翅の設計と製作」では,人工翅の設計と製作方法について述べている.人工翅は実際の翅のように翅脈をもつ薄膜である.人工翅の平面形状と脈相は実際のアゲハチョウ Papilio karna と同一で,翼長は 60 mm で前翅と後翅を結合した形で,翅脈の太さは 4 種類(幅・高さが 450・600, 450・450, 300・300, 150・150(単位: μm))である.人工翅は,翅脈部分はポリウレタンで薄膜はパリレンであり,プラスチック材料を採用することで柔軟さを実現している.製作方法として,パリレン薄膜上にポリウレタン翅脈を MEMS プロセスで製作したシリコーンゴム型によって成形するマイクロモールディング法を開発している.この製作方法では,翅脈の断面のアスペクト比が 1.0 のとき翅脈幅の 500 倍以上の長さが成形可能であり,人工翅の製作に十分であることが示されている.上記設計の人工翅を「基準人工翅」とし,翅脈の機能を比較実験から明らかにするために,翅面内に翅脈を持たない「無翅脈人工翅」と,全て翅脈が翅基部の翅脈と同様に太い「厚脈人工翅」を製作している.

第 3 章「人工翅の定常空気力特性」では,各人工翅の定常流における揚力曲線と抗力曲線が計測されている.基準人工翅に比べて無翅脈人工翅は,翅脈の無い翅面が大きくまくれ上がるので,失速までの揚力曲線の傾きが小さい.厚脈人工翅は,基準人工翅に見られる周縁部の反り上がりも見られず平坦で,失速までの揚力曲線の傾きは大きい.

第 4 章「人工翅を実装した羽ばたき機の飛行運動」では,各人工翅を羽ばたき機に取り付け,その前進飛行を高速度カメラで解析し,比較している.基準人工翅を取り付けたときの羽ばたき機の総質量は 385 mg でアゲハチョウと同程度であり,約 1 N/m2 の低翼面荷重と約 10 Hz の低羽ばたき周波数というアゲハチョウと同様の特徴を有する.基準人工翅機の自由飛行において,体軸迎え角が羽ばたきに同期して約 0° から 40° の間で振動するという特徴が見られ,この体軸迎え角変化によって打ち下ろし中の方が打ち上げ中よりも翅の迎え角が大きくなり,打ち下ろしによる上向きの揚力が打ち上げの下向きの揚力にまさることが示されている.羽ばたきサイクル単位の揚力係数・抗力係数の平均値は,定常流中の値の 1.9 倍である.無翅脈人工翅機では体軸迎え角の振動が約 10° から 20° と小さく,揚力係数と抗力係数は基準人工翅よりも小さい.厚脈人工翅機の体軸迎え角の振動は基準人工翅機と同程度であったが,揚力係数と抗力係数は定常流中の場合と異なり基準人工翅よりも小さく,翅質量当りの揚力と抗力も基準人工翅より小さくなることが示されている.これらの結果から,翅面内の脈相は翅面のまくれを防ぎ,揚力係数と抗力係数の低下を防止する機能があり,翅脈が周縁部ほど細いことによって翅が軽量化され,翅の質量当り空気力を向上させる機能があることが述べられている.

第 5 章「アゲハチョウの飛行メカニズムと翅変形」では,第 4 章までに述べられた飛行メカニズムと翅脈の機能が,実際のアゲハチョウの前進飛行でも現れるか検証している.アゲハチョウの前進飛行を高速度カメラで解析した結果,基準人工翅機と同様の体軸迎え角変化が見られ,基本的な飛行メカニズムは 1 自由度の羽ばたき機と同様であることが示されている.翅の変形については,翅脈によって翅面のまくれが防止されるのは共通だが,実際の翅の 3 次元構造も翅の変形には影響することが示唆されることが述べられている.

第 6 章「結論」では,本研究によって得られた成果とその結論が述べられている.

以上のように,本論文では人工翅と羽ばたき機を用いた実験方法を提案し,アゲハチョウの前進羽ばたき飛行のメカニズムと翅脈の機能を明らかにしている.これは,小さなスケールでの動的な構造と流体力の関係の解明を通してMEMSの設計論に及ぶものであり知能機械情報学の発展に貢献するものである.

よって本論文は博士(情報理工学)の学位請求論文として合格と認められる.

UTokyo Repositoryリンク