学位論文要旨



No 124190
著者(漢字) 上野,正道
著者(英字)
著者(カナ) ウエノ,マサミチ
標題(和) デューイにおける学校の公共性の再構成 : 1920年代から30年代のリベラリズムの変容を中心に
標題(洋)
報告番号 124190
報告番号 甲24190
学位授与日 2008.10.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第145号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,学
 東京大学 教授 川本,隆史
 東京大学 教授 今井,康雄
 東京大学 准教授 小玉,重夫
 東京大学 准教授 勝野,正章
内容要旨 要旨を表示する

本研究の目的は、1920年代から30年代にかけてのジョン・デューイ(1859-1952年)が探究した学校の公共性形成をリベラリズムの再構築と再概念化の角度から考察し、民主主義と公共性を原理とする彼の学校改革の構想と実践の展開過程を明らかにすることにある。そして、デューイが公共性構想の淵源として捉えた芸術の観念とその実際活動について、彼が自ら深く関与したバーンズ財団での芸術教育の取り組みから検討することにある。

1980年代以降のプラグマティズム・ルネサンスの動向に伴い、デューイの思想的再評価が高まっている。なかでも、R.B.ウエストブルックやA.ライアンの研究は、歴史的な視角からデューイの参加民主主義やリベラリズム思想を検討した点で重要である。しかし、1920年代以降の彼の学校改革の構想と実践は、初期のシカゴ実験学校時代や『民主主義と教育』(1916年)の頃に比べて、多数の雑誌の小論や講演などに分散していることもあり、先行研究においても、包括的な研究が展開されてきたとは必ずしも言えない。特に、彼の公教育論を公共性概念やアソシエーション思想の観点から考察する研究方法は、ほとんど開拓されていない。また、デューイの公共性構想の基層に芸術を捉える視点からの研究は見られず、バーンズ財団での彼の実践についての解明も充分とは言い難い状態にある。

そこで、本研究では、上記の研究目的を遂行するために、以下の四点の課題を設定して考察した。第一は、デューイの「公共的なもの」、「公共的行為」、「公衆」などの概念を「公共性」の理論として抽出し、その概念構成と活動様式を「再生リベラリズム」と「アソシエーショニズム」の総合の視角から考察することである。第二は、「再生リベラリズム」の「第一目標」を「教育」に置いた彼の思想の形跡を叙述し、民主主義と公共性を原理とする「エージェンシー」としての学校像を示すこと、第三は、デューイの学校改革の実践的関わりと影響をエルシー・クラップなどの進歩主義学校の実践者との関係から描出すること、第四は、公共性の基層に芸術を捉えたデューイの主張を概観し、その実践活動をバーンズ財団の芸術教育から論じることである。これによって、本研究は、先行研究の中で断片的にしか論じられてこなかった1920年代以降のデューイの公教育に関する多数の小論や講演を、彼の公共性概念の基盤から明らかにし、それが示す学校構想の一貫したヴィジョンを考察した。本研究の各章の内容は、以下のように概括することができる。

第1章「学校改革と公共性の再構成」では、1920年代のデューイの公共性概念の形成過程と学校改革の構想を明らかにした。彼は、『公衆とその問題』(1927年)で、「公共的なもの」と「私事的なもの」の峻別を行為の機能的な結果の観点から定義付けることを主唱した。公私の境界区分は、国家や市場のアプリオリな規範領域に実体化されるのではなく、多元的で多層的な空間として連続的に定義された点で、伝統的なリベラリズムとは異なる解釈を彼はしていた。彼のいう公共性とは、公衆が活動するコミュニケーション空間であり、「顔の見える関係」で交わる協同的なコミュニティとアソシエーションを基底にしていた。次に、20年代の彼が展開した教育と公共性の具体的内実について、彼は「独白」とは区別される「対話」を中心にした協同的なコミュニティとして教育を再生しようとしたことを考察した。彼は、宗教的、人種的な不寛容が蔓延る状況を糾弾し、多様な文化、伝統、宗教などが交差する結び目の位置に学校を捉えていた。彼はまた「教育科学」を、「量的な」測定としてではなく、「質的な」次元から考えていたことを明らかにした。

第2章「民主主義とコミュニティの学校改革」では、『リベラリズムと社会的行為』(1935年)の中で、デューイが「ラディカリズム」としての「再生リベラリズム」の「第一目標」を「教育」に設定した点を取り上げ、彼の学校の公共性構想の展開過程を考察した。彼は、レッセフェールとニューディールを批判し、民主主義の観念を「共生の様式」として捉えていた。そして、「再生リベラリズム」と「アソシエーショニズム」を総合する角度から、「社会的行為」の「組織化」を図る必要性を主張していた。その上で、彼が活動的で協同的な学習を軸にした学校のコミュニティ形成を擁護したことを明らかにした。彼は、教科の限定的な集合としての「勉強」と区別して、知識や技法、スキルの相互関係からなる「学習」を推進している。この構想のひとつがクラップのロジャー・クラーク・バラード・メモリアル・スクールとアーサーデール・コミュニティ・スクールにおいて具体化されたことを考察した。

第3章「公共的行為のエージェンシーの創発」では、『ソーシャル・フロンティア』などの雑誌上で展開された多数の論稿や講演をもとにして、デューイと新しいフロンティアの関わりを検討した。1930年代の教育学研究において、コロンビア大学ティーチャーズ・カレッジは、教育と社会変化の論題に関わる中心的な研究拠点として機能していた。1934年10月に、キルパトリックやカウンツらによって『ソーシャル・フロンティア』が創刊され、デューイも理事の一人として加わっているが、このフロンティアの集団は集産主義に向けた教育による社会改造を志向したため、デューイはこの考え方とは一線を画し、民主主義と公共性を原理とした学校改革を探究していった。彼が協同的なアソシエーションの中で教育を捉え、教職の自律性と専門性の確立を基礎にした「社会的行為」と「公共的行為」の「エージェンシー」としての学校像を提示したことを明らかにした。

第4章「美的経験の再構成による教育」では、デューイが公共性形成の淵源に芸術を見ていたことについて論じた。彼の『経験としての芸術』(1934年)を中心に、美的経験の観念をメディアとコミュニケーションの連関から考察した。彼において、芸術は、個人の趣向としての機能よりも、日常生活の経験世界の交歓と共有のコミュニティから把握されていた。そこで、彼は、「芸術と日常生活の遊離」を促す近代のナショナリズムとインペリアリズム、産業資本主義、機械化とテクノロジー化の様態を批判的に捉え、美的経験とコミュニティの連関から、芸術が担う公共的な側面を強調したことを明らかにした。

第5章「美的経験と公共性の実践的架橋」では、教育の公共性に関わるデューイの構想の実際を彼とバーンズ財団との関わりから考察した。1922年12月にアルバート・バーンズがフィラデルフィア近郊のメリオンに設立したバーンズ財団の目的は、「教育の発展と芸術作品の鑑賞」にあった。デューイは、1923年に財団の美術教育プログラムの部門の最初の部門長に就任し、1925年にその財団で行った講演では、「財団の芸術的、美的教育の事業」の偉大さについて強調した。彼は、財団が「芸術」を「最もコモンで、最も根本的で、最も重要な公共的認識」として捉えているという理解を示していた。この観点から、デューイが「芸術」を「最も普遍的で自由なコミュニケーションの形態」であり、人間の生活活動の全体に関わる「公共的なもの」として位置付けていたことを明らかにした。

デューイは、バーンズとともに、バーンズ財団が大学や学校や市と協同して、芸術と教育の発展を推進する先端的なコミュニティを形成するという計画に着手した。財団は、ペンシルベニア大学の美術研究所との協同を進め、1924年5月に両者の間で提携に関する合意が交わされた。バーンズ財団はまた、フィラデルフィアの公立学校やペンシルベニア美術アカデミーとも協同を築こうとしたが、それらの計画は多くの批判や困難に遭遇した。それは、フィラデルフィアの公立学校や美術教室の教育活動に対して、財団が激しく批判を展開したことがひとつの要因にあった。これに際し、デューイは、財団に助言を重ね、協同のための知性的な戦略をとるべきことを伝えているが、財団と、大学や公立学校との協同は、途中で挫折や転換を余儀なくされた。1920年代から30年代という時代状況において、伝統的に権威を持った勢力やアカデミズムとの協同を図ることは、容易なものではなかったのである。バーンズ財団の具体的な実践の叙述を通して、民主主義と公共性を原理として、協同的なアソシエーションを形成するというデューイの教育の構想が、実際に直面した困難性と葛藤の軌跡を明らかにした。特に、本章では、バーンズ財団出版の著書や『バーンズ財団研究』、デューイの書簡集、『ジョサイア・H・ペニマン記録集』など、先行研究では充分に焦点化されてこなかった資料を包括的に分析した。

本研究では、1920年代から30年代にかけてのデューイが趨勢的なリベラリズムの桎梏から民主主義の可能性を解放し、リベラリズムの批判領域としての学校の公共性形成と拡充の方略を探索していった過程と実像を明らかにした。すなわち、彼が探究したのは、リベラリズムの臨界を人と人との間で網の目状に生成される相互行為の関係的な領域において捉え、アソシエーションの角度からその「空白」を埋めることであった。そして、学校の公共性が等質的な価値と関心に充たされた閉域的な空間ではなく、開かれた人称関係の多元的なアソシエーションを成立基盤にするものであったことを明らかにした。なかでも、芸術の美的経験が公共性構想の基層に位置付けられた点を論じ、その実際をバーンズ財団での芸術教育から考察した。以上のことから、デューイにおける学校の公共性の主題は、民主主義と教育を架橋し節合する導きの糸となるものであったと言える。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、1920年代から1930年代におけるジョン・デューイの教育思想における公共性の概念の発展をリベラリズムの再構築と再概念化の視角から解明するとともに、「美的経験」の省察によって民主主義教育を支える公共性の哲学の形成過程を探究している。1980年代以降、アメリカを中心に「デューイ・ルネッサンス」とも呼ぶべき新たなデューイ研究の潮流が生まれているが、本論文は、それらの研究の成果を踏まえた日本における最新の研究成果を表現しており、特にデューイの公共哲学の基礎の一つとなった芸術思想の展開を精緻に調査し概念化した特徴を有している。

本論文は5章で構成されている。第一章「学校改革と公共性の再構成」では、1920年代において「顔の見える関係」の協同的コミュニケーションとアソシエーションを基底としてデューイの「公共性」の概念が公衆が活動するコミュニケーション空間として形成される過程が叙述されている。第二章「民主主義とコミュニティの学校改革」では、デューイが「再生リベラリズム」の「第一目標」を教育に設定した経緯が詳述され、「再生リベラリズム」と「アソシエーショニズム」を統合する「社会的行為の組織化」の様態が描かれている。第3章「公共的行為のエージェンシーと創発」では、1930年代の「ソーシャル・フロンティア」の教育思想とデューイの教育思想との比較検討が行われ、デューイにおいては「社会的行為」と「公共的行為」の「エージェンシー」としての学校像とそれを担う教師の専門家像が提示されている。第4章「美的経験の再構成としての教育」では、日常生活と芸術の接合によって芸術教育の公共性を見出すデューイの哲学的探究の特質が明らかにされている。そして第5章「美的経験と公共性の実践的架橋」においては、フィラデルフィアにおいて美術館を開設したバーンズ財団の芸術活動に対するデューイの積極的関与の全貌を解明し、デューイにおいては「美的経験」が教育の公共性の重要な成立基礎であることが検証される。

本論文は、全体をとおして、デューイにおける公共性の概念が、一方ではアソシエーショニズムによってリベラリズムの再構築の思想として展開し、もう一方では、その形成の根源が美的経験によって開かれることを明示している。本論の第4章から第5章において叙述されたデューイによる「美的経験」の哲学的探究とバーンズ財団によって支えられた芸術哲学と芸術教育の思想的発展は、独自の綿密な資料の発掘と調査にもとづくオリジナリティに富む考察を展開し、日米両国のデューイ研究に新しいパースペクティブを提供するものとして評価される。

本論文は、上記のように、デューイの教育思想における公共哲学の発展をリベラリズムの再構築を求めるアソシエーショニズムの政治思想の展開と日常生活との連続性を求める芸術思想の展開の二つの側面から照射して解明する独創的な探究をもたらしている。よって、本論文は、博士論文の水準を十分に満たすものとして評価された。

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