学位論文要旨



No 124191
著者(漢字) 趙,衛国
著者(英字)
著者(カナ) チョウ,エイコク
標題(和) 中国系ニューカマー高校生の異文化適応過程に関する研究 : 文化的アイデンティティ形成との関連からの検討
標題(洋)
報告番号 124191
報告番号 甲24191
学位授与日 2008.10.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第146号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 秋田,喜代美
 東京大学 教授 苅谷,剛彦
 東京大学 教授 恒吉,僚子
 東京大学 教授 中釜,洋子
 東京大学 准教授 能智,正博
内容要旨 要旨を表示する

本論文は,小学校あるいは中学校の時に中国から来日し,現在も日本に在住している中国系ニューカマー(以下では,「NC」と略す)高校生(中途退学者も含む)が,日本の学校文化や地域社会に適応する中で,どのような困難に対峙しながら,それを乗り越え青年期の文化的アイデンティティを形成していくのかを,個々の青年の来日背景や学校・地域での日常生活の過ごし方や対人方略に焦点を当てて検討することを目的とした異文化適応研究である。なお,「文化的アイデンティティ」とは,中国系NC高校生たちが来日後,日本の学校文化・社会に適応していく過程で,自分が生きていた中国と日本の学校・文化システムとの関係をどのように捉えるかを示す自己意識であると定義する。

高校を卒業した生徒と,学校生活に適応できず,高校を中途退学した生徒がいるという現実は,中国系NC高校生集団内部において,学校適応における分化現象が生じていることを示唆している。日常生活の場が退学によって高校から地域に変われば,青年たちが直面する適応の課題も学校適応から地域社会への適応に変わる。このような複雑な異文化の文脈で示す個人の行動や心理を捉えるに際し,従来の段階に分けて検討する方法では限界があることが明らかになった。その限界を乗り越えるための視座として,「文化-歴史的活動理論(cultural-historical activity theory)」の第三世代「活動理論(activity theory)」(Engestrom,1999)を手がかりに,本研究の分析枠組みの構築を試みた。具体的には,エスノグラフィーを用い,中国から日本へ,そして学校から地域社会への,それぞれの段階に現れた中国系NC高校生個々人の適応状態だけではなく,文化間を移行する生徒自身が置かれた社会的歴史的文脈との関係で,自分や周囲の環境(日本の教師・生徒と自分の家族)をどのように意味づけているのか,そして,他者の視点と自分の認識との関係をどのように捉えているのか,それらと文化的アイデンティティ形成との関連から,彼らの異文化適応過程について考察を行った。

本研究は,I部1-3章,II部4,5章,III部6,7章,IV部8章から構成される。

第1部1章では,本研究の背景であるNC高校生の現状について,受け入れ段階の問題点と増大する中途退学者の現象記述を中心に説明を行った。

2章では,先行研究の検討と研究課題についての説明を行なった。まず,異文化接触に関する先行研究の検討に基づき,本研究の「文化的アイデンティティ」「学校適応」「社会適応」を定義した。そして,NCの子どもたちの教育に関する先行研究を検討しながら,その功績と限界を指摘した。そこでは,従来の研究において,大人の入口に立っている高校のNC生徒の学校適応の様態と,学校不適応の象徴である高校中途退学者が経験した学校生活と退学後の生活再建過程を自ら語ることのリアリティが等閑視されてきたことを批判的に論じた。さらに,異文化適応過程に関する先行研究を検討した結果,複雑な異文化の文脈で示す個人の行動や心理を捉えるには,適応の状態を段階に分けて検討する方法の限界が明らかになった。その限界を乗り越えるための視座として,「活動理論(activity theory)」(Engestrom,1999)を手掛かりに,本研究の分析の枠組の構築を提示した。エスノグラフィーを用い,下記の4つの課題に着目した。(1)中国系NC高校生の学校適応の分化現象に影響を与える諸要因と要因間の関連,(2)NC生徒の学校適応に多大な影響を与えている教師の視点と教育指導の様態,(3)高校を卒業できた中国系NC生徒の学校適応過程と文化的アイデンティティ形成の関連,(4)中途退学した中国人青年の社会適応過程と文化的アイデンティティ形成の関連である。それら4課題について各々4-7章で取り組んだ。

3章は,データの構成とフィールドワークの概要である。協力者は高校を卒業した生徒10名,「取り出し授業」担当教師5名,中途退学者9名から構成される。中途退学者に関しては,学校内に限定した調査方法に限界があったため,7章では面接を通して,回顧手法によって退学者の語りを収集した。一方,4-6章で使用したデータは,2001年10月から2005年3月まで公立K高校で計3年間半に渡るフィールドワークによって得られたものである。

第2部の4章では,2人の男子生徒の対照的な学校適応の事例を通し,NC生徒の異なる学校適応の諸相に影響を及ぼしている諸要因と要因間の関連性について考察を行った。明らかになった要因は,第1に,家庭的・個人的・地域的要因の側面。第2に,教師の期待と生徒の振る舞いとの相互作用。第3に,2人と教師の相互作用をさらに強める「教員組織における生徒の情報の伝わりにくさ」の3点である。特に,第2の要因は学校日常生活の根幹であり,NC生徒に対する教師の期待が,学校の日常生活で教師の語りや呼びかけを通して,生徒に伝えられ,NC生徒の学校適応に大きく影響していることが示された。このように教師の期待と,生徒と教師の相互作用が関連していることが明確となった。

5章では,個々の教師に内包される暗黙の視点に関しては参与観察の手法だけでは把握しきれない側面があるため,5名の「取り出し授業」担当教師を対象に,教師用RCRT手法を用い,生徒を捉える個々の教師の視点を明らかにした。さらに,このような教師の視点が実際の指導においてどのようにNC生徒の学校適応に影響を与えているのかに関して,参与観察のデータに基づき考察を行った。NC生徒を捉える教師の視点が異なるため,指導が多様化しており,とりわけ「日本語」授業の指導内容と母語使用の可否をめぐっては,「取り出し授業」担当教師の間に葛藤が生じている。この2つの葛藤に対する対処方略の検討を通して,教師個々人の教育態度や信念,価値観の転換および新しい教授法の獲得,教師の発達という成果が生じうる仮説的な知見が示唆される。

以上,4,5章は,中国系NC高校生の学校適応過程とそれに影響を及ぼす主要因(教師の視点)を中心に考察を行い,教師文化の変容とNC生徒の多様化する学校適応の諸相との関連付けを試みた。そして第3部の6章では学校適応が可能だった生徒,7章では不適応から退学した生徒に関して分析した。

6章では,10名の生徒を学校適応様相によって4グループに分類した。そして,(1)日本の文化と来日前に身に付けた中国の文化の2つの意味体系の狭間での自らの生きる世界の再編成過程,(2)進路の決定をめぐって自己と他者の視点の間の食い違いの交渉や調整過程の事例記述と分析を行った。個人と他者との関係のあり方が彼らの文化的アイデンティティ形成に大きく影響していることを示唆している。なお,個人と他者との関係のあり方は,「友人や仲間との関係」「教師との相互作用」「家族からの影響」との3点が挙げられている。

7章では,9名の中途退学者に対して,半構造化面接を通して,中国から日本への異文化適応過程および,退学による日本の学校から日本の社会への適応過程において,個人と特定の環境・特定の他者との相互作用が青年たちの人格形成や自我の確立に及ぼす影響に関して考察を行なった。退学による学校から地域への移動は学校文化から地域文化への移動のみならず,彼らが進むはずだった道やライフコースから,日本への移住という形で逸脱・剥奪が起こり,その状態への適応というより以上の大きな課題を抱えている状況であることが明らかとなった。現在の位置づけと将来の見通しにおいて,(1)現状を甘受するグループ,(2)居場所と将来がないと悩むグループ,(3)現地社会に錨を下ろそうとするグループ,と3つのグループが同定された。日系人以外の単純労働者の在留を認めていない日本の現実の中で,青年たちの「学校から雇用への移行」の不安定化が,彼らの「大人への移行」過程そのものを困難化し,そのことがまた中国人青年たちの行動様式やライフスタイル,意識やアイデンティティにも影響を及ぼしていることが明らかとなった。

以上,6章・7章では,中国系NC高校生たちが,異文化適応過程において,日本の学校で教育を受けることの意味と,リソースとしての家庭や地域における日本の学校の位置づけを明らかにした。

第IV部の8章では,4-7章の研究の結果をまとめ,中国系NC高校生(中退者を含む)の文化的アイデンティティ形成の活動システムについて考察を行った。「主体」「対象」「媒介する人工物」「ルール」「コミュニティ」「分業」の6つの構成諸要素が,相互に作用し合って,彼らの異文化適応と文化的アイデンティティ形成に影響を及ぼしている。中国系NC高校生は同じ中国と日本の社会的文化的環境の中に埋め込まれているが,変化しつつある環境において,それぞれ異なる異文化適応の様相を呈した最も大きな要因は,上記の「コミュニティ」(中国と日本の学校における生徒・教師,来日前と後の家族,現実生活地域とネット「空想」地域)の成員との相互作用の状態である。卒業か中退かという結果に関わらず,中国系NC高校生たちは変化しつつある人として,変化しつつある環境に力動的に適応している。その過程が異文化適応の過程であり,それを時間的経過とともに捉えたものが彼らの人格発達の過程であり,文化的アイデンティティ形成の過程である。

本論文の今後の課題としては,第1に,本論文の結果はK高校の特徴と合わせて理解,解釈されるべきこと,第2に,高校を中途退学した他の国出身のNC青年の状況を調べる必要がある。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、中国系ニューカマー高校生(高校中退者を含む)が日本の学校文化および地域社会に適応(あるいは不適応)していく過程をエスノグラフィーを通して叙述し、文化-歴史的活動理論の枠組みから越境による文化的アイデンテイテイの形成と変容の様相と要因を分析考察したものである。

第1部第1章ではニューカマー高校生の受け入れ段階および中途退学者の現状と問題を示し、第2章では異文化接触ならびにニューカマー児童・生徒に関する先行研究の知見と課題を整理し、文化的活動システム間移行における矛盾や葛藤による文化的アイデンテイテイ変容という分析枠組みを提示し、第3章では本論文の構成と研究方法を述べている。

第2部では中国系ニューカマー高校生の学校適応と教師の見方を取り上げ、第4章では学校好適応・不適応2名の対照生徒事例をもとに、矛盾の解消と拡大への関与要因間の関連が描出され、第5章では日本語取り出し授業担当教師5名の視点と指導を教師用RCRTと参与観察を通して検討し、教師間での指導の相違と葛藤を明らかにしている。

続く第3部においては、高校卒業後あるいは高校中途退学後の時期を含めた文化的アイデンテイテイの形成変容過程を問い、第6章では卒業生10名を下位集団に分けその集団間でのアイデンテイテイ形成・変容の相違を分析記述し、第7章では高校中途退学者9名への半構造化面接により、退学者が中国から日本へ、日本の学校から社会へと2度の異文化適応過程に対峙する様相とアイデンテイテイ変容に関わる要因を明らかにしている。

そして第4部第8章総合的考察では、上記4つの実証研究から、文化間移行が中国的行動様式や価値観の部分的否定と日本的文化様式の習得途上にもたらされるダブルバインド状況での内面的矛盾から、アイデンテイテイの変容を生じさせていくダイナミズムの様相と要因を概括し考察している。

本論文は、中国系ニューカマー高校生の学校適応を心理学的に解明した実証論文である。ニューカマー生徒下位集団内での適応分化過程を3年半の長期参与観察研究により文化-歴史活動理論の枠組から解明した点、高校卒業後あるいは高校中途退学後までの時期を射程に入れ青年期の文化的アイデンテイテイの形成変容のダイナミズムを叙述した点できわめて独自性が高い学術論文であり、中国人留学生である著者が中国語で面接収集しなければ記述解明できなかった希少データにより、ニューカマー高校生の学校適応研究および文化的アイデンテイテイ形成研究に新たな視座を提示した論文であると評価された。

以上のように、本研究はニューカマー高校生の異文化適応に関する実証的研究として評価されるだけではなく、越境によるアイデンテイテイ変容と学校文化適応を分析する新たな方法を提示した点でも意義が認められる。よって、本論文は、博士(教育学)の学位を授与するに相応しい水準にあるものと判断された。

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