学位論文要旨



No 124204
著者(漢字) 互,盛央
著者(英字)
著者(カナ) タガイ,モリオ
標題(和) フェルディナン・ド・ソシュールの「一般言語学」 : 原資料を読む
標題(洋)
報告番号 124204
報告番号 甲24204
学位授与日 2008.10.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第847号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 湯浅,博雄
 立教大学 教授 前田,英樹
 東京大学 教授 宮下,志朗
 東京大学 准教授 星埜,守之
 東京大学 教授 山田,広昭
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、フェルディナン・ド・ソシュール(1857-1913年)が1907-11年にジュネーヴ大学で三回にわたって行った「一般言語学」講義の全容を明らかにし、ソシュールの思考が最終的に到達した地点を提示することを目的としたものである。

ソシュールの二人の弟子シャルル・バイイとアルベール・セシュエは、師の没後、学生の聴講ノートなどの原資料を基に『一般言語学講義』(1916年)を公刊したが、講義の順序を保持せず、原資料にない文言を加筆するなどの問題があることは、1950年代後半以降の原資料の公刊を機に指摘されてきたとおりである。しかし、三回の講義のすべてを授業の順に読解する総体的な研究書は今日に至るまで出現しておらず、本論文はその欠落を埋めることをも企図している。

内容は、序章、本論三部六章から成る。

序章は、19世紀に誕生した言語学が端緒においていかなる意図を帯び、発展の過程でいかなる役割を担ったかを政治史的・思想史的に考察し、19世紀後半に言語学に携わったソシュールにとっての時代的背景を明らかにする。

言語学誕生の契機は、サンスクリットの「発見」である。サンスクリットに見出されたギリシア語、ラテン語との類似を近親関係と捉え、共通の起源から複数の言語が分化する過程が想定されたとき、「比較文法」としての言語学は始まった。「比較文法」という名称を初めて用いたのがフリードリヒ・フォン・シュレーゲル(1772-1829年)だったように、そこには起源としてのサンスクリットに卓越性を認めるロマン主義的発想がともなわれていたが、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(1762-1814年)に見られるとおり、近代的な国民国家としての統一に遅れをとったドイツ語圏において、その発想は起源に直結する正統な言語としてのドイツ語の卓越性をドイツ人の卓越性と同一視し、統一国家樹立を正当化する論理を生み出した。正統な原典を確定するために複数の写本の「比較」を行う文献学から言語学が派生したのと同じ時期に同じ文献学から歴史学と法学が派生したのは、それゆえである。およそ半世紀のち、普仏戦争(1870-71年)に敗れたフランスが第三共和政の下で「単一にして不可分な共和国フランス」を確立するために言語政策を敷き、「フランス語を語る者はフランス人である」という観念を流布させることを可能にしたのも、それと同じ論理にほかならなかった。

その意味で、ソシュールが「フランス語を語る非フランス人」であるジュネーヴ人だったことは軽視できない事実である。比較文法を発展させた青年文法学派の中心地ライプツィヒ大学に留学したソシュールは「ドイツ的なもの」に嫌悪を抱き、『インド・ヨーロッパ諸語における母音の原初体系に関する覚え書き』(1878年)の出版後、1881年にパリ高等研究院の講師になった。しかし、当時は言語の優劣を国民の優劣、さらには「人種」の優劣にすり替え、反ユダヤ主義を正当化するために言語学が利用された時代でもある。同じ論理に従って言語学はフランスからジュネーヴ人の居場所を消去する。ソシュールがふいにもちかけられたコレージュ・ド・フランス教授就任に必要なフランス国籍取得を拒否し、1891年に故郷ジュネーヴに帰還したことと、1880年代後半に共時的なものを扱う「形態論」と通時的なものを扱う「歴史音声学」を別個に取り上げる授業形態に到達したことは無関係ではない。言語の通時態を語りうるのは言語の複数性を見ることを可能にする等質的時間に依拠した「歴史」ゆえであり、その「歴史」の中で言語は国家と同列の対象として並置される。しかし、共時態を語れば、「歴史」を抹消する時間性に直面せざるをえない。

帰還直後に行われたジュネーヴ大学就任講演で、その時間性は「言語の絶対的連続性」として提示された。今日語られる言語は常に昨日語られた言語と同じである。その事実は、言語から「同じ」と「異なる」の対を排除する〈同じ〉という様相を明るみに出す。〈同じ〉を司る時間性は、等質的時間としての「時間」と隔絶した〈時間〉である。ならば、言語学は「時間」によって現れる通時態と〈時間〉によって現れる共時態を同時に語りうるのか。言語学は総合できない二重性を総合するふりをしているだけではないのか。就任講演の直後、ソシュールはその問いに決着をつけるための「書物」を執筆する企てに着手した。『言葉の二重の本質について』と題された最初の試み以降、中断と再開の繰り返しにほぼ十年の時が費やされたが、結局、公刊は実現せず、1900年頃からは方言や地名、ニーベルンゲンなどの伝説、アナグラムの研究がなされた。後世の者はそれを挫折した「一般言語学」からの逃避とみなしたりする。だが、原資料を丹念に読めば、「一般言語学」講義は挫折の再演であるどころか、一見無関係に見える研究を経たからこそ可能な試み、すなわち「時間」を自明視する19世紀の「言語学」を解体し、〈時間〉に依拠して共時態と通時態を総合する〈言語学〉としての「一般言語学」の試みを示唆してくる。

本論三部は、全三回の講義の各々にあてられる。ソシュール自身の準備ノートがわずかしか現存しないため、最も詳細な記述を残したアルベール・リードランジェ(第一回講義、第二回講義)、エミール・コンスタンタン(第三回講義)の聴講ノートが主たる読解の対象となるが、聴講ノートはあくまで間接的な資料であり、初学者が多数を占めていたための配慮や逡巡、妥協や問題の回避が混入している。それゆえ、他の聴講生による記述との異同を十全に考慮した読解が不可欠である。

第一回講義(1907年)は、歴史音声学を扱う第一部だけで終わり、共時態を回避した。だが、言語の変化の要因として提示された類推を扱う際、単位画定のメカニズムに言及したソシュールは、一時的に共時態に足を踏み入れる。そのとき提示された「半無意識」、「下意識」は、1890年代の草稿で明言された「語る主体」の意識という単位画定の「基準」を示すものである。類推とは共時態のメカニズムそのものであり、それを可能にする言語を司るのが連続性である以上、伝統的に変化の要因とされてきた類推を扱うことを余儀なくされる「一般言語学」講義では共時態を回避できない。最初の「一般言語学」講義は、その事実をソシュールに突きつけてきた。

第二回講義(1908-09年)は、それゆえ共時態と通時態をともに扱う「序説」を前半に置いた。共時態の導入とともに示されたのが「社会制度」としての言語という見解である。それはアメリカの言語学者ウィリアム・ドワイト・ホイットニー(1827-94年)が提示したものだが、ホイットニーはいまだ「自然」にとらわれていた。言語を社会制度として考察すれば、徹底した「反自然」としての社会性が現れる。言語単位を「価値」として捉え、体系による価値と社会的協定による価値を「同じもの」だと断じるソシュールにとって、その社会性は連続性としての〈時間〉と一つになる。しかし、その共時態の本質を明らかにすれば、「言語学」は否定されるほかない。だから、第二回講義は連続性を回避し、共時態と通時態は〈同じ〉と「異なる」の対から「同じ」と「異なる」の対にすり替えられた。観察者は通時態しか観察できず、共時態はその向こう側に想定される。だから、通時態を排除すれば共時態はないが、通時態を保持すれば共時態は現れない。だが、言語学史を扱うもう一つの「序説」を後半に置いたソシュールは、その準備ノートに「民族(国民)不在のヨーロッパ」という語を記した。連続性の中では民族や国民は無化される。通時態を排除することなくその事実を保持しようと試みるとき、講義は伝説研究と合流する。ジュネーヴを都にしたブルグント族に関わるニーベルンゲン伝説の研究は、「歴史と伝説」を「真実と虚構」の対とみなす通念を打ち砕き、「ドイツ的なもの」に回収されたニーベルンゲン伝説を「民族(国民)不在のヨーロッパ」に奪還する試みとなる。

第三回講義(1910-11年)は、その伝説研究の総決算と同時期に開始された。第一部「諸言語」は、地理的多様性を取り上げ、「近親性の中の多様性」と「認識可能な近親性なしの多様性」を区別する。後者は「言語の起源」の問題にほかならないが、18世紀に頂点を迎える「言語起源論」の歴史は、それが「国家の起源」の問題でもあったことを示している。その問題に答える役割は、19世紀には「言語学」が担った。しかし、講義は「郷土の力」と「交通の力」を提示し、後者が「移行の感知不可能性」、すなわち連続性として現れることを明言する。「交通」の中では「真実と虚構」の区別は無効にされる。三回の講義で一貫して批判されてきた文字言語が仮構する「歴史」ではなく、連続性の中で語られる〈歴史〉を語る試みがそこに現れる。第二部「言語」は、他の記号との関係を捨象した言語記号を出発点に据えた。それは徹底した「反自然」である恣意性を「偶然性」に置き換えることにほかならない。当初の計画では、そこから記号体系としての言語に移行することで、「時間」から〈時間〉に移行しようとしたソシュールは、しかし講義のやり直しという大胆な決断を下した。それは〈同じ〉言語の通時態を語る決断だった。その試みは「記号の意味」と「辞項の価値」の区別に行き着く。「価値」は肯定的辞項なき差異の領域に見出されるが、実在化されれば「肯定的辞項に類似しうる何か」としての「意味」に転化する。だから、「同じ」を受容しつつ〈同じ〉を護持すること。そこに〈言語学〉としての「一般言語学」の可能性があることを、最後の「一般言語学」講義は示している。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、ソシュールが1907-11年にジュネーヴ大学で三回にわたって行った「一般言語学」の講義の内容を総体的に明らかにし、ソシュールの言語論が最終的に到達した地点を提示することを目的とした論文です。

ソシュールの弟子であるバイイとセシュエは、師の没後、学生の聴講ノートなどの原資料を基に1915年、『一般言語学講義』と題された書物を公刊しました。しかし、第一に講義が行われた順序(クロノロジー)を尊重していないこと、また第二に、原資料には存在しない文言を加筆していることなどの問題があることは、1960年代以降の原資料の公刊(エングラーによる批評校訂版、ゴデルによる研究および校訂の作業など)を通じて、これまでも指摘されてきたとおりです。それでも、三回の講義のすべてを授業の順に読解する総体的な研究書は、今日に至るまでスイス、フランス、ドイツなどでも、また日本でも出現しておらず、本論文はその欠落を埋める最初の総合的な研究になっていると言えます。

内容は、序章、および本論で、本論は三部構成、六章から成っています。

序章は、19世紀に誕生した言語学が揺藍期においていかなる意図を、自覚的にせよ無自覚的なままにせよ、有していたのか、その発展の過程でいかなる役割を担ったのか、を政治史的・思想史的に考察し、19世紀後半に言語学に携わったソシュールにとっての時代的背景を明らかにしようとしています。

17世紀のポール・ロワイヤル文法のような規範文法とは異なる「言語学」の誕生の契機は、サンスクリットの「発見」であって、サンスクリットに見出されたギリシア語、ラテン語との類似を親族関係と捉え、共通の起源から複数の言語が分化する過程が想定されたとき、「比較文法」としての言語学は開始されたと言えます。

「比較文法」という名称を初めて用いたのは、シュレーゲル(1772-1829年)でしたが、そこには起源(オリジン)としてのサンスクリットに卓越性を認めるというロマン主義的発想が含まれていました。さらに、フィヒテ(1762-1814年)の『ドイツ国民に告ぐ』に見られるとおり、こうした発想は、近代的な国民国家としての統一に遅れをとったドイツ語圏において、オリジン(印欧祖語からギリシア語に至る流れ)に直結する正統な言語としてのドイツ語の卓越性をドイツ民族の卓越性と同一視し、統一国家樹立を正当化する論理を生み出していきます。正統な原典を確定するために複数の写本の「比較」を行う文献学から言語学が派生したのと同じ時期に、その同じフィロロジーから歴史学と法学が派生したのは、そういう理由があったからです。およそ半世紀のち、普仏戦争(1870-71年)に敗れたフランスが第三共和政の下で「単一にして不可分な共和国フランス」を確立するための言語政策を敷き、「フランス語を語る者はフランス人である」という観念を流布させることを可能にしたのも、それと同じ論理にほかならなかったと考えられます。

その意味で、ソシュールが「フランス語を語る非フランス人」であるジュネーヴ人だったことは軽視できない事実であると、本論文は考えます。比較文法を発展させた青年文法学派の中心地ライプツィヒ大学に留学したソシュールは、『インド・ヨーロッパ諸語における母音の原初体系に関する覚え書き』(1878年)の出版後、1881年にパリ高等研究院の講師になりました。しかし、当時は言語の優劣を国民の優劣、さらには「人種」の優劣にすり替え、反ユダヤ主義を正当化するために言語学が利用されるということもありえた時代であって、さきほど見た論理と同じ論理の重圧のもとで、ジュネーヴ人ソシュールは、フランスにおいて居場所を見出すことができません。本論文の見方では、ソシュールが、先生や先輩たちから提案されたポスト、フランスの最高学府であるコレージュ・ド・フランス教授就任に必要なフランス国籍取得を拒否し、1891年に故郷ジュネーヴに帰還したことは、1880年代後半に共時的なものを扱う「形態論」と通時的なものを扱う「歴史音声学」を別個に取り上げる授業形態に到達したことと無関係ではない、とされます。言語の通時態(diachronieを語りうるのは言語の複数性を見ることを可能にする等質的時間に依拠した「歴史」の観念が信じられているからですが、そういう通念的な「歴史」のなかで言語は国家(国民)と同列の対象として並置されます。しかし、共時態synchronieを語ろうとすれば、常識的な意味合いでの「歴史」を宙吊りにするような時間性に直面せざるをえない、というのが本論文の主張です。

ジュネーヴ大学教授就任講演で、その時間性は「言語の連続性」として提示されています。連続性というのは、今日語られる言語はつねに昨日語られた言語と同じであるということであり、人々は昨日話された言葉の用法や語り方、語り口を今日も継承し、つねに継続して、繰り返し、反復して用いるということです。一歩進めて言うと、言語記号(シーニュ)は、いつどこで、なにゆえそうと定まったのか、だれもけっして突き止めることはできない仕方で決まっているのですが、たとえばdogというシニフィアンはなぜ「犬なるもの」というコンセプトに、すなわちそういうシニフィエに堅く結ばれているのか、dogというシーニュ(記号)の価値はなぜ「犬という指向対象referent」に必ず結ばれ、「狼という指向対象」とは区別されるのか、という理由、動機づけは、けっして自然的必然性のないまま、恣意的、随意的にそう決まって作動しており、ただ英語を話す人間はそれに従っているだけなのですが、しかし、dogというシーニュはつねに反復性として機能し、反復的に用いられることで初めてその同一性が保たれているということです。

本論文の考えでは、その事実は、言語に固有な〈同じ〉le memeという様相、つまり通常の意味合いでの「同じ」〉le memeと「異なる」l'autreの対(ペア)、「同一性」と「差異性」の対(ペア)を除外するような、独特な、〈同じ〉という様相を明るみに出します。こういう言語に固有な、独特な〈同じ〉le memeは、すなわち〈反復性に基づく同一性〉は、独特な時間性に立脚しているでしょう。人々が通常、時間とはそういうものだと思っている時間、時計で測られる時間、等質的な〈いま〉が線的に継起していくような時間とは異なる、独特な〈時間〉です。もしそうであるならば、常識的な「時間」によって現れる通時態と独特な〈時間〉に基づいてのみ現れる共時態を同時に語ることがありうるのだろうか。これがソシュールの根本的な問いかけであると、本論文は主張しています。

就任講演の直後、ソシュールはその問いに答えるための「書物」を執筆する企てに着手しました。最初の試みは、『言葉langageの二重の本質について』と題されていましたが、それ以降、中断と再開の繰り返しにほぼ十年の時が費やされました。結局、その書物の公刊は実現せず、1900年頃からソシュールは、方言や地名の研究、ニーベルンゲンなどの伝説の研究、アナグラムの研究を行っています。ひとによっては、そうした研究を、挫折した「一般言語学」の企てからの逃避とみなす者もいますが、原資料を丹念に読めば、そうではなく、1907年からの「一般言語学」の講義は挫折の再演であるどころか、一見無関係に見える諸研究を経たからこそ可能な試みであり、通念的「時間」を自明視する19世紀の「言語学」を脱一構築(deconstruire)し、独特な〈時間〉に依拠しつつ、共時態と通時態を総合する〈言語学〉としての「一般言語学」を示唆しているのが読み取れる、というのが本論文の見方です。

本論は、三部構成であり、全三回の講義の各々にあてられています。ソシュール自身の準備ノートがわずかしか現存しないため、最も詳細な記述を残したリードランジェ(第一回講義、第二回講義)、コンスタンタン(第三回講義)の聴講ノートが主たる読解の対象となりますが、聴講ノートはあくまで間接的な資料であり、初学者が多数を占めていたための配慮や逡巡、妥協や難解な問いの回避が混入していると思われます。それゆえ、他の聴講生による記述とのヴァリアントを十全に考慮に入れたうえでの読解が不可欠になります。

第一回講義(1907年)は、歴史音声学を扱う第一部だけで終わり、共時態を論じることを回避しました。それでも、言語の変化の主たる原因として提示された類推現象を扱う際、単位画定のメカニズムに言及したソシュールは、一時的に共時態に足を踏み入れています。そのとき提示された「半無意識」、「下意識」という見方は、1890年代の草稿で明言された「語る主体」の意識という、言語単位画定の「基準」の内実を、もっと詳しく示唆するものです。類推とは共時態のメカニズムそのものですが、その類推を可能にする言語の仕組みを司るのは「連続性、すなわち継続的に実践される反復性」である以上、そして「一般言語学」講義がこれまで伝統的に変化の要因とされてきた類推を扱うことを余儀なくされる以上、この講義は、やがて共時態を語ることを回避できないでしょう。第一回講義は、その事実をソシュールに突きつけてきたというのが、本論文の解釈です。

第二回講義(1908-09年)は、それゆえ共時態と通時態をともに扱う「序説」を前半に置いています。共時態の導入とともに示されたのが「社会制度」としての言語という見解であり、それはアメリカの言語学者ホイットニー(1827-94年)が提示したものですが、ホイットニーはいまだ、「自然」にとらわれ過ぎているとソシュールは考えます。言語を、あくまで「記号の恣意性」に基づいた社会制度として徹底的に考察していけば、根本的に「非自然、あるいは反自然」としての社会性が現れます。言語単位を「価値」として捉え、体系による価値と社会的協定(暗黙の約束事)による価値を「同じもの」だと考えるソシュールにとって、その社会性は「連続性、継続的に実践される反復性」に結ばれた、独特な〈時間〉と一つになります。

しかし、そういう共時態の本質を明らかにすれば、これまでの歴史音声学中心の「言語学」は否定されるほかないので、第二回講義は「連続性、継続的に実践される反復性」に相関する諸問題(たとえば連辞と連合を、共時的視点から解明することなど)を回避し、共時態と通時態の考察は徹底的に深められるところまでは行かなかったと思われます。言語を観察する者は通時態しか観察できず、共時態はその句こう側に想定されます。だから、通時態を排除すれば共時態はないのですが、通時態をそのまま保持すれば共時態は現れることがないのです。

それでも、第二回講義の後半に、言語学史を扱うもう一つの「序説」を置いたソシュールは、その準備ノートに「民族(国民)不在のヨーロッパ」という語を記しています。「連続性、継続的に実践される反復性」の中では、常識的な意味合いでの民族や国民は無化されます。通時態を排除することなくその事実を保持しようと試みるとき、講義は伝説研究と合流するのです。かつてジュネーヴを都にしたブルグント族に関わるニーベルンゲン伝説の研究は、「歴史と伝説」を「真実と虚構」の、すなわち「事実と物語」の対(ペア)とみなす通念を打ち破り、いったん「ドイツ的なもの」に回収されたニーベルンゲン伝説を「民族(国民)不在のヨーロッパ」に奪還する試みとなる、というのが、本論文の解釈です。

第三回講義(1910-11年)は、そういう伝説研究の総決算と同時期に開始されています。その第一部「諸言語」は、地理的多様性を取り上げ、「親族関係の中の多様性」と「認識可能な親族関係なしの多様性」を区別します。後者は「言語の起源」の問題にほかなりませんが、18世紀に頂点を迎える「言語起源論」の歴史は、それが「国家(国民)の起源」の問題でもあったことを示しています。その問題に答える役割は、19世紀には「言語学」が担った役割でした。しかし、ソシュールの講義は「郷土の力、祖国の力」と交通の力」を区別して提示し、後者が「移行の感知不可能性」、すなわち連続性、継続的に実践される反復性として現れることを明言します。「移行」は、感知されないうちに行われます。言葉(言語シーニュたち、その構文)は、同一性と思われるままに繰り返され、反復的に用いられるうちに、いつのまにか差異化されている、という仕方で実践されます。つまり同じままに繰り返されているように思えても、実は繰り返されるときには必ず差異化の動きを含んで反復されているのです。差異化の運動なしには反復されないのです。

「交通」の中では、「真実と虚構」の区別、「事実と物語」の区別は無効にされます。三回にわたる講義で一貫して批判されてきた文字表記(文字として書かれたもの)が仮構する歴史」ではなく、連続性(継続的に実践される反復性)の中で語られる、独特な〈歴史〉を語る試みがそこに現れます。

そして、第二部「言語」は、最初の出発点として、-見奇妙なことに、他の記号(シーニュ)たちとの関係をいったん捨象した言語シーニュ(記号)を分析し、解明することから始めています。〈他者との関係〉を捨象して記号を分析することは、実は、徹底した「非自然、反自然」である記号の恣意性を、いったん「偶然性」に置き換えることになってしまいます。それはソシュールが選んだ説明の仕方によるのであって、ソシュールの当初の計画では、そこから記号体系systeme de signesとしての言語(ラング)に移行するやり方で解明していくことで、通念的な「時間」から独特な〈時間〉一へと移行するつもりでした。しかしソシュールは、途中で、この講義をやり直すという大胆な決断を下していると、本論文は考えます。

そのやり直しの決断とは、言語に固有な〈同じ〉1e memeを司る時間性に立脚しつつ、つまり等質的時間としての「時間」とは異なる、独特な〈時間〉に立脚しつつ、困難な試みを行おうとする決断であり、独特な意味合いで〈同じ〉le memeである言語(ラング)の通時態synchronieを語るという決断、すなわちもっぱら〈反復することに基づいて、同一性を保っている体系〉としての言語(ラング)の通時態を語ろうとする決断だったと思われます。

本論文の見方では、そういう試みは「記号の意味(signification du signe)」と「辞項の価値(valeur des termes)」の区別に行き着きます。「価値」は「ポジティブな辞項なき差異」、すなわち差異としての差異、なんら実定的な辞項(自己同一である辞項)を前提にしない、差異論的関係性の領域、もともと差異から始まる関係性の領域にのみ、見出されます。が、しかし、もしそれが英語なら英語というラングの体系性のうちで実在化されれば、つまりもともと固定している価値であると錯視されれば、たとえばdogというシーニュ(記号)の価値はもともと自然的な摂理のようにそうと決定されていると思い込んでいれば、なんら実定的な辞項を前提にしない、差異化の運動によってのみ定まっている価値も、「ポジティブな辞項に類似しうる何か」としての「意味signifcation」に転化します。それゆえ、一方で、通常の意味合いでの「同一性」と「差異性」の対(ペア)に含まれるような「同じ」le memeを受け入れつつ、他方で、言語に固有な〈同じ〉le memeという様相(独特な時間に基づく〈同じ〉という様相)をあくまで護持すること。そこに従来の「言語学」とは違う〈言語学〉としての「一般言語学」の可能性があることを、第三回講義は示唆している、というのが、本論文の主張です。

本論文は実によく考え抜かれ、緻密に構成されていますが、強いて不十分な面をあげると、それは、フランス語の読解能力が幾分か不足している部分があるために、ソシュールの講義準備ノートにおける難解なテクストの微妙なニュアンスを完壁には捉えきっていない場合もある、というところです。また、自分が熟考して練り上げた論述のシェーマを尊重するあまり、ソシュール自身のテクストの持つ意味合いを、どうしても自分の論述のシェーマに沿うように解釈する傾向が、時折、見られるといろところです。

しかし本論文の場合、こんな傾向はきわめてわずかなものだと言えます。総体的に見て、本論文は、ソシュールが1907年から1911年にかけて行った、三回の「一般言語学の講義」のなかで展開している独自の言語学研究の全容を明らかにしつつ、ソシュールの言語論、言語思想が最終的に到達した領域を説得力のある仕方で提示しているという点で、一つの大きな貢献をなしていると思われます。ゆえに、博士(学術)を授与するに値すると審査員全員で評価いたしました。

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