学位論文要旨



No 124205
著者(漢字) 姚,毅
著者(英字)
著者(カナ) ヨウ,キ
標題(和) 産科医・助産士・接生婆 : 近代中国における出産の近代化と国家化
標題(洋) Gynecologist, Midwife and Birth Granny : The Modernization and Nationalization on Childbirth in Modern China
報告番号 124205
報告番号 甲24205
学位授与日 2008.10.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第848号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 瀬地山,角
 東京大学 准教授 市野川,容孝
 東京大学 教授 村田,雄二郎
 日本大学 教授 小浜,正子
 東京大学 准教授 川島,眞
内容要旨 要旨を表示する

中国は古くから、きわめて発達した産科学と産育文化を有した。しかし、19世紀半ばから、医療宣教師による西洋産科学・産育知識の導入が行われ、それによってこれらの伝統知は「学理に欠け、根拠のない」ものとされた。近代的医療技術を身につけた中国人医師たちは、伝統知による産育文化を廃止しようと活動し、出産領域に参入し始め、やがて政府・国家の組織的介入を招いた。国家が本格的介入を開始した1920年代後半から、わずか20数年後の1950年代初期には、新式出産率は北京では約9割近くに達し、これと同時に自律的な開業産婆はほぼ完全に消失した。本論文は、このような中国の出産の近代化のプロセスを、国家政策、教育・免許制度、及び政策の実施実態、受け手としての個人という複数の観点から、トータルに検討することを第一の目的とした。

第一章、第二章では、本論文の前提となる議論を整理する。

第一章は、近代以降次第に失われていった伝統的産婆の世界が有するコスモロジーを再構成した。中国の伝統的な出産の世界は、極めて緻密で洗練された医学理論の一部を構成しており、コスモロジーや道徳倫理観を含む、一つの完結した知の体系であった。医者は中国の伝統的な医学理論に依拠して知の体系を構築しつつも、産婆や女性を出産の世界から排除することはなかった。助産は子供を取り上げるという行為だけではなく、認門、取り上げ、洗三などの一連の儀式によって構成されており、よい産婆の基準には経験、技術的要素のほかに、儀式を行う十分な能力と権威も必要とされていた。

第二章は、西洋産科学・産育知識の導入、及びそれに対する中国のエリートの反応を考察した。19世紀半ばから、医療伝道師が中国への布教の打開策として、外科や伝染病の予防・治療とともに、西洋産科・助産術を上流階層や貧民階層の出産に積極的に利用し始め、それが中国における出産の近代化の原点となった。西洋産科・助産術の導入については、中国の伝統的産婆術のほうが西洋産科学より断然優れていると説く医者もいたが、全体的には西医が中医より優れているという論調が優勢であった。中国の改革家たちは、こぞって西洋医学の重要性を論じ、その導入を主張した。

第三章以後では、産科医・助産士の言動(第三章)、出産にまつわる制度的変遷(第四章)、助産教育(第五章)、助産政策の実施実態(第六章)、産婦の反応(第七章)の順に、近代中国の出産の近代化にまつわる多様なファクターに焦点を当てて検討した。

第三章では、医療世界における職業専門化の動きを中心に、医師・助産士・産婆の分業形成過程を明らかにした。1910年代に、日本や欧米で産婦人科を学ぶ近代的医師が帰国のラッシュを迎えた。彼らによって産婦人科病院や助産学校が相次いで開設され、助産士と呼ばれる新しい出産介助者が輩出された。それと同時に、近代的医師は、伝統医学を排除する装置となった近代的教育システムと、登録制度、資格試験制度を導入した。しかし、それは伝統的医者の強い抵抗にあい、資格・免許制度への統合と排除をめぐる中西医双方の激しい攻防が繰り広げられた。双方とも国家権力の取り付けに必死であって、そうした態度が結果的に、医療領域への国家権力の浸透を容易にさせた。また、医師・助産士は、自分たちこそが母子生命の救済と共に民族の救済という役割をも果たすという信念を持ち、かつその信念を遂行する知能と技能を有する医療集団であることを主張することで、自らが出産領域の権威者であることをアピールした。しかしながら、病院出産の実態及びデータを分析すると、難産に対する近代的医師の技術による救済は、医師の強調したほどの効果を持っていなかったことが明らかになった。

第四章では、助産者の制度化の過程を時系列的に考察した。近代的衛生観に基づいた政府による産婆の管理は、清末の光緒新政がその端緒となる。1927年に全国を統一した南京国民政府は、はじめて全国的法律「医師条例」「助産士条例」「管理接生婆規則」を制定し、出産介助者の職務と権限を規定した。医師は、難産や理由のある堕胎などの処理ができる唯一の存在とされ、出産領域の最高権威者とされた。そして、これまで「新産婆」「助産婦」「助産女士」などの名称で呼ばれてきた新式助産者に、新たに「助産士」という名称を与え、伝統的産婆と区別した。伝統的産婆は二分され、政府指定の接生婆講習所で訓練を受け、政府機関で登録を行ったものは「接生婆」として国家体制に組み入れられ、そうでないものは「私産婆」とされ、容赦なく排除された。こうして政府は「接生婆」、「助産士」などの新しいカテゴリーを創出し、医師・助産士・接生婆の関係のありかたを規定し、ヒエラルヒー構造を確立していった。

第五章では、助産士の誕生と産婆の内部分節化を可能にし、その過程を加速化させる重要な一翼を担った助産教育に焦点をあて検討した。南京政府は、私立助産学校の再編と管理の強化と同時に、中央・地方で国立公立助産学校を設立し、助産士を統一的に養成・配置するシステムを作り上げた。これによって新たに供給される助産士は年々増えていった。助産士の増加は、新式出産の遂行、妊産婦・乳幼児の死亡率の減少に直接に繋がり、また接生婆を含む旧産婆を漸次消滅させようとする南京政府の政策推進を可能にした。

第六章では、北京市における産婆取締りに関する政府公文書と裁判記録を手がかりに、実証分析を通じて、医師と助産士が出産領域における権威的・独占的な地位を獲得していく過程、その過程で生じたヒエラルヒー構造及びその社会的意味を考察した。助産士と産婆の関係は、管理・被管理の関係のみならず、問題が生じた際には、産婆は助産士が責任を転嫁する対象でもあった。助産士・産婆・産婦というミクロ的関係の中で、出産という日常的事柄、及びそれを取り巻く日常的な人間関係が、国家権力の介入によって公的な事柄になり、人間関係における力関係も変化した。また、分析の結果、(1)産婆の施術は禁止されていたはずだが、警察・公安は、産婆の施術を医師・助産士が強調するほどには問題視しておらず、法的「合理性」や処置方式より、処置の効果を重視していたこと、また(2)訓練を受け、免許を持っている接生婆が、訓練期間で教えられた新しい価値と技術にアイデンティティを見出せなかったこと、さらに、(3)産婦が助産者を選ぶ際に、自らの身体経験で理解している「技術」の優劣によって判断をしていたことが明らかとなった。こうしたことから、1930年代の出産領域においては、医師・助産士は医療領域においてまだ独占的地位を占めてはおらず、その自律性はまだ強固なものになっていなかったことが窺い知れる。そのため、医師・助産士は、自らの特権化のために、国家権力の発動を不可欠としたのであった。

第七章は、新式出産運動の受け手としての女性に光を当てて検討した。1930年代前半までは、新式出産への産婦の抵抗が多くみられた。彼女らの「声」を拾ってみると、彼女たちは政府・医学専門家・知識人が認識していたような「頑固無知」「愚か」で、「甘んじて産婆にだまされる産婦」ではなく、むしろ自らの身体知に基づいて主体的に選択していたことがわかる。1920年代から1930年代においては、身体経験を重視し、医師と患者が知を共有する伝統的医療文化がまだ根強く存在していた。しかし、1940年代になると、病院側でも産婦に好まれる助産体制の改良が行われ、また産婦自身に新しい「知」を教え込むことで、一般庶民も新式出産を歓迎する傾向が見られるようになった。

本論文は、以上のように、中国における出産の近代化の具体的状況を、国家制度、産科医・助産士のみならず、産婆、産婦の声にもスポットライトを当てて検討したことで、各ファクターの力関係やせめぎあいを描き出した。終章においては、以上の分析を出産の変容過程、規定要因及び文化転換のメカニズムという三つの側面からまとめ、中国における出産の近代化の特筆すべき特徴として以下の三点を指摘した。

第一に、中国では、産科医が男性、助産士が女性というジェンダー的非対称性は顕著ではなかった。産科医と助産士の間には、競争関係より協力関係が見られ、助産士の職務範囲は、「助産士条例」の規定よりも実際には広く、権限も多く持っていた。

第二に、産婦である女性が、技術を誇っていた医師・助産士ではなく、産婆を選んだその根拠を掘り下げてみると、1920年代から1930年代においては、身体経験を重視し、医師と患者が知を共有する伝統的医療文化がまだ根強く存在していたことが分かる。新式出産に対する拒否或いは恐怖や不満は、こうした身体経験に基づいて、近代的権威知識に対する警戒と抵抗を表したものと読み取ることができる。だが、こうした女性の行為者性は、女性がそれを意識し近代的知を抵抗しうる主体形成にはつながらなかった。

第三に、中国における出産の近代化においては、さまざまなファクターが存在し、各ファクターのせめぎ合いもあったが、国家の役割はより重要かつ強力な要因であった。中国における国家と職能団体の関係は、医学の勃興と近代ナショナリズムが密接不可分な関係にあったこと、中西二つの異なるタイプの医学系統が併存し競合したことなどから、他の地域には見られない複雑な様相を呈し、それが医療領域や医学界への国家権力の浸透を容易にさせる要因となった。また国家は、医師・助産士・接生婆の序列関係を規定し、助産費減免政策を実行し、助産教育システムを確立したのみならず、産婆取締り、産婦の家庭訪問などを通じて、出産に関する制度政策を下層まで浸透させ、出産という日常生活への介入を可能にした。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、近代中国における出産が、他の社会に類を見ないような速度で、急速に産婆の管理する伝統的な方式から、西洋医の手による近代的な方式へと変化していった歴史を、膨大な資料によりながら、包括的かつ詳細に明らかにしたものである。

さまざまな社会史あるいは女性史の分野の中で、出産の社会史というのは、比較的蓄積の厚い分野であるといってよい。西洋の出産の社会史や日本の産婆の変化などについては、すでにかなりの研究がなされてきている。しかし中国に関しては、伝統的な産婆が非常に強い影響力を持っていた時代から、西洋医学がそれに取つて代わるまで、わずかに数十年の時間しかなかったにもかかわらず、それを通史的に扱った研究はまったくといってよいほど存在せず、研究上の空白のある分野であった。

そのような中で本論文は、以下のような新しい問いをたてて、その空白に挑もうとしたものである。第一に、中国では伝統的な東洋医学の力が強く、かなり精徹化された伝統医学の体系を持つていたにもかかわらず、なぜかくも短期間の間に、出産が西洋医学の管轄する領域へと変容したのか。第二にそうした変化にはいかなるアクターが関与し、どのようなやりとりの結果として、出産の劇的な変容が生み出されたのか。より具体的に言えば、専門家集団、国家政策、教育・免許制度、政策の実施実態、さらには受け手ての受容のしかた、といったことに着目することで何が見えるのか。これらが本論文にを通産する問題意識である。

本論文は序章、本論7章、および終章の結論部分からなる。序章では上に述べたような先行研究の展開をふまえて、近代中国の出産の社会史を追うことの意義が述べられる。西洋における出産の社会史の現況、東洋医学と西洋医学の衝突という西洋近代科学の受容に伴う摩擦に関する研究などが先行研究として意識されている。その上で産科医、助産士、1日来の産婆といった集団がどのような分業と序列を形成していくのか、それに国家権力がどのように関わつたのか、なぜそしてどのようにして、出産の領域において、伝統的な産婆から西洋医学への濠1的な転換が行われたのか、といった問いが提起される。

第一章ではまず近代以降急速に失われることになった伝統的産婆の世界が有するコスモロジーを再構成している。中国の伝統的出産の世界の一つの特徴は、医者が介入をしなかったことにあり、産婆によって主に取り仕切られていた。それは確かに呪術的要素を含んでいるが、決して迷信として一刀両断に否定できるものではなく、独自の世界観を持っていたことが明らかになる。第二章では西洋の産科学・産参育知識の導入と中国人エリートのそれに対する反応を検討している。1 9 世紀半ばから2 0 世紀初頭にかけて、女性医療宣教師によって、新しい消毒技術や帝工切開に代表されるような西洋の産科学が持ち込まれた。これは社会進化論と相まって受けとめられ、中国でも多くの女医が誕生し始める。第二章では出産領域における近代的医師と助産士の登場プロセス及び新式出産の状況を考察している。東洋医学と西洋医学の双方が国家による承認を求めて登録制度で綱引きを繰り返した様子などが示され、産婆の排除が、「技術の低劣さ」といった理由ですぐに行われたような性質のものではないことが明らかになる。第四章では出産の制度化・行政化の歴史的展開を時系列的に追っている。清末から民国期のさまざまな「医師条例」「産婆取締規則」、さらには1 9 2 8 7 年に全国を統一した南京国民政府の衛生行政を論じながら、国の側からの制度の変遷を概観している。第五章では助産士の誕生と産婆の内部分節化を加速させた助産教育に焦点を当てる。国立・私立の助産学校などによって助産士が大量に生み出されることになり、旧産婆による出産から新式出産への変化を担ったことが示されている。第六章では免許を持たない旧来の産婆に対する取り締まりの実態を、現在の北京を事例に貴重な一次資料を基に明らかにしている。これによって国民政府や他の地域政権におけるの母子衛生事業が現場で具体的にどのような形で実施され、地域にどう受けとめられたかが、明らかになる。国家が助産士という新しい集団を作り出し、それがこうしたミクロな権力関係を通じて、産婆に取って代わるようになるのである。第七章では新式出産運動の受け手であった妊婦自身が、その変化をどのように受けとめ、反応していたかに光が当てられる。少なくとも3 0 年代前半ころまでは、新式出産への抵抗は強く、その変化のプロセスは、決して上流階級の流行を下層が模倣する、といった単純なものではないことが、示されている。

終章では第七章までの議論を総括した上で、中国における出産の近代化の特徴を以下のようにまとめている。第一に中国では「産科医が男性、助産士が女性」というジェンゲーの非対称性は顕著ではなく、助産士と産科医との間には競争関係ではなく協力関係があったが見られたこと。第二に受け手の妊婦たちの立場から見ると、自らの身体経験を重視し伝統的な出産介助医療を選択することがよく見られたこと。第二に東洋医学と西洋医学の競合の中で、国家が医師、助産士、産婆の序列関係に強く介入し、急激な変化を呼び起こす引き金となったこと、が提示されている。

以上のような内容を持つ本論文には、次のような長所が認められる。

第一にこの作業は、中国における出産の近代化の過程について、実証的かつ包括的に明らかにした最初の業績であり、他地域の研究が多くの研究者の積み重ねによって到達した水準にまで、ほぼ一人の力で中国の出産史の研究を引き上げている。本論文は近代中国の出産の社会史口医療史の分野で、必読の文献となることは疑いなく、その意味でこの分野におけるきわめて大きな貢献として特筆に値するものであり、この点だけをとつても学位論文としてきわめて大きな意義を持つものである。

第二にこれは中国の出産史・医療史に関するファクト・ファインディングとしても価値の高い業績であるだけでなく、それが当時どのように意味づけられていたかを医療宣教師、近代医師、伝統医師、改革派知識人、助産士さらには産婆や受け手の妊婦までの声を拾い、複雑な力関係の中で、近代の出産をめぐる言論と行為の空間がどのように変容したかを、重層的かつ動態的に描き出したものであり、近代的な出産のシステムが誕生する複雑な経緯を、専門集団やその受け手のせめぎ合いの結果として描き出した点で、理論的にも価値の高い業績であると考えられる。

第二に中国の近代的母子衛生においては、「産科医は男性・助産士は女性」というジェンダー構造が形成されなかったこと、その要因として伝統中国社会における女性隔離、また東洋医学の医者が直接には出産を取り扱ってこなかったが産科をかかえていなかったために産婆を切り捨てたことなどに求めて、網羅的に明らかにしたことは、他の地域の出産の社会史にも影響を与える重要な貢献であるとともに、現代中国の産科医療や出産のあり方にも示唆を与える大変射程の長い視点である。

しかしながら、本論文にも問題点がないわけではない。まず近代や近代国家を一つのアクターとして前提としているが、それは本論文が述べるような単一の主体とみるのは難しく、modernityやnationを複数形で考え、より複層的な議論をする可能性があるのではないかと考えられる。次に医療の近代化という観点から見たときに、本論文が依拠するような西洋の医療化(medicalization)にまつわる用語系では、事態がうまく記述できず、医療の専門化(professionalization)特異なの事例として、別途用語を再定義しながら論じた方が、西洋との対比をする上では意味があったのではないかと思われる。また資料の細かい扱い方にいくつか難があり、文献の挙示方法を含めて、より注意深く処理をすることが望まれる。

しかしこれらの欠点は本論文の価値を損なうものではない。膨大な一次資料と文献を最大限に活用し、研究の空白があった分野に、単独で、これほどの大きな貢献をなしたことは、審査員一同一致して、きわめて高く評価するところであり、今後、部分的な改良を加えることで、この分野の必読文献として、出版することが期待しうる。

したがつて、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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