学位論文要旨



No 124211
著者(漢字) 赤塚,友哉
著者(英字)
著者(カナ) アカツカ,トモヤ
標題(和) ボーズ同位体88Sr原子を用いた3次元光格子時計の研究
標題(洋)
報告番号 124211
報告番号 甲24211
学位授与日 2008.11.13
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6937号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 香取,秀俊
 東京大学 教授 五神,真
 東京大学 教授 古澤,明
 東京大学 教授 大津,元一
 東京大学 准教授 井上,慎
内容要旨 要旨を表示する

時間および周波数は物理学の中でも最も精密に測定することが可能な量であり,原子時計の精度追求は高度情報通信システムや衛星航法装置(GPS)などへの工学的な応用の他に,物理定数の精度向上や恒常性の有無の検証(微細構造定数の時間変化の検出など)といった基礎物理学の点からも重要である。原子時計の研究は 1950 年代からすでに行われており,1967 年に (133)Cs 原子のマイクロ波遷移(9.2 GHz)が時間・周波数標準として採択されて以来「秒」の定義として使われてきた。現在では,世界各国にあるセシウム原子時計の加重平均によって定められる国際原子時(TAI: International Atomic Time)は 1×10(-15) の精度で保たれており,いくつかの原子泉方式の時計ではより小さい不確かさが実現されている。また,近年の光周波数コム技術の発達により光周波数をラジオ周波数まで容易に分周できるようになったことで,次世代の周波数標準としては光周波数標準が有力になっており,セシウム原子時計のマイクロ波(10(10) Hz)に対して 5 桁ほど高い光周波数(10(14) ~ 10(15) Hz)を用いることでさらに数桁の精度向上が期待できる。実際,2006 年の国際度量衡委員会において「秒」の二次表現として採択された 5 つの候補のうち,4 つはラム・ディッケ領域に閉じ込めた原子・イオンの光学遷移を用いるものであり,いずれも 10(-18) レベルの安定度の達成が見込まれている。このうち 3 つが単一イオン時計,残りのひとつが光格子時計で,それぞれイオントラップ,光格子という手法でラム・ディッケ束縛を実現してドップラーシフトを除去している。単一イオン時計は現在の最も高精度な時計であり,すでに原子泉方式のセシウム原子時計を超える確度が得られている。しかし,この系ではイオン間の強いクーロン相互作用により多数のイオンを同時に観測することが困難なため,安定度が量子射影雑音によって制限され,10(-18) に到達するまでに長い積算時間が必要になる。これに対し,光格子時計は高確度と高安定度を同時に得ることができる手法として 2001 年に東大の香取によって考案された。この手法では,格子状に並べたポテンシャルにより 106 個の原子を同時にラム・ディッケ束縛して観測することが可能であり,S/N 比の大幅な改善が期待できる。

光格子中の原子に対してクロック遷移の分光を行ったときに観測されるスペクトルには,無摂動状態におけるスペクトルに上下準位のシュタルクシフト(光シフト)の差が付加される。光格子時計では,シュタルクポテンシャルの周波数依存性を利用して上下準位のポテンシャル形状が一致するような "マジック波長" を用いることで光シフトの差をキャンセルしている。実際に,東大のグループではこの手法を用いて (88)Sr 原子の 1S0 (mJ =0) - 3P1 (mJ =0) 遷移の光格子中における分光実験が行われたが,磁気モーメントを持つ 3P1 準位ではトラップ光の偏光による影響(ベクトル光シフト)が大きいことがわかり,この影響を抑えるために (87)Sr 原子の Jg=0→Je=0 の遷移である 1S0 (F=9/2) - 3P0 (F=9/2) をクロック遷移として用いる提案がなされた。この遷移は本来なら厳密に禁止されているが,核スピンを持つフェルミ同位体では超微細相互作用によって 3P0 準位が 1P1 および 3P1 準位とわずかに混合し,有限の寿命を持つようになる。(87)Sr 原子のクロック遷移は 7.6 mHz の自然幅を持ち,2003 年に東大で初めて遷移スペクトルが観測され,2005 年にはマジック波長の測定や,光周波数コムを用いてセシウム原子時計との比較による絶対周波数の測定が行われた。その後, JILA(米), SYRTE(仏), 東大の 3 グループによる絶対周波数の測定値がよく一致したことで「秒」の二次表現のひとつになっている。一方,核スピンを持たないボーズ同位体でも外部から磁場をかけることで準位の混合を引き起こす方法が提案され,2006 年に NIST(米) のグループが (174)Yb 原子で,2007 年には SYRTE のグループが (88)Sr 原子で 1S0 - 3P0 クロック遷移を観測している。その後の改善により,現在では光格子時計の絶対周波数測定は国際原子時による「秒」の定義の不確かさで制限されるようになってきており,もはやセシウム原子時計との比較では十分ではなく,2 台の光格子時計間において光周波数同士で比較を行うことが必要になっている。単一イオン時計では 2005 年ごろからすでに光周波数同士での比較実験が行われており,最近では 2008 年に NIST のグループが (27)Al+ と (199)Hg+ の単一イオン時計間の比較によって遷移周波数の比を 5×10(-17) の精度で測定している。光格子時計でも 2008 年には他の光周波数の時計との間で比較が行われるようになり,JILA のグループによる (87)Sr 原子の光格子時計と Ca 原子時計の比較では安定度 3×10(-16) が得られている。

これまでの光格子時計の実験はフェルミ同位体でもボーズ同位体でも 1 次元光格子が用いられてきたが,1 次元光格子ではひとつのディスク型のサイトに多数の原子がトラップされるため,時計の精度が向上するにつれて原子間衝突によって生じる周波数シフト(衝突シフト)が問題になってきている。これを解決するために,2006 年の東大の実験では (87)Sr 原子の核スピンを偏極させることでフェルミオンの量子統計性を利用した原子間衝突の抑制が試みられている。この手法では,原子のコヒーレンスがどれだけ保たれて残留衝突シフトをどれだけ減らせるかが課題となる。一方,ボーズ同位体で原子間衝突を回避するには 3 次元光格子によって原子を 1 個ずつ閉じ込めることが必要だが,これはまだ実現されていない。実際,2007 年の SYRTE による (88)Sr 原子の 1 次元光格子時計の実験では絶対周波数測定の不確かさが 32 Hz と大きく,その主な原因は衝突シフトによるものであった。

本研究では,(88)Sr 原子を 3 次元光格子にトラップすることにより原子間衝突のないボゾン系を実現し,クロック遷移へのレーザー安定化を行って 3 次元光格子時計を構築した。3 次元光格子を構成するには少なくとも 2 方向の異なる偏光を重ね合わせる必要があり,光格子の偏光は空間的に不均一になる。このため,核スピンを持つフェルミ同位体ではベクトル光シフトの制御が難しいという問題が生じる。これに対して,核スピンを持たないボーズ同位体ではクロック遷移を引き起こすための外部磁場とトラップ光電場が結合することでわずかな偏光依存性を示すものの,光格子の偏光状態と磁場の向きを考慮して設計することで抑えることができ,フェルミ同位体に比べると影響は小さい。実験では,1 次元光格子を折り畳んで直交させるような構成で位相が安定な 3 次元光格子をつくり,光格子の偏光面と磁場およびプローブ光電場を合わせて入射する。2.34 mT の磁場を印加して400 mW/cm2 のプローブ光を入射することでクロック遷移にはラビ周波数 9 Hz の励起が生じ,これを 60 ms の π パルスで観測してほぼフーリエ限界である線幅 13 Hz のクロック遷移スペクトルを得ることができた。

また,(88)Sr 原子の 3 次元光格子時計の性能を評価するために,既存のスピン偏極 (87)Sr 原子の 1 次元光格子時計と同時に稼動させて周波数比較を行った。1 次元光格子は空間的に均一な偏光を持つため,(87)Sr 原子の核スピンを偏極させて 1S0 (mF =±9/2) - 3P0 (mF =±9/2) の 2 つの遷移周波数の平均をとることでベクトル光シフトをキャンセルしている。2 台の光格子時計間での周波数比較を行うことで,国際原子時の精度による制限を受けずに光格子時計だけの安定度を評価することができる。(88)Sr, (87)Sr 原子のそれぞれのクロック遷移に安定化したプローブ光のビート信号を記録してアラン分散を計算すると,平均時間 2000 s で安定度は 5×10-16 まで到達し,(88)Sr 原子でも 3 次元光格子で衝突シフトを除去することで現在の (87)Sr 原子の 1 次元光格子時計と同程度の安定度が得られた。また,ビート周波数の磁場依存性やプローブ光強度依存性を調べることで 2 次ゼーマンシフトやプローブ光シフトを正確に補正し,クロック遷移における同位体シフトが f(88) - f(87) = 62,188,138.4 (1.3) Hz と求められた。これは SYRTE による測定値とよく一致しており,不確かさは 1 桁以上改善されている。将来的には,2 mT の磁場と 50 mW/cm2 のプローブ光によってラビ周波数 3 Hz のスペクトルを観測し,各周波数シフトを 10 mH の不確かさで制御することが可能であり,(88)Sr 原子の 3 次元光格子時計の確度としては 2×10(-17) までは実現可能であると見積もられる。

審査要旨 要旨を表示する

近年の光周波数コム技術の発達により、10(14) ~10(15) Hzにも及ぶ光周波数を電気的に直接計測することが可能になった。この結果、従来マイクロ波周波数で行われてきた原子時計の研究は、より振動数が高く、安定度の向上が期待できる光周波数に舞台を移した。この光時計の研究は、1秒の定義であるセシウム原子時計や、それらをもとに維持されている国際原子時の不確かさ-およそ5×10(-16)-を凌駕する勢いで進み、次世代の時間・周波数標準として期待されている。光時計では、ポールトラップ中に捕獲した単一イオンを観測する「単一イオン時計」が数十年にわたって有望な手法として研究されてきた。この一方、光格子に捕獲された多数原子の観測により、「単一イオン時計」における信号強度の改善を目指す「光格子時計」手法が2001年に提案され、これまでに1次元の光格子に捕獲されたSr原子やYb原子のボーズ、フェルミ同位体で実験的研究がなされてきた。この結果、2008年現在、光格子時計は、世界の複数の研究機関でおよそ1×10(-15)の不確かさで評価されるに至った。

本研究では、光シフトの偏光依存性や原子間衝突の影響を最小にする究極の光格子時計の実現手法を(1)光格子の幾何学的な配置に由来する偏光状態と(2)被観測原子の量子統計性の観点から検討している。この結果、「フェルミ同位体の1次元光格子時計」と「ボーズ同位体の3次元光格子時計」が最適設計であることを議論し、その実験的検証を行った。特に、ボーズ同位体(88)Sr原子を用いた3次元光格子時計を初めて構築し、フェルミ同位体(87)Sr原子を用いた1次元光格子時計と光周波数を比較することで、1×10(-15)不確かさで、2つの同位体の時計遷移の周波数比を決定している。

本論文は7章からなる。以下に各章の内容を要約する。

第1章では、本論文の序論として、時間・周波数標準の変遷と、その中での光格子時計の優位性について述べ、過去の光格子時計の研究について紹介している。次に、本研究の目的と概要を述べ、本論文の構成を示している。

第2章では、本研究の理論的な背景として、光格子時計の原理を説明している。外部磁場の印加による波動関数の混合により(88)Sr原子の時計遷移に遷移双極子モーメントを誘起する手法と、原子の運動や電場・磁場、原子間相互作用、黒体輻射等の要因によって生じる周波数シフトについて議論し、これらを除去する方法について説明している。そして、(87)Sr原子を用いた1次元光格子時計と(88)Sr原子を用いた3次元光格子時計について、それぞれ概略を述べている。

第3章では、まず一般的な光格子ポテンシャルについて記述し、周期ポテンシャル中にトラップされた原子が持つエネルギーバンド構造や、重力ポテンシャルによるサイト間トンネリングの抑制手法について述べている。次に、位相が安定な2次元以上の光格子を構成する方法を説明し、本研究で用いられている3次元光格子の構成とポテンシャルの形状について述べている。

第4章では、Sr原子の冷却手法と実験装置について説明し、原子を光格子へ供給するまでの手順を詳細に述べている。また、光格子にトラップされた原子数、寿命、温度について評価している。

第5章では、3次元光格子中で(88)Sr原子の時計遷移スペクトルを観測し、振動準位やプローブ光の影響によるラビ周波数の不均一性について考察している。次に、観測されたスペクトルにレーザーの周波数を安定化する手順を述べている。

第6章では、(88)Sr原子の3次元光格子時計と(87)Sr原子の1次元光格子時計による周波数比較実験について述べている。2台の時計のビート信号からアラン分散を計算することで安定度の評価し、それぞれの時計について各周波数シフトを測定・補正することで同位体シフトを求めている。

第7章では、本研究の結果をまとめ、課題と今後の展望を述べている。

付録では、本論文に関連するアラン分散やディック効果についての知識や計算の詳細を説明している。

以上のように、本研究では、究極の光格子時計の実現手法を議論するとともに、これまでに実現されていなかった3次元光格子時計の設計、構築、評価を行なった。2台の光格子時計の相互比較によって、積分時間2,000秒で5×10(-16)の不確かさでの周波数比較を実現するとともに、本研究で初めて実現した「(88)Srを用いた3次元光格子時計」では、計測の不確かさの範囲では衝突シフトが検出されず、その手法の有効性を示した。光格子時計の手法が次世代の時間標準技術として有望な候補と目されている中で、本研究はこの手法の展開を検討する上で、重要な知見と示唆を与えるものであり、今後の物理工学の発展に大きく寄与することが期待される。

よって、本論文を博士(工学)の学位論文として合格と認める。

UTokyo Repositoryリンク