学位論文要旨



No 124212
著者(漢字) 大橋,秀伯
著者(英字)
著者(カナ) オオハシ,ヒデノリ
標題(和) ミクロな概念に基づく新規自由体積理論の構築及び高分子中の分子拡散性予測
標題(洋)
報告番号 124212
報告番号 甲24212
学位授与日 2008.11.13
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6938号
研究科 工学系研究科
専攻 化学システム工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山口,猛央
 東京大学 教授 中尾,真一
 東京大学 教授 大久保,達也
 東京大学 教授 平尾,雅彦
 東京工業大学 教授 彌田,智一
内容要旨 要旨を表示する

本研究においては、高分子中の分子の拡散性を予測する理論的なモデルの構築を行った。

高分子はその長鎖構造に起因する興味深い物性を様々に示す分子であり、高分子中の分子拡散性も物理学的な興味を引きつけている。また、高分子中の分子拡散性は分離膜や塗布乾燥プロセスなど様々なデバイス・システムの効率・特性に影響を与えるなど、化学工学的にも重要な物性である。高分子中の分子拡散性は混合物性であり、それゆえ実験的に全ての物質・条件(温度や組成)の組み合わせをスクリーニングするのは実質的に不可能である。このため高分子を含む系における分子拡散性予測モデルの必要性が高まっている。予測モデルとは、純成分系のパラメータのみを用いてフィッティングパラメータを用いること無しに混合物性としての拡散性を推算できるモデルであり、予測モデルの構築を目指して様々な拡散モデルの提案・検討が行われてきた。しかしながら充分な定量性と汎用性を併せ持つモデルの提案は現在までになされておらず、本研究においてはこれに対し、高分子中の予測モデルの構築を行うことを目的とした。

第1章においてはまず、従来の高分子系拡散モデルの研究を調査・レビューすることで、既往のモデルにおけるアプローチの問題点を調べた。既往のモデルは拡散現象の捉え方によって障害物モデルや摩擦モデル、自由体積モデルなどが提案されているが、科学に対する目的に関してこれらを分類しなおすと、物理モデルと化学工学モデルの2種類に分類される。物理モデルは分子拡散現象を数学的に厳密に取り扱うモデルであり、分子移動現象のミクロな描像から出発するモデルである。しかしながら鎖状高分子の数学的な取り扱いなどが困難であるため、分子物性をモデル中に含めたり、拡散性を定量的に予測するのが困難である。対して化学工学モデルは分子拡散性の定量的な表現を目的として提案されるモデルであり、分子物性を導入することも可能であるが、実験値を再現するためにモデル中に物理的意味の薄いフィッティングパラメータを含み、予測性能が充分ではない。以上をまとめると、現在までに実用的な高分子中の分子拡散性予測モデルは提案されていない。本研究では、特に化学工学モデルにおける物理的意味の薄いフィッティングパラメータの原因は、分子拡散のミクロな描像が充分に勘案されていないことに起因することを見い出した。このことからミクロな分子拡散の概念を既往の化学工学モデル中に導入することで高分子中の分子拡散性を定量的且つ汎用的に予測するモデルが構築できる可能性を提案した。

第2章においては分子移動のミクロな描像である「分子衝突」・「ランダムウォーク」の2つの概念の自由体積モデルへの導入を行った。自由体積モデルは高分子・溶媒・ガラスなど様々な物質における拡散性や粘弾性特性・ガラス転移挙動などの動的物性を定量的に表現するのに用いられてきた化学工学モデルの1つである。本研究においては高分子系の自由体積モデルにおける2つの未知パラメータ、「1分子あたりの自由体積」及び「前因子」に対してそれぞれ、「分子衝突」を表現するshell-like free volumeの概念及び「ランダムウォーク」に対応する自由体積孔へのランダムウォークの概念を導入した。shell-like free volumeは分子衝突によって作り出される分子周りの自由空間を表す概念であり、自由体積孔へのランダムウォークは、自由体積が充分にあるとしたときの仮想的な分子のランダムウォーク運動を表す概念である。これらのミクロな概念の導入の結果、自由体積モデル中の2つの未知パラメータを純成分系パラメータのみからフィッティングパラメータを用いること無しに算出することが可能となった。

第3章においては第2章で提案した2つのミクロな概念を自由体積モデルに実装することで、様々な高分子系中における分子の拡散係数を予測する式の構築を行った。高分子一溶媒系中における溶媒分子の拡散性や高分子一気体系中における気体分子の拡散性、高分子-溶媒-溶質系中の溶媒・溶質各分子の拡散性、高分子溶液中におけるオリゴマーの拡散性など種々の2成分系・多成分系における分子拡散性予測式の提案を行った。特に高分子溶液中の溶質分子拡散に対しては、系に含まれる溶質分子が少ないときに、溶質分子の実験値を用いること無しに拡散性を予測することのできる式の提案を行った。本式は新規分子を合成した際に、実験を行うことなしにその拡散性を予測可能な化学工学的に重要な式といえる。また、実際の系における分子拡散性予測には純成分系のパラメータとして分子表面積・分子体積・自由体積のパラメータが必要であることを示した。本章においてはまた、導出した本モデルの予測式と既往の自由体積モデルの比較を示し、既往モデルのフィッティングパラメータの本モデルによる物理的な解釈を示している。

第3章の予測式を用いて高分子中の分子拡散性の予測を行うためには、純成分系パラメータとして分子表面積・分子体積・自由体積が必要となる。第4章においては、これらのパラメータの提案を行った。まず分子表面積は半経験的量子化学計算により算出した。またab initio法の一つである汎関数密度法の推算結果との良い一致が見られること、計算にかかるコストが小さいことから半経験的手法の1つPM3法を用いて分子表面積の算出を行っている。計算の絶対誤差が大きくなりやすい高分子に対しても安定に信頼性の高い分子表面積を算出する方法を提案した。次に分子体積は半経験的量子化学計算(QC法)及び原子団寄与法(GC法)の2つの手法を用いて算出を試みた。QC法により求められる分子体積と、GC法により求められる分子体積の概念の差を示し、双方の比較を行った。最後に、自由体積は純物質の粘弾性特性と分子体積を組み合わせることにより値を得た。ζの方法では分子体積の定義によって求められる自由体積に差が生じる。既往の研究においては自由体積をGC法の分子体積を用いて求めているが、原理的にGC法は立体分子や特殊な原子を含む分子には適用することができず、現行のパラメータでは拡散性の予測範囲が制限されてしまう。そこで本研究ではより複雑な分子に対しても汎用的に適用できるQC法の分子体積を用いた自由体積を提案した。これにより種々の分子に対して汎用的に拡散性を求めるパラメータシステムの構築に成功した。新しいパラメータ群は従来のパラメータ群と比べて予測精度は同等であり、予測精度を損なうことなくモデルの適用範囲を拡げることに成功した。

第5章においては第3章の予測式及び第4章のパラメータを用いて実際の様々な高分子系中における分子拡散性の予測を行った。この結果、本予測モデルが様々な2成分系・多成分系において、球状分子から鎖状分子まで種々の分子の分子拡散性の温度依存性・組成依存性を適切に予測でき、化学工学的に重要なモデルであることを示した。この結果は、shell-like free volumeの概念と自由体積孔へのランダムウォーク運動の2つの概念の妥当性を表しており、同時に「分子衝突」と「ランダムウォーク」のミクロな概念が高分子中においても分子移動現象を司る重要な要因になっていることを示していると言え、高分子中の分子拡散現象に対して物理学的な寄与をしたと考えられる。また3章で提案した高分子中に含まれる溶質分子の量が少ない場合の予測モデルを用いることで、溶質分子の拡散性を溶質分子の実験値を用いることなく予測できることを示した。この予測性能は第4章で提案した汎用的なパラメータシステムと組み合わせることによって、従来適用範囲外だった分子の拡散性の推算をも可能にしている。また、本章においては本モデルの理論的な限界についても考察し、高分子と溶質の間に水素結合などの特殊な相互作用を持つ系や不均一になるガラス転移点以下の温度領域では、本モデルで用いている仮定が満たされないために、予測性能が充分でないことを示している。また、本モデルのsensitive analysisを行うことで、本モデルが従来モデルと比べてパラメータの不確定性に対してロバストであること、本モデルに含まれるパラメータの中では、実験値から求めている自由体積パラメータが予測誤差の最大の原因であることを示唆した。

第6章においては第1章から第5章までの総括を示すと共に、高分子系中の分子拡散性予測を可能とするもう一つの手法、分子シミュレーションをレビューし、計算コスト・精度等の観点から、これに対する本研究のモデルの立場を明らかにした。すなわち両者は相補的な関係になりうることを示した。また、本章では本モデルの今後の更なる展開を示した。具体的には第一に、本モデルはミクロな分子衝突とランダムウォーク運動を記述する理論であることから、本モデルを高分子溶液の粘度など他の動的物性の予測モデルに応用できる可能性を示した。第二に、混合による自由体積変化や水素結合の形成確率、高分子網目による篩効果などを本モデルに取り込むことによって、現在は適用範囲外である強い相互作用を持つ系や、高分子ゲルを含む系などに対しても本モデルを応用できる可能性を示した。最後に、本モデルをもう一つ上の階層のモデル(拡散微分方程式など)と組み合わせることで、系が複数の構成要素からなる材料(ミクロ構造を有する材料など)中などにおいても拡散性を予測できる可能性を示した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、「ミクロな概念に基づいた新規自由体積理論の構築及び分子拡散性予測」と題し、分子衝突とランダムウォークの2つのミクロな分子移動の概念を自由体積理論へと実装した新しいモデルの構築、及び純成分系パラメータのみを用いた本モデルによる高分子系中の種々の分子の拡散性予測、に関する研究を纏めたもので6章より構成される。

第1章では、本研究の背景及び目的を述べている。最初に高分子中の分子拡散性が各種システムやデバイスの性能に影響を与える重要な工学物性であることを示し、次いで現在までに提案されてきた高分子系の拡散モデルのレビューを行っている。既往の化学工学モデルには高分子中における分子拡散性の予測モデルが存在せず、これはモデル中にミクロな描像を充分に含まない点に起因することを見い出した。これを受けて本研究においては分子衝突・ランダムウォークという分子移動のミクロな描像をモデル中に導入することで、fitting parameterを含まず、純成分系パラメータのみを用いて混合物性としての高分子中の分子拡散性を予測できる新しいモデルの可能性を示した。

第2章では、本研究で導入したミクロな概念の提案を行っている。本研究では自由体積理論を基礎モデルとして選択しているが、レビューを通して高分子系においては自由体積理論が2つの未知パラメータを含むことを示した。本研究では高分子系中においても、単純液体中と同様に分子衝突・ランダムウォーク運動により分子が拡散することに注目し、これら2つのミクロな概念の2つの未知パラメータへの導入を試みた。まず隣接分子との分子衝突の概念に対応する分子周りに存在する自由空間「shell-like free volume」を定義し、これを1つ目の未知パラメータへと導入した。さらに「隣接自由体積孔へのランダムウォーク」の概念をもう一つの未知パラメータへと導入した。この結果、fitting parameterを用いずに純成分系パラメータのみを用いて、高分子系自由体積理論の2つの未知パラメータの算出が可能となった。

第3章では、第2章で提案したミクロな描像を自由体積理論に実装し、高分子を含む様々な2成分系・多成分系における実際の分子拡散性予測式の提案を行った。さらに提案した予測式と従来の高分子系自由体積理論との比較を行い、本モデルが従来モデルのfitting parameterに物理的な意味づけを与えられることや、従来モデルは本モデルの特殊なケースとして説明されることを示し、本モデルが従来モデルよりも一般的なモデルとして理解されうることを示した。

第4章では、第3章で構築した予測式を用いて実際の分子拡散性を予測するために必要な3種の純成分系パラメータ:分子表面積・分子体積・自由体積の提案を行った。まずAb initio法よりも計算コストの小さな半経験的量子化学計算法を用い、低分子や高分子モノマーユニットに対する分子表面積を再現良く算出した。分子体積は、量子化学計算法と原子団寄与法の2種類の手法を用いて求め、両者には物理的な概念の差があることを示唆した。自由体積は純物質の粘弾性の実験値、及び分子体積を用いて求めることができるが、前述の2種の分子体積により2種類の自由体積が導出される。一方は従来の自由体積であり、その応用が原子団寄与法の適用範囲に限定されるのに対し、本研究では量子計算の分子体積を用いて、本モデルの予測精度を損なうことなく、様々な原子を含む分子や立体的な構造を含む分子など工学的に重要な複雑な分子に対しても適用可能な新しい自由体積の提案を行った。実際の予測計算を支援するために、様々な拡散分子・高分子に対する3種類のパラメータを表として示した。

第5章では、第3章で構築した予測式及び第4章で提案したパラメータシステムを用いて、実際の高分子系中の分子拡散性を予測し、本予測モデルの有効性に関する議論を行った。この結果、高分子を含む2成分系・多成分系中の双方において、気体分子から溶媒・溶質・オリゴマーまで、形状に関しても球形分子から扁平分子・鎖状分子に至るまでの多岐に渡る拡散分子の拡散性を本モデルによって予測できることを示した。本予測結果の妥当性から、高分子系中においても分子衝突・ランダムウォークにより分子の拡散が生じていることを強く示唆した。また本モデルの予測性能の限界についての考察を行い、自由体積理論自体が適用できない不均一な系や水素結合・ゲルネットワークなど分子衝突・ランダムウォーク以外の因子により拡散が阻害される系への適用は不可能であることを示した。そして本モデルと従来モデルのsensitive analysisから本モデルのパラメータ不確定性に対するロバストネスを示した。

第6章では、第2章から第5章の内容を総括すると同時に、高分子系中の分子拡散性予測を可能とするもう一つの手法、分子シミュレーションをレビューし、計算コスト・精度等の観点から、これに対する本研究のモデルの立場を明らかにした。また粘度やガラス転移挙動などの他の移動物性への適用、ランダムウォーク凍結効果や篩効果など他のミクロな描像を加えることによる、水素結合形成高分子系やゲルネットワーク系中における分子拡散性予測への適用など、ミクロな概念に基づく本モデルの、工学に対する更なる可能性を示唆した。

以上纏めると、本論文においてはミクロな分子衝突・ランダムウォークの概念から分子拡散現象を捉えることで、化学工学物性として重要な高分子中の種々の分子拡散性をfitting parameterを用いずに純物質物性のみを用いて予測する手段を初めて提供した。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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