学位論文要旨



No 124214
著者(漢字) 古谷,豊
著者(英字)
著者(カナ) フルヤ,ユタカ
標題(和) ジェイムズ・ステュアートの貨幣・信用論
標題(洋)
報告番号 124214
報告番号 甲24214
学位授与日 2008.11.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第237号
研究科 経済学研究科
専攻 経済理論専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小幡,道昭
 東京大学 教授 柴田,徳太郎
 東京大学 教授 丸山,真人
 東京大学 教授 小野塚,知二
 上武大学 教授 奥山,忠信
内容要旨 要旨を表示する

本稿はジェイムズ・ステュアート(1713-1780)の貨幣・信用論を原理的・体系的観点から究明し、重商主義の一つの理論的到達点としてその再評価を試みたものである。現在ステュアートの経済理論は「最初の貨幣的経済学」という位置づけがなされつつある。古典派が経済を実物的観点に軸を置いて理論化したとするならば、ステュアートは古典派以前の重商主義の学説を集大成して古典派とは異なる側面(貨幣的側面)を中軸にして理論化したと捉えるのである。本稿ではこの近年のステュアート研究の成果を批判的に検討する形で、ステュアートの貨幣・信用論が備える整然とした理論的体系性を浮上させその総体的な意義を明らかにしようとした。

ステュアートの理論を貨幣的経済理論として成立させている核となる、その貨幣・信用論はどのような全体像となっているのか。このことを近年のステュアート研究の成果から抽出しようとした場合、そこには二つの課題が残されていることが見えてくるように思われた。一つは貨幣・信用論には高い評価がなされる一方貨幣本質論には極めて否定的な評価となっている点であり、二つは信用論を私的信用の原理に過渡に依拠して解釈する点である。

第1章「ステュアートの貨幣本質論」では一つめの課題をとりあげて、その理由をステュアートの貨幣本質論(計算貨幣論)に対する従来の解釈にあるのではないかと論じた。ステュアートは「貨幣を扱う場合にまずもってなすべきことは、混同されて主題の全体をはなはだ不明瞭たらしめている二つの概念(「貨幣」と「鋳貨」)を、分離することである」と述べて、鋳貨概念から切り離して貨幣(計算貨幣)概念を提起している。

ステュアートのこの貨幣(計算貨幣)概念とは、個々の多様な貨幣の現象形態を前にしてそもそも「貨幣とは何か」と問うたところのもので、「価値を測定する不変の度量標準である」というものである。そして、一般に貨幣と混同されているとされるところの鋳貨は、貨幣(計算貨幣)の金銀による適用形態の一つ、実体化の一つのあり方なのであった。それゆえその適用方法・実体化のしかた如何によって、貨幣(計算貨幣)としての論理性が大きく損なわれたものにもなり得るし逆にその論理性が高く貫かれたものにもなり得るのである。ここでの一番のポイントは、貨幣とは度量標準でありそれは本質的に不変でなければならないのに対して、鋳貨は本質的に変動にさらされるものでありその原理が根本的に異なるのだということである。さらに第二のポイントは、鋳貨は貨幣の一つの実体化形態にすぎず、貨幣=鋳貨なのではない(貨幣は鋳貨だけで捉えられるべきものではない)ということである。

このように貨幣を、貨幣の本質とその実体化形態という立体性において捉えることでステュアートは貨幣的諸問題を論理的に解き明かしているのであった。そして重要なことはステュアートにおいてはこのように「鋳貨」や「銀行券」、「銀行貨幣」さらに「為替手形」にしても、これらはそれぞれに貨幣(計算貨幣)の適用化・実体化の一つのあり方だという点である。こうしてステュアートのこの広い意味での貨幣論は、鋳貨も信用による貨幣も共に一般性においては等しく貨幣としての共通性を持ち、他方でそのそれぞれの適用方法・実体化の方法の特殊性に応じて特殊の論理をもつという立体性において統一される形になっているのである。この観点から捉えるとステュアートの貨幣・信用論は、同時にこの広い意味での貨幣論としても構成されていることが明らかとなる。

第2章ではステュアートが信用論全体の基礎であるとする利子論について検討する。近年、ステュアートの利子論は流動性選好論であるという解釈が広く定着しつつあった。本章ではそれに対して、これは私的信用の原理に基づく利子の議論を過渡に一般化するものであり、その他の原理に基づく利子には該当しない解釈であると述べる。ステュアートは信用を私的信用、商業的信用、公信用の三部門に分け、この三部門構成にしたがって信用論を展開している。ステュアート利子論の原理的把握としてはこの論理構成に則してどのように利子が信用全体の基礎とされているのかと明らかにされなければならない。さらに重要なことは、ステュアートの利子論を三部門構成に則して体系的に捉える際、その三部門のなかでも商業的信用の原理に基づく利子が、論理的重要性において最も高いものとされているという点である。

第3章ではステュアートの銀行論を扱う。ステュアートの銀行論についての研究では従来、私的信用の原理に基づく銀行を主体に論じられてきた。銀行は私的信用に基づいて銀行券を発行すべきであり、商業的信用に基づいた発券はしてはならない-これがステュアートの銀行論の主張である、というのがこれまでの研究の解釈であった。しかしこれは端的には、銀行は富者への土地担保融資で発券すべきで、手形割引は危険なのですべきではない、ということである。それゆえこの解釈をもとにステュアート信用論の後進性ないし限界として論じられることもあった。本章では、従来商業的信用による銀行は危険であり「例外的」「間奏的」と消極的に位置づけられてきたことに対して、ステュアートはこれを回避すべきものというよりはむしろ不可欠のものとして位置づけていたのではないかと主張する。このように読むことによって、ステュアートの銀行論はある特定の与信方式を最善とする静態的な理論なのではなくて、社会のなかで信用が発展していくのに伴って銀行の与信方式そのものも順次拡張していくべきものとして説いていることが見えてくる。ステュアートの銀行論はこの独創的な動態的銀行論となっている点にこそその意義が認められるべきなのである。

第4章「ステュアートの為替論」では、ステュアートの為替水準を平価に維持する提案をどう理解するかという論点から、彼の為替論に切り込む。この政策については今日、これは国際収支が黒字の時期、自国通貨が高くなってしまったことを是正するための臨時的な応急措置であると解釈されている。このような解釈の背後には、「経済的自由主義者ステュアート」という新しいステュアート像がある。すなわち為替も原則的には市場(手形市場)で決定され、為政者はあくまで臨時的・応急的にこの市場の補完作用をなすにすぎないという解釈である。本章ではそれに対してこの為替政策は国際収支の黒字期・赤時期を問わず常に採られるべきものだというのがステュアートの主張であるとする。自国通貨高に対する応急処置と捉えるのは、ステュアートの用語の誤解に基づいた解釈であることを示し、ステュアートは為替水準の変動が交易一般に害であるという認識に立って、為替手形が常に平価で流通するよう為政者のかなり強い管理を主張していることを明らかにする。ここで肝心なことは、このように捉えることで初めて、このステュアートの為替政策が、紙幣政策、鋳貨政策とともにステュアートの流通政策の三部門を構成していることが見えてくることである。為替論でのステュアートの主張は、為替手形という、対外流通及び商業流通の重要貨幣を本質的な意味での貨幣=計算貨幣に則して価値の安定した貨幣として流通させようということに他ならない。

第2章から第4章は主題は異なるもののその結論は同じ方向を指し示しており、ステュアートの信用論は私的信用の原理に過渡に依拠して捉えられるべきではなく、これはステュアートの計算貨幣論を踏まえて適切な信用貨幣の供給という課題を含みながら商業激震用を重要な契機として展開されているのだった。

第5章「ステュアート貨幣・信用論の構造」ではこれまでの議論を踏まえてステュアートの貨幣・信用論を、広義の貨幣論という観点からその理論的体系性を描く。ステュアートは貨幣概念を鋳貨概念から切り離して一段抽象度の高い概念として定立することによって、貨幣本質論-各種形態論(実物貨幣、各種信用貨幣)という立体的な論理構造を有することになったのであり、それが各種貨幣による流通を総体として捉える理論的枠組みを与えたのである。さらに重要なことは、この広義の貨幣論の論理構造はステュアートの経済理論全体の議論とパラレルになっており、貨幣的流通の歴史的な拡大を説明する歴史的・動態的なものとなっていることである。ステュアートの経済理論にあっては経済の発展とそれに見合った貨幣の適切な供給とは密接に結びついた問題であり、そこで伸縮の主要な役割を担うのが各種信用貨幣である。利子論・銀行論・為替論のいずれも、経済が発展し流通部面が分化していくなかで、それぞれの流通部面に則した貨幣が伸縮的に供給されるという全体的流れの論理となっているのである。

審査要旨 要旨を表示する

1 概要

本論文は、「最後の重商主義者」とよばれてきたジェイムズ・ステュアート(1713-1780) の貨幣・信用論を、原理的に再検討し、そこに隠された独自の体系的な理論構造を発掘し、経済学史研究における従来のステュアート像の拡張ないし変更を試みるものである。全体は目次、本論、初出一覧、参考文献の合計112 頁(1 頁あたり36 × 33 字)からなり、本論は序章を含め6つの章で構成されている。その概要は以下のとおりである。

「序章」ではアダム・スミスの『国富論』に先行する経済学体系の創生という観点から、ステュアートの『経済学原理』の研究が急速に進んでいることが紹介されている。そのなかで、近年とくにその後半体系をなす第3・4 編の貨幣・信用論に関心が集まっている点が指摘される。ステュアートの体系は、古典派経済学とは異なる「最初の貨幣的経済学」とされ、独自の学説史上の源流として見直されている。しかし、このような近年の再評価においても、(1)貨幣論と信用論の体系的連関が見失われたままであり、(2)信用論も「私的信用」に過度の偏った理解となっている点で、重大な欠陥を抱えている。このように問題を提起した後、この「序章」では論文全体がこの基本問題にどのように答えてゆくか、概要が示されている。

第1 章「ステュアートの貨幣本質論」では、まず内外の研究をサーベイし、ステュアートの貨幣・信用論への高い評価にもかかわらず、計算貨幣に対する評価は一般になぜか低い、これはいささか不可解な現象であるという。そして、このようなちぐはぐな評価の背景には、ステュアートの貨幣本質論として計算貨幣論と、鋳貨論との関係が正確に理解されていないためではないかという。この関係を明確にするために、まず、第3 編「貨幣と鋳貨について」のテキストに対する解釈を通じて、その眼目は、実在する鋳貨から、貨幣=計算貨幣というideal な尺度を区別することにあったことが示される。従来の評価は、計算貨幣と実際の鋳貨の次元差を充分意識せず、計算貨幣の意義を見落としてきたという。このような観点から、ステュアート「計算貨幣」論に関する代表的な研究である、竹本洋氏の見解を丹念に批判している。竹本説はステュアートのあげる計算貨幣の具体例、すなわち、アムステルダム銀行のグルテン・バンコ、ブリテンでの計算貨幣案、外国為替を検証し、計算貨幣といわれている内容が一貫しておらず、説明が不完全であり、概念として未成熟であるという評価を下している。これに対して、本論文筆者は、これらの「実例」を独自に検討し、それを通じて、それらは、現実の鋳貨や信用貨幣が、計算貨幣という貨幣の理念に照らしてみると、いずれも不適格な面を抱えていおり、その限界を可能な限り除去すべく対処すべしと主張する趣旨において一貫しているという。このようなかたちで、まず貨幣本質論として計算貨幣を掲げて、鋳貨のみならず、その「貨幣=計算貨幣の実体化ないし適用形態」として、紙幣や銀行預金、その他の具体的存在を体系的に捉えるところに、ステュアート計算貨幣論の本義をみるべきだという。計算貨幣はそれのみ独立させて評価したのでは、ステュアート貨幣・信用論の体系性は認識できなくなるというのである。

第2 章「ステュアートの利子論」では、新たなステュアート解釈として近年論議をよんでいる、流動性選好論の先駆という評価が検討される。本論文筆者は、このような評価の一面性を批判し、これに対して、ステュアート利子論の全貌を独自に明らかにしようとする。このため、まず、この新解釈を提示した奥田聡氏の所説を詳細に検討してゆく。

奥田説の基本は、ステュアートの利子論が、利子(より一般的には収益)を貨幣(=流動性)に対する対価と規定したものだという解釈にある。たしかに、『経済学原理』の第4 編第7 章では、地主が土地を担保に借りている場合、土地自身と銀行券とは等価であるが、土地は貨幣のように流通しないのに対して、銀行券は貨幣として流通する。利子はこの便宜に対する対価である、と述べられている。奥田説はこのような記述によっているのであるが、しかし、丹念にこの周辺を読めば、(1)ステュアートがここで述べているのは、担保が充分にある場合には、本来なら利子を支払う必要はない、それなのに実際に支払われているとすれば、それは特殊な事情によるのだ、という消極的な説明である。また、(2)土地を担保に入れる地主以外の借り手のケースに関しては、この説明は当たらないのであり、担保を入れずに借りる商業的信用や公信用を度外視して、ステュアート利子論の本質を捉えることはできない。この(2)のような解釈は、利子論を私的信用、商業的信用、公信用の全体に基礎を与えるという、本論文の基本的なステュアート理解に基づいている。このようにみてくるならば、私的信用に限定して、利子=流動性選好論の先駆とする新解釈は、二重の誤りを犯しているというのである。

この点をふまえて、あらためてステュアートの議論全体を振り返ってみると、利子論がステュアート信用論を体系化するための重要な指標となっていることがわかる。すなわち、担保と引き替えに信用を受けて元本と利子を返す「私的信用」、担保なしに信用を受けて元本と利子を返す「商業的信用」、担保はないが基金があり、利子は払うが元本の返済は借り手の判断にゆだねられる「公信用」、これら三つのブランチを区別し関連づける契機に、利子は位置づけられているのである。

ステュアートは、「貨幣の価格the price of money(これはわれわれが利子という言葉the term interest で表しているものである)」という表現を使っている。この「価格」とは何に対する対価なのか、本論文はさらに、この点を追求してゆく。そして「貨幣の価格」というのは、貨幣の「何か」の価格という表現の短縮であり、この価格が利子である、とステュアートは述べているのだという結論にたどりつく。この「何か」に、私的信用の場合には、貨幣の便宜的な使用、すなわち流動性という内容が入るにすぎないのだ、という。この貨幣の「何か」の価格の「何か」には、商業信用の場合なら「自分の所有していない価値を、期間的に使用すること」が入るし、公信用の場合なら「貨幣の使用の期間的繰り上げ」といった内容が入る、というわけである。

一般化していえば、利子とは"貨幣の使用に対する対価である"ということになるというのである。利子率も、このような重層的関係のなかできまるのであり、地主から貨幣階級に一方的に支払われるのだけではない。経済の発達にともなって、貨幣階級と商工階級の間に「両面的競争」が展開されるようになれば、両階級に妥当な利潤をもたらす価格=利子率で、社会的資源の活用が進むようになるというのがステュアートの利子論の全体像であると結論づけている。

第3 章「ステュアートの銀行論」では、通説的な「信用=私的信用説」が批判され、私的信用・商業的信用・公信用という本論文筆者独自の「信用=三原理発展説」が提示される。これまでステュアートの銀行論に関しては、彼が商業的信用は危険であり回避すべきものと捉え、私的信用のほうを重視している、という解釈が通説的であった。真正な手形の割引を重視したスミスの銀行論に比して、土地銀行論にとどまっているところに、ステュアート信用論の重商主義的後進性が現れていると考えられてきたのである。

しかし、ステュアートの信用論は、私的信用をスコットランドの銀行に、商業的信用をイングランド銀行に、そして公信用をフランス王立銀行に代表させて、それぞれの特性を論じたのち、これらを「流通の銀行」と総括し、これをアムステルダム銀行に代表される「預金の銀行」と対比するという構成になっている。通説は「私的信用」のみにステュアートの銀行論を絞って捉えるが、それではこのようなステュアートの体系的な銀行論の意義を理解することはできない。さらに、通説がよりどころとした第5 章のタイトル「流通の銀行は商業的信用ではなく私的信用に基づいて紙券を発行すべきである」もよく読むと、この「流通の銀行」と訳されている部分が、実はSuch Banks となっていることに気づく。このSuch の意味は、前後から判断して「私的信用に基づく流通の銀行」と解釈すべきであり、したがって、「私的信用に基づく流通の銀行」はそれに応じた規則に従って行動すべきあるという趣旨となる。いかえれば、流通の銀行全般について、私的信用に基づいて貸し出しをすべきだといっていると解すべきではないという。

このようにステュアートの銀行論を理解するならば、その本来の主張は、信用の三原理を社会における信用の発展という歴史的な筋で独自に体系化したものと再解釈できる。交易と勤労が揺籃期にある段階では、まず私的信用を基礎にして紙券を発行することからはじめ、やがて商業的信用を加え、さらに公信用を取り込むというように段階的に拡張する必要があるというのが、全体を貫くステュアートの主張なのである。通説の依拠する私的信用に限るべきだというのは、この揺籃期に関する限定された主張にすぎないというわけである。そして、この「信用=三原理発展説」という解釈は、『経済学原理』の第2 編で、交易と勤労の揺籃期から、壮年期、老年期へと過程的・歴史的に経済像を捉えてきたことに符合する。ステュアートは、完成した商業社会を想定して、本来の与信形態は何によるべきか、を問うような静態的なアプローチはとっていない。経済社会の発展のなかで、この何によっての「何」も適正に構成されるべきであると論じるステュアートのユニークさに注目すべきだというのである。

第4 章「ステュアートの為替論」では、為替の変動に対する為政者の役割が検討されている。ステュアートは、為政者は為替が平価になるようにすべきであると提言している。このようなステュアートの提案は、近年注目されている新解釈によれば、国際収支が過度に黒字であるような場合における、臨時的応急処置の必要を説いたものとされる。言い換えれば、その点では、ステュアートも経済統制論者ではなく、基本的にはスミスと同じ経済的自由主義の立場に立脚しているというのである。

このような解釈にたつ代表的なステュアート為替論評価として、竹本洋氏の次のような主張が検討される。「国際収支が黒字の時に輸入商や製造業者に与える悪い影響を回避するために、国家は為替を平価に維持すべきであるが、その政策は同時に為替業を壊滅させるから、あくまで黒字期間中の一時的処置とされるべきである」という評価である。これに対して、論文筆者は、為替業に対するステュアートの論評を再検討し、ステュアートは、この「壊滅」自体を決して否定的に捉えていたのではないことを明らかにする。

本論文筆者は、こうした誤った解釈を生んだ背景には、一つには、こうした解釈をする論者の側の「経済的自由主義者ステュアート」という先入観もあるが、そればかりではないという。ステュアートのテキストの読み方にそもそも問題があるというのである。すなわち、「為替の価格」・「高い為替」といったステュアートの表現を、やや不用意に、現代的な意味で、黒字期の自国通貨高の意味でそのまま解釈していることによるのではないかというのである。「為替の価格」「高い為替」の意味をステュアートの文脈に即して正確に解釈するならば、〈為替レート= 為替の価格〉ではなく、〈為替レート= 平価± 為替の価格〉になるという。

このように解釈するならば、「高い為替」の意味も、赤字・黒字を問わず、要するに、平価からの乖離が大きい事態を指すことになる。つまり、ステュアートは、為政者は常に為替を平価に近づけるように努めるべきであるという政策を主張しているのである。為替に関して、基本的には市場に任せ、異常事態においてのみ介入すべし、と主張しているのではないと本論文筆者は主張する。ステュアートの為替平価維持政策は、近年の通説が主張するように臨時策ではなく、やはり、黒字期・赤字期を問わず正規策として提示されている。その意味は、安定的な価値をもつ対外的な貨幣を必要に応じて供給すべきあるという、広義の貨幣論一般の主張に沿ったものである。

とすれば、為替論も第3・4 編を通じて、ステュアートが「為政者にとっては、貨幣学説を完全に把握することはきわめて重要であり、また一国の貨幣を安定かつ不変に保つことは、交易と信用にとってことのほか大事なのである」という主張を一貫して維持していたことがわかる。この文の「貨幣」は、鋳貨のみならず、紙券、そして手形(為替)が代入可能な一般性をもっている、というのである。

第5 章「ステュアート貨幣論の背景」では、前章末で示唆されたステュアートの「広義の貨幣」論の構造が明示化され、ステュアート『原理論』体系全体との関連、さらには背後に潜む経済社会像について考察されている。本論文筆者は「ステュアート貨幣論の背景」にあるのは、なによりも、独自の歴史的な経済発展論である、という。一般に貨幣の導入によって物々交換を脱すると、商人による交易経済は、初期商業、対外貿易、国内商業という段階をへて成熟してゆく。自国に商工業を根付かせるためは、これに対応して、適正なかたちで必要な量の貨幣をしかるべき部門に供給しなくてはならない。しかし、こうしたことは自動的に進むことではなく、多くの困難をともなう。そのため、為政者が流通の性質について十分な知識を身につけ、適切な働きかけをしなくてならない、というのがステュアートの貨幣論の基底を流れる思想である、というのである。

このような理解にたつと、「ステュアート貨幣論の構造」が重要な意味をもつ。この全体像との関連を抜きに、特定の部分領域をとりだして、貨幣数量説批判や流通必要量、有効需要や流動性選好、為替調整などに関して、その現代的意義を捉えようとする学説史研究の最近の傾向には根本的な難点がある、という。その限界は、『原理論』の第4 編に評価が偏り、第3 編が軽視される点に端的に現れている。ステュアートの貨幣論体系の要にあるのは、第3 編における〈貨幣=計算貨幣〉説であり、この広義の貨幣概念のもとに、その現実形態としての鋳貨や紙券、手形といった各種信用貨幣が体系的に位置づけられているのである。

このような「ステュアート貨幣論の意義」は、まず『原理論』総体の理解を一貫したものとして捉えることを可能ならしめることに見いだされる。第1 編で論じられた揺籃期の社会は、第2 編にかけて人口の増加が農業の剰余をうみ、次第に商工業が発展してゆく。このような発展段階論的認識を、ステュアートは『原理論』の前半体系で展開している。第3,4 編の貨幣・信用論は、全体として、このような一連の進歩に関わる貨幣的流通の増大を、ステュアートは貨幣本質論から実物貨幣・信用貨幣の構造レベルの論理へ、さらにそれを実体化した各種形態レベルの論理へと立体化するものであった。経済社会が歴史的に変化するなかで、貨幣はその態様を変化させる。この点で、ステュアートの貨幣論に隠された体系性を発掘する作業は、今日の貨幣現象を理解するうえで、新たな洞察を与えるというのである。

2 評価

以上のような内容を有する本論文の積極的意義を述べれば、つぎのようになる。

第1 に、ステュアート『経済学原理』第3,4 編を密接に関連した総体として捉え、ステュアートの貨幣・信用論に隠された体系的性格を明示した点があげられる。このため、これまでちぐはぐな評価を受けてきた第3 編と第4 編との関係を全面的に見直し、ステュアートの計算貨幣が体系の要として重要な地位を占めることを明らかにした意義は大きい。とりわけ、「計算貨幣」を実在の貨幣として見なしたために、ステュアートの「計算貨幣」論を不完全で未成熟な理論と捉えてしまう通説が内在的に批判され、これに自説を明確に対置されている点は、学術論文として説得力をもつ。すなわち、本論文筆者によれば、ステュアートの「計算貨幣」は、観念的=理念的な価値尺度として〈貨幣=計算貨幣〉であり、実在の貨幣の上位概念をなす。鋳貨、紙幣、銀行券といった、さまざまな実在の貨幣は、この「計算貨幣」に対して、それぞれに独自の不適格さをもつことが明らかになる。ステュアートの貨幣論は、このような構造で、さまざまな実在の貨幣の限界を「実例」として示し、その対処法を実体経済の発展に即して解明するかたちになっているというのである。しかし、このような体系性は、第3 編と第4 編が分離しており、しかも、第4 編が直接には利子論を基礎としているために、『原理論』の篇別構成からは捉えにくいかたちになっている。この隠された全体像を、ステュアートのテキストを徹底的に読み込むことで掘り起こした能力は高く評価されなくてはならない。

第2 に、『経済学原理』全体のモティーフのなかで貨幣・信用論のもつ意味が明確にされている点である。経済社会を歴史的に発展する対象として捉え、そのなかで十分な知識をもった為政者が適切に舵を切るという必要があるというステュアートの全体を貫く主張のうちに、広義の貨幣が、鋳貨から各種の信用貨幣を取り込むかたちで供給されてゆく必要性をステュアートは一貫して説いていたというのである。経済発展に沿った段階的な調整を可能にするために、貨幣・信用論の体系化が必要となった点、そしてそれが、貨幣本質論=計算貨幣論を基礎にして、鋳貨政策、紙幣政策、為替政策を統合されていった点、がきわめて説得的に展開されている。

第3 に、ステュアート貨幣・信用論の計算貨幣論、利子論、銀行論、為替論などの個別の領域に関しても、独創的な見解を築き上げている。その内容については、上記概要に摘記した通りであるが、計算貨幣に関しては、「貨幣=鋳貨」観の誤りを明確にし、ステュアートの貨幣本質論としての位置を明確に読み解いた点、利子論に関しては、「貨幣の価格」という意味を究明することで、それが単なる流動性に対するプレミアムといった意味ではなく、「貨幣の使用」に対する価格を含意し、私的信用、商業的信用、公信用を包含する利子概念として解釈すべき点を明確にした点、銀行論に関しては、静態的銀行論に捕らわれた従来のステュアート銀行論=土地担保融資発券重視説に対して、経済社会の発展に応じて銀行の与信形態を適切に誘導する必要を説く動態的銀行論として特徴づけた点、為替論に関しては、ステュアートが為替管理を臨時的・一時的な処置としてのみ許していたという解釈を批判し、為替手形を平価に近づけ安定させるように為政者が慎重に絶えず管理すべきでるという解釈を提示した点、これらはいずれも、単にステュアート『原理論』の解釈というだけにとどまらず、経済理論として独自の意義を認めることのできるものである。

第4 に、テキストを厳密に解釈する力量は高く評価したい。これは一般論としては、学説史研究における当然の基礎であり、もっとも正統な手法であるが、これによって、通説を覆すオリジナルな解釈にたどりつくことは容易でない。本論文筆者は、ステュアート貨幣・信用論の計算貨幣論、利子論、銀行論、為替論などに関して、現在支配的な位置にある諸説を紹介し、それを丁寧に検討することで内包された問題点を批判し、そのうえで替わるべき独自の新しい解釈が示されている。しかもそれらは、バラバラな解釈ではなく、上記のように、より大きなステュアートの経済学体系のうちに統合され、整合性をもつという主張につながっている。このような部分と全体を見通したうえでの緻密な洞察力を、本論文の節々に窺うことができた。

しかし、本論文には、疑問とすべき論点、さらに究明さるべき未解決の問題も残されている。

第1 に、本論文の内的な展開に関して。ステュアートの貨幣・信用論内部の解明にとどまらず、『経済学原理』の前半体系との関係が示されている点は、本論文の重要な貢献である。ただ、その前半体系における経済発展の段階規定、そこにおける為政者による統御の意義、「重商主義」とよばれてきた政策体系などについて、本論文は独自の解釈を想定しているが、その論拠を示してはいない。この点は、今後の課題とすべきかもしれないが、後半体系から逆に前半体系を特定の方向で読み込み、「斯くあるはず」と推定してる可能性も残る。本論文の範囲でも、もう少し、前半体系の要所に関して、テキストに沿った言及が欲しいところである。

第2 に、本論文の外的な展開に関して。本論文は、ステュアート『経済学原理』のテキストに内在し、厳密な解釈に基づくそこに隠された貨幣・信用の体系性を発掘することに集中している。これは学説史研究の基本ではあるが、ただ、同時にこのようなステュアートの主張が、どのような歴史的背景をもち、また、当時のどのような状況に対処すべく考えられたのか、といった点に関して、本研究論文はかなり禁欲的である。もちろん、こうした時代状況や歴史的背景に、ステュアートの経済学体系が解消されるものではない。テキストに沿って、正確に内的展開を捉えることなく、受動的に時代状況を反映したものとして、個々の経済学者の学説を位置づけるような還元主義的手法は厳に戒められるべきである。ただ、そのことと、テキストから読み出されたメッセージを、あらためて歴史的に位置づけ評価するということは、別のことである。本論文が、とくに、ステュアート自身の歴史的動態論を重視するものである点を鑑みるに、なおのこと、後者のような意味での歴史的意味づけが求められる。

第3 に、今日におけるステュアートに関する研究状況との関連について。本論文は、計算貨幣論、利子論、銀行信用論、為替論に関して、それぞれ、斬新な解釈を提示し、今日次第に支配的な影響力をもっている研究成果を強く意識し、さらにそれを内在的に批判し、自説を対置するというかたちになっている。先端のその先に進もうという意欲はよくわかるが、ステュアート研究全体の流れについての論及が乏しい。さらに、ステュアートと同時代の経済学者たちに関する学説史研究とのつながりなども考える必要があろう。

以上のような問題は残されているが、本論文は博士(経済学)の学位を授与するに足る研究成果であると結論に審査員会一同一致した。

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