学位論文要旨



No 124215
著者(漢字) 峰,毅
著者(英字)
著者(カナ) ミネ,タケシ
標題(和) 中華人民共和国に継承された満洲化学工業
標題(洋)
報告番号 124215
報告番号 甲24215
学位授与日 2008.11.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第238号
研究科 経済学研究科
専攻 現代経済専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田嶋,俊雄
 東京大学 教授 工藤,章
 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 教授 末廣,昭
 東京大学 教授 岡崎,哲二
内容要旨 要旨を表示する

1.本論文の目的:本論文は,満洲化学工業は人民共和国に継承された,という仮説の検証を目的とする。最初に仮説設定の背景を述べ仮説検証の方法及び全体構成を論じた。次いで,満洲産業の構造を鳥瞰して満洲経済が重化学工業に偏っている状況を指摘し,この満洲経済の重化学工業化を早くから評価したのがアメリカの中国研究であることをのべた。そして化学工業の特徴を考察しつつ中国化学工業に関する先行研究を整理し,当初は薄かった中国化学工業の研究蓄積が近年深まっている状況を考察し,その中で満洲化学工業に関する研究蓄積の状況を整理した。(序章)

2.満洲化学工業の特徴分析:具体的な分析手法としては,化学工業は一国経済に中間原料を供給するので,最初に満洲産業開発全体の動きの中で個別産業の動向を考察し,その中で化学工業を位置付けた。満洲に進出した化学企業の社史を中心にし,それを業界資料・満鉄関連資料・留用者記録で補い,満洲化学工業の実体を整理した。次に満洲化学工業の生産規模を推計し,民国・日本と比較した。化学工業は製品数が多く把握しにくい業界であるが,当時の経済の発展段階及び民国・満洲国・日本の化学工業の特徴を考慮して,酸・アルカリ工業及びアンモニア工業で当時の化学工業を代表させた。酸は硫酸で,アルカリはソーダ灰で,アンモニア工業はアンモニアそのもので代表させ,それぞれ生産丑を推計した。次ぎに,満洲化学工業が満洲経済の構造をどう反映しているかをみるために,民国・満洲国・日本の経済規模との比較をした。満洲化学工業は当然に民国型ではなく日本型であって,満洲経済は日本以上に化学工業のウェイトが高いことを分析結果は示しており,満洲が日本経済の重化学工業化の尖兵であったことを暗示した。(第1章)

3.日系化学企業の活動による検証:日系化学企業の投資活動は満洲国成立後に本格化した。内地の化学業界の反対で実現せずにいた肥料計画とソーダ計画は満洲国成立後間もなく実行されて,満洲化学と満洲曹達として生産活動を開始した。生産開始した後の満洲化学と満洲曹達は内地業界と融合して事業基盤を固め,太平洋戦争が始まると爆薬工場に変身して関東軍の軍事活動を支えた。満洲経済は第1次5ヶ年計画により重化学工業化が進展し,第1次5ヵ年計画に続く第2次5ヵ年計画は事実上実施されなかった計画とはいうものの,満洲化学工業に大きな影響を与えた。満洲電気化学や安東軽金属等の電力多消費型の工場が第2次5ヶ年計画の下で建設に入った。しかしこのような満洲進出は時々の軍事・政治情勢の影響を受け,また,日系化学企業の進出が本格化したのは満洲国後半期と既に遅く,大半の工場は設備完工後間もなく或いは未完成のまま終戦を迎えた。5ヶ所で建設された人造石油工場もわずかな実績を残したのみで終戦を迎えた。(第2章)

4.国共内戦期:満洲において短期間に開発育成された化学工業は,日本政府のみならず中国政府やアメリカ政府により客観的に認識されていた。日本敗戦後に東北に進攻したソ連軍は満洲の産業設備を戦利品とみて接収・撤去し自国に持ちかえったが,殆どの化学工場はその被害を受けた。ソ連軍撤退後は国共内戦が激化し,1946年春から約1年間は松花江を境にして北は共産党,南は国民党が支配するという「相対的安定期」が生れたが,この「相対的安定期」においては,満洲化学工業は大連を除いて国民党により接収され,国民政府により復旧計画が組まれた。しかし錦西に満洲曹達開原工場の電解設備が移設されたことを除くと,特記すべき実績はなかった。1947年夏からは再び内戦が激化し,1948年に共産党の優位が確定すると,共産党は直ちに復旧作業に入り,吉林では満洲電気化学の小規模カーバイド工場が生産再開した。共産党が内戦で手中にした東北はそれまでの共産党が拠点であった農村地帯とは異なって近代的な大工場が存在し,さらに鉄道網が発達しているという経済的な特徴を持っていた。そのために人民共和国が成立すると,共産党による新政府は国家資源を東北に集中して国家経済建設を図ることになった。(第3章)

5.復興期から第1次5ヶ年計画へ:民国期の化学工業は,天津・南京を拠点とした范旭東や上海を拠点にした呉蘊初のような民族資本家の活躍により,かなりの技術水準に達していた。日中戦争が始まると范旭東も呉蘊初も国民党と共に四川省に移り,内陸部の化学生産発展に貢献した。人民共和国が成立すると,民国と満洲国の産業を手中にした新政府は満洲国が前身であった東北の産業地帯を最重点地域として復興計画に取組み,大連の肥料やソーダ工場を始め錦西・錦州・瀋陽の化学工場が短期間で戦前の生産を回復した。またエネルギー関連では,大慶油田発見前の中国大陸は石油資源に恵まれていなかったため,復興計画では撫順のオイルシェールが最優先で実施された。満洲国時代の生産を回復したオイルシェールは全国石油需要の半分をまかなった。研究開発機関である大連の満鉄中央試験所と長春の大陸科学院は統合されて中国科学院応用化学研究所となり,人民共和国の研究開発に大きな役割を果たした。このような東北の生産復興や研究開発には数多くの日本人留用技術者が参加し協力した。新政府がソ連援助により推進した第1次5ヶ年計画では,早くから復旧・再構築に取組んだ吉林において,化学工業と関連の深い6つの項目が実施された。東北への重点投資は化学工業のみではなかった。第1次5ヶ年計画初期に実施された全50項目の約3/4が東北立地であった。第1次5ヶ年計画の進展と共に東北集中が是正され,最終的な東北のウェイトは約1/3に縮小された。第1次5ヶ年計画における東北のウェイトは大きかったが,化学関連の項目は吉林の他は撫順のみであり,復興期に投資が集中した大連・錦西・錦州・瀋陽には化学関連の重点項目はなかった。(第4章)

6.毛沢東時代:毛沢東時代の化学工業は地方分散と小型化を志向したが,それを代表するのが肥料工業である。化学行政当局の指導により各地に豊富な石炭を原料にした小型肥料工場モデルが開発され,小型肥料工場が全国の農村地帯に建設されて地方ごとに供給された。さらに,民国期において世界水準の技術レベルにあったソーダ工業でも,生産能力を拡大する技術革新は追及されず,工場を小型化して需要にあわせて地方に分散する政策が取られた。第1次5ヶ年計画のあと間もなくして有機合成化学が発展した。有機合成化学の発展要因は農業生産の低迷であった。軽工業原料の70%は農業に依存し,この軽工業向けの原料生産が中国農業にとって負担になっており,農業への負担を軽くするために有機合成化学が発展した。中国化学工業の分野構成の推移をみると,有機合成化学は常に肥料以上のシェアーを維持した最も重要な分野であった。有機合成化学の中心は合成繊維・合成樹脂・合成ゴムであるが,特に重要なものは合成繊維であった。それは綿花生産が中国農業に大きな負担を与えていたからであり,合繊により綿花生産を減少させる必要が有機合成化学の発展を推進した。しかしながら,毛沢東時代の有機合成化学は当時の世界の潮流であったエチレンを出発原料とする石油化学の技術開発には成功せず,技術的に容易なカーバイドからのアセチレン法により発展した。合成繊維ではビニロン,合成樹脂では塩ビ,合成ゴムではクロロプレンがカーバイド法で生産されて毛沢東時代の経済社会を支えた。このような有機合成化学を代表するビニロン・塩ビ・クロロプレンの技術開発には,満洲化学工業を前身とする東北の化学工業が貢献した。(第5章)

7.結論:本論文の目的は,仮説「満洲化学工業の人民共和国への継承」を検証することであった。本論文はそのために,第1部の第1章で満洲国に建設された化学工業の姿と特徴を分析し,第2章ではそれを満洲に進出した個別の日系化学企業の活動により検証し,あわせて第1部において満洲化学工業の実体を明らかにした。次いで,第2部においては,第3章で日本敗戦と国共内戦期の状況を考察し,第4章では東北における復興期と第1次5ヶ年計画の状況を検証し,第5章では自力更生策の下で形成された特異な産業構造を分析し,その中で,満洲化学工業とその後身である東北の化学工業が与えた影響を分析した。第1部と第2部の分析によって仮説「満洲化学工業の人民共和国への継承」は検証されたと考える。(終章)

8.満洲化学工業のその後と次の課題:本論文を終えるに際して,このような満洲化学工業は現在の中国化学工業において,なおその足跡を残していることを指摘した。東北経済は改革開放政策の下では波に乗れず,中国全体の経済成長の中で東北は遅れた地域になったが,それにもかかわらず満洲化学工業は現在でもなお形を変えて足跡を残して重要な意義を持っている。本論文で考察した人造石油・メタノール・アルミ・カーバイド法塩ビ等の満洲化学工業と東北の化学工業が始めた製品は,目下,中国のみならず世界の化学工業に大きな影響を与えている。この中から「煤制油」として特に脚光を浴びている人造石油を選んでその今目的な意義を論じた。最後に新しい仮説の設定をのべてその検証を次の課題とした。(終章)

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「満洲化学工業は人民共和国に継承された」を仮説とし、関東州を含む旧満洲で建設された化学工業の設備もしくは建設中であった設備がソ連軍に撤去された後に復旧され,中華人民共和国において継続的に運転された状況を検証することを課題とする。旧満洲および人民共和国期を通じて形成された化学工業は、もっぱら生産的機能を果たしたことから、ここでの分析の主たる対象は、人的資源および技術を含めた設備の継承関係に置かれる。

本論文は序論、本論(第1 部、第2 部)、結論からなる。

序論ではまず仮説が提示され、旧満洲の産業構造が鳥瞰されるとともに先行研究が整理され、これとの対比で中華民国期の中国における化学工業の展開が述べられる。本論は2部5章より構成され、第1 部では旧満洲に建設された化学工業の実態が解明される。第2部では日本敗戦から内戦期を経て、これらが人民共和国における経済建設の初期条件となった状況が分析される。結論では本論の検討結果が総括され、つぎなる課題が提示される。

まず本論文の内容を簡単に紹介する。

序章「分析の視角」では上記仮説が述べられるとともに、化学工業を中心とする旧満洲における産業開発の状況がマクロ的に示される。旧満洲から中華人民共和国への産業基盤の継承については鉄鋼産業の事例が知られるが、化学工業の場合は複雑で多岐にわたる産業の特性と資料面での制約のもと、先行研究では特定の業種か特定の時期の検討にとどまり、戦中・戦後および国共内戦期、さらに人民共和国にいたる発展過程を全面的に捉えるにはいたっていない。また満洲との比較で、中華民国期に主として民間主導で形成され、日中戦争期には新たに国民政府資源委員会の系統でも取り組まれた化学工業の状況について、とりわけソーダ産業や硫安、電気化学の分野に即して発展状況が紹介される。

第1 部「満洲化学工業の開発」では、まず第1 章「満洲化学工業の特徴」において、満洲国建国後の満洲産業開発第一次五カ年計画(1937~1942)および第二次五カ年計画(1942~)のもと、満洲における重化学工業化の状況が個別産業ごとに、化学工業については業種および品目ごとに示される。第一次五カ年計画は日中戦争の激化をうけて修正され、電源開発や航空機産業の振興政策と相まって、戦時下に電気化学やアルミ精錬などの取り組みが始まったことが紹介される。ついで第2 章「満洲に進出した日系化学企業の検証」では、当時または戦後に書かれた各社・親会社の社史に主として依拠しつつ、日系企業の進出状況が総括される。本論文の起点となる部分であることから、やや詳しくその内容を紹介する。

満洲における日系企業の化学事業展開、とりわけ硫安およびソーダの場合は、日本の国内市場をめぐる調整が難航し、関東軍の影響が強まった満洲国成立後に本格化した。1933年に満鉄系の満洲化学が大連に設立され、35 年には年産18 万トンの硫安プラント(合成アンモニアおよび硫酸プラントを含む)が完成している。ソーダについては1936 年に満洲曹達が準特殊会社として設立され、隣接する満洲化学よりアンモニア供給を受ける形で、1937 年にソーダ灰年産3 万6000 トンの設備が運転を始めている。満洲化学は日本の肥料消費者である全購連が株主に入り、満洲曹達の場合は日本国内での販売を旭硝子が担うなど、日本市場との関連が密であった。

満洲におけるアルミ精錬は、満鉄中央試験所で開発された礬土頁岩を利用した製法を工業化する形で、満鉄および満洲国政府の出資する特殊会社である満洲軽金属の設立を嚆矢とし(1936 年。翌年に満洲重工業に移管)、1938 年には年産4000 トンの撫順工場が生産を始めている。

1940 年になると、日満支経済建設要綱および化学工業製品に対する配給統制が実施され、さらに1941 年の戦時緊急経済方策要綱を契機として、満洲における化学工業の取り組みが強化された。例えば、硫酸、礬土頁岩、ゴム生産用のカーボンブラックとゴム充填剤、酢酸、カゼイン、グリセリンの増産、および爆薬原料となるベンゼンおよびトルエン、電極やアルミ生産に不可欠なピッチ・ピッチコークスの生産、ソーダ灰の対日向け輸出の増加など、行政措置がとられた。そして、1942 年の満洲国基本国策大綱では電気化学事業の推進が政策としていっそう明確にされた。

満洲電気化学株式会社は満洲における電源開発の進展を受け、豊満ダムにほど近い吉林市に有機合成化学の基地として電気化学、日本化成(現三菱化学)、大日本セルロイド(現ダイセル)の3 社によって1938 年に設立された。石灰とコークスを原料とし、電気炉で加熱しカーバイドを取り出し、酢酸、ブタノール、アセトン、石灰窒素、合成ゴム等を生産するもので、合成ゴムの原料であるクロロプレンについては、満洲電気化学とブリヂストンの合弁で設立された満洲合成ゴムが生産を担当することとなった。戦時下に建設された満洲電気化学は、小規模カーバイド工場の完成に続き、本格的な工場建設を目指したが遅々として進まず、日本の敗戦を迎え、進駐したソ連軍により工場設備の大部分は接収・撤去された。

そのほか戦時体制下に、人造石油工場が撫順、四平街、奉天、錦州、吉林の5 箇所で建設された。満鉄は水素添加法による石炭の直接液化を中央試験所で試み、撫順に工場を建設し、1941 年よりガソリンの生産を開始している。一方、満洲国政府は1938 年に四平街に満洲油化を設立し、1940 年には低温乾留法によるガソリンの生産を始めたものの、資金面で行き詰まり、陸軍に買収され陸軍四平燃料廠となった。また満洲国政府は神戸製鋼に出資を求め、水素添加法による人造石油工場を奉天に建設し、1944 年末から試運転に入った。さらに満洲国政府からの強い要請を受け、満鉄の協力の下で三井グループが1937 年に錦州で満洲合成燃料を設立し、ドイツより合成法(フィッシャー法)を導入し、1945年に工場は完成したが、資材・原料の不足から生産実績を出さぬまま日本の敗戦を迎えている。

第2章の最後では、満洲における化学工業の発展、とりわけソーダ工業、染料工業の展開を踏まえ、当時の学術誌や戦後の回想録、および戦争末期における塩素供給のバランスを吟味することにより、満洲における毒ガス生産の可能性を指摘している。

第2 部「人民共和国への継承」では、第3 章「日本敗戦と国共内戦期」において、留用日本人を活用して作成された旧日系資産についてのアメリカの報告書(Pauley Report)、同じく国民政府の側の産業調査資料、大蔵省による在外資産に関する調査資料、および人民共和国に引き継がれた留用日本人を対象とする調書などの史資料に依拠し、満洲国末期からソ連による設備撤収にいたる東北における化学工業の状況を、主として工業設備に即して再現する。化学工業の分野については約50%の設備がソ連によって撤去されたという。

1948 年春以降、共産党の支配は黒竜江省から吉林省を経て東北全域におよび、留用日本人を活用して、産業復興がはじまる。主要な企業としては、吉林市の旧満洲電気化学を母体に吉林電気化学廠が設けられ、1948 年10 月には吉林化工廠として独自の復興を開始、1949 年10 月にはカーバイド生産を再開している。一方、国民党支配下の錦西・錦州地区では、旧日本陸軍の燃料廠に旧満洲曹達開原工場の水銀法電解設備が移設され、台湾より日系技術の移転が加わり、電解工場を中心とする化学工場に生まれ変わっている。

大連は中ソ友好同盟条約のもと、ソ連の支配が行われ、実質的に共産党が主導権を握った。旧満洲化学、満洲曹達の二大企業は、その多くの設備がソ連によって撤去されたものの、共産党軍の兵站基地として大連建新公司に統合され、国共内戦下に砲弾などの生産を担った。

第4章「計画経済時代における東北の化学工業」では、1950 年代までの状況、およびこれを受けた冷戦期の中国における技術進歩の状況があとづけられる。

東北では1953 年の第一次五カ年計画に先駆け、留用された日本人を活用して工業設備の復興が始まり、ついでソ連よりの技術導入が行われる。まず吉林において旧満洲時代の産業開発構想をほぼ実現する形でカーバイド工場、肥料工場、染料工場によって構成される技術が導入され、その他の産業についても、瀋陽の航空機、機械、電線、ハルピンの航空機、機械、アルミ(加工)、撫順の電力・アルミ(精錬)、阜新の石炭・電力、鶴崗の石炭、大連の電力、鞍山および本渓湖の鉄鋼において、ソ連技術が導入された。これらはいずれも満洲開発から引き継がれた東北の復興計画にほかならなかった。

旧満洲における技術開発を基礎としつつ、ユニークな発展を遂げたと考えられるものとして、撫順におけるオイルシェールと錦西における人造石油の取り組みが指摘される。後者の場合は電解工場の移設と相まって、のちに塩ビ、カプロラクタム(ナイロンの原料)など、電気化学・石炭化学の実用化を担うなど、新中国における新技術のいわばテスト・プラントの役割を果たす。

一方、満洲時代の大陸科学院および満鉄中央試験所などが果たした研究開発機能も、触媒科学や石炭・石油化学の領域で、新中国に引き継がれている。また東北における化学工業の集積を背景に、行政の中心となった瀋陽には新たに瀋陽化工研究院が設けられ、ソ連より導入された染料技術をはじめとする有機化学の研究開発に着手し、錦西におけるカプロラクタムや塩ビの技術開発に参与するなど、1950 年代には全国をリードする研究開発活動の中心地となった。

さらに満洲国期の1930 年代に設立された旧満洲化学、満洲曹達は人民共和国期に経営統合され、合成アンモニア・プラントや硫酸プラント、ソルベー法のソーダ設備を有することから、侯徳榜(永利化学の技術者で、後の化学工業部副部長)らによって塩安併産ソーダ法および重炭酸アンモニウム(炭安)製造プラントの開発が行われるなど、新技術の実験基地となる。これらは錦西の電解技術とならび、冷戦期の中国を象徴する地方分散的な小型化学工業の普及を担うことになった。

第5 章「改革開放と東北の化学工業」では、地方分散的な小型技術や、石炭化学・電気化学起源の合繊、合成樹脂、合成ゴムの技術開発において東北の化学工業が果たした役割をあとづけつつ、冷戦下に中国が石油化学への転換に失敗する状況が描き出される。1960年代の大慶油田の開発により中国は産油国となり、1970 年代初頭以降の大規模プラント輸入につながる。この結果として改革・開放期には、全国に占める東北化学工業の役割は大きく低下せざるを得なかった。

結論部分の終章「本論文を結ぶにあたって」では、ソ連の設備撤去によって半減した旧満洲の化学工業が、1950 年代初頭の復興期、1953 年にはじまる第一次五カ年計画を経てほぼ復興・継承された状況、留用技術者の役割や日系企業の接収・復興にあたった幹部のその後の役割、人民共和国期の技術開発における旧大陸科学院や満鉄中央試験所の役割が確認される。これら東北に残された旧満洲時代の遺産は計画経済期の中国化学工業に大きな影響を及ぼし、今日の石油価格高騰の時代を迎え、石炭液化技術の復権という形で、新たな見直しの時代を迎えているという。

今後の課題としては、人民共和国期における化学工業の吟味から明らかになった中華民国、日本、ソ連の技術の影響について、そしてこれらに対して影響を与えたアメリカおよびドイツの技術を含めて、その継承と融合の状況を検討することにあるとする。

以上が本論文の要旨であるが、次の3 つの点で高く評価することができる。

第1は、従来研究が手薄であった満洲産業開発とりわけ修正第一次五カ年計画から第二次五カ年計画(1942~)における化学工業の位置づけと建設状況を、中華民国、アメリカ、および日本の調査報告、戦後に書かれた企業史、留用にかかわる戦後の史資料等を発掘し、つき合わせることにより、多岐にわたる化学工業の業種ごとに、その全貌を描き出すことに成功している点である。戦後の発展にとっての初期条件を確定することにより、ソ連による設備撤収の状況、国共内戦の影響と戦後の復興・再建状況に対する評価が初めて可能になった。

第2は、人民共和国期の中国で出された産業史(志)・企業史(志)等を丹念に集め、1950 年代から改革・開放期にいたる中国化学工業の展開過程を企業レベルおよび産業組織のレベルで描き出し、東北に残された日系化学工業の継承と断絶の状況を検証した点である。

第3は、冷戦期の中国化学工業を象徴する塩安聯産ソーダ法や重炭酸アンモン・プラントの開発、電気化学・石炭化学起源の有機化学の展開などに着目し、戦後の研究開発にかかわる旧満洲の影響を明らかにした点である。小型化・分散化を特徴とする人民共和国期における化学工業の体系は、大型化・系統化が進んだ石油化学の時代にキャッチアップすることができなかったという意味で、その歴史的な限界は明らかであった。しかし逆に言えば、計画経済期と重なる冷戦期の中国を支えたユニークな技術体系であった事実を明らかにしている。

総じて本論文は、断片的に残された報告や中国に残された史資料、日中の社史などを丹念に収集し、化学工業に関する該博な知識をもとに吟味し、旧満洲に残された日系化学工業の継承という切り口から、20 世紀の中国における化学工業の発展状況を描き出すことに成功したといえよう。とりわけ多分野・多業種にわたる化学工業の発展を業種ごとにあとづけ、戦後の再編と技術進歩の状況を的確に描き出す作業は、化学工業界で培った峰氏の社会人としての豊富なキャリア抜きには達成が困難であった、と高く評価される。

ただしいくつかの問題点を指摘しておかねばならない。

第1に、戦中・戦後の東北化学工業に対する考察が企業ごとに詳細になされているのに対し、人民共和国期の旧日系化学工業に対する検討は一部の企業を除き都市ごとになされるなど、分析方法の面でやや一貫性を欠く。人民共和国期に企業の属地的な統合・再編がなされたこと、企業情報に対するアクセスが困難になったことを勘案すれば、いたしかたない面もあるが、さらなる資料収集を踏まえた個別企業ごとの分析が望まれるところである。

第2に、経済環境および所有・経営主体が大きく変容する中、化学工業における継承関係を論ずるにあたり、本論文の分析は基本的に設備、一部の担い手、技術を中心とする検討に止まる。歴史的資料の散逸、情報公開の制約といったやむをえない事情もあるが、設備継承の実質的な含意は、ソ連によって撤去された設備を再建すること、または満洲国期に計画された設備投資を実現することである。これら設備の建設および日常的なオペレーションに不可欠となるエンジニアや熟練工の確保がどのようになされたのか、さらなる目配りがなされていたならば、継承の中身がより具体的かつ豊富になったであろう。

第3に、人民共和国期における化学工業の生産能力や技術体系が、基本的には満洲国期や中華民国期の延長線上にとどまり、もしくは小型化・分散化の方向に向かったことの背景として、研究開発機能の外部依存や冷戦構造の影響といった要因以外に、マクロな投資構造や企業経営のあり方等も重要な要因として存在したと考えられる。こうした側面についてのより立ち入った説明がなされたならば、化学工業の継承関係についての理解がより深まったと考えられる。

第4に、化学工業の継承関係を論じる場合、東北に残された日本の設備、1950 年代にソ連より導入された設備・技術およびエンジニアの役割の重要性は、ある意味で自明である。これに加えて、日本および中国における化学工業の発展にドイツ、アメリカが及ぼした影響も、大きかったと考えられる。戦前の化学工業をめぐる日独中関係、ソ連を経由して導入された東ドイツの技術、戦中・戦後の中国における重化学工業化の担い手であった国民政府(経済部)資源委員会系統のエンジニアと、戦時下に彼らの主たる留学先であったアメリカの技術の影響等を検討すれば、化学工業における継承関係の議論は、より豊富かつ国際的な視点に立ったものとなろう。

以上いくつかの問題点を指摘したが、ただしこれらは本論文の価値を損なうものでは決してなく、むしろ本論文が切り開いた地平に立ってこそ初めて検討が可能となる、より高次の課題というべきであろう。

したがって、本審査委員会は全員一致をもって、本論文が博士(経済学)の学位を授与するに値するものと判断した。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/26299