学位論文要旨



No 124218
著者(漢字) 王,穎琳
著者(英字)
著者(カナ) オウ,エイリン
標題(和) 中国紡織機械製造業の基盤形成 : 技術移転と西川秋次
標題(洋)
報告番号 124218
報告番号 甲24218
学位授与日 2008.11.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第241号
研究科 経済学研究科
専攻 経済史専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 教授 田嶋,俊雄
 東京大学 教授 加納,啓良
 東京大学 教授 加瀬,和俊
 東京大学 准教授 中村,尚史
内容要旨 要旨を表示する

1. 本論文の構成

本論文は8章構成となっている。序章では、本論文の課題と仮説、分析視角を提示する。第1章では、戦後中国の政治経済情勢と日本人技術者の留用問題、さらにキーパーソンとなる西川秋次の経歴と彼が計画した中国紡織機器製造公司(以下、中機公司と略記)の設立過程を紹介する。第2章では、西川計画がいかなる障害に直面したのかを考察し、技術移転の制約条件を明らかにする。第3章と第4章では、中機公司が直面した問題をいかにして克服し、紡織機械量産化の技術基盤を築いていったのかを明らかにする。第5章では、織機製造経験のない中国人技術者は何を、どのように学習したのかを考察し、製造工程における中国人技術者の役割を明らかにする。第6章では、国民政府時代に中機公司によって確立された紡織機械の技術基盤がいかにして新中国へと継承されていったのかを明らかにする。終章では、以上の検討を踏まえて新中国樹立後の短期間に中国紡織機械の自給化が達成されたのはなぜかという本論文の問いに対して立てた仮説を考察する。

本論文の構成は次の通りである。

序 章 課題と分析視角

第1章 中国の戦後情勢と日本の遺産

第2章 技術移転の制約条件-西川計画のつまずき

第3章 技術基盤としての日本人技術者(I)-Jαハイドラフトの改造

第4章 技術基盤としての日本人技術者(II)-G型自動織機の量産化

第5章 技術移転の受容基盤

第6章 新中国への継承

終 章 総括

2.本論文の目的

本論文の目的は、新中国樹立後6年という短期間に中国紡織機械の自給化が達成されたのはなぜかを解明することである。本論文は、その作業を通じて、新中国の紡織機械自給化の技術基盤が在華豊田の日本人技術者によって形成されたことを示す。

3.序章 課題と分析視角

新中国における綿工業の自給化を支えたのが紡織機械の国産化である。第1次五ヵ年計画以降に新設された中国紡織工場は高水準の国産機を設置しただけでなく、中国紡織機械製造業は一部の紡織機械の輸出を行うまでに成長した。中国紡織機械製造業の飛躍について、先行研究を3つの分析視角にわけて検討する。

まず、中国側の通説では、中国紡織機械製造業の発展は、ソ連の援助、社会主義体制下における最適生産規模を考慮した市場調整によって可能となった分業化・協業化体制の急速な進展の結果であり、「ゼロからの自力更生」によるとされている。中国紡織機械製造業の発展は、第1次五カ年計画において綿工業に膨大な投資が行われなければ実現しなかったのも事実であるが、中国側が主張する「ゼロからの自力更生」でなかったのも事実である。なぜなら、新中国が第1次五ヵ年計画に本格的に着手する1953年までのわずか3年間に、織機製造は年産6,000台という水準に達していたからである。したがって、中国紡織機械製造業の発展を、単に新中国の政策にのみ求めるのは早計である。

第二の分析視角は、清川雪彦の研究に基づくものである。清川は、戦前の在華紡績業の有する紡績機械製造技術が中国資本紡に移転しなかったと論じたうえで、「解放前の中国機械工業の潜在的生産能力や技術水準などを高く評価」した。しかしながら、自動織機の製造に着手したいくつかの民間機械工場は量産化できずに挫折した。したがって、中国機械工業の役割を強調するのは過大評価であろう。

第三の分析視角として挙げられるのが、日本人技術者の役割である。その先駆的研究として挙げられるのが、Yang Daqingの研究である。ただし、Yangは外交史の側面からの検討を主眼としたため生産技術の移転の具体的な状況については論じていない。日本人技術者の役割を指摘した研究は、Lu QiwenとWilliam Massの共同研究である。両氏は、技術移転の観点から豊田の日本人技術者が志願して中国に残留し、国民政府のもとで紡織機械の製造に協力した経緯を明らかにした。

本論文は、Lu QiwenとWilliam Massの視点を継承しつつも、中機公司の設立および事業展開のプロセスを詳細に考察し、そこにおける日本人技術者の技術協力の実態を解明する。

4.第1章 中国の戦後情勢と日本の遺産

終戦によって在華日本紡織会社はすべてを失った。1946年11月28日に豊田在華事業総支配人である西川秋次は堀内干城、鈴木金作とともに、行政院院長臨時駐上海事務所の責任者である彭学沛を訪問した。そして、中国紡織業の発展には紡織機械製造業の確立が不可欠だと述べて、豊田在華工場の使用、豊田製品の特許使用権の利用、豊田の技術者の任用という三つの方法により、ハイドラフト紡機および自動織機の製造に協力し、中国の経済復興に貢献する決意を表明した。

この提案は、中国の機械製造業にとって重要な意味をもっていた。第2次世界大戦直後の中国では綿工業を中心とする経済発展が計画されており、紡錘や織機の増設が見込まれていたが、中国国内の機械製造業は規模が小さく、主な業務は機械の修理に限定されていた。ごく少数の機械工場では織機の模倣製造を行っていたものの、性能がよくなかった。一方、西川が製造しようとしたG型自動織機およびJαハイドラフトは短繊維の中国産綿花を原料と想定して考案されたもので、中国の国情に適していた。そのため、行政院院長の宋子文のバックアップと各民間紡織会社の協力のもとに、1946年2月25日に半官半民の資本構成で、紡織機製造を目的とする中国紡織機器製造公司が設立されたのである。

5.第2章 技術移転の制約条件-西川計画のつまずき

西川の提案に基づく計画が実行に移される過程で、内戦の激化による混乱や他の公司との利害衝突によって、さまざまな障害が発生した。西川が当初計画したG型自動織機の製造技術移転は、その導入・準備段階において資金・治工具・工作機械・鋳物設備の欠乏という問題に直面したのである。しかも、それが実施過程に入ってから具体的な問題としてあらわれ、技術移転の難度を増幅させた。

当初の西川計画は、在華豊田のすべての工場を利用し、豊田紡織廠の収益で豊田機械廠を支援し、中機公司を世界一流の紡織機械製造会社とするというものであった。ところが、この西川計画を受け入れた宋子文や束雲章などの国民政府の高官は、国家財政が逼迫する中、収益性の高い国有企業であった中国紡織建設公司(以下、中紡公司と略記)の利益を最優先した。そのため、中紡公司は豊田紡織廠と豊田機械廠を中機公司に譲渡しなかった。また、西川が率いた中機公司の最初の生産計画は、月に紡機2万錘、自動織機500台、カーディング・クロス150セットを製造することであった。しかし、この計画は、中国にある豊田の全工場の接収、あるいは豊田自動織機製作所の設備を賠償機械として中国に輸送できることを前提としていたため、西川計画は修正を余儀なくされたのである。

こうした様々な障害を克服していく過程で、西川をはじめとする日本人技術者たちは、中機公司によるハイドラフト紡機と自動織機製造の完全内製化を目指した技術導入へと方向転換していくのである。

6.第3章、第4章 技術基盤としての日本人技術者

多くの制約にもかかわらず、中機公司は2年間という短期間で、Jαハイドラフトの改造とG型自動織機の量産化を達成したのみならず、品質においても豊田自動織機の基準に及ぶものであった。このような驚異的な進歩においては、生産設備にかかわる製造技術の移転、日本人技術者の指導が決定的であった。例えば、特許のあるG型自動織機の図面の提供、生産設備・計測機器・治工具の設計・製造・改造、製造品質標準、製造過程についての文書および部品規格書の提供、技術・生産管理の指導であった。

中機公司が急速に量産化を達成した要因は、在華紡の物的遺産よりも人的遺産の役割が大きかったといえる。西川秋次と彼に導かれた日本人技術者たち、そして彼らの指導を受けた中国人技術者こそが中機公司の発展を築いたのである。

7.第5章 技術移転の受容基盤

中機公司の中国人技術者は主動的にJαハイドラフトの改造と織機製造技術を学習した。学習過程において、各種の会議が重要な役割を果たした。日中技術者の共同会議を通じて、製造過程で発生した製造問題の解決、設計、製造方法、検査方法を含むG型自動織機の製造技術が中機公司に移転された。また、中国人技術者と経営者のみの「生産促進会談」を通じて、中国人技術者は製造過程で出現した問題を主体的に解決し、日本人技術者から伝達された製造技術を吸収した。試行錯誤の中で、中国人技術者と経営者はただ日本人のいいなりになったのではなく、製造方法について積極的に提案した。したがって、製造工程において中機公司の中国人技術者が次第に重要な役割を果すようになった。

8.第6章 新中国への継承

人民解放軍が上海を解放した5日後、中機公司は操業を再開した。生産高は1950年の1,968台、51年の4,111台、52年の6,300台と年々向上し、西川の初期計画であった月産高500台を実現した。すなわち、1947年5月から1949年1月の間に中機公司によって実現されたG型自動織機の量産化は、新生中国の第1次五ヵ年計画期に達成された紡織機械の自給化に重要な技術的基盤を提供することになった。1957年には、中機公司の生産高は中国の織機生産高の95%を占め、中国最大の織機メーカーに成長した。紡織機械の量産体制を中国でいち早く築いた中機公司は、その後の紡織機械の製造機種を決定づけることになった。そして、この中国標準式自動織機はアフリカなどの諸外国に輸出され、政治的意味もさることながら、新中国のために貴重な外貨獲得機会を提供した。

9.終章 総括

本論文が立てた仮説を、各章で明らかにした事実から検証すると以下のようにまとめられる。新中国樹立後の短期間に中国紡織機械製造業の自給化が達成されたのは、新中国の第1次五ヵ年計画が功を奏したからである。新中国が行った第1次五ヵ年計画において、綿工業に膨大な投資が行われなければ、紡織機械の自給化も達成されなかったであろう。しかし、その達成は通説で言われている「ゼロからの自力更生」ではなかった。1952年の段階において、すでに6,000台の自動織機が生産を再開した中機公司によって生産されていたからである。このように速やかに生産再開を果たせたのは、国民政府時代に、中機公司においてすでに技術基盤が確立されていたからにほかならない。しかし、この基盤形成は、国民政府が主導的に技術導入を図った結果ではなかった。戦後の混乱に乗じて当初の計画が変更される中、さまざまな制約を克服しようと豊田の日本人技術者が中心となって進めた中機公司の量産技術の成果だったのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、中華人民共和国樹立後6年という短期間に中国において紡織機械の自給化が達成された事実に注目し、それはどのような条件によって可能になったのかを明らかにすることを課題として、自給化の技術的基盤が、第二次世界大戦直後の中華民国期に、在華豊田の日本人技術者の指導の下に移転・構築されたことを実証的に検討するものである。

論文は、以下のように、全8章から構成される。

序章 課題と分析視角

第1章 中国の戦後情勢と日本の遺産

第2章 技術移転の制約条件--西川計画のつまずき

第3章 技術基盤としての日本人技術者(I) Jαハイドラフトの改造

第4章 技術基盤としての日本人技術者(II) G型自動織機の量産化

第5章 技術移転の受容基盤

第6章 新中国への継承

終章 総括

まず、序章では、新中国樹立後の短期間に成し遂げた綿工業の自給化が、新生中国が達成した偉大な建国事業であったことを確認し、その基盤に紡織機械の自給化があったことを指摘したうえで、この中国紡織機械製造業の飛躍についての研究史を整理し、そこから本論文の具体的な課題を明らかにする。

著者によれば、これまでの研究には、第1に「中国側の通説」とされている、ソ連の援助と社会主義体制下における最適生産規模を考慮した市場調整によって可能となった分業化・協業化体制の進展の成果として、「ゼロからの自力更生」を強調するものがある。しかし、この主張は新中国が第1次五ヵ年計画(1953-57年)に本格的に着手する1953年までに紡織機械の生産がかなり高い水準にあったことを説明できないとして退けられる。

第2に、清川雪彦は、解放前の中国機械工業の潜在的生産能力や技術水準などを高く評価しているが、民間機械廠が1940年代後半に至っても半自動式の機械を少数生産できたに過ぎなかったという事実から見て過大評価であると批判されている。

第3に、本論文と同様に日本人技術者の役割に注目する先行研究(Yang Daqingの外交史的視点からの研究、Lu QiwenとWilliam Massの共同研究、富沢芳亜の研究など)があるが、これらは技術移転の過程について具体的な実証分析を欠いており、そのために技術移転の制約要因や日本人技術者の意図などについて評価が不適切なものであると指摘されている。

以上の研究史に対する著者による評価は本論文の実証的検討を通して改めて確認されていくものである。そのため、著者は、以下の各章で日本人技術者が紡織機械生産技術の移転のために留用技術者として志願して上海にとどまり、そこでどのような役割を果たしたのか、その際にどのような問題を克服していかなければならなかったかを明らかにし、当初計画を手直ししながら進められた中国紡織機器製造公司(以下、中機公司と略す)における量産技術の受容こそが中国紡織機械生産とこれを基盤とする紡織工業の発展に不可欠の条件を提供したと主張している。

まず、第1章では戦後中国における日本人技術者の留用問題の概要を示した後、本論文の主題となる紡織機械製造技術移転のキーパーソンとなる西川秋次の経歴、そして彼が計画した中機公司の設立過程が明らかにされる。その中で著者が強調するのは、中国における紡織機械生産計画が豊田在華事業総支配人である西川秋次らの提案によって具体化の道を歩みはじめたことである。この計画は、豊田の在中国工場と豊田の特許権を利用し、豊田の技術者の手で進めることを骨子とした。中国側は、それまで輸入に依存していた機械製造を国産に切り替える重要なステップとしてこの提案を歓迎し、行政院院長宋子文のバックアップと民間紡織会社の協力のもとに、1946年2月に半官半民の中国紡織機器製造公司が設立されることになった。

ところが、中機公司の事業計画は具体化の段階に入って、いくつもの障害に直面した。この点を論じたのが第2章である。国共内戦の激化と他の公司との利害対立がその主たる要因であった。在中国の豊田工場を利用し、その設備機械を紡織機械生産に転用するとともに、紡織工場の収益で機械生産の資金を調達する当初の計画は、中国紡織建設公司(以下、中紡公司と略記)の利益を最優先する宋子文らによって阻止された。紡績業の収益が民国政府の財源として重要な役割を果たすと考えられたからである。そのため、予定していた機械設備、具体的には治工具、工作機械、鋳造設備などについても、また資金についても中機公司は厳しい制約を課せられることになった。また、機械設備面では、日本国内の賠償設備を移転することも前提となっていたが、これも実現しなかった。そのため、西川は計画の修正を余儀なくされ、生産規模を縮小しつつ、ハイドラフト紡績機械と自動織機を完全に内製化することを目指すことになる。

続く第3章と第4章では、中機公司が直面した問題をいかにして克服し、紡織機械の量産化に関わる技術基盤を築いていったのかが検討される。製造技術の移転では日本人技術者の指導が決定的であったが、そこでは、豊田が特許をもつG型織機の図面が提供され、生産設備・計測機器・治工具の設計・製造・改造、製造品質標準の設定、部品規格の策定、そして生産管理の実地教育など多面的な指導が実施された。中機公司は技術移転をスムースに行うため、まず既設紡績機械のハイドラフトへの改造を可能にする部品製造に乗り出した。これは現場技能者の熟練度を引き上げることによって織機製造の準備をするとともに、ハイドラフト改造を求める中国紡績業者の需要に応えることで資金面での制約を小さくするなどのねらいを持つものであった。そして、この過程で必要な材料の選択や外注の可能性が試され、ゲージなどの使用による製品品質の確保などが徹底されていった。それでも技術的な困難を克服するのは容易ではなく、また、資金面では繰り返し危機的な状況に直面しなければならなかった。しかし、ハイドラフト改造用部品の生産が軌道にのりはじめる前後から、中機公司は自動織機の製造に本格的に乗り出し、同様の試行錯誤を経て、2年間という短期間で、Jαハイドラフトの改造部品だけでなく、G型自動織機の量産化を達成することになった。

第5章では、技術移転を受容した側からの視点を定め、織機製造経験のない中国人技術者が何を、どのように学習したのかを考察している。ハイドラフト製造問題会議、部門別の織機製造促進会談などの各種会議が頻繁に開かれ、西川を中心に日本人技術者と中国人技術者が意見を交換した。こうした機会を通して、著者によれば、中国人技術者は、製造過程で発生するさまざまな問題に関する対処方法を学び、これを主体的に解決しうる能力を身につけ、次第に積極的に解決策の提案を行いうるまでになった。こうして製造現場において中国人技術者たちが自立して重要な役割を担いうるほどに成長していった。

もっとも、こうして培われた技術基盤が新中国に継承されるためにはもう一つの政治的激動のハードルをくぐり抜ける必要があった。この解放後の展開についての展望が第6章の課題となる。国境内戦の進展とともに上海が洗浄となる危険が高まったために留用日本人技術者は帰国の途についていた。従って人民解放軍の上海解放に際して、いち早く解放軍側に共感する地下組織が形成され、重要な設計図面や工場設備が破壊を免れるとともに、その組織的な説得活動を通して中国人技術者の多くが工場に残り、事業の継続に参加することになったことが重要であった。物的な面でも人的な面でも日本人技術者の指導の下に築かれた量産化の技術基盤がこうして新中国に継承された。中機公司は上海解放の5日後に操業を再開し、3年後の1952年には年産6000台という水準を達成した。こうして中機公司に移転継承された技術は新中国の機械工業生産の基盤となった。

終章では以上の検討を要約し、研究史との関係を整理してむすびとしている。

以上の内容を持つ本論文は、これまでの研究では不明確なままであった点についての正確な事実を確定し、技術移転の過程そのものを具体的に明らかにしたところに特徴があり、実証分析として優れた成果と評価することができる。上海市档案館に収蔵されている資料をていねいに読み込み、それを整理しつつ本論文は記述されているが、それによって、たとえば(1)中機公司計画が西川の自発的な提案によるものであること、(2)西川の意図は機械製造の技術移転にあったこと、(3)「中国式」とされている自動織機の規格が、中国の自主技術の成果ではなく、豊田式そのものであることなど、新たに明らかにされた事実は枚挙に暇がない。これらは、(1)が中国側の公式の見解、(2)が富沢芳亜の研究、(3)が清川雪彦の研究に対する、それぞれ事実認識に関わる批判となっている。

第2に、日本の敗戦前後に植民地等で生じた技術移転については、松本俊郎などの研究によって近年あらたな展開を見せている研究領域であるが、本論文は上海の中機公司という一企業に焦点を絞り込んだ研究とはいえ、新中国における当該企業の高い市場占有率などを考えれば、きわめて重要なケーススタディとなっている。特に製造技術の移転に関わる問題の克服過程を、日中の技術者による検討を記録した会議録などから再現し、具体的な問題の処理が多面的に進展したことを明らかにしたことは、これまでの研究と比べても技術移転過程の具体像を示すという意味では貴重な成果ということができる。

他面で、著者が西川などの日本人技術者の役割を重視し、その留用期間中の分析に関心を集中したことによって、新中国への移転という、技術移転の第二ステップの分析が十分ではない、という問題点も残した。この点について、著者は新中国への技術の継承に重要な役割を果たしたと考えられる数人の技術者に着目し、彼らが果たした役割に言及しているが、より掘り下げた検討が加えられれば、さらに精彩のある研究成果となったのではないかと考えられる。

しかしながら、このような問題点があるとはいえ、本論文に示された実証的な研究成果は、著者が自立した研究者として研究を継続し、その成果を通じて学界に貢献しうる能力を持っていることを明らかにしている。従って審査委員会は、本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論を得た。

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