学位論文要旨



No 124220
著者(漢字) 高井,文子
著者(英字)
著者(カナ) タカイ,アヤコ
標題(和) 市場黎明期における競争と企業間相違形成 : オンライン証券業界の事例
標題(洋)
報告番号 124220
報告番号 甲24220
学位授与日 2008.12.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第242号
研究科 経済学研究科
専攻 企業・市場専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 新宅,純二郎
 東京大学 教授 藤本,隆宏
 東京大学 教授 高橋,伸夫
 東京大学 教授 粕谷,誠
 東京大学 准教授 天野,倫文
内容要旨 要旨を表示する

本論文では、「模倣が比較的容易な業界において、なぜ企業間に相違が生じ、それが維持されていくのか」というダイナミックなメカニズムを、文献サーベイと、日本のオンライン証券業界の市場黎明期における競争の定量的・定性的分析を通じて、理論的・実証的に検討した。

オンライン証券業界は、サービスが基本的にインターネットのオンライン上で完結し、各社の提供している商品やサービスがホームページなどにおいてリアルタイムに示されることなどから、他社で成功した戦111各を模倣することが容易な業界だと言える。にもかかわらず、実際には多くの企業が激しい価格競争を繰り広げていく一方で、そうした競争からは距離をおいて全く別な戦略を一貫してとり続けた企業が、2年あまりもの間、他社から戦略を模倣されることなく、結局は業界リーダーとしての地位を揺るぎないものにすることができた。

企業間の資源や能力に相違が形成され、それが拡大・維持されるのはどうしてなのかという問題を扱う研究は、最近になって少数ながら現れるようになってきた。しかし、そもそも企業の成功は他企業の模倣を呼び、時間を追ってその差は減少していくものであり、企業の中核的な資源や能力は、たとえ模倣困難なものであっても他社に流出していく可能性が高い。現代の企業競争環境の下で、なおかつ近年増加している模倣が比較的容易な業界において、「なぜ企業間に相違が生じ、それが維持されていくのか」というメカニズムを正面から論じる研究は、これまで存在してこなかった。

そこで本論文では、同一産業内において企業間の相違が形成されていくプロセスを分析する汎用フレームワークの構築を試みた数少ない研究成果であるNoda and Collis(2001)の研究をべースとして、「行為システムのアプローチ」の議論を加えたフレームワークを新たに構築することにした。

Noda and Collis(2001)では、(1)企業間相違の「種」を生む「初期条件jと「初期体験」、(2)企業間相違を拡大する「分岐作用力」、(3)企業間相違の収敷をもたらす「収敷作用力1及びそれを妨げて持続させる「持続条件」の、3つの構成要素の強弱と相互関係に焦点を当てた包括的なフレームワークを提示している。しかし彼らのフレームワークでは、企業間の相違を拡大させる要因としては、初期条件と初期体験が規定する企業内部の慣性(inertia)だけしか挙げられていない。また、企業間の相違を持続させる要因としては、他社が慣性に陥ってしまうという点と、企業内部で形成された独自の資源や能力が持つ模倣困難な性質の、2つだけしか挙げられていない。このうち、模倣が比較的容易な業界では「企業内部で形成される独自の資源や能力が持つ模倣困難な性質」という条件は満たされないので、企業間相違を持続させる要因となる変数は、各企業の慣性だけということになる。つまり極端な言い方をすれば、彼らのフレームワークでは、慣性ゆえに企業間の相互学習が全くといっていいほど行われないとの仮定が満たされない限り、近年の競争環境の激変のなかで増加している模倣が比較的容易な業界において、企業が長期にわたって競争優位を持続するメカニズムを説明することが難しかったのである。

そこで本論文では、このNoda and Collis(2001)のフレームワークに、(1)初期体験の違いをもたらす要因としての「技術や顧客ニーズに対する解釈の違い」と、(2)持続条件の強さを規定する要因としての「制度的同型化」の議論を新たに盛り込むことで、企業間で相当程度に相互学習が行われる状況のもとでなお、企業間相違が生成し、拡大・持続していくプロセスを記述できるように改めた。そのうえで、構築したフレームワークを、市場黎明期のオンライン証券業界の事例研究に適用して再解釈することによって、その有効性を示し、当該業界の市場黎明期において一社のみが「一人勝ち」することのできたメカニズムを解明した。

また本論文では、実務的にも学術的にも非常に関心が高かったものの、もっぱら逸話的な議論が繰り広げられるだけであったオンライン証券業界の成功要因について定量的な分析を行い、幾つかの非常に意義深い結果を得ることができた。

本論文の理論的・実務的貢献は、以下の通りである。

まず、理論的な貢献の第一として、「イノベーションが生起して新市場が立ち上がった際の企業間競争は、どのようなフレームワークで分析すべきか」という点について、新規参入企業が比較的容易に競争優位を勝ち得る可能性が高いビジネス分野においては、「既存企業vs.新規企業」という既存の枠組みを超えた研究が重要であるという示唆を提示したことが挙げられる。

イノベー・ション論の既存研究においては、イノベーションが既存企業と新規企業の競争力に与える影響はどのように変わるのか、という点に主たる焦点が置かれてきた。そもそも、市場黎明期の企業間競争をこうした「既存企業vs,新規企業」という枠組みで見ることの前提には、既存企業の側が資源・能力や顧客との繋がりにおいて圧倒的に優位性を有しているために、その枠組みを超えた議論をすることに意味がないという(暗黙の)理解があったと考えられる。しかしながら、近年著しい成長を遂げるインターネットビジネスなどにおいては、汎用的で、なおかつ安価に利用できる技術であるインターネットがビジネスの根幹を成しているため、ビジネスを立ち上げるまでの投資をかなり抑えることが可能であり、従来までとは異なる新たな取り組みを試してみるためのコストも非常に小さく、新規参入企業は必ずしも不利にならない。したがって、既存の枠組みを超えた研究が必要となるのである。

次に、理論的な貢献の第二として、「業界の黎明期における競争のプロセスを規定する要因は、どのようなものか」という点について、企業内外の諸要因が、他企業や顧客との相互作用によって連鎖的に変わりうるという「行為システム」の概念を導入したフレームワークを提示し、現代の様々な業界における競争プロセスを、より包括的に説明したことが挙げられる。

「経時的アプローチ」に属する諸研究が、そうした相違がいかにして形成されるのかというダイナミックなプロセスに焦点を当てる研究を行うようになってきたものの、その中でも最も包括的なフレームワークを提示しているNoda and Collis(2001)であっても、企業間相違を形成・維持する要因は、企業内部の固定的なものだけに限定されており、外部から影響を受ける経路が想定されていなかった。つまりこのモデルでは、企業問相違を形成・維持する要因が、いったん企業内部に形成されればその後は外部要因から影響を受けない固定的なものだけに限定されているのであり、組織生態論的な、かなり極端な前提が置かれていると言える。また、それゆえに、このフレームワークの中での他社は、完全な外部要因として、自らの慣性によって妨げられながらも成功した戦略を模倣する、あたかも不完全な自動装置のような存在でしかなかった。

しかし近年では、インターネット上を行き交う豊富な情報を媒介に、各企業がお互いの行為を観察し、そこから学び合って自らの行動を変えていくような状況へと、ビジネスを取り巻く環境は大きく変化している。このような現代における業界の競争を分析するにおいては、企業内部の慣性だけが企業間の相互学習を(一時的にせよ)完全に妨げてしまう、といった極端な前提を置くことは不自然である。本論文では、企業内部だけでなく外部の変数を含むフレームワークの提示を行い、企業間の相互学習を通じて戦略行動の相互作用の連鎖が生じるがゆえに、むしろ企業間の競争優位性の相違が生成・拡大・持続されうるメカニズムを提示したことで、現代の様々な業界における競争プロセスを、より汎用的かつ包括的に説明する可能性を高めることができたと言えよう。

また、本論文は、実務的にも新たな貢献を果たすことが出来たと考えている。

実務的な貢献の第一として、日本のオンライン証券業界では、「どのような企業が高いパフォーマンスを実現し、激しい競争のなかで生き残っているのか」ということについて、定量的な検証を行った点を挙げることができる。

本論文の結果として明らかになったのは、「新市場に先行して参入することは、パフォーマンスの向上や業界での生存競争に勝つためには有利であるものの、それだけで成功が約束されるわけではない。そのうえで重要なのは、企業に本当に利益をもたらしてくれる『コア顧客』を掴む施策を打つことである。単に口座数の増加を目指す目的で行われた手数料引き下げの激しい競争は、必ずしもパフォーマンスの向上には貢献しなかった」という事実である。

通信価格の低下や通信スピードの飛躍的アップ、付帯ビジネスの進化によって、今後はオンライン証券業界以外でも、ビジネスの大部分がオンラインビジネスにシフトする可能性が十分にある。したがって、この研究から明らかになった発見事実は、他業界においても意義深いものとなるだろう。

実務的な貢献の第二として、企業や経営者に対して、「情報が豊富な現代にあっても、企業は不条理な競争に巻き込まれる危険性がある」との警鐘を鳴らすことができた、という点が挙げられる。

業界の黎明期のように不確実な状況において、戦略的意思決定を行う際に他社や他業界、海外の事例などに倣うことで社内のコンセンサスを得るというやり方は、決してオンライン証券業界の企業に特有のものではない。現代のほとんどの業界の、ほとんどの企業においても十分に起こり得ることである。

むろん、・企業はその時点で最良と判断される戦略を選択することになるのだが、その判断が正しかったかどうかは、事後的にしか判断できない。しかしここでの問題は、オンライン証券業界のように、他社の戦略とパフォーマンスが即時的に把握でき、また当該戦略の有効性が即時的に数字で明らかにされるような状態であってもなお、多数の企業を支配する通念が形成されていて、それが企業間の作用によって強められている場合には、数年にもわたって、その時点における最良の戦略が採用されないリスクがあるということである。こうした、情報の不足が生じていない「完備情報」の下でなお、一見すると不合理な戦略的失敗が生じうるメカニズムを示せた点は、実務家にとっても理論家にとっても、大いなる意味を有していると考えられるのである。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、「市場黎明期の、しかも模倣が比較的容易な業界において、なぜ企業間に相違が生じ、それが維持されていくのか」という問題意識に基づき、日本のオンライン証券業界の市場黎明期の競争について実証分析を行ったものである。研究のアプローチとしては、これまでの競争戦略論研究及びイノベーション研究の「穴」を埋める試みとして、Noda and Collis (2001)の枠組みをベースとして、「行為システムのアプローチ」の議論を加えたフレームワークを新たに構築し、その有効性を統計分析及び事例分析を通じて明らかにしている。競争戦略論において、いかにして企業間の相違が生まれ、それが維持されていくのかという問題は、企業の競争優位性を考察するうえで鍵となるものであり、本論文はその問題に正面から取り組んだものである。本論文の構成は次のようになっている。

序章 はじめに

第1章 競争戦略論に関する研究のサーベイ

第2章 イノベーションに関するサーベイ

第3章 本研究の分析フレームワーク

第4章 オンライン証券業界における競争の概観(1):新規企業における成功要因

第5章 オンライン証券業界における競争の概観(2):全企業における生存時間分析

第6章 オンライン証券業界における黎明期の企業間競争:時系列的なケース記述

第7章 オンライン証券業界における黎明期の競争と企業間相違形成

第8章 まとめとインプリケーション

各章の内容の要約・紹介

各章の内容を要約して紹介すると、以下の通りである。

まず1章では、競争戦略論研究の文献サーベイを行うことを通じて、企業の競争優位が形成・維持されるダイナミックなプロセスに研究の焦点を当てる「経時的アプローチ(longitudinal approach)」に、本研究の問題意識を解決するための大きなヒントがあるものの、その議論には依然として不十分な点があるということについて論じている。

近年になって関心が高まってきた動的な戦略論の一つである「経時的アプローチ」は、企業間の相違が形成されるダイナミックなプロセスに焦点を当てる研究として、本研究の基礎となるものである。しかしながら、「企業間における行為の経時的な相互作用の連鎖プロセス」を考慮する傾向は弱かった。一般に、「正解」が全く見えない中で企業同士がお互いの行為を観察し、そこから学び合っているような環境の下では、ある企業の行為が他の企業や顧客の行為に影響し、これら他の企業や顧客の行為がさらに他の企業や顧客に影響し、それが再び当該企業の行為に影響するといった、経時的な相互行為の連鎖プロセスの中で企業内外の諸変数がダイナミックに変化する。そのため、こうした経時的な相互行為の連鎖プロセスを取り込んでいない「経時的アプローチ」は、本研究が対象とする市場黎明期の企業間競争のような、企業内外の諸変数が真にダイナミックに変化する競争環境における戦略を扱うには不十分だったとする。

2章では、市場黎明期の企業間競争に関するヒントを探るべく、イノベーション論に関する文献サーベイを行っている。前半では、「イノベーションと企業の競争力」に関する既存研究のサーベイを行い、「新市場の誕生に伴う競争についての研究では、新規企業同士の競争は分析の射程外となっており、市場黎明期の企業間競争を分析するという観点からすると十分ではない」と論じている。「イノベーションと企業の競争力」に関する従来の研究では、「イノベーションが起きた際にいずれの企業が競争を主導するか」ということについて、イノベーションのタイプや、企業の保有する能力、顧客との繋がりといった視点から様々な研究が行われてきた。しかしながら、それらはいずれも「新規企業 vs. 既存企業」という枠内で論じられてきたと言える。こうした従来の研究の枠組みに則るだけでは、オンライン証券業界のように、主として新規企業同士の競争によって市場が発展していった業界での成功要因を分析することは出来ないという。

一方、2章の後半では、イノベーションによって引き起こされる競争構造のダイナミックな変化に注目する一連の研究を検討し、市場黎明期には競争環境の不確実性が極めて高いため、一般的な競争戦略論が想定するような競争観に立脚して分析を行うことは困難であることを論じている。つまり、業界の構造的特性も、企業の強みも弱みも、所与の条件として考えることはできないため、市場黎明期の企業間競争を記述し、「模倣が比較的容易な環境の下で、企業間相違が形成されるメカニズム」を明らかにしていくためには、「企業の外部要因も内部要因も、時間経過の中で相互に影響を与え合えながらダイナミックに変貌していく」との「行為システムのアプローチ」の視点を取り入れていくことが必要となることを指摘している。

3章では、「行為システムのアプローチ」の紹介を行った上で、前章までで検討した既存研究の限界を克服すべく、1章で紹介した「経時的アプローチ」の代表的研究であるNoda and Collis (2001) のフレームワークをベースとして、「行為システムのアプローチ」の視点を取り入れていくことで、企業間の相違が生成・拡大・維持・収斂していくダイナミックなメカニズムをより包括的に検討できる新たなフレームワークを構築している。

Noda and Collis (2001)は、同一産業内における企業間相違の生成・拡大・持続・収斂プロセスについての戦略理論構築を試みた研究であり、(1)企業間相違の「種」を生む「初期条件」と「初期体験」、(2)企業間相違を拡大する「分岐作用力」、(3)企業間相違の収斂をもたらす「収斂作用力」及びそれを妨げて持続させる「持続条件」の、3つの構成要素の強弱と相互関係に焦点を当てた包括的なフレームワークを提示している。本研究は、このNoda and Collis (2001)の分析枠組みに、(1)初期体験の違いをもたらす要因としての「技術や顧客ニーズに対する解釈の違い」と、(2)持続条件の強さを規定する要因としての「制度的同型化」の議論を新たに盛り込むことで、企業間相違の生成・拡大・持続・収斂プロセスをより包括的に記述できるような新たなフレームワークを提示している。

続く4章と5章では、3章で提示したフレームワークを事例分析に適用するにあたって、まず「オンライン証券業界の成功要因」について、定量的な分析を行っている。まず4章では、「黎明期の日本のオンライン証券業界では、どのような企業が高いパフォーマンスをあげているのか」という点について、当該業界の黎明期をリードしたオンライン専業の有力企業6社を対象として、競争戦略論の議論をベースに、業界の状況や各企業の戦略を検討し、仮説を導出した上で重回帰分析による検証を行っている。その結果、オンライン証券業界は先行者の優位性が働く業界であるとの仮説が検証された。加えて、オンライン証券の黎明期の競争においては、口座数が増えてもパフォーマンスが向上しないという規模の不経済が生じていたという結果も得られた。

次の5章では、「どのような企業が激しい生存競争を生き残っているのか」という要因を探るべく、日本のオンライン証券業界の黎明期に参入した全企業を対象として生存時間分析を行っている。その結果、ここでも、「先に参入していた企業の方がオンライン証券業界から撤退するリスクが低かった」ということが明らかとなり、先行者の優位性の仮説が支持された。またその上で、一般的に顧客に評価される提供商品の多さや手数料の低さといった施策、そして、コア顧客(頻繁に取引を行い、オンライン証券会社に利益をもたらす顧客)を獲得したりつなぎ止めるのに重要である信用取引等の施策は、生存時間に正の影響を与えることが示された。

こうした4章と5章での結果は、これまで十分な根拠がないままに逸話的に語られているだけであった「オンライン証券業界の成功要因」を定量的に検証したという点で非常に意義深いものである。続く6章、7章においては、「市場黎明期の、しかも模倣が比較的容易な業界において、なぜ企業間に相違が生じ、それが維持されていくのか」というダイナミックなメカニズムについて、オンライン証券業界の黎明期の競争の事例を、3章で提示した本稿のフレームワークに当てはめて再解釈する作業を行い、その有効性を検証している。

まず6章では、日本のオンライン証券業界において企業間の相違が生まれていった経緯を、オンライン証券専業企業6社(合併により後に5社となっている)に主たる焦点を当てて、時系列的に詳細に記述している。その結果として、日本のオンライン証券業界の市場黎明期では、松井証券が採用した「アクティブユーザーの獲得による回転率の向上を目指した戦略」が、その時期における真の顧客ニーズに適合する最良の戦略だったにも関わらず、他社は「新規顧客が爆発的に流入する」という当時の「支配的な通念」にとらわれて松井証券を「ニッチ企業である」とみなす一方で、際限のない泥沼の手数料競争を続けていった結果、2年あまりにわたって松井証券が他社の模倣を受けずに成長し続けることができたということを確認した。

続く7章では、3章で構築したフレームワークに従って、6章で詳細に記述した事例の再解釈を行い、フレームワークの有効性を明らかにした。松井証券は、オンライン証券市場が本格的に立ち上がる前にコールセンターのみの証券会社に転換していたという初期条件のもと、単なる口座数は重要ではなく、アクティブユーザーを取り込んで回転率を上げることが重要であることなど学んだ。そのため松井証券は、「定額料金制と信用取引」を組み合わせた商品やサービスを独自開発・提供するという選択を行い、結果として株式投資経験者の中核をなす中高年の富裕層を取り込むことに成功した。こうした初期体験は、松井証券の中に、「株式投資経験者をターゲットとし、回転率を向上させる」戦略をより徹底化するモメンタムを生み出した。

一方、松井証券以外の各社は、手数料価格の引き下げや合併によって口座数を獲得することに注力し、実際に口座数が急増するという初期体験を経験した。こうした松井との初期体験の相違は、各社の中にその後も口座数増加に注力していくモメンタムを生み出し、松井証券とそれ以外の企業との相違を拡大する分岐作用力として働いた。

しかしながら、この相違は、他社が本気になれば数ヶ月で模倣出来る程度の障壁であった。ここで模倣を阻んだ最大の持続条件は、実は松井証券以外の企業が「支配的な通念」にとらわれて行動したということであった。つまり、松井証券以外の企業は、アメリカの先行事例やITバブルのなかで醸成されていった「新規顧客が爆発的に流入する」という「支配的な通念」にとらわれ、「価格競争に勝ち、多くの新規顧客を他社よりも先に囲い込み、その後で儲ける」という戦略を遂行していき、松井証券の戦略的模倣を行わなかったのである。

実際には、オンライン証券業界の市場黎明期において松井証券がとった「アクティブユーザーの獲得による回転率の向上」という戦略は、その時期における真の顧客ニーズに合致しており、公表データや松井社長の発言などによって、当時からその戦略が有効であることは明らかであった。しかし、他社は松井証券の戦略の有効性を十分に認識していたにも関わらず、「松井証券のターゲット市場はニッチであり、その戦略は主流になり得ない」と見くびってしまい、口座数伸び率の勝ち負けにこだわり、際限のない泥沼の手数料引き下げ競争を続けていったのである。

市場の本格的な立ち上がりから2年あまりを経てようやく市場観の転換が生じたものの、その時点では既に松井証券と他社との業績の差は相当な開きとなっていた。2001年後半から2002年にかけて、他社はようやく松井証券の戦略を模倣して追撃に転じたものの、松井証券が他社から模倣されずに2年間独走し続けた効果はその後、長期間にわたって持続することとなった。つまり、松井証券は市場が立ち上がる重要な時期に、あたかも「複数の企業の集中によって発生した間隙」のなかで成長し続けることが出来たのである。

最後の第8章は、以上の分析結果と結論を要約した上で、若干のインプリケーションを示した上で、今後の研究課題を述べているが、ここでは割愛する。

論文の評価

本研究の貢献の第一は実証的な貢献であり、オンライン証券業界という特定の業界において、企業間の相違が生まれ、それが維持されてきたことを、定量的かつ定性的に丹念に分析したことである。生存時間分析などの統計的な処理とケース分析を組み合わせることで、非常に綿密な競争戦略分析がなされていることは、今後の特定業界についての競争戦略分析の手本となるものであると評価できる。

さらに、本研究の第二の貢献として、企業間相違の創出過程とその相違の維持メカニズムについての要因を指摘したという理論的貢献がある。筆者は、ベースとなる先行研究であるNoda and Collis (2001)のフレームワークに、(1)初期体験の違いをもたらす要因としての「技術や顧客ニーズに対する解釈の違い」と、(2)持続条件の強さを規定する要因としての「制度的同型化」の議論を新たに盛り込むことで、企業間相違の生成・拡大・持続・収斂プロセスをより包括的に記述できるような新たなフレームワークを提示した。

(1)の「技術や顧客ニーズに対する解釈の違い」が意味するのは、客観的に見た場合の企業内外の要件が仮に全く同じであっても、各企業のトップ経営者や一部マネージャーの技術や顧客ニーズに対する解釈が異なれば、企業間に行動の違いが生み出され、そのことがその後の初期体験の違いを生み、企業間の相違の種となるというものである。また、企業が向かうベクトルの方向付けと大きさに影響を与えることを通じて、企業間相違を増幅し拡大する分岐作用力としても作用するということを本研究で示されている。

(2)の制度的同型化とは、市場黎明期のような極めて不確実性が高い状況において、複数の戦略案の中からある戦略案を選択する際に、法律や上位組織、あるいは他企業などに同調することによって、正当性を得るプロセスのことを指している。ある戦略が広く普及していくと、この制度的同型化のプロセスによって、やがては業界における「支配的通念」へと転化する。このようにして、多くの企業で採用されて支配的通念となった、したがって強力な同型化圧力を生むような戦略は、事後的に見れば戦略的優位性を確保できるものでなかったとしても、それぞれの企業の内部で変化を拒む要因が重なってしまうと、なかなか変更されないまま持続する。その結果、成功している企業の戦略が長期にわたって模倣されないという現象が生じうるという。

これら二つの要因は、必ずしも筆者オリジナルの概念ではないが、企業間相違の創出と維持メカニズムのフレームワークに取り込むことによって、このメカニズム解明に大きな貢献をしたものと評価できる。

しかしながら、本研究にもいくつかの問題が残されている。フレームワークに基づいて分析されているものの、それをまとめている「図7-1 企業間相違の形成・維持メカニズム」で示されている縦軸の戦略ポジションやコミットメントの意味が分かりにくい。一般的なフレームワークにするためには、さらなる理論的な検討が必要であろう。また、本論文で主張されるモデルが、どのような条件のときに適用できるのかということを明確にする必要がある。本論文のモデルは、オンライン証券業界の特定の時期の競争を説明することはできるのだろうが、現在の競争を説明できるわけではないであろうし、他の業界への汎用性がどの程度あるのかもよく分からない。この点を明らかにすることが、本論文のフレームワークを洗練させていくためには重要であり、そのためには、同じ業界の異なる時期の分析や、他の業界の分析なども必要になってくるであろう。ただし、このような問題は、今後この種の研究を進める上で解決すべき課題であり、本論文にとって致命的な問題ではないと考えられる。

以上により、審査委員は全員一致で本論文を博士(経済学)の学位授与に値するものであると判断した。

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