学位論文要旨



No 124222
著者(漢字) 柴田,崇
著者(英字)
著者(カナ) シバタ,タカシ
標題(和) 20世紀におけるメディウム概念の成立と変容 : マクルーハンとギブソンの比較研究
標題(洋)
報告番号 124222
報告番号 甲24222
学位授与日 2008.12.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第147号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,正人
 東京大学 教授 市川,伸一
 東京大学 教授 金森,修
 東京大学 教授 今井,康雄
 東京大学 教授 岡田,猛
内容要旨 要旨を表示する

今日、メディウムの概念は、送信者からのメッセージを受信者に媒介するという内包と、音声言語を運ぶ媒質から情報を保存する様々な装置やマスメディアのような大規模な機構に至る外延を持つ。このようなメディウム概念は、直接には1948年に登場したC・シャノンとW・ウィーバーの通信モデルに由来するが、通信モデルが通信技術の定式化である以上、電信が実用化された19世紀後半頃に源流があると考えるのが妥当である。通信モデルは、いわば源流を奔流に変え、媒介するメディウムの概念を成立させるはたらきをした。20世紀半ばに成立したこの概念は、通信技術に基づく様々な工業製品が産出される時代背景とR・ヤコブソンによる言語モデルへの転用に後押しされて一般化した。

媒介するメディウムの概念が成立して一般化し始める時期、この流れに逆らう動きが生じた。一つはM・マクルーハン、もう一つはJ・J・ギブソンによるものだった。二人は、通信モデルに批判的な立場からメディウム概念に異を唱えただけでなく、環境と身体とからメディウム概念の変容を企てた点でも共通していた。とはいえ、具に検証すると、通信モデルに対する二人の批判の焦点は重ならず、必然的に二人のメディウム概念は異なる内包を持つ。

まず、マクルーハンの批判の焦点は、「メディアはメッセージ」のテーゼに集約される。通信モデルのメディウムは、情報源で発せられたメッセージを目的地で正確に変換する機能を担う要因を指すので、変換過程にあるすべての要因がそれに該当する。メディウムは「メッセージはメッセージ」の等式を保証する諸要因であると言い換えられる。等式を保証する以上、メディウムが変換以外の機能をしてメッセージに干渉することは許されない。メッセージへの何らかの付加(または削除)はノイズと見なされ、ノイズが発生するとすぐにメディウムの変換機能の不備が問題になる。メディアは、メッセージを正確に送り届ける「透明」な存在か、好ましくないノイズの発生源のどちらかでしかない。いずれの場合も、メディアにはメッセージの内容への干渉が禁じられる。ここから、「メディアはメッセージではない」というテーゼが導きだせる。「メディアはメッセージ」は、使用者にとってはメディアが重要であること、つまり「メディアこそがメッセージ」であることを主張し、「透明」な通信装置にも固有のメッセージがあることを言うものだった。マクルーハンの批判の焦点は、通信モデルがメディウムの透明性を謳った結果、メディウムのメッセージ、あるいはバイアスを無視した点にあったと言える。マクルーハンは、通信装置だけでなく、道具や機械などの人間が使うすべてのものに固有のメッセージがあるという考えから、メディウムの外延をすべての人工物に拡大した。

他方、ギブソンの批判は、メディウムの変換機能に向けられた。発信源のメッセージは、メディウム中を伝わる際にシグナルに変換される。シグナルは通信の便宜に基づく無意味な信号なので、受け手にとって有意味になるには目的地で再びメッセージに変換される必要がある。ギブソンは、通信モデルのメディウムの機能を「媒介」と呼び、「媒介」するメディウムで生物の視知覚を説明しようとしていた同時代の心理学説に異議を唱え、代わりに「伝達」するメディウムを提出した。光源から発した直射光や鏡面がつくりだす反射光と違い、肌理のある面に反射した包囲光には面を特定する情報(不変項)が含まれる。生物の視知覚は、包囲光がそれ自体で有意味な不変項をつくり出し、メディウムが不変項を伝達することで可能になる。この時、メディウムは有意味な情報をそのまま伝達しているので、目的地での再変換の必要はない。さらにギブソンは、生物の知覚は、情報の伝播を待つのではなく、移動によって変化をつくり出し、変化の中の不変の情報の探索を常態とする行為だと考えた。ギブソンの視知覚研究は、視覚情報の伝達と生物の移動を可能にするメディウム概念を提出した。地球上で二つの要件を同時に満たすのは、空気と水しかない。ギブソンは、物質とメディウム、そして、両者を分ける面で環境が形成されていると考え、一般にメディウムと見なされる道具や機械を物質に分類した。ギブソンのメディウムは、発信源の情報を目的地に正確に伝達する。「メッセージはメッセージ」の等式が成り立つ点は通信モデルと同じだが、等式を保証するメディウムの機能はまったく違う。ギブソンのメディウムの透明性は、正常な変換機能ではなく、変換せずに情報を伝達する特性に求められるからである。

マクルーハンは変換装置を指していたメディウムの語を転倒させるために変換装置以外の人工物を含めるところから出発し、ギブソンは視知覚研究の結果、情報の伝達と生物の移動を可能にするというメディウムの定義を手に入れた。そして、マクルーハンのメディウム概念はすべての人工物を含み、ギブソンの概念は空気と水に限定された。メディア論がメディウムの定義をめぐる議論に終始する論争ではなく、道具がそれを使う人間に及ぼす影響の研究ならば、ギブソンの思想は、「探索の原理」を公分母にマクルーハンの思想と通底し、それを拡張する可能性を持つ。

「探索の原理」は、医師や歯科医師が探り針で体内を探索する様子を範例にする。探り針がそうであるように、使用時の道具は身体の「延長 extension」になる。マクルーハンの思想は1970年に完成したマクルーハン流の「探索の原理」に集大成する。「探索の原理」の名称から分かるように、「延長」はマクルーハンの理論で重要な役目を担う。しかし、マクルーハンの「探索の原理」は三つの段階で構成されており、「延長」は、使い古されたことば(クリシェ)を手がかりにして身体内部のアーキタイプを形成する第一段階、アーキタイプに働きかけて新しいことばの言挙げを促す第二段階を経た後、新しいことばを表出してメディア環境を探索する最終局面で登場する。マクルーハンがこうした迂遠な手続きを必要としたのは、道具を使用する状況は直接記述できないと考える間接知覚論者だったことに起因する。マクルーハンは、ポジティブフィードバック、魚と水、バックミラーなどの比喩を用いて前方のメディア環境の不可知性を強調した。水に適用している魚が水を認識できないように、目先の安楽と利益を求める人間にもメディア環境は認識できない。メディア環境に適応しきった人間は、機能の拡張を至上命題に人工物を産出し続けるポジティブフィードバックループの一部になっている。人間は、猛スピードで走行する車に乗っていながら前方の景色から目を逸らし、バックミラーに映った後方に流れる景色として次々と人工物が産出される様子を眺める情況に甘んじている。このような不可知論を与件に編みだされたのが、マクルーハン流の「探索の原理」だった。人工物についてのクリシェは適応の結果の人工物と同じループを描いて表出される。まずはそのようなクリシェを廃棄し、次にクリシェを磨き直して悪循環のループを対象化する力を持った新しいことばを手に入れる必要がある。マクルーハンは、最後に新しいことばを口にだすことで、探り針が身体の延長になるようにことばが心の延長になり、前方のメディア環境で人工物を使用する時と同じ効果が得られると考えたのである。

「延長」とともにマクルーハンの「探索の原理」を支えるのは、第一段階と第二段階で重要な役割を担う「外化」の extension である。「外化」とは、レンズと水晶体の関係に見られるように、内的な身体機構が体外に投射されたものとして技術を捉える概念で、「延長」とは別の系譜に属する。「外化」は、E・カップらの技術論で知られるが、C・ベルナールらの医学思想にも登場するように、本来は、生体に働きかけて分泌物等の外化を促し、外化したものを手がかりに体内の状態を推測するというヒポクラテスの医術に起源がある。外化の技術は、今日では、非侵襲的に体内を表象する医療技術に進歩を遂げた。特に脳の画像化は、環境からの様々な影響を可視化する方法として医療以外の研究にも応用されている。「外化」は、メディア論がfMRI等を駆使する脳科学の一部門として展開する可能性を示唆する。人工物を使用する最中の脳の変化を記述できる技術の応用は、マクルーハンが指し示すメディア論の展開の一つに数え上げられるべきものである。

他方、ギブソンが指し示すメディア論は、道具を使用している時の内的状態を「外化」させて記述する研究とは相容れない。それは、ギブソンが、外部の実相とそれを写す内部の仮相というような二元論を退け、生物の行為と環境の関数関係を記述する生態学を志向したからである。では、「延長」のみで成り立つギブソンの「探索の原理」からはどのようなメディア論が構想できるだろうか。アフォーダンス理論の概要が示された『生態学的視覚論』には、使用時のハサミの記述から説き起こし、「延長」の議論がより大きく複雑な人工物にも適用できると書かれている。アフォーダンス理論では、身体という別の物質の「延長」になった人工物の特性は、人工物の中ではなく、身体を包摂する環境によって規定される。環境は、生物に対して当該身体に固有の行為をアフォード(可能に)する。人工物をつくり出し、場合に応じてそれらを使い分ける人間は、極めて可塑的な身体を持つ生物種だと言えるが、そのような人間の行為も、環境にアフォードされていることには変わりない。その都度身体を変える人間の行為は、その都度行為をアフォードする環境の特性によって記述される。ギブソンは、「延長」した身体が環境と出会う状況を直接記述する方向性をメディア論に指し示すのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、M・マクルーハンとJ・J・ギブソンのメディウムの概念を比較し、メディア研究に新しい観点を提供することを目的としている。二人の著作を中心に関連文献を一次資料とする文献学的方法が用いられている。文献読解には、ヨーロッパ思想史において技術を身体と関連させるために用いられてきた extension の概念と情報理論の二つを文脈として用いている。一見、接点のない二人の思想は、情報理論への批判から出発し、extension の概念を使って道具(人工物)の理論を再構築した点では共通の地盤を持つことが示されている。

三部構成の第I部では、まず、19世紀後半にイタリアのG・マルコーニによる電信の実用化に由来する「送り手と受け手の媒介」というメディウム概念が、1940年代終わりにC・シャノンとW・ウィーバーの情報理論(通信モデル)で定式化され、さらにR・ヤコブソンの言語モデルで一般化した経緯がたどられる。マクルーハンは、このメディア概念を批判し、身体を含むメディア環境全体を記述する必要性を説いた。こうしてマクルーハンのメディア論が構築されたことはよく知られているが、本論文では、マクルーハンの用いた extension に、(1)人工物と人間の境界である「延長」、(2)人工物による人間の機能の拡大(縮小)を主題とする「拡張」、(3)人工物は身体の内的機構が体外に投射されたものだとする「外化」の三種の意味があることを指摘している。そして三つの概念が、それぞれデカルト、プラトン、ヒポクラテスに起源を持つことも明らかにしている。第I部では、マクルーハンのメディア論が、上記の三種のextensionを統合した論としてはじめて理解できることが論証されている。

第II部では、マクルーハンと同様に通信モデルを批判したギブソンが、人工物の考察において「延長」の概念を使用したことが指摘され、その意義が、同時代の心理学者F・ハイダー、D・カッツ、E・ホルトの主張と比較することで検討されている。ギブソンは、物質、メディウム(媒質)、そして両者の界面である表面の三つで環境が構成されているとした。人工物は、その使用時には身体という物質に、使用されていない時には環境中の物質に、分類された。この区分は、ギブソンと同様に環境の心理学の創出に取り組みながら、すべての人工物はメディウムであるとしたハイダーとは対比的である。カッツは、使用時の人工物を身体とは別個の対象として、それ自体の特性を記述しようとしたが、このカッツの研究は「使用時の人工物は身体である」として、人工物使用の心理学的意義についての議論の焦点を環境の方へと移行させたギブソンの独創性を浮かび上がらせる。最後にホルトとの比較は、ギブソンのアプローチが、有機体と環境との関数関係に着目したホルト独自の行動主義に由来すること、さらに「心」を対象と主体との関係と捉え、「心」を「体」と同亜w)黷フ実体としたデカルト二元論を覆す観点を内包していたホルトの機能主義にギブソンが深く影響されていたことを明らかにした。こうして第II部では、「延長」の系譜に連なるギブソンの人工物論が、ホルトの思想を継承することでデカルトの枠組を超える可能性を持つことが示唆されている。

以上を踏まえた、第III部では、マクルーハンのメディア論にギブソンの理論をつなぐことで、メディア論に新たな視界が開かれることが示されている。身体を包摂するものとしてメディア環境を理解しようとしたマクルーハンは、メディア環境のメッセージを「刺激」の概念で捉えようとしていた。マクルーハンは環境を知覚するには、対象からの刺激、刺激が器官に引き起こす感覚、そして感覚を統合する「心」が必要だとしたが、これは「知覚は感覚にもとづく」とするデカルト主義を引き継ぐものである。刺激に代えて、動的身体が周囲の環境のエネルギー流動に探索する「情報」の概念を提出したギブソン知覚論は、マクルーハンのメディア論を再構築する際に手がかりになり得ることが示唆されるのである。

このように本論文は、マクルーハン・メディア論におけるextensionの概念の系譜を特定するとともに、ほぼ同時期の20世紀北米に誕生した思想でありながら、従来ほとんど関連づけられることのなかったマクルーハンとギブソンの理論を貫くことでメディア研究に新たな視点を提供している。これらの点から、博士(教育学)の学位論文として十分な水準に達していると判断される。

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