学位論文要旨



No 124235
著者(漢字) 水越,厚史
著者(英字)
著者(カナ) ミズコシ,アツシ
標題(和) 化学物質過敏症患者の揮発性有機化合物への曝露評価と健康影響評価 : 変化の時間尺度に基づいた評価
標題(洋)
報告番号 124235
報告番号 甲24235
学位授与日 2008.12.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(環境学)
学位記番号 博創域第405号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 環境システム学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 柳澤,幸雄
 東京大学 准教授 熊野,宏昭
 北里大学 教授 坂部,貢
 東京大学 准教授 徳永,朋祥
 東京大学 准教授 吉永,淳
内容要旨 要旨を表示する

1. 緒言

環境と生体は相互に影響を及ぼしあって変化しているため、環境問題に取り組むには、それぞれの変化をその変化を観測するのに適した時間尺度で評価することが重要である。本研究では、環境中に遍在する揮発性有機化合物(VOC)に注目し、その健康影響の一つである化学物質過敏症を対象とし、化学物質過敏症の病態を評価するのに適した時間尺度でVOCへの曝露評価および健康影響評価を検討することを目的とした。

化学物質過敏症は、化学物質に反復曝露することによって発症し、ごく微量なVOC等により非特異的な症状が出現する病気である1)。しかし、VOC曝露と症状の関係を調査した研究はまれ2)で、病態については不明な点が多い。症状の特徴として、日常生活における様々な曝露が症状の出現に影響するというマスキング現象が提唱されている3)。また、アンケート調査により曝露自覚後、短期間(概ね1時間以内)で出現することが明らかとなっている4)。したがって、化学物質過敏症の症状を把握するためには、日常生活での長期的な曝露と短期的な曝露評価が必要である。よって、本研究では、Fig.1に示したような評価手法を検討した。

まず、VOC個人曝露濃度を把握するため、曝露環境に基づいたVOC曝露評価を検討した。次に、より長期的な曝露を評価するために呼気分析による生体モニタリングを検討した。そして、ごく短期間での変化を調べるために、VOCと心拍変動のリアルタイムモニタリングを行った。最後にこれらの評価法を組み合わせて化学物質過敏症患者に適用し、曝露と症状の関係について考察を行った。

2. 曝露環境に基づいたVOC個人曝露評価

環境中のVOC濃度は個人の行動する環境によって大きく変化するので、VOCの曝露量を正確に把握するためには、個人曝露量を測定し、個々の環境において特異な曝露の有無を確認する必要がある。ポンプを携帯してサンプラを交換することで環境ごとのVOC曝露濃度を測定し、被験者それぞれに対して曝露量が多い環境を特定することを試みた。

2.1 調査方法

被験者は22~28歳の健康な学生および職員14名。ポンプを携帯して、環境ごと、すなわち、通学、職場、自宅における空気中のVOCを別々に捕集し、ブランクサンプルも同時に携帯した。サンプリング期間は1日とした。分析にはTD-GC/MSを用いた。また、特異な曝露のある環境を避けた場合の特異曝露率を式(1)より求めた。

ここで、S.R.i(%)は環境iにおける特異曝露率、Ci(μg m(-3))は環境iにおける曝露濃度、Ci(μg m(-3))は環境iにおける全被験者の平均曝露濃度(n = 10-14)、Ti(h)は環境iに滞在した時間、Ei(μg m(-3) h)は環境iにおける曝露量である。

2.2 結果・考察

対象とした11物質のうち、ベンゼン、p-ジクロロベンゼン、トルエンは大気の環境基準や室内濃度指針値と比べ、他物質よりも高かった。PRTRデータによるとベンゼンの90%以上は移動発生源であり、通学時の主な発生源として自動車が考えられた。実際、通学時最も曝露濃度の高かった被験者は幹線道路を自転車で通学していた(Fig.2)。特異曝露率は21%で、この道路を避けると、21%の曝露削減が見込める。p-ジクロロベンゼンを高濃度で曝露していた被験者は、アンケートにより自宅での防虫剤の使用が考えられ、使用中止した場合、82%の低減が考えられた。一方、トルエンは様々な発生源が存在するが、この方法によって曝露量の多い環境を特定できた。以上のことから、環境に基づいた曝露評価により、発生源や削減率などの情報が得られ、効率的に曝露を低減できると考えられた。

3. 化学物質過敏症患者の呼気中VOC濃度

生体モニタリングにより長期的な曝露量を見積もることができる。なかでも、呼気は非侵襲的に採取可能で体内中の未代謝のVOCを含む。そこで、化学物質過敏症患者の呼気分析を行い、健常者との違いや身体状況との関係について調査した。

3.1 調査方法

対象者は、北里研究所病院臨床環境医学センターを受診し、問診で化学物質過敏症の定義に当てはまり、神経眼科的検査および医師の診察により化学物質過敏症と診断された患者とした。本調査の目的、方法を文書により十分説明し、調査への協力を署名にて得た。患者は26名(男性10名、女性16名)で、平均49.1歳(24~72歳)。対照群の健常者は6名(男性6名)で、平均39.5歳(22~72歳)。

呼気採取は、クリーンルームに入室から1~2時間経過後に行った。10秒間息止め後、肺胞気採取器具によりサンプリングバッグに呼気を約1.0 L吐き出したものを試料とした。採取した呼気は、ポンプを用いてサンプラに捕集し、TD-GC/MSにて分析した。また、身体状況として、診察時の問診データ及び初診時の質問票データを参照し、年齢、発症してから呼気測定時までの経過年、QEESI日本語版の点数を解析に用いた。患者と健常者の呼気濃度は、Wilcoxonの順位和検定により、呼気濃度と身体状況との関係はSpearmanの順位相関係数により解析した。

3.2 結果・考察

患者の呼気中ベンゼン、p-ジクロロベンゼン、イソプレン、リモネン、トルエンは、健常者の値に比較して高い傾向が認められ、このうちトルエン濃度は健常者に比較して2倍の高値を示し(p < 0.01)、化学物質過敏症患者の特異的な曝露や代謝機能の異常が考えられた。

経過年とイソプレン濃度との間に負の相関関係が示された(Fig.3)。イソプレンはコレステロール合成時に体内で生成されるため、過敏症状の獲得とコレステロール合成になんらかの関連性があると考えられた。その他、経過年とリモネン濃度(r = 0.52, p < 0.01)、経過年とp-ジクロロベンゼン濃度(r = 0.41, p < 0.05)、測定時の症状の点数とリモネン濃度(r = - 0.40, p < 0.05)の間に相関が確認された。以上のように、身体状況との関連を示す呼気中VOCの存在が明らかとなり、呼気中VOCの測定により患者の病態に関する情報の獲得に貢献できる可能性が考えられた。

4. 化学物質過敏症患者のVOC曝露と心拍変動のリアルタイムモニタリング

VOCモニタにより、既存の測定法では不可能であったTVOC個人曝露濃度のリアルタイムモニタリングが可能となった。一方、心拍変動の測定により、自律神経機能への影響を評価することができる。そこで、化学物質過敏症患者に対し、VOC曝露と心拍変動のリアルタイムモニタリングを行い、健常者との違いや症状自覚時と通常時の違いを調査した。

4.1 調査方法

対象者は3と同様、臨床環境医学センターにて診断され、調査への協力を署名にて得た患者とした。患者は8名(男性3名、女性5名)で、平均49.1歳(31~62歳)。対照群の健常者は7名(男性4名、女性3名)で、平均39.5歳(22~54歳)。

被験者は、VOCモニタとHolterモニタを午前8時から24時間持ち歩き、TVOC個人曝露濃度の測定と心拍変動の記録を行った。また、行動・症状記録表へ行動と自覚症状を記入した。また、一部の患者はパッシブ法による個人曝露濃度測定を行った。

曝露の指標として、5分間隔のTVOC濃度の平均値、最大値、最小値を求めた。また、ΔTVOC(最大値と最小値の差)を求め、変化量の指標とした。影響の指標として、記録された心電図のRR間隔の時系列データに対してGabor関数を用いたwavelet変換を行い、HFとLF/HFの平均値を5分間隔で求めた。

4.2 結果・考察

患者と健常者を比較したところ、有意差のある指標はなかった。パッシブ法による個人曝露濃度も室内濃度指針値と概ね比較して低かった。

交絡因子となる活動時のデータを除去後、TVOCと心拍変動の指標間のSpearmanの順位相関係数を求めたところ、健常者7名のうち6名においてHFとΔTVOCの間に有意な負の相関が、5名においてLF/HFとΔTVOCの間に有意な正の相関が確認され、患者8名については4名においてHFとΔTVOCの間に有意な負の相関が、1名においてLF/HFと交絡因子となる活動時のデータを除去後、TVOCと心拍変動の指標間のSpearmanの順位相関係数を求めたところ、健常者7名のうち6名においてHFとΔTVOCの間に有意な負の相関が、5名においてLF/HFとΔTVOCの間に有意な正の相関が確認され、患者8名については4名においてHFとΔTVOCの間に有意な負の相関が、1名においてLF/HFとΔTVOCの間に有意な正の相関が確認された。この結果より、自覚症状のない健常者においてもVOC曝露による自律神経活動への影響があることが示唆され、同様の傾向を示す患者もいることが明らかとなった。

患者に関して症状出現時と通常時で指標の比較を行ったところ、統計的に有意ではないが、患者1名を除き全ての被験者において、TVOC濃度またはΔTVOCが症状自覚時に高く、症状と曝露の関連が示唆された。また、心拍変動に関しては、症状自覚時にHFが低下する被験者が多い(8名中6名)一方、2名の被験者はHFが上昇していたことから、症状自覚時による自律神経活動の変化は患者によって異なる可能性が考えられた。

患者aは、TVOC曝露濃度が高いとHFが減少し、ある程度まで低下した段階で急激な曝露があると自覚症状が出現し、HFが上昇に伴いすることで症状が治まっている(Fig.4)。したがって、急激な曝露に注意して、副交感神経の活動を高めるような生活を心がけることで症状の出現を抑えることができる可能性が考えられた。一方、患者dは、自覚症状が多発しているが、TVOC濃度は一定で、HFとの関連も確認できない(Fig.5)。よって、VOCモニタで検知できない物質に反応しているか、あるいは学習性の症状を発現している可能性がある。

5 結言

様々な時間尺度で評価することで、これまで明らかでなかった曝露や健康影響に関する情報が得られる可能性が示唆された。特に化学物質過敏症に関しては、今まで患者の訴えによってしか把握できなかった曝露と症状の関係を客観的に表すことができた。患者それぞれに様々な傾向が確認されたことから、曝露と心拍変動のリアルタイムモニタリングを行い、症状の特徴に応じた対策を提言できると考えられた。そして、曝露量を低減する必要がある場合、環境に基づいた個人曝露評価を行い、効果的な対策を行うことができる。さらに、実際の体内中のVOC濃度を確認するためには、呼気中VOC濃度の測定によって可能である。このように本研究で検討した手法は、個々の患者の対策への提言のツールとして有効であると考えられた。

1)Cullen MR: The worker with multiple chemical sensitivities: an overview. Occupational Medicine-State of the Art Review 2: 656-661, 1987.2)Shinohara N et al.: Journal of Exposure Analysis and Environmental Epidemiology.14: 84-91, 2004.3)Miller C: Toxicology 111: 69-86, 19964)Stanley MC and Anne CS: Environmental Health Perspectives 111: 1490-1497, 2003.

Fig.1 評価手法

Fig.2 ベンゼンの曝露量の寄与割合

Fig.3 経過年とイソプレン濃度の関係

Fig.4 患者aの時系列データ

Fig.5 患者dの時系列データ

審査要旨 要旨を表示する

本論文は6章からなり、第1章は「序論」、第2章は「曝露環境に基づいたVOC個人曝露評価」、第3章は「化学物質過敏症患者の呼気中VOC濃度」、第4章は「VOC曝露と心拍変動のリアルタイムモニタリング」、第5章は「化学物質過敏症患者におけるVOC曝露と心拍変動」、第6章は「結論」について述べられている。

本研究は、化学物質過敏症の病態を把握することを目的としている。化学物質過敏症は環境中に遍在する揮発性有機化合物(VOC)による健康影響と考えられているが、VOC曝露と症状の関係の実態は明らかになっていない。そこで本研究では、環境や生体における「変化の時間尺度」に注目し、化学物質過敏症の病態を評価するのに適した時間尺度での曝露評価や健康影響評価方法を検討している。

第1章では、VOCに関する基本的な情報や室内環境における問題についてまとめ、その健康影響として代表的な化学物質過敏症について詳説している。既往研究により、(1)化学物質過敏症の症状は、曝露自覚後、短期間(概ね1時間以内)に出現する、(2)症状の出現には、日常生活における様々な曝露が影響する(マスキング現象)ことが明らかとなり、病態を把握するためには、高い時間分解能で曝露評価や健康影響評価を行うことが必要で、かつ日常生活での長期的な曝露の影響を調べる必要性を指摘している。そのための評価方法として、個人曝露評価方法、呼気分析による生体モニタリング、心拍変動による自律神経機能評価を挙げ、既往研究についてまとめ、研究課題を抽出した。

第2章では、高濃度かつ特異な曝露環境を検出・特定するための手法として、個人曝露濃度を環境ごとに測定する手法を検討している。測定は、ポンプを携帯してサンプラを環境ごとに交換することで行った。その結果、高濃度の物質に関してPRTRデータやアンケートから発生源を推定し、寄与率により主要な曝露環境を特定した。さらに、特異曝露率により環境を改善した場合の効果を推測し、効率的に曝露量を削減するための方法を提案した。

第3章では、長期的な曝露によるVOCの体負荷量を評価するため、化学物質過敏症患者の呼気中VOC濃度を測定している。健常者との比較を行ったところ、トルエン濃度は健常者よりも有意に高く、患者における特異的な曝露あるいは代謝機能の異常が考えられた。また、身体状況との比較を行ったところ、発症してからの経過年とイソプレン濃度に負の相関関係が認められ、過敏症状の獲得とコレステロール合成の関連性が示唆された。以上のことから、呼気分析により患者の病態に関する情報の獲得に貢献できる可能性が示された。

第4章では、高い時間分解能でVOC曝露とその影響を評価するため、VOCモニタとHolter心電計を使用し、VOC曝露と心拍変動のリアルタイムモニタリングを行っている。その結果、TVOC濃度の変化量と心拍変動の間に相関が見られ、TVOC曝露濃度が変化することによって、副交感神経活動が抑制され、交感神経活動が賦活する可能性が示唆された。

第5章では、化学物質過敏症患者を対象として、TVOC濃度と心拍変動のリアルタイムモニタリングを行っている。その結果、患者においても健常者と同様にVOC曝露と心拍変動が相関するケースがあり、自覚症状の出現にかかわらず、VOC曝露によるなんらかの影響があることが示唆された。また、自覚症状出現時と通常時で比較を行ったところ、1名を除く全ての被験者において、症状自覚時にTVOC濃度またはTVOC濃度の変化量が大きく、曝露と症状の関連が示唆された。個々の患者の結果をみると、曝露と自覚症状、心拍変動が良く関連しているようにみえる患者と、そうでない患者がいたことから、VOCの曝露を避けたほうが良いのか、神経学的な治療を心がけたほうが良いのか等、それぞれの結果を基に対策を提言できると考えられた。

第6章「結論」では、全体の内容をまとめ、研究の成果について総括している。化学物質過敏症の病態の評価に適した時間尺度での評価を行うことで、これまで明らかでなかった曝露と症状の実態に関する情報が得られた。また、患者への対策の提言のためのツールとしても有効であることを述べている。

なお、本論文第2章は、飯塚淳氏、篠原直秀氏、藤井実氏、山崎章弘氏、山本尚理氏、第3章は、石川哲氏、熊谷一清氏、坂部貢氏、土本寛二氏、松井孝子氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(環境学)の学位を授与できると認める。

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