学位論文要旨



No 124243
著者(漢字) 高橋,信行
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,ノブユキ
標題(和) 統合と国家 : 国家嚮導行為の諸相
標題(洋)
報告番号 124243
報告番号 甲24243
学位授与日 2009.01.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第222号
研究科 法学政治学研究科
専攻 公法専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石川,健治
 東京大学 教授 小早川,光郎
 東京大学 准教授 太田,匡彦
 東京大学 教授 伊藤,洋一
 東京大学 准教授 水町,勇一郎
内容要旨 要旨を表示する

本稿のテーマは、国家嚮導行為の権限配分の問題について、ヴァイマール期の国家理論・国法理論にまで遡った上で検討を行うことにある。政治的計画や予算、外交、国防等の諸活動は、国家の進むべき基本方針に関わるものであり、単なる法律の執行を超えた創造的・積極的性質を有すると考えられるが、本稿では、これらの活動を「国家嚮導行為」とカテゴリー化した上で、その遂行に際して国家機関-国会や内閣、行政各部等-がどのような役割を果たすべきか、言い換えれば、国家嚮導行為の権限配分はどのようなものであるべきか、という問題を解明することを試みる。

なお、検討に当たって国家理論にまで立ち戻ることは迂遠な方法であるようにも思われるが、本稿が敢えてこのような方法を採ることは以下のような理由に基づいている。

すなわち、国家嚮導行為に関しては、他の通常的な国家活動とは異なり、権限配分の問題は、単なる技術的な問題にとどまらず、国家のあり方をめぐる根源的問題にかかわるものであると考えられる。より具体的に言えば、国家の本質をどのように理解するかに応じて、国家作用論において国家嚮導行為をどのように位置づけるか、そして、それぞれの国家機関にどのような役割を期待するか、という点も変わってくるのであり、この連関を解明することが不可欠となるのである。本稿での検討から、多元性の中から統一性をいかにして確保するか、という国家理論の最重要課題が国家嚮導行為の理解に大きな影響を与えていることが明らかになるだろう。

以下では、それぞれの章毎に、論文の骨子について説明する。

(1)第一章では、国家嚮導行為、特に予算や政治的計画の策定をめぐる問題状況を分析し、国家嚮導がどのような意義を有するのか、そして、その権限配分について学説上どのような論争が繰り広げられているか、という点を分析する。ここで明らかとなるのは、法律の執行という意味での行政作用とは別に、国家の基本的方針を定めるという意味での執政作用が存在すること、執政作用は、その性質上、一般的・抽象的な法規範の拘束を免れるが、議会の関与が認められる余地があること、国家嚮導行為とはこの執政作用の典型例に当たることの三点である。また、この議会の関与権限のあり方については様々な主張が為されているが、その背後には、議会と政府(内閣+行政機構)の役割分担に関する対立、さらには国家理解・憲法理解そのものに対する対立が潜んでいることが見て取れる。例えば、現代国家の病理を利益集団の跋扈に見い出す見解においては、内閣機能の強化を通じて国家の統一性を回復することが提唱されていたし、逆に、社会の多元的利益を国政に反映させることを重視する見解においては、公開のフォーラムとしての議会の役割を強化することが提唱されていた。

(2)このように、国家嚮導行為をめぐる諸問題は、「国家とは何か」、より具体的には「多元的な社会に対して国家はいかにあるべきか」という根源的な問題と不可分に結び付くと考えられる。そこで、第二章以下では、国家理解・憲法理解にまで遡って検討を進めるために、ヴァイマール期の国法学論争を参照する。ここでの主題は、HesseやBaumlinらの唱える動態的国家理解がどのようにして生まれてきたのか、という点であるが、その由来が両者の師に当たるR.Smendの統合理論にあるとの仮説を立てた上で、統合理論の分析が試みられる。

まず第二章では、ヴァイマール憲法をめぐる諸現実-社会情勢や経済情勢、思想史的背景等-を垣間見た後に、Heckelの予算法理論について分析する。Heckelは、従来の古典的な予算理解を排した上で、予算の策定過程が国家の統合をもたらす「国家形成的立法」であると主張し、議会と内閣との協働の重要性を指摘したのであるが、この「統合」という概念が示すように、彼の予算法理論はSmendの統合理論と相互作用を繰り返しつつ展開されたものであると考えられる。

(3)では、Smendの統合理論とはいかなる理論なのだろうか。次の第三章では、Kelsen、C.Schmitt、Smend三者の国法理論を比較・検討することで、Smendの問題意識や彼の依拠する方法論、統合理論の内容、その意義等を解明することを試みる。

まず、Kelsenの純粋法学の特徴としては、(1)法秩序の観念的妥当性のみを重視し、法秩序の実際上の実効性や国家の社会的基盤を解明することを放棄したこと、(2)法段階説に基づき、立法作用と行政作用(執行作用)の関係を垂直的・一方向的なものとして把握した上で、執政作用の存在を否定したこと、そして、その帰結として、(3)行政府(政府+行政機構)の自由裁量の余地を極限まで縮減したこと、また、政治理論としては、(4)政治的統一の創出手段として議会における政党間の妥協を重視したこと等が挙げられる。これらの特徴から明らかなように、Kelsenの意図は、議会主義の理念を極限まで推し進めることで新しい共和制のための理論的支柱を構築することにあったと考えられる。しかし、この純粋法学に対しては、議会主義の理想的側面が強調されるだけで、現実の議会制の機能不全に対処し得ないのではないか、という疑問を抱かざるを得ない。

次に、C.Schmittの憲法理論の特徴としては、(1)実定憲法の基礎を実存としての「具体的秩序」に求めること、(2)この具体的秩序の前提として固定的・静態的な価値体系の存在を認めること、(3)憲法の法治国的要素と政治的要素の二つを厳格に区別すること、(4)法治国的要素に関しては、抑制的・消極的な権力分立理解が提示されること、(5)政治的要素については、政治的統一の創出が「自同性」と「代表」の二つの原理に基づくことが主張され、特に私的利益を国家意思へと「精錬」する代表の原理が重視されること、そして、その帰結として(6)政治的統一をその人格において体現するライヒ大統領の地位・役割が強化されること等が挙げられる。ここでのC.Schmittの意図は、多元主義に侵された議会が「代表」の原理に相応しくないものであることを論証し、ライヒ大統領と内閣の結合による強力な政府の登場を求めることにあったと考えられる。しかし、彼の憲法理論についても、その前提となる固定的・静態的な価値体系が既に崩壊しており、それゆえに、「喝采」を通じた統一創出は逆に多元的な社会の暴力的破壊に行き着くのではないか、という点が問題となり得る。

これに対して、Smendの統合理論の特質は、(1)個々人が行動や価値を通じて集団を構築するという「統合プロセス」に国家の社会的基盤を求めること、(2)この統合プロセスを規定する法秩序を憲法として把握すること、(3)憲法が精神の価値法則性としての統合法則性に規定されるとして、統合の理念に即した憲法解釈を試みること、(4)権力分立原理や国家機関の存在意義、執政作用の位置づけ等も全て統合の観点から説明されること、(5)政治的統一体の創出は三つの統合類型-人格的統合、客観的統合、機能的統合-を通じて達成されるものであり、特に国家機関間の相互尊重義務が重視されること、そして、その帰結として(6)国家意思形成の局面における議会・内閣・大統領の協働が提唱されること等が挙げられる。一方で、大衆民主主義の発展に対応するために、より直接的な統合手段や経済・社会問題に対する国家の積極的介入の必要性が指摘されながらも、他方で、古典的な機能的統合の手段-議会の討議等-の重要性にも留意されている点が、統合理論の基本的特徴であると結論付けられる。但し、個人の国家への組み込みを旨とする「統合」の理念を重視するあまり、個人の自由保障を旨とする「法」の理念が軽視されたのではないか、言い換えれば、統合理論が全体主義を促進するという副作用を有していたのではないか、という疑問や、国家機関間の相互尊重義務の内容や国家作用の配分基準が不明確ではないか、という疑問が生じるところである。

これらの疑問点をさしあたり置いておけば、国家を統合のプロセスとして理解する統合理論は、従来の民主制理解や権力分立理解に根本的な変化をもたらすものであり、その意味で、今日の動態的国家理解の原型を成すものであると考えられる。第三章の成果は、この思想史的連関の解明にあると結論付けられる。

(4)さらに、第四章では、当時の政治的現実、特にBruning内閣の緊急命令統治との関連で、C.SchmittやSmendの議論がどのように展開したか、という点を分析する。混迷を深めていくヴァイマール共和制は、「闘争内閣」という権威主義的な統治に頼らざるを得なくなり、やがて第三帝国の惨禍を招くに至る。この点、ライヒ大統領のもたらす統合効果が重視されているとは言え、このような権威主義的な政府の出現は必ずしもSmendの望むところではなかったと推察される。それゆえ、若干の方針転換の下、Smendは、国家権力の暴走を防ぐ切り札として、正義ないし法の概念を重視するに至ったと考えられるのである

(5)最後の第五章では、これまでの検討を基に、国家嚮導行為の権限配分について、一定の結論が導出される。統合理論のうち、特に執政作用や国家機関、権力分立に関するSmendの主張を基に、それぞれの機関が果たすべき役割を明らかにする。

まず、(1)多元性と形式性を旨とする議会が観念される。議会は討議や表決に基づく機能的統合の場であり、社会内に存在する多様な利益を国政に反映させることに適している。次に、(2)統一性と能動性を旨とする政府(内閣)が観念される。政府は、多元性に対抗しつつ統一的方針を定める場であり、国家を積極的に嚮導することに適している。最後に、(3)専門性と(国民からの)近接性を旨とする行政各部(行政機構)が観念される。行政機構は、国民と日々接触しながら、公益の具体化を担う場であり、国民に最も近い存在として種々の公益を汲み上げるのに適した存在である。

以上の基本理解は国家嚮導行為の権限配分を考える際の基準を構成すると考えられる。第1章で検討したような計画理論・予算理論は、まさにこの基本理解から派生するものであると言えるだろう。より個別的な検討は今後の課題となるが、本稿で明らかとなった成果はそのための確固たる地盤になると考える。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、国家嚮導行為と名付けられる一群の国家作用を行う権限を、どの国家機関に分配すべきか、という問題関心から出発し、この問題を解明するために、ヴァイマル期ドイツ公法学を代表する一人であるルドルフ・スメントの国家理論-統合理論とも称される-を検討し、出発点となった国家嚮導行為の権限分配のあり方に関する基本的解答を得ようとするものである。

本論文において国家嚮導行為とは、政治的計画や予算、外交、国防等といった、国家の進むべき基本方針に関わる決定行為を指す。著者は、以上の行為は、単なる法律の執行を超えた創造的・積極的性質を有し独立の考察対象とする必要があると同時に、それらを個別に把握するのではなく一つのカテゴリーの下で捉え、その権限分配のあり方を体系的・合理的に考える必要があるとして、この国家嚮導行為という概念を立て、当該行為に関する権限分配のあり方という問題設定を行う。

さらに著者は、この国家嚮導行為の権限分配という問題は、単なる技術的な問題ではなく、国家のあり方を巡る根源的問題であり、国家の本質をいかに理解するかに応じて、国家嚮導行為をいかに位置付けるか、それぞれの国家機関にどのような役割を期待するかも変わってくるという立場に立つ。そして、この連関の解明こそが不可欠であるという立場が著者の考察の出発点を形成する。まず、以下に、論文の骨子を述べる。

第1章では、現在の日本の議論状況が分析され、冒頭に述べた問題関心が基礎付けられる。まず、国会と内閣の関係や執政の概念を巡る現在の憲法学の議論、政治的計画や予算の権限分配に関する現在の憲法学・行政法学の議論が、以下のように分析される。すなわち、法律の執行という意味での行政作用とは別に、国家の基本方針を定めるという意味での執政作用が存在し、国家嚮導行為はこの執政作用の典型をなす。執政作用は、その性質上、一般的・抽象的な法規範の拘束を免れるが、議会の関与の認められる余地は存在する。しかし、この議会の関与権限のあり方に関する様々な主張は、その背後に議会と政府(内閣+行政機構)の役割分担に関する対立、さらには国家理解・憲法理解そのものについての対立を潜ませている。以上を踏まえて、著者は、国家嚮導行為を巡る諸問題は、「国家とは何か」、より具体的には、「多元的な社会に対して国家はいかにあるべきか」という根源的な問題と不可分に結びつくと考え、これらの論点に関する日本の議論に少なくない影響を与えた戦後ドイツ公法学説に対して大きく影響していると考えられるスメントの国家理論を、それが位置するヴァイマル期ドイツの社会・政治状況ならびに同時期公法学説の中に位置付けて分析して、これらの問題に関するスメントの寄与を測定し、国家嚮導行為の理論をより豊かなものとすることを企てる。

第2章は、スメントの議論と、それが位置付けられるヴァイマル期国法学論争とを分析するための導入として、ヴァイマル期ドイツの社会・政治状況を現在の歴史学・政治史学の見解に依拠して確認し、次いでヨハンネス・ヘッケルの予算法学説を分析する。ヘッケルの議論は、パウル・ラーバントに代表される古典的予算理解を否定し、予算を財政支出に関わる統治プログラム、予算策定を国家の統合をもたらす国家形成的立法と理解するものであり、その策定過程における議会と内閣との協働の重要性を指摘するものだった。すなわち、彼の理論は、統治機構それ自体のあり方を問うものであった。またヘッケルは、カール・シュミットやスメントの議論との相互作用の中で自らの議論を展開しており、予算を巡る局地的論争の背景には、憲法や国家の理解を巡る論争があったと考えねばならない。

第3章は、スメントの議論を分析し、再構成することを主目的とする、本論文の中で最も長い章である。そこでは、ハンス・ケルゼン、シュミットと比較しながら、スメントの問題意識、方法論、統合理論の内容と意義の解明を試みる方法が採用される。

第3章第1節においては、ケルゼンの議論が、なかんずくシュミットとの対抗関係を意識しながら確認される。ケルゼンの議論の特徴としては、(1)法秩序の観念的妥当性を重視し、法秩序の実際上の実効性や国家の社会的基盤の解明を放棄したこと、(2)法段階説の立場から、立法作用と行政作用(執行作用)の関係を垂直的・一方向的なものとして把握した上で、執政作用の存在を否定したこと、(3)この帰結として、行政府(政府+行政機構)の自由裁量の余地を極限まで縮減したこと、(4)政治的統一の創出手段として議会における政党間の妥協を重視したこと等が指摘できる。ケルゼンの議論の主眼は、従来の伝統的国法学が持っていた、民主制の発展を阻害するイデオロギーを取り除き、政党制や比例代表制を基盤とする議会制改革を貫徹し、新しい共和制のための理論的支柱を構築する点にあった。しかし、これに関しては、法秩序の統一性をどうやって現実にも確保するのか、また、当時のヴァイマル・ドイツにおける議会の機能不全に十分対処しうる構想であったかという疑問も生ずる。

第3章第2節は、シュミットの議論を検討対象とする。シュミットの議論の特色としては、(1)実定憲法の基礎を実存としての「具体的秩序」に求めること、(2)この具体的秩序の前提として固定的・静態的な価値体系の存在を認めること、(3)憲法の法治国的要素と政治的要素の二つを厳格に区別すること、(4)法治国的要素に関しては、抑制的・消極的な権力分立理解を提示すること、(5)他方、政治的要素については、政治的統一の創出が「自同性」と「代表」の二つの原理に基づくことを主張し、特に私的利益を国家意思へと「精錬」する代表の原理を重視すること、(6)その帰結として、政治的統一をその人格において体現するライヒ大統領の強化された地位・役割へ期待をかけることを指摘できる。以上を踏まえると、シュミットの意図は、多元主義に侵された議会が、私的利益を「精錬」する「代表」の原理に相応しくないものとなっていることを論証し、ライヒ大統領と内閣の結合による強力な政府の登場を求める点にあった。しかし同時に、シュミットの議論に対して、その前提となる固定的・静態的な価値体系が既に崩壊していなかったか、「代表」に代えて「喝采」-「代表」に含まれていた公然性が認められるところの、「自同性」を体現する人民の行動-を通じた人民と大統領との直截的な結合が、議会制を完全に破壊し、政治過程における中庸の可能性を閉ざしてしまわないか、という疑問も生じる。

以上の分析を前提に、第3章第3節で、スメントの議論が分析される。それは、精神科学との関係、テオドール・リットの共同体論との関係という方法論上の問題に関する検討も行った上で、スメントの統合理論およびそこから導かれる法と政治の関係に関する議論、権力分立論、執政論に及ぶもので、スメントの議論の特徴として以下の点が指摘される。第1に、スメントは、個々人が行動や価値を通じて集団を構築するという「統合プロセス」に国家の社会的基盤を求めることで、当時の国家学・国法学が積み残した課題の克服を目指そうとした。すなわち、彼はこれにより、ケルゼンには存在しなかった、法秩序の統一性の現実的確保という問題や、シュミットでも具体的秩序の前提にされるだけであった固定的・静態的な価値体系の形成という問題にまで視野を及ぼした。第2に、この統合プロセスを規定する法秩序を憲法として把握し、また、憲法が精神の価値法則性としての統合法則性に規定されるとして、実定憲法を超越する憲法原理としての「統合原則」を導くことで、統合の理念、すなわち統合原則に即した憲法解釈を試みた。これにより、彼は形式的な憲法解釈を排し、国家の諸制度や憲法規定について統合原則に即した解釈を試みた。第3に、この帰結として、権力分立原理や国家機関の存在意義、執政作用の位置付け等も全て統合の観点から説明を行った。とりわけ、本論文の問題関心の出発点を形成する執政概念についていえば、その実質的根拠として国家の統合を示す点に、従来の理論との違いが認められる。第4に、政治的統一体の創出、つまり統合は、3つの統合類型、すなわち人格的統合(特定の人格を通じた統合)、客観的統合(国民間に共通の価値体験を創出することによる特定の価値体系を通じた統合)、機能的統合(体験を共有すること自体に伴う統合)を通じて達成されるとした上で、機能的統合の観点から国家機関間の相互尊重義務を特に重視し、この帰結として、国家意思形成の局面における議会・内閣・大統領の協働を提唱した。人格的統合と客観的統合に着目すると、スメントの議論は、ケルゼンの議論のようには価値相対主義に立ってはいないものの、機能的統合の観点から議会制の意義を擁護したこと、国家機関間の相互尊重義務に基づく政治的統一の回復を主張したことを考えると、統合理論が議会主義を破壊し、ライヒ大統領による独裁に荷担したと単純に考えるべきではない。総括すると、統合理論の基本的特徴は、一方で、社会の諸問題を解決するために、より直截的な統合手段や経済・社会問題に対する国家の積極的介入の必要性を指摘し、その積極的介入を司る作用として執政を観念しつつも、他方で、古典的な機能的統合の手段-議会の討議等-の重要性にも留意している点、このような理論により、社会の多元性を生かしたままの政治的統一の確保を試みる点にあった。

第4章は、当時のヴァイマル・ドイツの政治的現実、とりわけブリューニンク内閣の緊急命令統治との関連で、シュミットやスメントの議論がどのように展開したかを分析する。シュミットは、この緊急命令統治に明確な支持を与えたのに対し、スメント自身は、具体的な評価を述べていない。確かにスメントは、ライヒ大統領のもたらす統合効果を重視していたものの、同時にこの時期、倫理や正義、ないし法の概念を重視する若干の方針転換を示す。また、第2章で登場したヘッケルは、スメントの統合理論を発展させる形でシュミットに反駁を試みている。以上からすると、統合理論それ自体は権威主義的な統治を否定するものであったと考えられるし、ブリューニンク内閣の政治的実践は必ずしもスメントの理想と一致するものではなかった。スメントの方針転換は、彼があくまでも統合理論を発展させる形で問題の解決を図ったことを示している。

第5章では、これまでの検討を基礎に、国家嚮導行為の権限分配の基本的あり方に関する考察が行われる。すなわち、スメントの統合理論の中で、特に執政作用や国家機関の役割、権力分立に関する彼の主張を基礎に、それぞれの機関の果たすべき役割の解明が以下のように試みられる。第1に、多元性と形式性を旨とする議会が観念される。議会は、討議や票決に基づき機能的統合の場として、社会的に存在する多様な利益を国政に反映させることに適する。すなわち、議会の役割は、この多元性の確保と広範な同意の調達に求められる。第2に、統一性と能動性を旨とする政府(内閣)が観念される。政府は、多元性に対抗しつつ統一的方針を定める場であり、国家を積極的に嚮導することに適している。最後に、専門性と(国民からの)近接性を旨とする行政各部(行政機構)が観念される。行政機構は、国民と日々接触しながら、公益の具体化を担う場であり、国民に最も近い存在として種々の公益をくみ上げるのに適している。以上の基本理解が、国家嚮導行為の権限配分を考える際の基準を構成すべきであり、より個別的な検討は今後の課題となるものの、本論文で明らかとなった成果はそのための基盤となる。

以下、本論文の評価を述べる。まず、本論文の長所として以下の点を指摘できる。

第1に、ここ10年来、憲法学から注目されてきている執政概念に対して、行政法専攻者として強い関心を示しながら、国家嚮導行為の理論的研究に取り組んだ点である。執政の観念は、従来の公法学の体系に大きな見直しを迫るものとして注目される一方、その法学的取扱の困難さから、これまで十分な議論が行われて来たとは言い難い。このような状況の中、執政の権限分配という問題に焦点を絞ることで議論の拡散を防ぎつつ、一つの古典的な議論体系を示すスメントの議論を軸として国家嚮導行為の問題群に取り組んだ点は、執政という問題群に対する研究として高い評価に値する。

第2に、ヴァイマル期ドイツ公法学を代表する論者の一人であり、戦後の(西)ドイツ公法学に対しても大きな影響を与えたスメントの議論につき、邦語研究としてほぼ初めて、その議論を通覧可能な形で分析した点である。現在の我々が参照できる日本語によるスメント研究としては、第2次世界大戦前の黒田覚以来のものといえるであろう。その理解に困難を強いるスメントの議論を正面から検討し、一つの通覧可能な形で示した点は高い評価に値する。

第3に、ヴァイマル期ドイツの崩壊過程において、近時の政治史研究では、民主制への再均衡の可能性を秘めた最後の時期として評価されるブリューニンク内閣期を切り出し、これとスメントの議論をリンクさせて分析した点である。ヴァイマル体制の崩壊という結果よりも、それぞれの公法学者が当時の危機的状況をどのように克服しようとしたかという過程に着目するという著者の着眼点に由来するこの成果は、これにより、ファシズムへの傾斜にばかり焦点を合わせた形でスメントの議論を理解するのではなく、ヴァイマル体制維持のために苦闘するスメントの像を描き出すことに成功している。この点は、ヴァイマル期ドイツ政治史研究の進展を踏まえたヴァイマル期公法学説史研究として高い評価に値する。

以上に対して、本論文の問題点として、以下の点を指摘できる。

第1に、第1章で示された現在への関心に比べると、総括で示される分析・結論は、やや物足りない。しかしながら、これは、スメントの議論を研究するという学説史研究の部分を論文の本体にしたことの帰結でもある。本論文の成果を基礎に、現在の問題についての本格的な研究を展開することは、今後の課題であろう。

第2に、難解をもってなるスメントの議論の分析に果敢に取り組んだ帰結として、分析の結果得られたスメント像が、多少合理化されすぎたものとなったことも否めない。特に、ヴァイマル文化の直中で、社会の意味構成を包括的に試みた彼の仕事を、著者の問題関心に沿って整理した結果として、スメントが包括的に捉えようとした問題の一部が切り落とされてしまっている側面がある。しかし、これは通覧可能な形でスメントの議論を再構成し、今後、現在の日本法の下で、執政作用に位置付けられる国家嚮導行為の権限分配問題を考えるという本論文の基本目標に照らし、やむをえない部分でもあったろう。

したがって、以上指摘した弱点も本論文の価値を大きく損なうものとはいえない。本論文は、ヴァイマル期の歴史的・学説史的文脈を踏まえた丁寧な読解をもってスメントの議論を分析し、日本公法学の統治機構論・権力分立論に欠けていた執政および国家嚮導行為に関する研究の道を開いた貴重な研究である。それは、筆者が高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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