学位論文要旨



No 124248
著者(漢字) 井田,仁
著者(英字)
著者(カナ) イダ,マサシ
標題(和) 多収性水稲品種の窒素吸収・分配の特徴と収量形成過程に対する影響の解析
標題(洋)
報告番号 124248
報告番号 甲24248
学位授与日 2009.02.02
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3363号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生産・環境生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 山岸,徹
 東京大学 教授 大杉,立
 東京大学 教授 杉山,信男
 東京大学 教授 米山,忠克
 東京大学 准教授 佐々木,治人
内容要旨 要旨を表示する

世界のイネ単収の伸びは近年鈍化傾向を示している.イネ収量ポテンシャルは長く停滞を続けており,このことが単収の伸びが鈍化している1つの要因となっている.今後拡大が予想されるアジア地域の食糧需要を支えるために,また,日本においては国内の食糧の安定確保とコメの用途拡大に必要な生産性向上のために,イネの収量性を高めることは極めて重要である.近年イネ収量ポテンシャルが停滞している要因を明らかにし,多収化に向けた具体的な道筋を検討する必要がある.そのためには,まず既存する多収性品種の収量制限要因を理解する必要がある.本研究は,多収性品種として日本で最も収量性の高いイネ品種の1つであるタカナリを用いて,シンク・ソース器官の窒素利用の特徴と窒素吸収量の増加にともなうシンク・ソース形質の変化を解析し,シンク・ソース間の相互関係から収量の制限要因について検討した.シンク・ソース形質の評価は日本晴を対照として行った.

第1章では,出穂期までに吸収された窒素と出穂前に決定されるシンク・ソース形質との関係を解析した.シンク形質として穎果数を,ソース形質として出穂前貯蔵炭水化物を,それぞれ第1節,第2節で調べた.タカナリは日本晴より穎果数が多く,この要因として出穂期の地上部窒素含量あたりの穎果生産効率(SPE,Spiklet Production Efficiency)が高いことが確認された.また,複数年にわたる異なる窒素施肥条件下での栽培試験の結果から,SPEの品種間差は環境条件によらず安定して保たれることが示された.しかし,SPEが高いことは,1穎果あたりの地上部窒素含量が少ないことを意味し,登熟期間のソース能力に対する保障作用-登熟期間に葉身から穂に窒素が転流することによって光合成速度が低下し,穂の炭水化物需要を満たすために必要な同化産物が大きく不足することを防ぐ働き-が小さいことを示している.また,出穂期の非構造性炭水化物(NSC,NonStructural Carbohydarates)含量は,高窒素条件下ではタカナリが日本晴より多い傾向が見られたが,低窒素条件下では日本晴より少ない傾向が見られ,さらに,1穎果あたりのNSC含量をみると,タカナリは日本晴より常に少ない傾向があった.つまり,タカナリはシンク形成能力に優れ,日本晴より穎果数が多いものの,出穂後の穎果の登熟に対する準備という点では,タカナリは出穂期までの1穎果あたりの窒素蓄積量およびNSC蓄積量がともに日本晴より少ない傾向があり,必ずしも優れるわけではないと考えられた.

第2章では,ソース形質として,登熟期間の乾物生産に着目し,この時期の器官別窒素動態との関係を解析した.第1節では,登熟期間におけるシンク・ソース器官の窒素動態の特徴を調べた.第2節では,出穂期以降に吸収される窒素について,15N標識窒素を用いて各器官への分配を調べ,その役割を評価した.第3節では,出穂期窒素追肥を行った場合の器官別窒素動態を調べ,その収量・乾物生産への影響を解析した.タカナリはSPEが高く,出穂期の1穎果あたりの窒素蓄積量が少ないことに加えて,登熟期間の窒素吸収量が多い以上に穂の窒素要求量が大きいために葉身から穂への窒素転流量が多く,登熟期間の葉身窒素含量は日本晴より少なかった.15Nを用いて,登熟期間における葉身の窒素流出入量を調べた結果,両品種とも出穂期以降葉身に流入する窒素量は流出する窒素量に比べて非常に少なく,タカナリの葉身窒素含量の低下が日本晴より大きい要因は,流入量よりも流出量の違いによることが示された.出穂期窒素追肥を行うと登熟期間の葉身窒素含量は増加した.しかし,タカナリの葉身窒素含量が日本晴より低いという品種間の関係は変わらなかった.一方,登熟期間の乾物生産はタカナリが日本晴より多かった.すなわち,タカナリは葉身窒素含量が低かったが,葉身窒素含量あたりの乾物生産効率が高かった.この要因の1つとして,タカナリは上位葉のSLW(比葉重)とSLN(単位葉面積あたりの窒素含量)が日本晴より高いことが示された.

出穂期のNSC含量と登熟期間の乾物生産量を合わせた利用可能な炭水化物量はタカナリが日本晴より多かった.1穎果あたりの利用可能な炭水化物量はタカナリが日本晴より少なかったが,登熟歩合に両品種間でそれほど差が見られなかったことから,タカナリでソースが不足するというよりも日本晴でソースが余りやすいことを示していると考えられた.利用可能な炭水化物の穂への移行率はタカナリが日本晴より高かった.タカナリの移行率が高いことは,穂重増加期間が長く,出穂後,より長い期間にわたって同化産物を利用したことが関係すると考えられた.穂重増加期間が長いことは,15Nを用いた試験の結果から,出穂後よりおそい時期に吸収した窒素を登熟に利用できることとも関係していることが示された.

以上を整理すると,タカナリは穎果数と利用可能な炭水化物量が多く,シンク・ソース両面で日本晴より優れており,それぞれ,SPEと登熟期間の葉身窒素含量あたりの乾物生産効率が高いことが重要な役割を果たしていると考えられた.加えて,タカナリの収量が高いことは利用可能な炭水化物の穂への移行率が高いことが関係した.

穎果数と収量との間に両品種を含めた高い相関が見られた.このことから,基本的にソースに対してシンクが不足しやすく,シンクサイズの決定機構-およびそれと連動するソース供給力の変化-が収量形成過程で特に重要であると考えられた.一方,1穎果あたりの利用可能な炭水化物含量は穎果数と負の相関を示し,穎果数が増えつづけるといずれ収量はソースリミットになると考えられた.しかしながら,穎果数は出穂期の地上部窒素含量の増加にともない増加したものの,5万粒 m(-2)を超えたあたりで停滞する傾向を示していた.すなわち,収量ポテンシャル付近では,シンクとソースのどちらも不足しやすいと考えられた.そこで,以上の結果をもとに,シンク・ソース関係からみたタカナリの収量ポテンシャルの制限要因についてさらに検討した.

1穎果あたりの利用可能な炭水化物量と穎果数との関係からシンクとソースが一致するときの穎果数を計算したところタカナリが5.2万粒m(-2),日本晴が4.2万粒m(-2)となった.すなわち,タカナリが5.2万粒m(-2),日本晴が4.2万粒m(-2)以下ではシンクリミットになると考えられた.本研究で穎果数と収量が高い相関を示したことは,得られた穎果数がおよそこの中に含まれ,シンク容量よりも登熟に利用可能な炭水化物量が多くなっていたことが主要な原因と考えられた.しかし,5.2万粒m(-2)と4.2万粒m(-2)の穎果数はタカナリ,日本晴それぞれにおいてすでに達成されている.したがって,両品種の収量ポテンシャルはソースに制限されていると考えられた.タカナリにおいて5.2万粒m(-2)の穎果が全て登熟した場合,玄米収量は1045 g m(-2)となり,現在日本で得られているタカナリの収量の最大値とおよそ一致した.

実際に得られる収量は,シンクとソースのバランス以外に,利用可能な炭水化物の穂への移行率が関係する.ちょうどシンクとソースが量的に一致すると考えられた場合も,利用可能な炭水化物のうち7~13%が穂以外の器官に使われると推定された.利用可能な炭水化物の穂への移行率は穎果数とともに高まる関係が見られたことから,これを高めるためには,さらに多くの穎果が必要であると考えられる.また,上述したように,穂重増加期間が長いことも,利用可能な炭水化物の穂への移行率が高いことと関係した.面積あたりの穎果数と穂重増加期間との関係は明確ではなく,今後検討が必要である.

今後の多収化の方向性としては,ソースリミットと考えられたことから,まずソース能力を高めることが重要である.さらに,利用可能な炭水化物の移行率を高めるために,穎果数を増やすこと,または,穂の活性を長く維持し,穂重増加期間を伸ばすことが重要である.本研究において,出穂期追肥を行うと登熟期間の乾物生産量は増加したが,特にタカナリにおいても,増えた乾物の多くが収量増加に使われずに登熟後半に葉鞘・稈に蓄積された.日本晴と比べてタカナリが登熟能力を長く維持することができる要因を明らかにし,さらにこの形質を高めることで,葉鞘・稈に再蓄積される同化産物を利用し,収量を高めることが可能であると考えられた.

審査要旨 要旨を表示する

近年停滞しているイネの収量ポテンシャルを打破し,多収化に向けた具体的な道筋を検討する必要がある.窒素栄養はイネの収量を強く規定することから,多収性品種タカナリを用い対象品種の日本晴との比較を通じ,シンク・ソース器官の窒素利用の特徴と窒素吸収量の増加にともなうシンク・ソース形質の変化を解析により,制限要因について検討した.

1.出穂期までに吸収された窒素と,着生穎果数および非構造性炭水化物蓄積量との関係

タカナリは日本晴より穎果数が多く,この要因は出穂期の地上部窒素含量より窒素含量当りの穎果生産効率(SPE,Spiklet Production Efficiency)が高いことが主要な要因であった.また,SPEの品種間差は環境条件によらず安定した形質であることが示された.出穂期の非構造性炭水化物(NSC,NonStructural Carbohydarates)含量は,高窒素条件下ではタカナリが日本晴より多いが,低窒素条件下では日本晴より少なく,さらに1穎果あたりのNSC含量はタカナリは日本晴より常に少ない傾向があった.つまり,タカナリは日本晴よりシンク形成能力に優れるものの,出穂期までの1穎果あたりの窒素蓄積量(1/SPE)およびNSC蓄積量がともに日本晴より少なく,出穂後の同化産物への依存度が高いことが示唆された.

2.登熟期間の窒素吸収・分配と乾物生産・収量との関係

タカナリの窒素吸収量は日本晴より多かった。しかし,タカナリは出穂期における1穎果あたりの窒素蓄積量(1/SPE)が少ないことに加えて,登熟期間の窒素吸収量が多いがそれ以上に穂の窒素要求量が大きいため,葉身から穂への窒素転流量が多く,登熟期間の葉身窒素含量は日本晴より少なかった.15Nによる解析から,タカナリの葉身窒素含量の低下が日本晴より大きい要因は,流入量よりも流出量の違いによることが示された.出穂期窒素追肥は葉身窒素含量を増加したが,タカナリの葉身窒素含量が日本晴より低いという品種間の関係は変わらなかった.一方,登熟期間の乾物生産はタカナリが日本晴より多かった.すなわち,タカナリは葉身窒素含量が低いが,葉身窒素含量あたりの乾物生産効率は高かった.

以上を踏まえ,タカナリの高収性および収量制限要因について検討を行った.

穎果数と収量との間に両品種を含めた高い相関が見られ,タカナリにおけるシンクサイズの確保が高収量に重要であると考えられた.一方ソースに関しては,高い穂の窒素要求を満たすために登熟期間に窒素を穂に多く分配し,葉身への分配が少なくなっていたが,葉身窒素含量あたりの乾物生産を高く保ち穂への炭水化物供給量を確保していると考えられた.また,タカナリは穂重増加期間が長く,出穂後より長い期間にわたって同化産物を穂に供給していたことも高い収量性と関係すると考えられた.この長いシンク活性は,登熟期間後期まで吸収した窒素を穂に蓄積していたこととも関係していることが示された

登熟に利用可能な炭水化物量はタカナリが日本晴より多かったが,1穎果あたりの利用可能な炭水化物量はタカナリの方が少なかった.穂への移行率はタカナリが日本晴より高く,炭水化物の穂への移行率は穎果数に正の相関が認められたことから,タカナリの高い移行率には穎果数が関与していることが示された.シンクとソースが量的に一致すると考えられた場合,すなわち1穎果あたり利用可能な炭水化物含量が精籾一粒重と等しい場合でも,利用可能な炭水化物のうち7~13%が穂以外の器官に使われていると推定され,タカナリの現在の穎果数でも炭水化物の効率的な利用には不足であることが示された.また,収量ポテンシャル付近ではシンクとソースがいずれも不足している可能性が示唆された.

1穎果あたりの利用可能な炭水化物含量から,タカナリでは5.2万粒m(-2)以下,日本晴では4.2万粒m(-2)以下でシンクリミットに,それ以上の場合ソースリミットとなることが示され,現在日本で得られているタカナリの最高収量はシンクリミットの段階であるが,かなり上限に近い穎果数であることが示された。

そして,今後の多収化の方向性としては,ソースリミットとなると考えられたことから,まずソース能力を高めること,利用可能な炭水化物の移行率を高めるために,穎果数を増やすこと,または,穂の活性を長く維持し,穂重増加期間を伸ばすことの重要性を指摘した

以上本論文は,多収性品種タカナリにおける多収性の要因ならびに制限要因を窒素栄養の面から明らかにし,今後の多収性品種の育種における方向性を提示したものであり,学術上,応用上貢献することが少なくない。よって審査委員一同は,本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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