学位論文要旨



No 124257
著者(漢字) 今村,健一郎
著者(英字)
著者(カナ) イマムラ,ケンイチロウ
標題(和) ジョン・ロックの所有権論の研究
標題(洋)
報告番号 124257
報告番号 甲24257
学位授与日 2009.02.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第676号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 一ノ瀬,正樹
 東京大学 教授 松永,澄夫
 東京大学 教授 高山,守
 東京大学 准教授 鈴木,泉
 学習院大学 教授 下川,潔
内容要旨 要旨を表示する

ロックは所有権の発生を労働によって説明し、それと共に、所有権を労働によって正当化している。このことから、彼の所有権論は、しばしば「労働所有権論」と称される。この所有権論は、労働の成果はその労働を行った者に帰属すべきであるというわれわれの自然な直観に適っている。しかし、ロックの所有権論の意義は、そのような直観的な受け入れやすさに存するのではなく、所有権は労働によって獲得され、保持されねばならないという教訓をわれわれに与えてくれるという点にこそ存する。ロックにおいて、所有権は、自然法のもと、自己保存の権利ならびに自己保存実現のために自然の産物を利用する権利を共通の権利として与えられている人びとが、元来は人類の共有物である有用で稀少な自然の産物を、自己保存のために、より有効に利用していこうとするなかで、求められ、生じてくる。しかし、自然法は、各人に、単に自己保存を図るだけでなく、それと共に、可能なかぎりの他者保存をも図るよう命じている。それゆえ、所有権を行使しつつ自己保存を図ろうとする者には、他者保存への配慮が、とりわけ、他者のもつ自己保存の権利に対する侵害を回避することが要求されることとなる。つまり、所有権を獲得し、それを行使する者には、資源の稀少性を前提に、自己保存と他者保存を二つながら実現する義務が課せられているのであり、所有権の意義は、この二つを共に実現していくという点にこそ存する。ロックにおいて、労働とは、この義務を果たしていくことに他ならず、各人はこの労働の義務を遂行しつつ所有権を獲得し、行使していかねばならない。これこそが、われわれがロック所有権論から汲むべき最も重要な教訓である。以下、章ごとに本論の要旨を述べる。

第1章は、予備的作業に充てられる。ロックの所有権論は、神は全人類に世界を共有物として与えた、という前提から出発する。議論の前提となるこの共有状態がいかなる状態かを巡っては、諸説あるが、本論は、通説に従い、それを、プフェンドルフの言う消極的共有状態と理解する。グロティウスやプフェンドルフは、人類は協約によって共有状態を脱し、私的所有へと移行したと説き、所有権の根拠を協約に置くのだが、ロックはこの協約説を拒否する。協約説は、自然法の探究を経由しない単なる人びとの同意に所有権を基づけているというのが、その理由であると本論は考える。

第2章では、ロックの所有権論に含まれると思われるいくつかの所有権正当化根拠を検討する。一般に、ロックの所有権正当化論は複数の根拠に訴えた複合的な議論であると解釈されている。本論の見るところ、それら複数の根拠のうち、ロックが最重視するのは「功績」である。労働は価値の創造であり、ロックは、その価値創造を功績根拠にして、労働を加えた者に所有権を帰することを正当化している。

第3章では、ロックが所有権に課す二つの制約、「十分性の制約」と「浪費の制約」を考察する。ロックは、自然状態において、各人は自らの意志に基づく自由な労働によって自然の一部を専有できると説く。しかし、その労働によって獲得可能な所有権の範囲は、「十分性の制約」によって、他者の生活水準の悪化をもたらさない範囲へと、そして、「浪費の制約」によって、各人が自己の生活の便宜のために利用できる限りのものへと制限される。

第4章では、ロックの貨幣論・市場論を扱う。ロックにおいて、貨幣は、有用だが腐敗しやすい生活必需品を、「浪費の制約」を遵守しながら有効に利用することを可能にし、さらには、人類の富の増大、延いては人類の繁栄をもたらすものとして導入され、貨幣の存在意義もまた、これらの点に存する。貨幣の導入によって、労働の成果を腐敗させることなく蓄積することが可能となり、これによって、人びとは、自分や自分の家族が直接に消費できる以上のものを労働によって生産するよう動機付けられる。また、貨幣を媒介とする市場経済は、社会的分業の発展を促し、それに伴って、社会全体の生産力の向上と富の増大が促される。さらに、貨幣が有する蓄積の機能は、生産過程と消費過程を分離せしめ、そうすることで貨幣所有者に消費する自由としない自由を、あるいは、好きなときに好きなものを消費する自由を与える。市場において、一部の市場参加者が、他の市場参加者に強要や抑圧を加えたり、あるいは、他の市場参加者の無知や窮状に付けこむようなことがないならば、言い換えるならば、自由な市場参加者から成る理想的な完全競争市場に近い状態に市場が保たれるならば、貨幣の使用は以上のような効用をもたらしてくれる。

しかし、現実の市場には、貨幣の独占を背景に、自らが設定した利子率を借り手に強要する銀行家や、買い手の無知や窮状に付けこむ売り手が存在し、それらが市場の存立と貨幣所有者の自由を脅かす。ロックは、政府による市場への介入に対しては、市場参加者の所有権に対する侵害を構成しうるという理由から、原則として反対の立場をとるのだが、貨幣の独占や取引当事者間の知識の非対称性を市場から除去し、以って、市場で弱い立場にある人びとの自由を確保すべく、政府が立法によって市場に介入することを例外的に許容する。

市場経済のもとでは、市場へと商品をもたらす売り手の私的労働が、自然法に適っており、それゆえに所有権の権原たりうる労働であるということの承認は、その商品を購買した買い手によって、事後的に与えられる。それゆえ、売り手の私的労働は常に「問いかけ」という形をとらざるをえない。ロックにおいては、市場経済下の労働にかぎらず、各人が自由に営む労働は、一般に、自らが所有権の権原たる労働であることの承認を求める「問いかけ」の形をとることになる。

第5章では、ロックの労働所有権論の核心部分である『統治論』第二論文第27節の解釈を行う。その解釈にあたっては、そこに登場する「personに対する所有権」という概念をどのように理解するかが鍵となる。森村や下川は、『統治論』におけるpersonは身体の謂いであり、「personに対する所有権」とは身体所有権であると理解する。その上で、第27節は、添付の原理を用いた所有権正当化論であると、すなわち、人間は身体所有権を外物に添付することによってその外物への所有権を獲得すると説いたものであると解釈する。

こうした解釈に対し、本論は、『統治論』でのpersonという語の使われ方を検討した上で、『統治論』におけるpersonとは、法を理解し、行為や労働の主体たりうる者、すなわち、「人格」の謂いであるとの見解を提示する。すると、ロックは第27節で、「人格に対する所有権」という概念を提示していることになる。では、ロックが自らの労働所有権論の核心部でこの概念を提示することの真意とは何か。労働所有権論のテーゼは「労働が所有権を確立する」というものである。であるならば、人格に対する所有権もまた労働によって確立することになるはずである。これこそが「人格に対する所有権」の含意するところであると本論は考える。

前章で述べたように、各人が自由に営む私的労働は、自らが所有権の権原たる労働であることの問いかけであり、その労働は、周囲の他者からの承認によって、所有権へと結実する。このようにして、ある者の労働の成果が、その者の所有物であるということが確立するとき、同時に、その者がその労働の成果の所有主体たる人格であるということが確立する。第27節は、この一連の過程を描き出したものであると本論は解釈する。

次に本論は、『統治論』におけるpersonと『エッセイ』におけるpersonとの関連性・連続性をさらに追い求めるべく、『エッセイ』の人格論へと向かう。ロックは『エッセイ』の人格論の中で、意識が人格および人格同一性をつくるという意識説を唱える。人格は、典型的には、行為や行為の功罪の帰属先を問う場面で求められ機能する概念である。人格は、そのような場面で、人びとの交流の中から立ち現われてくるのだが、そうした一連の過程を構成する人びとの行為には決定の契機が含まれている。この決定の契機を担うのが、意識に他ならない。この事情は、所有権の帰属先を問う場面にも共通する。たとえば、賃労働者が賃金と引き換えに譲渡する職業人としての人格を成立させているのは、当人や周囲の他者の意識であり、その意識はしばしば、「職業人としての自覚」と称される。こうした例によって、『エッセイ』の人格論で語られるpersonと『統治論』におけるpersonとの関連性・連続性が示唆される。

最終第6章では、本論がこれまで辿ったロックの所有権論を環境倫理へと応用することを試みる。経済学において、環境問題は外部不経済の問題として捉えられ、その解決策として、市場外部性の内部化が提案される。環境汚染物質の排出権取引はその一例である。しかし、本来的に内部化不可能なものが存在する以上、内部化による環境問題解決の試みには限界がある。何をどれだけ内部化すべきかという決定自体は市場によっては与えられない。ここで、何を内部化すべきか、すなわち、何に市場での取引が可能な所有権を設定すべきかを探究し、決定するという作業が求められてくる。この作業こそ、ロックに固有な意味での「労働」に他ならない。今日、この労働は政府に委ねられており、国際社会は複数の政府から成る自然状態の下にある。この自然状態には暴力と不公平性(国際紛争と南北問題)が伴っている。それゆえ、環境問題はこれら二つの問題と切り離して論じることはできない。このことがロックの政治哲学、そしてロックの所有権論から学びうることのひとつである。

審査要旨 要旨を表示する

今村健一郎氏の論文「ジョン・ロックの所有権論の研究」は、17世紀イギリスを代表する哲学者ジョン・ロックの主著の一つ『統治論』の、第二論文において展開される所有権をめぐる議論、すなわち、所有権は労働によって確立されるとする「労働所有権論」に正面から立ち向かい、『人間知性論』や『利子・貨幣論』などのロックの他の著作との整合性を射程に入れながら、一つの新しい眺望を得ようと目論むものである。

今村氏はまず、第一章で予備的な用語の解説を加えた後、第二章で、ロックの労働所有権論を集約する『統治論』第二論文第27節に現れる「各人は自分自身のpersonに対する所有権を持っている」という表現に注目し、これをどう解釈するかにロック所有権論の理解は掛かっている、という認識を示す。その上で、こうしたpersonへの所有権とその労働とが、どのような根拠づけの中で他のものへの所有権へと結びついていくのか、という問いを主題として掲げる。この問いはまさしくロック哲学理解の核心であり、多くの研究者が多様な観点から整合的な理解を試みてきた。今村氏はその一つ一つの解釈を詳しく取り上げ、問題点を検討する、という手法で論を展開してゆく。たとえば、Personを「身体」と解した上で身体の拡張として所有権を捉える解釈、神からの信託という観念に基づく理解、などが検討の対象とされてゆく。今村氏は、身体の拡張説に対しては、そもそも最初のpersonの所有権に対する説明を欠くものであると批判し、神からの信託説に対しても普遍的な説明力を獲得しえないと論じる。その上で、ロックのテキスト上は、労働が価値を創造し、その功績によってその価値物を所有するに至る、という考え方が自然な理解であると論じ至る。そうした理解を経て、次に第三章で今村氏は、二つのロックの但し書きの意義を論じる。二つのロックの但し書きとは、「他の人にも十分なものが残されている限り」、「浪費したり損傷したりしない限り」において、労働による所有権を認める、という趣旨のロックの議論のことを指す。今村氏は、このロックの但し書きの中に、他のpersonの持つ権利の侵害を禁ずる、という含意が伴われているとして、それは自然法の条項に従うものであると論じる。そしてその点を、第四章で『利子・貨幣論』でのロックの議論を引きながら、発想の一貫性を浮き彫りにするような形で詳しく跡づける。

このような線で理解されるロック所有権論は、結局、「personに対する所有権」という最初の問題を解きほぐすことで真の姿が浮かび上がってくる。今村氏は、第五章でこう論じ進め、ここでの「person」は『人間知性論』の「人格同一性」についての議論で論じられる「人格」と同じである、ということを、ロックの二つのテキストを対比させながら解き明かしてゆく。そして最後に第六章で、こうしたロックの所有権論の環境倫理への適用可能性が論じられる。ロックの議論は、どんどん開発を進めてゆくことを称揚するフロンティア倫理の代表のように捉えられがちだが、実は、ロックの但し書きが明らかに示しているように、ロックの議論の中にはむしろ開発を適切に抑制する思想が胚胎されていた。しかも、国際関係はいまでも実質的に自然状態にあることを考えるならば、ロックの所有権論が現代の環境問題に与える示唆は決して小さくない。どのように開発しどのように抑制するか、それを探究することがまさしくロック的な意味での「労働」の究極の姿なのである。今村氏はそう結論づける。

刑罰論との連関づけの不足など、本論文にはやや不満も残らないでもないが、ロック所有権論に関する首尾一貫した議論展開と、現代的問題への結びつけは鮮やかである。よって、博士(文学)の学位を授与するに十分値する論文であると判断する。

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