学位論文要旨



No 124271
著者(漢字) 河添,悦昌
著者(英字)
著者(カナ) カワゾエ,ヨシマサ
標題(和) 診療支援システムへの応用を目的としたオントロジーに基づく診療情報表現モデルに関する研究
標題(洋)
報告番号 124271
報告番号 甲24271
学位授与日 2009.03.04
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3177号
研究科 医学系研究科
専攻 社会医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大橋,靖雄
 東京大学 教授 山田,芳嗣
 東京大学 教授 吉田,謙一
 東京大学 准教授 井上,和男
 東京大学 特任准教授 小出,大介
内容要旨 要旨を表示する

1.緒言

1.1.背景

診療情報の電子化を医療の質の向上に結びつけるための方法の一つとして、計算機による診療支援が挙げられる。計算機による診療支援を実現するためには、計算機可読な形式で記述された専門家の知識が必要となる。計算機によって現実世界のモデル化を行う際、我々は対象領域にある「概念の存在」を認知し、それに対して「概念化」を行うことで概念を抽出する。概念化とは他の概念との違いや概念間の関係を同定することでその概念を特徴づける作業である。通常は対象領域の概念化に関して無意識的・暗黙的に行われる情報モデルの構築において、これを意識的・明示的に行ったものをオントロジーと呼ぶ。一方、病院情報システムで扱われる診療データは電子カルテシステムやオーダリングシステム、およびレセプト電算システムでの利用を前提としたものであり、計算機間での誤解のないデータ交換と迅速な応答の実現を目的とする。そのため診療データベースにおける情報モデルの構築にはデータの堅牢性と処理速度が優先され、医学領域を対象とした概念化は行われない。このような設計意図を持った情報モデルに対して医学の概念体系に沿った知識に基づいて診療データを利用するには困難を伴う。本研究ではこの困難が次の3種類の情報モデルのミスマッチによって生じると捉えこれに着目する。1. 情報モデル構造のミスマッチ。これは診療データベースの情報モデルが、データ間の上位・下位の概念間関係を表現しないことに起因する。2. 情報項目表現のミスマッチ。これは診療データベースで使用されるマスタデータが医学的な概念との対応付けが行われていないことに起因する。3. 時間表現のミスマッチ。これは診療データがタイムスタンプデータによる時間の表現を持つことに起因する。

1.2.研究の目的

本研究は前述の情報モデルのミスマッチに着目し、オントロジーに基づく診療情報表現モデル(以下、診療情報オントロジー)によって、診療データをより利用しやすくする手法を提案する。また、提案手法を応用して患者の病態を考慮した医師の処方オーダに対する警告システムを試作し評価を行う。

2.提案手法

2.1.手法の概要

本研究では診療情報オントロジーを開発しこれを仲介モデルとして利用することで情報モデルのミスマッチを改善する手法を提案する。これを実現することでSWRL(Semantic Web Rule Language)を利用した概念に基づく問い合わせ表現とその実行が可能となる。提案手法の概要を図1に示す。

2.2.概念に基づく問い合わせ表現

診療情報オントロジーに診療データが記録され、Temporal abstractionが行われたと仮定すると概念に基づく問い合わせ表現とその実行が可能となる。図2に腎不全時におけるジゴキシンの過量投与を検出する問い合わせ表現の例を示す。

3.応用システムの試作

3.1. システム設計

提案手法を応用して患者の病態を考慮した医師の処方オーダに対する警告システムを試作した。従来の病院情報システムで実現される患者安全を目的とした機能としては、処方オーダの禁忌チェック機能や、検査結果の異常値チェック機能などが代表的である。しかしながら、このような機能は単一の部門システムで扱われる診療データに対してのみ妥当性の判定が行われるため、異なる部門システムで扱われる診療データを組み合わせて妥当性の判定を行うことは困難である。この問題に対し、開発した診療情報オントロジーを一種のデータベースとして利用し、各部門システムから発生する診療データをこのオントロジーに記録することで、異なる部門システムで扱われる診療データを組み合わせて妥当性の判定を行う方法を取る。妥当性の判定は前述のSWRLによって記述した概念に基づく問い合わせ表現によって行った。システムの構成を図3に記す。

3.2. システムの評価

3.2.1.警告ルール

本病院で採用される2219種類の処方薬のうち、それらに含まれる1117種類の薬剤成分を対象として総数1294の警告ルールを記述した。ルールを便宜上次のように分類した。(1) 併用禁忌:併用禁忌の薬剤を検出するルール、(2) 相互作用:2薬剤の相互作用により生じたかもしれない腎障害・肝障害を検出するルール、(3) 腎障害用量規制:腎障害時の薬剤の過量投与を検出するルール、(4) 肝障害時注意:肝障害時の投与注意の薬剤を検出するルール。

3.2.2.評価方法

評価には本病院における2008年5月から8月までの3カ月間に発生した入院患者の処方オーダと臨床検査結果を用いた。これらのデータを知識処理サーバで処理し、出力された警告全件に対して診療端末から確認することのできる診療データと比較し警告の適切性について判断を行った。

3.2.3.評価結果

システムは3カ月間の診療データに対して合計615回の警告を出力した。警告の内訳は併用禁忌の警告が18件(3%)、相互作用の警告が100件(16%)、腎障害用量規制の警告が445件(72%)、肝障害時注意の警告が52件(9%)であった。615件の警告のうち346件(56%)を適切、269件(44%)を不適切と判断した。不適切と判断した269件の警告のうち192件をデータの品質不足によるものと分類し、77件の不適切な警告を不十分なTemporal Abstractionによるものと分類した。

4.考察

4.1. 提案手法の考察

本研究は医学領域の概念化を考慮した診療情報の表現モデルを開発し、これを時間のモデルと結合することで診療イベントを表現する診療情報オントロジーを開発した。このオントロジーを仲介モデルとして利用することで、医薬品の成分名や薬剤の投与経路、および病態を用語として用いる問い合わせ表現によって診療データが利用可能となることを示した。この概念に基づく問い合わせ表現はSQLを用いて診療データベースへ問い合わせを行う場合と比べ、医療者にとってはより直観的であると考える。また、応用システムの開発においては医師の処方オーダに対する警告ルールを記述したが、診療情報オントロジーを利用することで様々な診療データに対する警告ルールを記述することが可能となる。例えば、グルコース投与の影響によってポジトロン断層撮影(Positron Emission Tomography; PET)検査の精度が低下するのを防ぐために、このような投薬オーダを事前に検出するためのルール表現が可能である。

4.2. 試作システムの考察

試作システムの評価を行った結果いくつかの改善すべき点が明らかとなった。一つは診療データの品質不足に由来する不適切な警告であり、これは試作システムの評価に用いた処方オーダが患者の投薬に直接反映されていなかったことが原因であった。本病院ではオーダした処方薬を投薬指示システムに取り込み、このシステムにおいて投薬スケジュールを作成する仕組みを採用している。そのため、実際に投薬指示が行われた薬剤よりも多くの処方がオーダされていたケース、またオーダされていたものの実際には使用されなかったケースが存在し、処方オーダを投薬データとして扱うには精度が十分ではなかった。この問題に対しては、利用するデータを処方オーダから投薬指示システムのデータに変更することでデータの品質を改善することが可能であると考えられた。また、不十分なTemporal Abstractionを原因とする不適切な警告が生じた。これは利用できる診療情報の種類が限られていたことから、臨床上のコンテキストを十分に判断することができなかったことが原因であった。

5.結論

本研究では医学領域の概念モデルと診療情報が記録されるリレーショナルモデルとの間に存在する情報モデルのミスマッチに着目し、新しく開発した診療情報オントロジーを仲介モデルとして活用することでこれを改善する手法を提案した。提案手法によって概念に基づくルール表現が可能となり、これを用いて投薬に関する警告ルールを記述・実行することができた。また、医師の処方オーダに対する警告システムの試作を行うことで、提案手法が実際に応用可能であることを示した。

試作システムの限界は、診療データの品質不足と不十分なTemporal Abstractionを原因とする不適切な警告が発生したことが挙げられる。診療データの品質不足に関しては使用するデータを、処方オーダから投薬データに変更することで改善が可能であると考えられた。また、不十分なTemporal Abstractionに関しては今後、より多くの種類の診療データが利用可能となることで改善が可能であるものと考えられた。

図1: 提案手法の概要。提案手法は3要素から構成される。1. OWL(Web Ontology Language)を用いた診療情報オントロジーの開発。診療情報に見られる医学的な概念と概念間の関係を考慮しながら診療情報の表現定義を行い、これらを時間のモデルと結合することで診療イベントを表現する。2. 診療データのマッピング。テーブル構造の情報モデルに記録される診療データを階層構造によって表現される診療情報オントロジーに記録するための対応を取る。3. Temporal Abstraction。時点によって時間表現が行われる検体検査結果のようなデータから、オントロジーに表現されるより高レベルな概念のデータを得るために行う。例えば、ある2つの時点で得られる検体検査結果 [AST, 500IU/L, t1]と[ALT, 700IU/L, t2] から重度の肝障害が持続している状態を表す[肝障害, 重度, p1] を導出する。

図2: 腎不全時におけるジゴキシンの過量投与を検出する表現。太字のゴシック体はクラス名を表しており、イタリック体はクラス間に付けられた関係の名前を表す。また、太字のイタリック体はSWRLの述語である。この表現式は、(1) ジゴキシンを成分に持つ薬剤が投与されている、(2) 腎障害が存在する、(3) ジゴキシンの投与量が0.125より多い、(4) 腎障害が中等度である、(5) 腎障害の存在期間とジゴキシンの投与期間が重なっている、のいずれも真である場合に満たされる。

図3: システムの構成。矢印はデータの流れを意味する。1. 統合データベースサーバは病院情報システム内の複数の部門システムと接続して診療データを取得する。データ取得サーバはこれらのデータを研究利用するために開発され、サブセットとなるデータを含むものである。2. 知識処理サーバは取得した診療データに対して警告ルールを実行する。3. 警告通知サーバは発生した警告を医師に通知する。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は電子的に記録される診療データの医療者による二次利用が困難であるという問題に対し、これを新しく開発した診療情報オントロジーによって改善する手法を提案し、その応用として診療支援システムの試作を行った。

本研究の提案手法はまず、診療情報に見られる医学的な概念とそれら概念間の関係を考慮しながら、これらをWeb Ontology Languageのクラスとプロパティによって表現する診療情報オントロジーの開発を行う。次に、診療データベースの各情報項目と診療情報オントロジーの各クラスとの対応付けを行うことで、診療データをオントロジーのインスタンスとして記録する。また、時点によって時間表現がなされる検体検査結果のような診療データから、診療情報オントロジーに表現されるより高レベルな概念のデータを得るためにTemporal Abstractionを行う。これらを実現することで、Semantic Web Rule Languageを用いた概念に基づく問い合わせ表現によって診療データを利用することが可能となる。

提案手法を応用して医師の処方オーダに対して警告を行うシステムの試作を行った。このシステムは病院内の異なる部門データベースから発生するデータである処方オーダと臨床検査結果を診療情報オントロジーに記録し、前述の概念に基づく問い合わせ表現によって記述した警告ルールを実行するものである。試作システムの評価は、東京大学付属病院における過去3ヶ月間の期間に得られた既存診療データに対して、総数1,294の投薬に関する警告ルールを実行し、得られた警告全件に対して診療端末上から確認できる診療データと比較することで行われた。結果、得られた615件の警告のうち192件(31%)が処方オーダのデータの精度不足を原因とする不適切な警告と判断され、77件(44%)がTemporal Abstractionを行うためのパラメータの設定方法に起因する不適切な警告と判断された。

本研究の提案手法に関する限界は、診療情報オントロジーの質の保証をどのようにして行うのかという点、および診療データのマッピングにコストがかかる点に対して有効な手法を提示できなかったことが挙げられ、これらの点の解決が課題として残された。また、試作システムの限界は処方オーダのデータの精度不足と不十分なTemporal Abstractionを原因とする不適切な警告が発生したことが挙げられ、使用するデータを処方オーダからより精度の高い服薬データに変更し、状態の変化の概念を取り入れたTemporal Abstractionを導入した上でシステムの再評価を行うことが課題として残された。

以上、本論文は診療情報オントロジーの開発とその利用手法を示し、概念に基づく問い合わせ表現によって診療データが利用可能となることを試作システムの開発を通して示した。本研究は、診療データの二次利用という注目されるテーマに対して新規性の高い手法を提案するものと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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