学位論文要旨



No 124281
著者(漢字) 小嶋,美由紀
著者(英字)
著者(カナ) コジマ,ミユキ
標題(和) 中国語における人称代名詞の非指示化と非現実ムード : 授与を表す構文を中心に
標題(洋)
報告番号 124281
報告番号 甲24281
学位授与日 2009.03.06
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第858号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 クリスティーン,ラマール
 東京大学 教授 楊,凱栄
 東京大学 教授 木村,英樹
 東京大学 准教授 藤井,聖子
 東京大学 准教授 西村,義樹
内容要旨 要旨を表示する

本稿は、中国語における授与を表す構文を中心に、それと同一の構文スキーマを有する拡張構文について、その構文に含まれる非指示的な人称代名詞と非現実ムードの関係を考察したものである。本稿は主に、共通語における二重目的語構文、台湾〓南語及び東勢客家語における授与使役構文、共通語及び西北方言における受益構文を考察対象とする。これらの構文は全て、動作主(主語)が受け手に向けて、意図的にモノ或いは行為の影響を与えるという授与行為を表す。そして、それぞれの構文の拡張構文は、常に非現実(irrealis)の事態を叙述する文(非現実文)にのみ生起し、現実(realis)の事態を表す文(現実文)には生起しないというムード制約を持つ。

上述の3構文(二重目的語構文、授与使役構文、受益構文)の拡張は、更に2パターンに分けられる。その1つは、共通語の二重目的語構文や台湾ビン南語、東勢客家語などの授与使役構文に見られる拡張パターンで、モノや行為の受け手を表す三人称代名詞が、拡張過程で非指示化し、非現実文にのみ生起する構文になるというものである。このパターンの拡張構文が生起する非現実文の意味文脈は、話し手の意志表明を主としながらも、命令、誘いかけ、条件・仮定、義務、可能性・習慣など広く表すことができる。もう1つの拡張は、共通語や西北方言の受益構文に起こる拡張パターンであるが、拡張過程において行為の受け手(受益者)が一人称代名詞(共通語は一人称単数、西北方言は包括系)に限定されていき、非現実の意味文脈の中でも特に、発話内行為効力(illocutionary force)と関わる領域に制限されるというものである(共通語では命令、西北方言では命令および意志表明)。本稿はこれら二つの拡張パターンを別々に考察し、その共通点と相違点も考察している。

本稿は6章から成る。以下に各章ごとの要点を記述する。

序章は主に中国語における現実・非現実の言語化の仕方について述べる。

第2章、第3章は、共通語における二重目的語構文[N1+V+N2+N3[NuCL+N)]](例:我給他一本書'私は彼に一冊の本をあげる')について、その典型構文と拡張構文[V ta ~](ta=非指示的な三人称代名詞、~=数量表現)(例:睡他両三天'二三日眠る',玩儿他个痛快'思い切り遊ぶ')に共通する構文スキーマを提示し、その拡張過程を考察する。拡張過程においては、第1目的語N2の三人称代名詞が指示対象をなくし非指示化するという変化に伴って、その構文が現実文では用いられないというムード制約が起こる。そしてそれは、共起する動詞Vのタイプ(動作行為の影響を被る他者を必要とするか)や第2目的語"~"(何を指向するか)など他の文法要素と相関関係がある。典型的二重目的語構文が表す意味は、主に、N2が受け手(recipient)である授与意(例:我給他一本書)と、被奪者である取得意(例:我奪了他一本書'私は彼から一冊の本を奪った')がある。本稿は、[V ta~]構文への拡張を促進したのは、取得意よりもむしろ授与意であると主張する。なぜなら、授与行為は、主語(与え手)が、自身に所有権がある事物を移送させる行為であるということから、動作行為実現に対してもコントロールを持つということができ、このコントロールが、未実現の事態実現に向けた話し手の強い意志と深い関わりがあると考えるからである。しかし、授与意の典型的二重目的語構文が既然の事態を述べることができることからも明らかなように(例:我給了他一本書。'私が彼に一冊の本を与えた')、授与意がムード制約を生む唯一の条件ではない。もう一つの重要な条件は、N2、すなわち授与行為の受け手である三人称代名詞"他ta"が非指示的であるということである。そのことは、N2に置かれた三人称代名詞が指示的である場合は現実文にも生起できることからもわかる(例:昨天我打了他个落花流水'昨日私は彼をこてんこてんに殴った')。また、[V ta~]構文から非指示的な三人称代名詞"他ta"を除いた構文も、現実文で用いることができる(我昨天玩儿了个痛快。'昨日私は思い切り遊んだ')。つまり、非指示的な三人称代名詞"他ta"の有無もムード制約に大きく関わっていることを示している。[V ta~]構文が、話し手の強い意志を表すのは、話し手が、実在しない受け手を三人称代名詞で設定してまでも表したかった二重目的語構文の意味、すなわち授与意が有する主語の強いコントロールが際立つからである。

第4章は、台湾ビン南語や東勢客家語における授与使役構文[N1+VP1+GIVE+N2+VP2]、(例:"我買西瓜與伊食"'私はスイカを買って彼に与えて食べさせようとする')を考察対象とし、その拡張構文[V+GIVE+3SG+AP](例:台湾ビン南語"〓與伊歡喜"'楽しく遊ぶ')に共通するスキーマ及び拡張過程を考察する。当該構文の構文的意味において重要なのは、主語N1がVP1による行為の影響をN2に与えるという授与行為が介在していることである。典型構文から拡張構文への拡張過程において、N2(VP1による行為の影響の受け手)の三人称代名詞が非指示化するにつれ、構文が現実文に生起できないというムード制約が生じる現象が起こる。そしてそれには共起するVP2の変化(動詞性述語から状態性述語へ)やVP1の変化(動作行為による影響を被る他者の存在が有から無へ)など他の文法要素との相関関係がみられる。このように、授与使役構文の拡張も、第2章、第3章で考察した二重目的語構文の拡張同様、受け手N2の三人称代名詞の非指示化とスキーマ的意味が表す授与意が、拡張構文が有する非現実ムード性に関与していることが示唆される。

第5章は、共通語と西北方言(山西省、陝西省、内モンゴルの一部で話されている方言)の受益構文[N1給N2+VP]における拡張を考察する。両言語の受益構文が表すスキーマ的意味は「N1がN2のためにVPする」であり、拡張の結果、受益者N2が一人称代名詞に限定された命令文"汝給我VP"(例:汝給我〓!'出ていけ!')になる 。西北方言では更に、N2が包括系一人称複数"〓"に限定された命令文"汝(給)〓VP"(例:汝(給)〓去。'言ってきてくれる')と意志表明文"我(給)〓VP"(例:我(給)〓去。'行ってくるね')に拡張する現象も見られる。一人称単数を受益者に置いた命令文"汝給我VP"は、聞き手に対する非常に強い強制的な語気を伴うが、包括系一人称複数を受益者に置いた命令文"汝(給)〓VP"は命令の語気を和らげる効果を持つ。本稿では、このような語調の差は何に起因しているのかについても考察を行う。

第6章は、粤語(広東語)、上海語、共通語における三人称再述代名詞(resumptive pronoun)を含む文を考察している。これらは、授与行為を表す構文とは直接的な関わりはないが、指示性が弱い余剰的な三人称代名詞を含み、非現実文でのみ生起するというムード特徴と動作主の強い意志性(意図性)を有することから、第2章から第4章で考察してきた拡張的二重目的語構文[V ta~]、及び拡張的授与使役構文[V+GIVE+3SG+AP]に共通するメカニズムを探る。そして、これら3種の構文に共通して含まれる非指示的な三人称代名詞は、動作行為の受け手を表す(もしくは受け直す)点で一致していることがわかる。潮州方言における非対格動詞を用いた受動構文に、非指示的な三人称代名詞が含まれる例がみられるが、これは動作主の意味役割を持つ。また、この構文にはムード制約もない。よって、非指示的な三人称代名詞の存在が非現実ムードと関わるのは、動作行為による影響の受け手の意味役割を有するときであると推測される。

拡張的二重目的語構文や拡張的授与使役構文のムード制約に関しては、これまで先行研究でも指摘されていたが、その要因に関する考察がなかった。本稿は、構文のスキーマ的意味が表す授与意と、拡張による受け手を表す三人称代名詞の非指示化というこの2点が、非現実ムード、特に話し手の強い意志表明に関与していることを示唆している点で独創的である。しかしなお、問題点も残されている。たとえば、授与を表す構文の拡張構文は、行為実現に対する話し手の強い意志を表すことが主たる機能であるといえるが、命令、誘いかけ、反実仮想、習慣など、意志表明以外の非現実を表す文脈にも用いられる。これらの意味文脈と、授与意が持つ強い意志性とはどう関わるのだろうか。

また本稿では、各章において中国語の構文拡張と類似した現象を有する他言語についても考察されている。例えば、第2章、第3章の二重目的語構文の拡張との関連では、英語の二重目的語構文(軽動詞構文)[give it a VN](例:"I will give it a rest.")、第4章の授与使役構文の拡張との関連ではタイ語の授与使役構文[N1+VP1+hai+N2+VP2]、第5章の受益構文の拡張との関連では、日本語の受益構文「てやる」、「てくれる」文(例:絶対金持ちになってやる、出ていってくれ)などである。受け手を表す三人称代名詞の非指示化には言語差があるにしても、少なくとも上述の言語においては非現実文でのみ生起する構文への拡張が見られる。

今後は中国語における非現実ムード内の相互関係を浮き彫りにするとともに、類型論的な視点を取り入れ、授与を表す構文がその拡張過程でムード制約を帯びるようになる現象が、中国語特有のものなのか、地域的なものなのか、それとも系統的に異なる言語にも見られるのかについても追究していく。

審査要旨 要旨を表示する

小嶋美由紀氏の博士論文「中国語における人称代名詞の非指示化と非現実ムード- 授与を表す構文を中心に」の審査結果について報告する。

中国語(共通語及び諸方言を含む)には、指示対象を持たない非指示的な三人称代名詞(例:"他 ta"、"伊i"など、方言によって語形が異なる)を含む構文が数種類ある。本論文はとりわけ非指示的な三人称代名詞を含む構文のうち、授与と関わる二重目的語構文と授与使役構文に着目し、代名詞の非指示化を伴う構文拡張と非現実ムードの関係を追及する。従来の研究では、非指示的な"他"を含む文は非現実文(命令・意思表明・誘いかけや、条件・仮定、義務、可能性・習慣などを表す文)のみに生起し、現実事態の叙述には使用されないというムード制約は指摘されていたが、複数の構文を対象とする体系的な考察はなく、構文拡張の観点からの説明を試みる研究もなかった。本論文はとりわけ非指示的な三人称代名詞が用いられる動機、考察の対象となる各構文における非指示的な三人称代名詞の意味役割、非現実ムードに制約される要因等について論じている。本論文は構文文法(Construction Grammar)の枠組みを用いて、ソースとなる構文と拡張構文が共有する構文スキーマを提示し、構文の各構成要素が拡張過程において被る変化を分析する。

本論文は6章からなる。序章は主に現実・非現実といった概念と、中国語における現実・非現実の言語化の仕方を紹介している。

第2章、第3章では、中国共通語の二重目的語構文と関わる数種類の拡張構文を考察する。非指示的な三人称代名詞の意味役割は、二重目的語構文におけるモノや行為の受け手である。執筆者は、拡張構文が表す行為遂行に対する動作主の強い意図性は、当該構文に含まれる授与意に起因すると主張している。この章ではまた、この拡張構文の様々なサブタイプの繋がりについても考察する。

第4章では、中国の東南部で話される台湾〓南語や同じく台湾の東勢客家語における授与使役構文[名詞1+動詞1+give+名詞2+動詞句2]の拡張構文[名詞1+動詞+give(+非指示的三人称代名詞)+形容詞句]を考察する(例:"我想要好好仔要與伊歡喜"「思い切り楽しく遊んでやる!」)。授与使役構文の典型例と拡張例に共通するスキーマ的意味は「名詞1は意図的・直接的に動詞句1を通じて名詞2(つまり三人称代名詞)に動詞句2させようとする」である。執筆者は、この構文が主語「名詞1」から「名詞2」に向けた事物・行為の授与行為が関与している使役構文であることに着目し、共通語の二重目的語構文の拡張同様、拡張構文が持つ主語(動作主)の強い意図性と授与意の関連を分析する。また、非指示的な三人称代名詞は「名詞2」の位置に置かれることから、事物や行為の受け手という意味役割を継承していると指摘している。

第5章では、中国の共通語と西北方言の受益構文[名詞1+給+名詞2+動詞句](名詞1は名詞2のために動詞句の表す行為をする、"給"は「与える」に由来する前置詞)とその拡張を論じている。受益構文の拡張は、第2章から第4章まで考察した二タイプの構文(二重目的語構文、授与使役構文)の拡張とは異なり、受益者が一人称代名詞に限定される(共通語は一人称単数"我"、西北方言は一人称包括形の"〓")。この章では、構文は拡張によって命令や意志表明といった発話内行為効力(illocutionary force)と関わる領域に制約されていく過程を分析し、更に日本語の「~てやる/~てくれ」と対照する。

第6章では、粤語(広東語)、上海語、共通語における三人称再述代名詞(resumptive pronoun)を含む文を考察する。再述代名詞を含む文は非現実文だけに生起し、動作主の行為遂行に対する強い意志を表している点においては二重目的語構文・授与使役構文と類似する。非指示化する再述代名詞は二重目的語構文や授与使役構文における代名詞同様、動作の受け手であるが、意味役割は授与行為における受け手ではなく、動作行為の受動者である点において異なる。

以上の考察を通じて、執筆者は非指示的な三人称代名詞が生起する条件を、共起する動詞や他の要素との関係で捉え、同じ構文スキーマを有する構文群の典型例から拡張例に到る拡張過程を提示し、三人称代名詞の非指示化とムード制約の相関関係を分析する。その結果、ムード制約を有する構文へと拡張していく条件として、(1)非指示化する三人称代名詞は行為の影響を被る着点(終結点)という意味役割を有する「受け手」に限定される、そして(2)授与の意味を含む構文である、という2点を挙げている。なお本論文が研究対象とする授与と関わる構文の拡張現象は、中国語に限らず、日本語(例:「絶対金持ちになってやる」)、英語(例:"I will give it a rest.")、タイ語などの言語においても類似する現象が見られることに言及している。

以上述べたように、本論文は、非指示的な代名詞を構成要素とする中国語の拡張的二重目的語構文について、その構文的特徴を明らかにし、それらの特徴と、当該構文の意味的な拡張過程の関係を追及する研究である。本論文は先行研究が集中していた共通語のほかに客家語と〓(ビン)南語における授与使役構文に考察を広げ、当該構文に関わる意味的現象の一般化を試みた点に独創性があり、中国語の構文研究に優れた貢献を果たしている。

とはいえ、論文に不備や問題がなかったわけではない。審査委員から、対象となっている構文と中国語のほかの非現実ムードをもつ構文との意味上の違いに関する議論が不十分であるという指摘があり、また文章表現や概念規定に関して、学術論文としての厳密さにやや欠ける箇所が少なくないことなど、いくつかの改善すべき点が指摘された。しかし、これらの指摘は本論文の学術的価値を否定するものではない。以上述べ来ったように、本論文は指摘されたような不備を残してはいるが、従来この分野の研究に見られない総括的な分析を提示し、また類似した拡張現象は標準語以外の漢語の地域変種にもみられることを示したものとして、学術的価値が極めて高い研究であり、今後この分野の研究においては欠かすことのできない必読文献であり続けるに違いない。

よって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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