学位論文要旨



No 124302
著者(漢字) 辻,香織
著者(英字)
著者(カナ) ツジ,カオリ
標題(和) 日本におけるドラッグラグの現状と要因 : 新有効成分含有医薬品398薬剤を対象とした米国・EUとの比較
標題(洋)
報告番号 124302
報告番号 甲24302
学位授与日 2009.03.11
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1284号
研究科 薬学系研究科
専攻 生命薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 特任教授 津谷,喜一郎
 東京大学 教授 関水,和久
 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 特任教授 木村,廣道
 東京大学 特任教授 澤田,康文
 東京大学 特任教授 磯貝,隆夫
 東京大学 准教授 小野,俊介
 日本大学 教授 白神,誠
内容要旨 要旨を表示する

1. 背景

有用な治療薬へのアクセスは,世界のどの地域においても可能であることが望まれる。しかし,ある国では利用可能な医薬品が他国では利用できない「ドラッグラグ」が存在する。

2000年代に入り,日本におけるドラッグラグは注目を集めるテーマとなった。しかし,従来の研究は対象に偏りがあり,その全体像は未だ把握されていない。2006年7月,厚生労働省は「審査官増員により審査期間を短縮し,承認ラグを2.5年短縮してドラッグラグを解消する」との目標を掲げたが,世界売上げ上位品目の調査結果に基づく数値目標の妥当性,施策の実効性については疑問である。適切な解決策を見出すためには,全体像を把握し,要因分析を行って問題を抽出する必要がある。

そこで,米国,EU,日本において承認された新有効成分含有医薬品(以下,新医薬品)を網羅的に対象とし,主要3市場におけるドラッグラグ全体像の現状分析を行い,重回帰分析とサブグループ分析により日本におけるドラッグラグの要因分析を行った。

2. 方法

(1)分析対象新医薬品と収集データ

米国,EUおよび日本において1999年から2007年の間に承認を取得した新医薬品をリストアップし,表1に示すデータを収集した。「臨床的重要度が高い薬剤」の選択基準は,i) 米国においてFast Track指定あるいは Priority Reviewの対象となった薬剤 ii) 日本において優先審査の対象となった薬剤あるいは「未承認薬使用問題検討会議」で開発促進が決定された薬剤とした。

(2) 米国, EU, 日本におけるドラッグラグの現状分析

絶対的ドラッグラグの指標である「承認割合」,相対的ドラッグラグの指標である「世界初承認割合」,「承認ラグ中央値」について,3地域比較を行った。

(3) 日本におけるドラッグラグの要因に関する分析

下記の分析を行った。計画立案と結果の解釈に際して詳細な情報を得るため,製薬企業・臨床医へのインタビューを行った。

1) 「承認ラグ」を被説明変数とし,各要因を説明変数とした重回帰分析。

2)「承認割合」,「承認ラグ中央値」,「審査期間」,「世界初承認時の日本における開発状況」を評価項目としたサブグループ分析。

3. 結果

(1) 分析対象新医薬品

1999年から2007年に日米EUのいずれかにおいて承認された新医薬品398薬剤。

(2) 米国, EU, 日本におけるドラッグラグの現状分析

承認割合は,米国 81.7% (325/ 398), EU78.9% (314/ 398),日本 55.3% (220/ 398)であった。世界初承認割合は,米国 50.8% (202/ 398), EU34,9% (139/ 398),日本13.1% (52/ 398)であった。承認ラグ中央値は,米国0ヶ月, EU2.7ヶ月,日本 41.0ヶ.月であった。

(3) 日本におけるドラッグラグの要因に関する分析

1) 重回帰分析

図1に示すように,承認ラグを大きくする方向に影響度が大きい要因(標準回帰係数が1%水準で有意)は,「海外オリジン」と「神経系の薬剤」であり,臨床的重要度の影響はみられなかった。承認ラグを小さくする要因として比較的影響力の大きいものは,「予測市場規模が大きい」,「HIV 感染症治療薬」,「HIV以外の感染症治療薬」であった。

2) サブグループ分析

i) オリジネーター国籍別,臨床的重要度別サブグループ分析

オリジネーター国籍別にみると,日本オリジンの薬剤の承認割合は,米国382%( 21/55), EU30.9% (17/55),日本94.5%(52/55)であった。海外オリジンの薬剤の承認割合は,米国88.6% (304/343), EU86.6% (297/343),日本49.0%(168/ 343)であった。

オリジネーター国籍と臨床的重要度によるサブグループ分析の結果を表2に示す。臨床的重要度が高い海外オリジンの薬剤群(135薬剤)で日本の承認割合は最も低く(46.7%),承認ラグ中央値は41.5ヶ月であった。この薬剤群の審査期間中央値は13.3ヶ月と他の薬剤群に比べ小さく,米国より約7ヶ月長い程度であり,EUより2ヶ月短かった。

ii) 海外オリジンの薬剤の日本における開発着手時期に関する分析

臨床的重要度が高い海外オリジンの薬剤群(135薬剤)では,世界初承認時に日本において申請済みであった薬剤は10薬剤 (7.4%,うち6薬剤はHIV感染症治療薬)のみであり,47薬剤(34.8%)は治験実施中,78薬剤(57.8%)は開発未着手であった。この78薬剤のうち38薬剤は現在も開発が行われておらず,「未承認薬使用問題検討会議」で開発促進すべきとされた18薬剤(稀少癌、先天性代謝異常症,小児てんかんの治療薬)が含まれる。

iii) 世界初承認時の日本における開発状況と予測患者数・予測市場規模との関係

臨床的重要度が高い海外オリジンの薬剤のうち日本で承認されている51薬剤について,世界初承認時の日本における開発状況と予測患者数・予測市場規模との関係を図2に示す。

世界初承認時に日本において開発未着手であった薬剤は,予測患者数が少なく(中央値:開発着手済み= 7,600人,開発未着手=550人),予測市場規模が小さい(中央値: 開発着手済み=532億円,開発未着手=13.7億円)傾向がみられた。患者数がきわめて少ない,あるいは市場規模が小さい稀少癌治療薬や先天性代謝異常症治療薬で開発着手遅延が生じていることが示された。

4. まとめと考察

(1) 米国, EU ,日本におけるドラッグラグの現状

新医薬品承認に関し,米国が最も進んでいるが,米国・EU間に大きな差はみられない。一方,日本には顕著なドラッグラグがみられる(承認割合55.3%,承認ラグ中央値41.0ヶ月)。

(2) 日本におけるドラッグラグの要因

1) 日本オリジンの薬剤の大半は日本で早く承認されており,日本におけるドラッグラグは海外オリジンの薬剤の承認の遅れといえる。

2) 承認ラグの構成要素のうち大きいものは,審査の長期化ではなく開発着手の遅れである。

3) 臨床的重要度は早期開発のインセンティブとはなっていない。

4) 臨床的重要度が高い海外オリジンの薬剤の開発着手遅延が最大の問題である。

5) 開発着手遅延の要因として,i) 患者数がきわめて少数,あるいは市場が小さいii) 日本法人が存在しない,日本でのライセンス先が決まらないなどが考えられる。神経系,稀少癌,先天性代謝異常症ではこれらの要因が重複してみられる。

(3) 施策のあり方

1) ドラッグラグ解決を目的とした現行施策は治験と審査のスピードアップを目指したものであり,開発着手遅延に対しては有効ではない。

2) 下記の解決策が有効と考えられる。

i) 世界での開発開始時点での情報共有(産官連携による情報収集とライセンシング促進)。

ii) 超稀少疾患治療薬へのHIV方式の適用と仮承認制度の導入。

iii) オーファンドラッグ制度の見直し(超稀少疾患治療薬開発へのインセンティブ拡大)。

iv) ドラッグラグの存在を前提としたコンパッショネートユース制度の整備。

表1.収集データ

図1. 各要因の標準回帰係数

表2. オリジネーター国籍と臨床的重要度によるサブグループ分析

図 2. 世界初承認時の日本における開発状況と予測患者数(上)・予測市場規模(下)との関係

審査要旨 要旨を表示する

人類の健康維持にとって優良な医薬品の使用は重要である。ある疾患の有用な治療薬が存在する場合,世界のどの地域においてもその医薬品へのアクセスが可能であることが望まれる。しかし,さまざまな理由により,ある国では使用可能な医薬品が他国では使用できない「ドラッグラグ」が存在する。2000年代に入り,日本におけるドラッグラグは注目を集めるテーマとなった。日本製薬工業協会医薬産業政策研究所は,2004年の世界売上げ上位品目88製品を対象とした調査を行い,日本で上市されている製品は60薬剤(68%)であること,世界初上市から日本での上市までの平均期間(タイムラグ)は,最もタイムラグが短い米国とイギリスに比べ約2.5年長いことを指摘した。この結果を受け,2006年7月,厚生労働省は「審査官増員により審査期間を短縮し,承認ラグを2.5年短縮してドラッグラグを解消する」との目標を掲げた。

しかし,世界売上げ上位品目を対象としたデータは全体像を表していない。売上げ上位にある薬剤群は,高血圧治療薬,高脂血症治療薬,抗うつ剤などであり,製薬企業が積極的に開発・マーケティングを行うことから,同じ作用機序を有する数種類の薬剤が売上げ上位に名を連ねている。一方,ドラッグラグが臨床的に問題となる治療領域は,標準的治療法が確立されていない重篤稀少疾患などであると考えられる。売上げ上位品目での調査結果に基づいた数値目標の妥当性,施策の実効性には疑問がある。議論の基礎となるデータが存在しない限り,適切な施策を講ずることもその評価を行うことも困難である。

本研究の目的は,日本におけるドラッグラグの現状を把握し,その要因に関する示唆を得ることである。具体的には,網羅的な対象において主要3市場の公平な比較を行うこと,要因分析を行うことによりドラッグラグの本質的な問題を理解し,適切な解決策を見出すための議論にエビデンスを与えることを目指したものである。

ドラッグラグの現状分析においては,1999年から2007年に米国,EU,日本のいずれかにおいて承認された新有効成分含有医薬品398薬剤を対象とし,3地域の比較分析を行った。日本における承認割合は約半数(55.3%),承認ラグ中央値は41.0ヵ月であり,新医薬品を網羅的に対象とした分析において,日本には顕著なドラッグラグがあることが明らかになった。

要因分析においては,日本におけるドラッグラグは海外オリジンの承認の遅れであること,承認ラグの構成要素のうち大きいものは,審査の長期化ではなく開発着手の遅れであることが明らかになった。臨床的重要度が高い海外オリジンの薬剤群(135薬剤)では,世界初承認時に日本において開発未着手であったものが半数以上(78薬剤,57.8%)。この78薬剤のうち38薬剤は現在も開発が行われておらず,ライセンスホルダーである海外企業からの導入が遅れたこと,日本での開発を手がける企業が存在しないことが原因であった。

臨床的重要度は早期開発のインセンティブとはなっておらず,臨床的重要度が高い海外オリジンの薬剤の承認が遅れることが問題となると考えられた。開発着手遅延の要因としては,i) 患者数がきわめて少数,あるいは市場が小さいii) 日本法人が存在しない,日本でのライセンス先が決まらないなどが考えられた。ドラッグラグが最も顕著にみられる治療領域は,小児難治性てんかんに代表される神経系,稀少癌,先天性代謝異常症であり,これらの領域では上述の要因が重複してみられた。

ドラッグラグ解決を目的とした現行施策は治験と審査のスピードアップを目指したものであり,開発着手遅延に対しては有効ではないと考えられた。有効な解決策としては,i) 世界での開発開始時点での情報共有(産官連携による情報収集とライセンシング促進),ii) 超稀少疾患治療薬へのHIV方式の適用と仮承認制度の導入,iii) オーファンドラッグ制度の見直し(超稀少疾患治療薬開発へのインセンティブ拡大),iv) ドラッグラグの存在を前提としたコンパッショネートユース制度の整備が挙げられた。

五研究は、網羅性のある対象において主要3市場の公平な比較分析を行い,ドラッグラグの全体像について明らかにした初めての研究であり,新規性が高い。1990年代以降の米国とEUの相違を明らかにした点においても国際的研究としての意義がある。また,臨床的重要度が高い薬剤群において審査期間の影響はわずかであり,開発着手の遅れによる影響が最も大きいことを明らかにしたことは特筆すべきであり,審査期間短縮を目指した厚生労働省の現行施策に再考を促す知見であるといえる。要因分析において新たな知見が得られたこと(臨床的重要度の影響はなく,患者数・市場性・ライセンシングの状況が影響する),ドラッグラグが顕著である領域を特定したことは,今後の対策を考えるにあたり重要な意味をもつ。考察においては具体的な提言がいくつかなされている。これらは,本研究において得られた知見のみならず,関連する医薬品政策について詳細な国際比較を行い,日本の状況を考慮した上での提言であり,説得性を有している。

以上のとおり,本研究はドラッグラグの現状と要因に関して有益なエビデンスを提供することにより,医薬品政策議論に大きく貢献すると考えられることから,申請者の辻香織は博士(薬学)の学位に値すると判断した。

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