学位論文要旨



No 124303
著者(漢字) 竹中,悟人
著者(英字)
著者(カナ) タケナカ,サトル
標題(和) 契約の成立とコーズ
標題(洋)
報告番号 124303
報告番号 甲24303
学位授与日 2009.03.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第225号
研究科 法学政治学研究科
専攻 総合法政専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森田,修
 東京大学 教授 大村,敦志
 東京大学 准教授 垣内,秀介
 東京大学 教授 伊藤,洋一
 東京大学 准教授 水町,勇一郎
内容要旨 要旨を表示する

フランスの契約法と日本の契約法とを対比したとき、二つの契約法には看過しがたい相違が存在する。「コーズcause」という概念である。フランス民法1108条に規定されるこの概念は、契約成立要件の一つとして位置づけられている。他方、日本法にこのような要件を定める条文は存在しない。

日本法において契約は、「互いに対立する複数の意思表示の合致によって成立する法律行為」であるとされている。契約に際し「申込」と「承諾」が存在し、それが合致すれば契約は効力を有する。しかしながら、フランス法では上記のような要件のほかに、「コーズcause」という概念が要求されている。では、フランス法はなぜそのような要件を要求するのだろうか。そしてそのような要件にはいかなる機能と役割が割り当てられているのか。本稿は上記のような問題関心をもとに、現在のコーズ論、特に「二元的コーズ論」と呼ばれる理論について検討を行うものである。

元来、フランス法においてコーズは「債務者が負担する債務の直接的な理由」であるとされ、各種契約類型ごとに同一の内容を持つものとして観念されてきた。このような考え方は古典理論と呼ばれる。その後、19世紀後半以降、コーズ概念はさまざまな変容を蒙ることになる。とりわけ20世紀はじめ以降、コーズは、契約に際して当事者が考慮する多様な主観的要素を取り込むための概念として、その機能を徐々に拡張し始める。古典理論に代表される制限的・抽象的な理解は影を潜め、各契約当事者が背後に有した「動機」を考慮するための枠組としてコーズは拡張されることになる。

しかしながら、上記のような形でなされたコーズの拡張は、他方で動機の考慮範囲の不明確化という困難をも抱え込むこととなった。考慮されるべき心理的要素を限定するための制約原理に関する混乱は、拡張されたコーズ論の限界をも示すようになる。

以上のような流れの中で、個別・具体的事情の考慮範囲の一方的拡張に歯止めをかけようとしたのが、20世紀後半に現れたコーズカテゴリーク論である。この理論は、契約の成立プロセスにおいて考慮される各種事情の間に性質の相違が存在することに着目し、「各種契約類型ごとに同一の内容を持つコーズ」という考え方の見直しを主張したため、19世紀の古典的なコーズ論の再来ともいわれる。しかしながら、その実質的な内容は、必ずしも古典理論と同一ではない。

コーズカテゴリーク論は、それまでのコーズ論にみられた一元的な動機考慮枠組を批判し、その判断構造を二つの局面に分節化した点に特徴がある。具体的には、「存在の局面におけるコーズ」と「評価の局面におけるコーズ」という二つの考え方が提示された。前者は、当事者の単なる意思合致が「一定の法的資格を与えられた意思」に昇格するという過程において考慮されるべき事情に着目するものである。ここでは、当事者の意思が包摂されるべき法的「構造」の確定プロセスが重視され、法律行為の性質決定に相当する作用が観念される。これに対して後者は、一定の法的構造への包摂がなされた上で、当該法的構造内において当事者が適切な考慮・配慮をなしていたかを判断するための「評価」に関連するものである。この局面における判断内容は、前者のような類別的・構造的(抽象的)判断から、個別的・具体的判断へと変化する。当該契約を構成する各種事情が、個人保護に資する形で考慮されているか、あるいは社会意識に反しないものであるか、といった点が問題とされる。

コーズカテゴリーク論は、上記のような形で、契約成立プロセスにおける二つの判断構造の存在を明確化した上で、これらを統合するメタ概念としてコーズを位置付ける。彼らによれば、これら二つの作用は、いずれも「各種構成要素の結節点(つながりlien)」として位置づけられるべきコーズ概念が持つ二つの側面であり、コーズそれ自体は、これらの作用を統合する統一的な規範的概念であるとされる。評価の局面における判断しか問題としなかった従来のコーズ論に対し、「つながりlienの存在」といった発想を介在させることにより、構成要素の構造解析・構造化の視点を独立に観念しようとする点において、コーズカテゴリーク論の特徴が見出せる。このような二段階の評価枠組は、その後、「二元的コーズ論」と呼ばれる考え方の基盤を提供することになる。1990年代以降、さらに踏み込んだ議論がなされるに至り、現在の学説の状況は再び不透明なものとなっているが、それでもなお、上記の考え方が現代のコーズ学説の基盤を構成していることには違いがない。

本稿は、上記のような20世紀後半のコーズ論の特色を明らかにした上で、このようなコーズ論が、日本法にいかなる示唆をもたらしうるのかという点についても検討する。日本の学説において、一定の解釈論との関係でコーズを援用するものは少なくないが、本稿が着目するのは、錯誤論との関係である。コーズ概念が、民法95条の「要素」と一定の関連を有することについては既に指摘があるが、本稿では、これらの考え方において前提とされているコーズ論とは異なるコーズ論の援用可能性を探る。すなわち、コーズカテゴリーク論という考え方が、民法95条「要素」論に新たな示唆をもたらしうるのではないか。本稿の錯誤論へのアプローチは、上記のような観点からなされる。

従来、日本の錯誤論において参照されていたコーズ概念は、主として20世紀前半のコーズ概念であった。この考え方は、95条の「要素」概念の基盤を、梅・富井の「要素」論に遡った上で、20世紀前半のコーズ論との接合を図るものである。これによれば、20世紀前半のコーズ概念を用いることにより、現在の判例法を理論的に説明することが可能になるとされる。本稿も、95条の「要素」概念とコーズとの間に、上記のような連関が存在することについては認める。しかしながら、本稿では、そこで参照されるべきコーズ論は20世紀前半のものではなく、20世紀後半のコーズカテゴリーク論であると考える。これは、20世紀前半のコーズ論にはなお、従来の日本の錯誤論と同様の限界が内包されていると考えるためである。コーズカテゴリーク論の出発点は、このような限界の克服といった側面を有するものであったのであり、コーズカテゴリーク論を援用することにより、従来の「要素」論とは異なった観点に基づいた「要素」概念の捉え方が可能になると考える。

この点を明確化した上で、本稿は、翻ってコーズという考え方が、日本法の視点からみた場合、どのような特徴を有するのかといった点についても検討する。既にいくつもの指摘があるように、フランス法において規定されるコーズ概念は非常に難解である。しかしながら、このような難解さがいかなる点に由来するのかという点に関しては、従来必ずしも明確にされてこなかった。本稿は、上記のような「難解さ」の背景には、コーズ論が立脚する概念論的な構造が存在すると考える。フランス民法は、コーズ概念をある種のメタ概念として捉えており、一方ではコーズの欠如(absence de cause)・コーズについての錯誤(erreur sur la cause)・不正なコーズ(cause illicite)といった各種下位概念を通して、また、他方では同意(consentement)・対象(objet)といった同レヴェルの概念、あるいは目的因(cause finale)・動力因(cause efficiente)といった上位レヴェルの概念との対話を通じて、議論の透明化を図っている。このような概念構造の存在が、従来、明確に認識されていなかったため、コーズについての理解が妨げられていた部分が存在したのではないか。このような考え方を提示した上で、上記の検討を媒介として、フランス法において前提とされている独自の概念構造の意味についても検討を行う。そして、この作業からは、日仏契約法における「契約の成立」概念が内包する根源的な差異の一端が明らかになるものと考える。

審査要旨 要旨を表示する

本論文はフランス法における「コーズcause」の概念を題材としている。このコーズの概念はフランスにおいては、契約法において法技術上重要な機能を果たしている実定法上の概念である。即ち、フランス民法1108条は合意(コンヴァンシオンconvention)の有効要件として、当事者の同意(コンサントマンconsentement)・契約締結能力、義務負担の内容となる対象(オブジェobjet)とならんで、債務における「適法なコーズ」を挙げている。しかし、この概念は、日本法上なじみの薄いこともあって、その内容・存在意義の理解が容易ではない。19世紀後半にアンチ・コーザリストと呼ばれるコーズ否定論が登場してから今日に至るまでの長い論争の歴史が、この制度の理解の難しさを示している。フランス国内では、近年、この概念にかかわる重要な判例が現れるとともに、ヨーロッパにおける法統合を視野に入れた民法改正の作業の中で、コーズに関する研究が活況を呈している。日本でも先駆的な紹介論文につづき、より立ち入った検討を加える研究もいくつか現れるに至っている。しかし、その全体像はいまだ明らかにはなっていない。

本論文は、フランスにおける最新の研究状況を視野に入れつつも、これまで十分には検討されてこなかった20世紀後半(1945年~1990年)の「コーズ・カテゴリークcause categorique」論(類別コーズ論などとこれまで翻訳されてきた)と呼ばれる議論に焦点をあわせて、コーズ学説史におけるその意義を明らかにするとともに、この議論の背後に見いだされるフランス民法学の思考様式そのものを取り出すことを第一の課題としている。あわせて、本論文においては、日本において有力に主張されているコーズ論を下敷きとした錯誤論のさらなる展開に向けて、一定の方向づけを試みることも第二の課題とされている。

このような作業を通じて本論文が実現しようとしているのは、1990年代の日本において展開されたコーズ論継受の意義と限界を明らかにすることであると評することができるだろう。

以下、本論文の概要を提示した上で、本論文に対する評価を述べる。

第1章「序」では、コーズ論の本質は「なぜ」という問い(契約の拘束力に関する根拠)にあることが提示され、続いて、日本の最近のコーズ論が概観される。そこでは、学説史的な研究が20世紀前半のネオ・コーザリストの議論を中心としていること、典型契約や錯誤との関係でコーズ論に関心が寄せられていることが指摘される。その上で、第一に、フランス法の理解に関しては、現実の契約類型との関係、コーズの概念構造、コーズ論の哲学的基礎について、なお十分な検討がされていないとの評価がなされ、第二に、日本における解釈論についても、錯誤における「要素」の理解を変更する余地があることが示唆される。

第2章「コーズcauseの概念-その内容と外延」は、上記の第一点の検討を行う部分であり、質量ともに本論文の中核をなす部分となっている。筆者はまず、議論の出発点となる民法典の規定、19世紀の古典理論およびアンチ・コーザリストの議論を簡単に紹介し(第1節)、続いて、20世紀前半におけるネオ・コーザリストの議論の検討へと進む。具体的には、この時期を代表するCAPITANTとMAURYのコーズ論がとりあげられ、その内容が詳しく紹介されている(第2節)。そこでは、ネオ・コーザリストたちが、コーズは契約類型ごとに客観的に定まるとする古典理論とは異なり、契約における主観的要素を参酌しようとする点においては、アンチ・コーザリストと前提を共有していたことが示される。同時に、CAPITANTの「目的」、とりわけ、MAURYの「均衡」という中間概念の導入によって、コーズの概念の統一性を保持しつつその分節化をはかる可能性が開かれた点に着目し、ネオ・コーザリストからコーズ・カテゴリーク論への展開の連続性に注意が促される。

コーズ・カテゴリーク論(第3節)は、1947年のBOYERの学位論文に端を発する。この論文に関しては、日本でもすでに、和解論の観点から詳しい紹介・検討がなされているが、本論文はコーズ論の観点からこの論文に注目する。和解という特殊な契約類型を対象とすることによって、BOYERは、コーズの主観化に歯止めをかけるとともに、契約類型ごとに客観的要素・主観的要素の考慮の仕方には違いがあると説くことになる。具体的には、コーズの機能を、本論文において「存在の局面」および「評価の局面」と呼ばれる二つの局面に分類し、ネオ・コーザリストのコーズ論を後者の局面に位置づけつつ、前者の局面を重視すべきことが説かれる。この前者の局面で現れるコーズが「コーズ・カテゴリーク」であり、行為の性質決定(カテゴリーとしての契約類型への帰属)を可能にするものであるとされるのである。

BOYERの議論は、その後、1971年のHAUSERの学位論文、1985年のMEAU-LAUTOURの学位論文によって、さらなる展開がはかられる。一方で、HAUSERは、BOYERの議論を一般化し、柔軟化したと評しうる。HAUSERは、コーズの客観的側面・主観的側面を峻別するのではなく、コーズに客観的要素と主観的要素との結節点としての役割を見いだす。すなわち、コーズは「行為が自由になされていること」と「行為が法秩序に組み込まれていること」とを結びつける役割を担うというのである。このことによって、HAUSERは、BOYERによって強調された「コーズ・カテゴリーク」を、再び統一的なコーズ概念の中に位置づけ直したものと評価されることになる。他方、MEAU-LAUTOURは、贈与のコーズを取り上げ、そこでは主観的側面が優越するものの存在の局面と評価の局面とを区別することは不可能ではないとする。同時に、無償契約における客観的要素が脆弱なものであることも確認され、この点を補充するのが「方式」であるとされる。

以上のような展開を見たコーズ・カテゴリーク論を、本論文は次のように総括する。すなわち、コーズは「裸の意思」を「法的意思」へと洗練するプロセスを担うが、このプロセスは法秩序(一定の構造を有する契約類型)への包摂の段階と、その後になされるより具体的な評価の段階とに分かれる。いずれの段階においても、客観的要素・主観的要素の双方が考慮に入れられるが、その考慮の仕方は段階および契約類型によって異なる。

では、コーズ・カテゴリーク論は、すべての典型契約類型につき、要素の抽出と位置づけを完成させたのか。また、非典型契約はどのように取り扱われるのか。これらは残された課題であることが指摘され、1990年代以降のコーズ論の主要課題の一つとなっていることが示唆されている(第4節)。

第3章「コーズcause概念と日本の契約法-その構造化の視点」では、日本法における錯誤論の再検討が試みられる。前述のように、この点が本論文の第二の課題をなす。まず、最近の有力学説(森田宏樹説)が、梅・富井の理解を媒介として95条の「要素」概念とコーズ概念の関連性を摘出し、これに20世紀前半のネオ・コーザリストのコーズ論を接合することによって、現在の判例を説明しようとするものと位置づけられる。本論文は、これに対して、20世紀後半のコーズ・カテゴリーク論との接合をはかることによって、有力学説の内包する限界を乗り越えられると説く。具体的には、「要素」を契約内容と等置し、その確定を「契約の解釈」一般に委ねてしまうのではなく、客観的要素・主観的要素の双方を考慮に入れて類型化・構造化をはかる方向が示される。

第4章「結章」では、本論文に通底する関心事であるメタレベルの問いが改めて発せられる。フランス法は、なぜこれほどまでコーズに執着するのか。筆者の答えは次のようなものである。コーズ論とは、契約の根拠を問う営みであると同時に、契約の規律の明確化をはかる営みでもあった。そこにはフランス民法学の特徴が集約的に現れている、と。

以上が本論文の概要である。以下、評価を述べる。

第一に、本論文が、フランス法におけるコーズ理論という、その論理的内容を一義的に捉えることが困難であるばかりでなく、膨大な学説の集積されている領域に、正面から取り組んだ点が高く評価されなければならない。とりわけ本論文が主たる検討対象とした学説群は、その内容の複雑さにおいても、その論述の膨大さにおいても、その全面的な検討は非常に困難なものである。日本においても幾つかの先行研究が、CAPITANT、MAURYらのネオ・コーザリストの段階までの学説を検討し、そこから貴重な分析を取りだしてはいた。しかし、本論文は、それにつづく時期の学説について、表面的な整理に留まることなく、またいたずらに恣意的な再構成に走ることもなく、検討対象そのものに内在・沈潜した検討を積み重ねている。BOYERの論文を精密に分析し、これをそれに触発されたHAUSERの学説と連続させてとらえるという視角は、日本における先行研究が十分な考察をなし得ていなかったコーズ・カテゴリーク論の作りだした学説のダイナミズムを取り出すことに成功している。さらに、BOYERの議論とMAURYとの議論との間の理論的承継関係を丹念に取り出したことで、アンチ・コーザリストからネオ・コーザリストを経てコーズ・カテゴリーク論に至る議論を、断絶・更新の側面だけでなく連続・継承の側面にも着目しつつ描き出すことに成功している。これによって、20世紀前半から80年代にいたるまでのコーズ理論の展開について信頼に足る業績が出現したことは明らかである。このように、本論文の包括的で詳細な学説史は、フランス法のコーズ理論に関する日本の研究水準を一気に引き上げるものであると言える。

第二に、本論文の背後には、コーズ論研究を手がかりに、フランス契約法の構造、フランス民法学の思想を摘出しようという意図がある。このような試みはかなりの程度まで成功しており、コーズが論じられる理由が一定の説得力をもって提示されている。即ちフランス法は、一方で、同じメタレベルの諸概念について、その間の領域確定・調整と相互コントロールとを図りつつ、他方で一つのメタレベルの概念についてそこから様々な下位概念を派生させることで、規範概念の空洞化と無意味化とを退けようとする志向を持つ。コーズは、この志向をもっとはっきりと示す位置にある概念である。このことは、本論文が詳細に分析したとおり、コーズ概念が、そのような同水準の概念として「同意(consentement)」「対象(objet)」に対峙し、また下位概念として、あるいは「コーズ・カテゴリーク」「偶有コーズ」、あるいは「債務のコーズ」「契約のコーズ」、あるいは「不正なコーズ」「コーズの欠缺」「コーズについての錯誤」「虚偽のコーズ」といったカテゴリーを展開させていることによって示されている。

フランス法学の思考様式そのものをコーズからあぶり出そうとする同様の試みはすでに日本においてなされていたが、それはコーズを一般条項として捉える水準に留まっていた。本論文は、コーズ概念を、あくまで「契約の成立要件」というある法制度を形作るものとして議論を展開した点において固有の価値を持つ。この視点によって、コーズ概念が各種契約の内的構造に深く結びつけられている概念であることが、具体的に示された。本論文によって、フランス民法学におけるドグマティークの特質がある程度まで解明されたと言える。

第三に、以上第一及び第二に指摘した作業の結果として、本論文は、法律関係の形成に際して人の「意思」が果たす役割をどのように位置づけるべきか、という民法学上の基本的な問題に関するフランス法の立場について、かなりの程度包括的な形で描き出すことに成功している。とりわけ、従来の学説によって必ずしも焦点を当てられることのなかったBOYER以後のコーズ論の依拠する哲学的背景を丹念に紹介したことは、本論文の固有の意義といえる。このことは、私的自治の原則、契約自由の原則といった問題をめぐる今後の議論のための素材を、格段に豊かにしたものということができる。

第四に、本論文は、学説継受についての興味ある事例を発見し、新しいアプローチによって解釈論の方向を示すものでもある。BOYERが日本民法典起草者である梅の留学時代の仏語学位論文を批判していることは知られていたが、BOYERを援用して、現代において梅理論を批判的に継承・発展させる試みは独創的なものである。他に同様のアプローチを許す素材は乏しいものの、学説継受に関する方法的な革新を刺激しうるものであると言える。

もちろん、本論文にも欠点がないわけではない。

まず第一に、叙述の中心がCAPITANT, MAURYからBOYER, HAUSERへの展開に置かれており、民法典や古典理論のコーズ論、1990年代以降のコーズ論に関してはごく簡単に触れられているにとどまっている。これらの素材を検討していれば本論文の提示する学説史はさらに厚みのあるものになったものと思われる。

しかし、本論文はコーズ論の通史的概観を目的とするものではなく、その意図は、コーズ・カテゴリークというコーズ論の一歴史段階のもつインパクトを取り出すことに向けられていることに鑑みれば、この対象の限定は正当なものである。たしかに90年代以降現在に至るまで、一群のテーズが光彩陸離の展開を遂げている。しかしその学説状況は流動的であり、個々の作品の評価も定まっていない。筆者がこれらに飛びつくことを敢えてせず、むしろ、主対象たるBOYERに先行する時期のCAPITANT・MAURYという古典的作品と正面から取り組んだことを高く評価すべきであろうと考える。

第二に、ドイツや英米法圏との比較法はなされておらず、日本の解釈論に関する部分は骨組みが示されるに留まっている。しかしこれらも上述した本論文の意図に照らせば、望蜀の嘆にとどまるともいえよう。

第三に、用語・訳語の説明にやや不十分なものがあるほか、誤記や脚注の不備など形式面の整備になお不十分なところが残っている。また、本文にやや反復が多いのも気になるところである。なかには読者の理解を助けるために意図的に繰り返しがなされている部分もあるが、整理をすればより読みやすくなる部分もある。

以上のような欠点もあるとはいえ、これらは本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文は、コーズの包括的な学説史を展開することによってこの問題に関する研究の水準を大きく向上させただけでなく、フランスの契約法や民法学の特色を摘出したものとして貴重な価値を持つ。また、錯誤さらには典型契約に関して興味ある解釈論を展開する可能性を内包するものでもある。以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度の研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、博士(法学)の学位を授与するに相応しいものであると判定する。

UTokyo Repositoryリンク