学位論文要旨



No 124306
著者(漢字) 楊,一帆
著者(英字)
著者(カナ) ヨウ,イホ
標題(和) 中国近代における「中国式」建築に関する研究
標題(洋)
報告番号 124306
報告番号 甲24306
学位授与日 2009.03.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6944号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 准教授 藤井,恵介
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 難波,和彦
内容要旨 要旨を表示する

論文の目的

中国近代における「中国式」建築をおもな分析対象とする本論文は、中国近代建築の研究に従前軽視されてきた伝統的な芸術観と思惟方法が近代建築の発展に及んでいた影響の分析から、第一に「中国式」建築の発展過程の独自性を明らかにする;第二に中国人建築家の建築観を分析し、「中国式」建築が中国で繰り返し現れる理由を論じることを目的としている。

近代において、非ヨーロッパの国では西洋文明と自国文明の衝突があって、「中国式」建築のような自国建築と西洋建築を結合させる試みもあった。しかし、中国だけは二十世紀20年代に引き続き50年代、60年代と90年代に外見に中国伝統建築の特徴をもつ折衷主義建築が繰り返し現れ、三代の建築家の設計手法に大きな変化がなかった。このことは単純に「衝撃-反応」というモデルで解釈できない、中国特有的な要素が潜んでいる。

今までこの種類の建築に関する研究は主に次の四つの面に集中している:1)外国人建築家の影響;2)「大屋根」など建築家が用いた中国伝統建築様式;3)政治的環境、民族主義が建築家に与えた影響;4)欧米の建築教育が建築家に与えた影響。数多くの研究では、「中国式」建築が生まれ、そして繰り返し現れる理由は外的要素によるものと考える傾向があった。本論は、「中山陵」コンペや南京の「固有式」建築、「民族形式」建築について改めて史料の渉猟・再読を行ない、「中国式」建築の発展過程における内的要素:「中-西」二元的な思惟の方法;近代中国人が西洋建築に対する理解と応用;伝統的芸術観の立場から物事を見る態度などの影響を明らかにする。

論文の構成

第一章、まず近代化以前均衡の取れた中国伝統社会を分析することで、中国伝統の芸術観、思惟の方式と建築観の関連性を検討する。つぎ円明園や洋風装飾が施された商業建築を例に、近代初期中国人による西洋建築の応用方法は西洋的な装飾を中国伝統建築に「付会」させること解明する。

第二章に早期中国人建築技術者の設計や著書により、西洋建築に対し「構造+設備+製図」という認識に留まることを明らかにする。工業技術の「図学」及び情報伝達の「通俗画」の発展は人々に「美術」の社会的効用を認識させた。最初中国人に建築と社会との関係を理解するための手本を提供したのは西洋宣教師が設計した中国伝統建築のエレメントを用いたミッション系学校建築、ミッション系学校建築の特徴よ影響を分析する。

第三章は中山陵コンペを中心に、「中西折衷建築=中国精神の表わし」という価値観、つまり如何に建築に中国精神を表現するのかについての基準の形成過程を解明する。

第四章、南京の首都建設と建築様式の選択から、統治者の建設理念の中、王城と宮殿が象徴する権力と社会的秩序を追い求める傾向がみられる。そして第二節には範文照、楊廷宝と梁思成を例に建築家が「中国固有式」に対する二種類の解釈と対応方法を分析した。特に梁思成の中央博物院の設計に鉄筋コンクリートで中国伝統建築の平面、構造と造型を再現しようとして、構図から造型のバランスまで中国伝統建築の原理に従い、その内在的な合理性を証明しようと試みたことを論じる。

第五章、まずソ連専門家は1949年以降の北京建設にどんな影響を与えたかを解明する。この時期において最も代表性のある三つの建築を選び、建築家が設計に対する説明をつうじて、50年代の「民族形式」を論じ、当時大多数の建築家は伝統建築のエレメントを装飾及び意義伝達の符号として用いる傾向があることを明にする。「民族形式」=「大屋根」建築という発展プロセスの中、梁思成の理論は重要な役割を果たした。彼は中国建築の根源的な原理と精神を追い続けていたものの、建築史研究でも設計理論でも「中-西」を原則としているため、中国伝統建築の外観を再現しようとする考え方を一度も諦めようとすることがなかった。結局「建築可訳論」で自身の古建築研究を折衷主義建築のパターン・ブックにしたことを解明する。

終章は建築家の角度から価値観の形成、地位の確立、西洋化と近代化の混同、復興への期待の四つの面から折衷主義建築が中国で繰り返し現れる原因を分析する。

考察の重点

1、中国の木造建築は数千年を経ても大きな変革はなかった。木造建築技術の成熟につれ一部のエレメントはもともとの機能を失い装飾になったものの、終始として木造建築の構造システムは変わらず、西洋建築のような様式の変遷は生じなかった。そのため、近代初期の中国人にとって「様式」という概念はまだなかった。「中国式」建築はある意味では「様式」に対する認識の深化に伴って発展した。近代初期の中国人は西洋建築の様式、構造と設備を一つの総体として受け入れ、「構造+様式=建築」という観念が生まれなかった。構造と様式は同じく「新」を代表する。本論文は中山陵コンペの審査過程と結果を通じて中国近代には「西洋建築=新建築」という考え方の存在を説明した。中山陵コンペの審査基準は単純に「宮殿式」を採用したか否かだけではなく、ポイントは「新」、即ち西洋建築の造型特徴を表しているか否かにあった。

2、二つ目の問題は「宮殿式」建築と「中国的色彩を帯びた簡樸実用式」建築との関係である。この両者は一般的に「コストなどの問題によって「宮殿式」が簡潔化され「中国的色彩を帯びた簡樸実用式」になった」と考えられている。実は「中国的色彩を帯びた簡樸実用式」はほぼ「宮殿式」と同時に現れた。中国建築のエレメントを装飾として用いる手法は早期における中国人技術者が様式建築を設計する手法と同じであった。ただし、二十世紀20、30年代の建築家はレンガ彫刻など表面としての装飾だけではなく、琉璃瓦、斗拱、欄干などもともと実用機能を持っていた建築エレメントまで使用するようになり、中国装飾は西洋建築の様式システムで纏めていた。

3、「宮殿式」建築と「大屋根」建築には「中国式」様式のシステムに対する模索が潜んでいる。

中国建築は公共建築、宮殿建築、民居建築に関わらずすべてが倫理制度に基づいている。そのため、建築は倫理制度の反映であるだけではなく、礼教制度のもとにいる人々は建築で互いの身分と地位を確かめ合う。近代社会では礼教制度は打ち破られたものの、数千年間で形成されてきた等級観念と意識は依然として近代中国人が建築に対する考え方に影響を及ぼしている。ここでいう近代中国人は建築家勿論、大衆と政府官僚も含まれている。本論文は南京首都建設の分析を通じて、中国近代の統治者は建築の中国的特色を通じて大衆を喚起するだけではなく、彼らが提唱している建築様式は彼らが建築に抱いている理想に合致していることを説明した。そのため、「中国式」建築は独立で個々になっているエレメントが表している象徴的な効果ではなく、建築全体の宮殿的効果を追い求める。

「大屋根」は50年代に「中国式」建築を批判するときに生まれた言い方である。多くの人は「中国式」建築を「大屋根」建築に納めた。確かに屋根はこの種類の建築の最もはっきりとした特徴であり、特に二十世紀30年代の「宮殿式」建築の場合、大屋根は建築全体を覆い、建築ボリュームの増大に伴い大きくなる。しかし、「中国式」建築において、屋根の利用方法は変化し続けていた。多くの「中国式」建築は「大屋根」と要約できない。二十世紀30年代の「宮殿式」建築の場合、屋根は斗拱、赤い柱と一体化になり、建築全体的の中国古典建築的効果が求められた。梁思成などは中国の建築エレメントをバラバラにして用いる手法を反対し、完全なる「中国式」建築の様式のシステムの形成に力を注いだ。彼らの設計において、「大屋根」は斗拱などと同じ伝統建築的要素に過ぎなかった。これは「様式」を認識する第三段階であった。建築家が中国様式のシステムを創造する情熱は統治者が宮殿建築に抱く理想と重なり、南京には「宮殿式」建築が数多く現れた。

4、50年代では「大屋根」に対する批判は梁思成たちが求めている「中国式」様式のシステムを否定した。屋根が除かれ、伝統的エレメントは独立した個々の装飾となった。「十大建築」の設計手法は「様式」に対する第二の認識段階-装飾の折衷に後退した。90年代に北京では建国初期に相似する「民族形式」建築が再び現れた。「中国式」建築が繰り返し現れるのは、人々が「屋根」や「東屋」が好きであるからではなく、中国には本当の意味の近代建築運動が存在しないため、建築家は終始として折衷主義的手法を採用したからである。

5、中国の倫理観の中、美と善は同義であるため、物事が美であるかどうかの判断基準は善であるかどうかにある。「善」とは何かについて、近代以前の創作者と使い手は同じ価値観を持っていた。創作上、抽象的な象徴的手法で創作者の主観的感受を表現した。伝統芸術は近代において社会変革に伴いもともとの社会基盤を失いつつあったものの、長い間形成してきた芸術観は依然として設計と創作に影響を及ぼしていた。本論文の最終章は中国建築家を分析することを通じて、「善-意義」、「価値観の形成」、「主観的感受-客観的社会価値」などの面から伝統芸術観と思考方法が建築設計に与える影響を明らかにする。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は二部から構成されている。第一部は第一章から第四章まで近代初期、南京国民政府期間、中華人民共和国の成立初期の官庁建築と中国建築家の言論を研究対象に、折衷主義建築の変遷に重点を置いて検討する。第二部は建築家の主観的要素をメインに、建築観の形成要因及び中西折衷様式が繰り返し現れる要因を分析する。

第一章 中国の近代初期を貫く「中体西用」観と建築に対する認識

第一節 中国中心観と西洋楼建築では、円明園「西洋楼」の建設過程を論述することで、近代初期の中国社会に存在する「中国中心観」及び中国人の目に映る「西洋建築」を分析する。第二節 近代初期の「中体西用」観と官庁建築ではアヘン戦争後、洋務派は「中体西用」という物質、制度レベルの改革思想を提起し、完全に西洋の官庁建築を模倣した「親政建築」が現れたことを述べる。建築は「技術性」と「科学性」が意識されたが、文化的意義は意識されなかった。

第二章 中山陵

中国人建築家による最初の中西折衷様式建築である中山陵の近代建築史上における存在と意義を分析する。

第一節では「復興式」建築を概述し、第二節では中山陵コンペの発足プロセス、奉安募集、審査を分析する。第三節では呂彦直の方案を分析する。その他の建築家が「中国古典形式しかも特殊かつ記念性を含む形式」を如何に表現するのかに対する異なる理解、及び官庁建築様式の確立についてのべる。

第三章 「中国固有式」建築

南京の「首都計画」及び官庁建築家を研究対象に、国民政府の建設理念、及び「中国固有式」建築の設計思想を分析する。

第一節は南京建設と「首都計画」についての研究

第二節は南京の「中国固有形式」建築に関しての分析であり、代表的な建築家を分析することで、南京官庁建築の形態及び建築家の異なる設計思想の形成と発展を説明する。すなわち範文照、楊廷宝、梁思成の思想である。

第三節は中央博物館コンペと上海における折衷主義建築を概観する。

第四章 20世紀50年代の「民族主義」建築

第一節では社会主義リアリズムと「民族形式」建築を分析する。

第二節は梁思成の「建筑可訳論」について分析する。「民族形式」=「大屋根」建築という発展プロセスの中で、梁思成の理論は重要な役割を果たした。建国前後における氏の理論変化を比較すれば、氏は最終的に伝統建築の内在的合理性を追い求めることを諦めたことが分かる。「建築可訳論」で自身の古建築研究を折衷主義建築のパターン・ブックにしたことを明らかにした。

第五章 折衷主義建築の成立-「中国式」にこだわった中国人建築家

中国人建築家の地位、近代主義の流行、建築観の形成から折衷主義建築が繰り返し流行することの要因を分析する。なぜ近代中国人建築家は建築における「中国風」問題にこだわったのか、なぜ建築の「中国風」問題にいつも中西折衷洋式を用いて回答したのかを解明する。

第一節では20、30年代の「中国固有式」と50年代の「民族主義」の背景を比較し、文化民族主義の影響を分析する。

第二節では西洋化と近代化の諸相を整理する。

1 近代精神が伴わない近代建築

2 中国人建築家の確立

このふたつの要素が認められる。

第三節では折衷主義建築の形成を解明する。

30年代、彼らが見つけたのは外国人建築家の「復興式」建築であり、50年代には30年代の建築を模倣した。西洋の「ポストモダンリズム」理論が中国に渡来した後、建築家たちは自らが設計する80年代の折衷主義建築に理論根拠を見つけた。こうして建築様式を選択するやり方によって、様式主義が現れたと結論付ける。

以上は興味深い比較文化史的建築研究であり、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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