学位論文要旨



No 124338
著者(漢字) 金子,良事
著者(英字)
著者(カナ) カネコ,リョウジ
標題(和) 戦前期,富士瓦斯紡績における労務管理制度の形成過程
標題(洋)
報告番号 124338
報告番号 甲24338
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第260号
研究科 経済学研究科
専攻 企業・市場専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,建資
 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 教授 佐口,和郎
 東京大学 教授 粕谷,誠
 東京大学 教授 小野塚,知二
内容要旨 要旨を表示する

本稿は戦前期の富士瓦斯紡績という企業を対象にその労務管理制度の形成過程を描いたものである。富士紡は戦前の日本経済を牽引した紡績会社の一社で,日本経営史研究においては,先進的な経営者であった和田豊治が近代的な労務管理を行ったことでも知られている。また,和田は会社の経営だけではなく,広く財界活動をはじめとした社会活動に従事したことでも有名である。

日本の労働に関する先行研究では,二つの大きな潮流があった。一つは間宏に始まる労務管理史である。もう一つは兵藤〓らによる労資関係史である。間が『日本労務管理史研究』で提示した手法は労務管理史的アプローチとして受容された。だが,間の方法は,企業社会の中の集団に焦点を当てたため,企業全体の経営管理的な視角が弱かった。また,管理者と被管理者という「人」に注目したため,管理技術に対する分析も十分とはいえなかった。他方,労資(使)関係史分析は労働者と資本家,労働者と使用者と対立する集団の交渉に重きを置いた。この分野はプレイヤー同士の関係の中から生まれてくるルールに注目している。そのため,重点はプレイヤーの動きに当ることになり,管理技術という点にはやはり注目が弱かった。

こうした研究史を踏まえた上で,本稿の分析視角は三つの点で特徴を出している。第一に,管理者の思想と管理技術そのものに注目する。賃金について簡単な例をあげよう。単純な個別出来高給は労働者の生産高に応じて賃金を支払う制度だが,部下の育成が優秀であるといったような生産高以外の側面を反映することが出来ない。たとえば,管理者はそうした制度の技術的限界を補うために,手当のような制度を利用するだろう。第二に,企業内の管理制度だけでなく,社会や国家との関係に注目する。一般的に企業経営における環境の重要性は広く認識されている。しかし,本稿の場合,分析対象の富士紡が当時の日本を代表する企業であったことに大きな意味があった。第三に,本稿では労務管理制度を生産に関係する部分とそれ以外の部分に分け,両方を分析する。特に後者を広い意味で福利厚生制度と捉える。本稿では福利厚生に関して,社会政策や社会事業との関係を重視している。この点は第二の視角と関連している。

管理技術を重視する分析視角が成立したのは,本稿が主に二つの系統の良質な史料群を使用することが出来たからである。一つは,小山工場旧蔵史料である。工場事務書類等の一次史料である。もう一つは,元富士紡職員の廣池千英氏旧蔵社会・労働関係文書である。廣池氏は工場の職工係から本店の調査部に異動になった。廣池氏の勤務した大正6年から大正13年は労使協議制度の導入や各種規定の改定の時期に当っていたため,様々な制度の作成過程を追うことが出来た。

本稿はこうした分析視角をもとに論点別の章構成を取っている。以下,章別構成にそって要約する。ただし,一つ一つの制度は関連しあっているので,その点にも触れておく。

第1章と第2章は和田豊治を中心とした導入的な章である。第1章では,明治34年に入社した和田が小山工場で改革を成功させ,社内での地位を確立させるまでの経緯が描かれ,使用される史料の性質を踏まえた上で,その後の富士紡の展開が概観される。あわせて紡績業の中及び日本の中における富士紡の位置づけが確認される。

第2章では,労務管理制度の前提となる雇用関係について二つの視点から分析される。最初に,個別の雇用関係がある一定の期間の継続性を必要とし,それを支える信用を担保する制度が必要であったことが明らかになる。次に,和田の労資共同論とその体現として利益分配制度に思想的な観点から,会社に雇用される意味が考察される。和田は労働者と資本家の対立を日本の伝統的な温情主義という雇用関係によって否定する。温情主義とは被用者が感謝をもって報酬を受け取り,雇主もその気持ちに応えるというものである。和田が提示したのは思想的には企業一体の労資共同論であり,具体的な実践はその思想に基づく利益分配制度であった。利益分配制度は思想的な意味では,事業遂行は経営者のみで行うわけではないので,獲得した利益を重役だけで受け取るのではなく,重役・職員・職工で共有すべきであるというものである。ただし,株主と利益を共有するわけではない点に注意が必要である。あくまで事業遂行を行う点で重役・職員・職工が共通した性格を持っているのである。本稿では,会社から経営を委託される重役の代理関係及び職員と職工の雇用関係のうちに等しく含まれていることで,和田の議論を説明した。一方,利益分配制度は事務的な面では,分配方法において企業内のヒエラルキーを反映していた。

第3章から第6章においては富士紡内の労務管理が分析される。富士紡の労務管理の中核は第4章で扱う,職制及び身分制度の柔軟性と二つの軸を持つ評価制度であった。第4章は第2章の労資共同論と組織階層という点で関連する。職制及び身分制度の柔軟性とは,職員と職工の境界を登用によって越えることが出来るという意味である。ただし,職制と身分制度のあり方はジェンダーの影響を受けていた。職員層の男女間分業は社会の男女間分業のあり方に規定されていた。女性は世話係か看護婦だけであった。職工の間の男女間分業は緩やかに存在していたものの,固定的ではなかった。分業が存在したのは,男女の勤続年数に違いがあったためである。女工は男工よりも平均勤続年数が短かったため,1920年代に養成方法が整備されるまで特定の部署への配属が忌避されたのである。他方,労働者の移動が激しいため,それに対応するように一部で柔軟に配置された可能性も指摘した。

評価制度の二つの軸とは,生産に直接寄与する者への評価と職場や生活の場における規律に寄与する者への評価である。こうした評価の多様性は第3章から第6章まですべての制度に通底している。また,生産に関する部分でも男女の違いは見られた。特に,同じ身分である役付工を比較しても,その工程を代表する「主なる役付工」は男性であった。おそらく,男工のキャリアルートが工務係まで繋がっていたためだと推測される。

第3章で扱う人員管理では二つの点が重要である。第一に,職工の人員管理が工場毎に行われていたことを確認する。その含意は採用や退職が工場単位に行われていたことに留まらない。人員管理は工場間の移動,すなわち転勤も含めて行われていたのである。第二に,多くの研究で指摘されるように,労働市場がジェンダー別に異なる特徴を持っていたということである。こうした特徴は第4章で扱う評価制度や人材育成,第6章で扱う福利厚生制度のあり方と関連している。

第5章で扱う賃金制度は,ほとんどの賃金形態において何らかの形で査定が組み込まれている点で評価制度と通底していた。富士紡では各工場の各科(工程)レベルで動作・時間研究が導入されて以降,様々な賃金制度が試行された。科学的管理法の提唱者のテイラーは最善の作業方法によって最高の能率を達成することを「標準」と考えたが,富士紡ではこのような意味での「標準」は達成されなかった。ただし,そのような「標準」を志向することで,問題を特定し,指標化するというプロセスを経ながら,作業改良が進められた。こうした傾向は第3章の表彰制度で扱われる男工の作業改良に対する表彰と関連している。

動作・時間研究を中心とした工夫は現場レベルで行われたが,こうした個別の調査研究を全社レベルで統括しようという意図で標準原価計算の導入が試みられた。しかし,前述の理由で同時に全工程で「標準」を達成することが出来ず,見切り発車での導入が行われた。ただし,この導入によって間接費と直接費を分離したため,間接工と直接工の比率を賃金ベースで比較することが出来るようになった。

第6章では生活という視点を中心に福利厚生制度を描いた。最初に,金銭的な面において日常生活を保証していた制度を概観した。次いで生活全般に関わるインフラ的な制度を描いた。思想的な面から見ると,福利厚生制度の核は教化を中心とした社会改良思想であった。この思想は第4章で扱う人材教育や第6章で扱う教育制度に通底しており,また,内務省の役人や友愛会らにも共有されていた。また,管理技術的な面から見ても,随所に社会事業の手法が利用されていることが明らかにされる。

第7章では,労資交渉の展開が描かれる。富士紡の組合活動は,友愛会の教化活動を支援する形で始まった。教化による自治の育成は次第に制御できない領域を増やしていった。第一次世界大戦やロシア革命を契機とした労働運動の興隆の流れの中で,会社と組合の関係は変転していく。富士紡の押上工場では既にインフォーマルな形の職工と職員による協議が行われ,賃上げが約束されていた。しかし,その約束が履行されなれなかったため,争議が行われ,結果として賃上げに成功した。このように争議が交渉の一手段として確立していた。ただし,組合と会社の関係は大正9年の押上工場争議によって,完全に相互不信に陥った。その後,各工場の組合は争議を繰り返していった。その結果,総同盟は事業所別組合が連携するという戦術を考え出していった。このアイディアは戦後の企業別組合に繋がっていると推測される。また,こうした争議を繰り返し,交渉を重ねることで,失われた信頼関係は再構築されていった。また,他方,富士紡は教化活動の進展の中で作業諮問機関としての役付会を作る。この組織が労働運動の興隆を受け,拡大再編される。こうした労使協議制度は組合活動と並行して存続していった。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、明治後半期から日本経済を主導する産業として成長を続けた綿紡績業でどのような労務管理が展開したのかを明らかにしようとする。綿紡績においては、労務費の比重は原料費などに比べてはるかに小さかった。しかし、大量の女工の労働力に依存していたこと、またその労働条件をめぐって早くから国内外で議論がなされてきたという経緯もあって、綿紡績での労働は戦前・戦後を通じて多くの関心を集めてきたのである。

このように、国内外の注視を集めた産業であったにもかかわらず、綿紡績業の労務管理をめぐる研究は意外に少ない。とくに大正期については、細井和喜蔵『女工哀史』(1925年)や間宏『日本労務管理史』(1964年)の外に見るべきものは少ない。間の研究は、日本の労務管理を経営家族主義として特徴づけて、後続の研究に大きな影響を与えたが、さまざまな企業の事例の寄せ集めに終始し、なおかつ管理技術のあり方そのものは問題にはしないという限界を持っていた。

本論文は、こうした限界を突破すべく、富士瓦斯紡績株式会社(以下富士紡と記す)の労務管理の展開に的を絞り、そこでどのような管理技術が用いられたのか、それらはどのような背景の下に採用されたのかを探ろうとするものである。大正中期には富士紡でも一度ならず労働争議が起きており、労使関係が(当時は労資関係として意識される)大きな問題となった。富士紡での労務管理には労使関係の展開を促すという側面があり、労務管理そのものが労使関係を含むものへと展開したから、労務管理と労使関係、両者の関係も問題となる。

分析の対象となった主な時期は労務管理の形成期ともいうべき明治後半から大正中期である。分析に用いた主な史料は、『小山工場旧蔵史料』と『廣池千英旧蔵「社会・労働関係文書」』である。前者は富士紡の主力工場であった小山工場の、後者は後に協調会で活躍する廣池が富士紡在勤中に収集した、経営関係文書である。

2 審査論文の構成および内容

本論文は、全体で8章からなる。各章は次のような構成になっている。第2章から第7章までの分析のうち、労使関係(労資関係)を扱った第7章を除く各章は、富士紡の主要な労務管理手法を取り上げて、出来る限りの分析を行なったものである。以下では簡単に各章の内容を紹介する。

序章 ここではまず労務管理や労使関係(労資関係)に関する先行研究の持つ問題点が指摘される。間宏の研究は管理技術にはあまり立ち入らなかった。奥田健二は管理技術に注意を払ったものの、生産技術をめぐる管理に限定されるきらいがあったし、労務管理を労働組合への対抗策としてとらえ、両者を対立させてしまった。一方、組合と企業との協議・交渉に関心を払ってきた労資関係史研究は、職工と経営が対立する理由や、事業所組合が工職混合組合ではない理由については必ずしも納得のいく説明を行っていない。このように先行研究の批判と、紡績業に関する労務管理史研究のレビューを行なった後で、著者は、雇用関係、労使関係、労資関係という三つの概念について自らの立場を明らかにしている。

第1章 富士紡の特徴 ここでは、和田豊治が経営者に招聘されて以来、富士紡が大正期の日本企業を代表するまでに至った過程がまとめられている。明治30年代の富士紡は労務管理においても先発企業である三重紡、鐘紡の後塵を拝していた。買収によって規模を拡大した鐘紡が、科学的管理や経営家族主義によって経営の標準化を推し進めていたのに対して、富士紡は新規工場の立ち上げに精力をとられていたからである。それでも、都市インフラの欠けた小山や川崎といった地域に工場があったこともあり、富士紡は社宅など福利厚生の整備を迫られた。

第2章 雇用関係の構造 本章は明治30年代の富士紡の労務管理の特徴を雇用関係という視角から分析している。職工は前払いされた支度金、来場旅費などを月々の賃金から返済した。そこでは雇用関係の継続を前提とする信用関係が形成されている。こうした継続的雇用関係を担保する制度の一つが身元保証人や身元保証金といった身元保証制度である。身元保証金は当初は賃金から天引きされていたが、明治39年に職工と職員を対象にした賞与金制度が出来ると、そこから積み立てられることになった。この賞与金制度も身元保証金と同様に雇用関係に深く根差す制度として考案されていた。経営者と労働者が主従の情誼によって結ばれているという「労資共同論」を主張していた和田豊治は、その考えに沿って、利益の一部を職員や職工に与える賞与金制度を創設したのである。こうして、賞与金制度が雇用関係の基礎のうえに打ち立てられ、その賞与金の一部が身元保証金となって雇用関係を強化するという連関が生まれたのだと著者は主張する。

第3章 職工の人員管理 ここでは採用管理を中心とする人員管理が扱われる。男工はもっぱら志願工からなっていたのに対して、膨大な数の女工は募集制度を通じて採用された。社員が出張して募集するだけでなく、地方名士が嘱託募集人となって採用をすることもまれではなかった。募集地の中心は東北地方であり、女工の募集地からは男工も志願工としてやってきた。会社が特定地域との間で長期的な関係を築き、労働力を安定的に確保しようとした一因は、職工の高い離職率にあった。女工は寄宿女工、通勤女工に分かれるが、前者は雇われてから半年で4分の3に減った。男工は2年半で、通勤女工は1年で、寄宿女工は1年半で、残存率が50%を切ったのである。富士紡では早くから転勤制度があり、工場間の移動が行われていたことも労働力の確保という点から見逃せない。本章は、原史料からこうしたデータを取り出している。

第4章協業体系と評価制度 本章前半では、職員・工員といった身分のあり方、男女の混在・隔離というジェンダーの問題、キャリア・ルートがそれぞれ分析される。後半は評価制度を扱う。現場の監督者である工頭を務めたのは、職員(工手)または役付工であった。このように、富士紡では職員と職工の身分の境界は曖昧で、職工から職員への昇進も普通のことであった。そのため、職員・工員間が対立することもなかった。職場での男女分業について、著者は、男性か女性のどちらかしか働いていない製綿、カードなどの職場と、男女が混在する精紡などの職場の二類型が存在していたことを指摘し、こうした男女間の分業のあり方を、(1)女性の雇用期間が総じて短かったために、技能養成に時間のかかる職場は男性だけになった、(2)大量の労働力調達を優先させたために、男女混在職場が生まれた、と推測する。著者はまた、男女混在職場ですら主な役付工やそこから昇進する工務係はすべて男性であったこと、役付男工には工場経営の講義があったのに、役付女工にはなかったことを明らかにしている。さらに、表彰制度や新入工教育の分析を通じて、女工では生活が、男工では作業改良に評価の力点がおかれていたと、評価制度を特徴づけている。

第5章 報酬制度 富士紡では、全社的な統一的賃金制度がなく、職場によって、日給(等級別賃金)と出来高給が組み合わされて用いられた。そしてこれに独自の等級制を持つ賞与金制度が加わった。こうした中に、科学的管理法における時間研究や動作研究が導入され、さらにはその基礎の上に標準原価計算が採用されたことで、賃金制度は精緻化の度合いを高めた。等級別の日給では、あるレベル以上になると上司の査定によって進級がなされており、出来高給でも独自の属人的等級が用いられていた。こうした、日給、出来高給、賞与のそれぞれに異なった等級が用いられる状態は、大正9年に賞与の等級として日給の等級が用いられるようになるまで続いた。このように制度の変遷を追った後で、本章は大正10年ごろの出来高賃金改正案を詳細に分析している。そこでは、時間研究が賃金制度の改善に用いられたことが明らかにされている。

第6章 福利厚生の展開 本章は富士紡の扶助制度や共済制度を述べたのちに、時代背景との結びつきに留意しながら、同社の福利厚生制度の性格を明らかにする。当初は職員の統制下に置かれていた社宅や寄宿舎は、自治組織の側面を強めていった。著者は、こうした統制から自治への動きは、内務省社会局の地方改良運動の影響を受けていたためであり、同様のことは同社の衛生制度や教育制度にも見られると主張する。本章の補論で著者は、内務省の政策の出発点を、金井延の言説、社会政策学会や貧民研究会の動向に求めている。

第7章 労資関係と労資交渉 大正9年富士紡押上工場で労働争議が起きた。本章はこの争議をきっかけにして日本の労資関係がどのように変化したのかを解明しようとする。押上争議がそうした大きな影響を与ええたのは、労資共同論を唱え、従業員の信望を集めていた和田豊治が、政府の委員会の重要人物であり、設立間もない協調会の中心人物でもあったからである。著者は様々な史料を駆使して押上争議の経緯を詳しく分析している。従業員の組合は友愛会に加入しており、争議が始まると交渉を一任された友愛会は、協調会を交渉相手とし、協調会に団結権を認めさせることで団結権を社会的に認知させ、富士紡の枠を超えたより一般的なレベルで新しい労使関係を構築しようともくろむ。だが、協調会は争議への関与を慎重に回避した。組合側は会社との交渉で実質的に団結権の承認を勝ち取る寸前まで行ったが、収拾の判断を誤って結局敗北した。この争議後、富士紡では従来からあった役付会が改めて評価されるようになるが、争議の影響は企業外に及んだ。争議後、協調会や友愛会はそれぞれに大きく変貌を遂げ、労働争議も従来のような労使協議の場から労資対立の場へと変わった。著者は、このようにして、押上争議をきっかけにして日本全体の労資関係の構図が変わったのだと主張するのである。

最終章 本章はこれまでの議論をまとめた上で、著者の立場から各章で十分に議論できなかった点や、今後解明すべき点の指摘がなされている。

3 総合評価

審査論文の評価すべき点

研究上の必要が認められながらも、なかなか分析が行われなかった個別の企業の労務管理の全体像を描き出した点は大きく評価されてよいと思う。史料に恵まれたとはいえ、個々の史料は相互の関連の薄い断片的なものであり、それらをつなぎ合わせて全体像を作るのは大変な作業だったと思われる。

労務管理史研究は、とかく企業内に視野を限定して研究を進めるのが常道であるが、本論文は、企業外の動きを取り入れて、労務管理を企業内外の動きがぶつかる場として見ている点が斬新である。

とくに、(1)身元保証金制度と賞与金制度の関係の指摘、(2)男女間の分業の実態の解明、(3)男女間での評価の仕方の違い、(4)福利厚生制度における「教化」政策が従業員の「発言」の土壌を用意し、それが集団的な労使関係の基盤となったという指摘、は著者による新たな論点の提出であり、労務管理史研究に寄与するところが大きいと考えられる。

審査論文で改善すべき点

もっとも問題となるのは、労使関係(労資関係)をあつかった第7章と、労務管理を扱うそれまでの章との関係が十分に明らかではないことである。著者は、第6章の福利厚生を扱う中で、地方改良運動が呼び起した「自治」への関心や「教化」政策が、集団的労使関係の基盤を作り上げたとして、第7章とそれまでの章とのつながりを主張する。しかし、「自治」「教化」以前は労務管理だけで集団的労使関係にあたるものがないとみなして分析を進めてよいのかという問題がある。また争議が利益分配制度などの労務管理にどのような影響を与えたのかを明らかにする必要もあると思われる。これまでの研究史が、労使関係への対抗策として労務管理をとらえるという一面的把握に終わりがちであったとすれば、本論文は逆に労務管理から労使関係を説くという一面的把握に終わる可能性がある。福利厚生制度における「自治」が労働者の「発言」を呼び起こし団結の基礎となったという論点も、さらに実証を進める必要があるだろう。

最も興味ある論点の一つである、男女間の分業についてもさらに分析を進めていくことを望みたい。現場レベルでの史料はほとんどないとは思うが、この問題にさらに切り込めれば、ジェンダー研究に新しい視点を出せるのでないかと思う。

とはいえ、こうした弱さは多分に史料の制約によることと考えられ、やむを得なかった側面がある。今後、他企業との比較などを通じてこれらの問題がいくらかでも解決されるように希望する。

以上のように、本論文は、全体として、戦前期、とくに大正期の紡績業の労務管理を原史料に基づいて描きだした研究として高く評価されるべきものだと判断する。

平成20年11月月28日の学位請求論文提出を受けて審査委員会(審査委員:小野塚知二、粕谷誠、佐口和郎、武田晴人、森建資(主査))が設置され、論文を審査した。審査委員会は平成21年2月4日に口頭試問を行い、慎重に審議し、その結果、審査委員一同、金子良事氏に博士(経済学)の学位を授与するのが妥当であるとの結論に達した。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/25327