学位論文要旨



No 124340
著者(漢字) 高柳,友彦
著者(英字)
著者(カナ) タカヤナギ,トモヒコ
標題(和) 近代日本における資源管理 : 温泉資源を事例に
標題(洋)
報告番号 124340
報告番号 甲24340
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第262号
研究科 経済学研究科
専攻 経済史専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 谷本,雅之
 東京大学 教授 加瀬,和俊
 東京大学 教授 岡崎,哲二
 東京大学 准教授 中村,尚史
 東京大学 准教授 中林,真幸
内容要旨 要旨を表示する

本論文の課題は、明治期以降のわが国の温泉地における温泉資源(源泉)の利用・管理のあり方を通じて、近代日本における資源管理の特質を明らかにすることである。特に、新たに土地制度として導入された「近代的土地所有権」制度下において、温泉資源の利用秩序がいかなる変容を遂げたのか、源泉利用の歴史的変遷を把握することが目的である。

温泉資源は、漁場や林野と同様、人々の生業や生活に欠かせない資源として、古くから地域住民の共有資源として利用されてきた歴史を持つ。これらの資源は、人々の生業や生活を支える目的のもと、村落共同体や領主的権力関係の中でその利用が秩序付けられ、他村や領主的権力との間で資源利用をめぐる対立や紛争を抱えながら、村落内での資源配分機能や資源利用が維持されていた。

しかし、明治期以降、維新政府によってわが国に導入された「近代的土地所有権」制度は、私的土地所有を確立させたことで、それまで有機的連関を維持していた土地利用や資源利用を分断する結果となった。維新政府による「国家法」の土地政策=私的土地所有を認めた土地所有権制度の改革は、それまでの「部落法」に基づく利用慣行=近世期の村による土地所有・利用の秩序との間でずれを生じさせたのである。近世期までの土地利用慣行の多くは、新たな土地制度によって否定され、田畑、林野、温泉の利用においては、その土地所有と利用との対立(=近世期から続く利用秩序の慣行と私的土地所有との対抗)が新たな問題となった。ただ、源泉利用は、利用慣行と土地所有との対立という問題だけでなく、田畑や林野とは異なる問題を抱えた。

源泉は利用者相互間の関連性が極めて強いという性格を有し、漁場と同様に一定の範囲内での利用の調整が必要な資源である。仮に、土地所有権に基づき源泉開発が無制限に行われた場合、開発者や周辺の源泉利用者との間で湧出量の減少や温度の低下など、源泉利用をめぐる対立が生じてしまう恐れがある。持続的な利用を必要とする温泉地では、乱開発によって資源の枯渇といった問題を引き起こし地域社会の混乱を招く結果となる。一定の範囲内で利用を維持する必要がある源泉利用は、私的土地所有を前提とした源泉開発が進展することで不安定になってしまうのである。「近代的土地所有権」制度によって確立された私的土地所有は、安定的な利用が必要な源泉利用には適合しない制度であった。

そこで、本論文では、私的土地所有に基づく源泉開発が進展し、源泉利用との矛盾が生じた温泉地を対象に、不安定化する源泉利用をどのように調整したのか。近代以降のわが国の源泉利用の歴史的変遷を、地域社会における中間団体の役割に着目しながら、開発を規制する行政機構の政策の変化とともに分析することで、近代日本の資源管理の特質を明らかにした。

近世期、村落共同体によって利用が秩序付けられていた温泉地の源泉利用は、明治期以降大きく変容し、私的土地所有を前提とした源泉開発が進展した。ただ、源泉開発が無制限に進展してしまえば、源泉の枯渇や減少といった対立や紛争が引き起こされ、源泉利用が不安定化する恐れがあった。それぞれの温泉地では、各府県行政によって制定された源泉開発に関する取締規則の秩序を前提としながら、源泉利用者相互の関係の中で利用秩序を維持していた。明治期以降の源泉開発は、強固に残存した近世期の身分的な秩序によって規制されたのではなく、また私的土地所有に基づき無制限に行われるものでもなかった。

1900年代以降、利用者相互の関係によって維持されていた利用秩序は大きく変容した。鉄道開通や日露戦時の傷病兵の療養地指定など、全国の温泉地を取り巻く状況が変化する中、外部流入者が増加し、源泉開発が進展した。それまで、利用者が中心となって維持してきた利用秩序では対応できない事態を招き、多くの温泉地の源泉利用は不安定化したのである。そして、利用秩序を維持するため、源泉利用への行政機構(県行政)の介入が求められるようになった。行政機構は、第三者的な立場で温泉地の源泉利用に介入し、加えて取締規則を改正することで、源泉利用の不安定化に対応した。また、温泉地開発の進展に伴い明治期以降新たに発見された温泉地も数多く出現した。私的土地所有が確立した後に発見された温泉地(=旧来からの利用秩序がない温泉地).では、当初、取締規則の適用を受けなかったため、無制限に源泉開発が進展する恐れがあった。しかし、不安定化する源泉利用に対して、個々の開発者や利用者らが協議し、中間団体(会社組織や組合など)に利用秩序を委ねたことで源泉利用は安定したのである。

このように、明治期以降、私的土地所有を前提とした開発によって、源泉利用が不安定化した温泉地では、利用をめぐる対立や紛争を解決するため、行政機構の規則を背景に多様な主体(中間団体)によって源泉を維持管理する仕組みが設けられた。ただ、中間団体によって利用秩序が維持できなくなった場合には、行政機構が介入することで解決がはかられた。行政機構(県行政)は、単に源泉利用の秩序を維持するため権力的な対応(上からの対応)を行ったわけではなく、温泉地の秩序で解決できない事態にのみ介入し利用秩序を安定させたのである。このように、源泉の利用秩序を維持するためには、中間団体の諸機能だけでなく、補完する行政機構(県行政)の規則・政策の役割も重要であった。

しかし、1920年代以降、温泉地における源泉利用の諸問題は大きく変容し始めた。全国的な内湯の普及と更なる利用客の増加によって、温泉地では旅館の増加や規模拡大だけでなく、各旅館の浴場へ大量の源泉を引用する必要が生じた。大量の源泉をどのように確保していくのか、利用者間の利害対立から、温泉地全体の資源管理の問題(源泉不足や無駄遣いの解消)へと源泉利用の課題が大きく転換したのであった。

それぞれの温泉地は、既存の源泉以外に湧出量を確保するため新たな源泉開発や源泉の効率的な利用を模索した。しかし、個人管理や共同管理が並存し源泉を数多く有している温泉地では、新たな開発を行うことは困難であった。なぜなら、新たな源泉開発によって、既存の源泉湧出量を減少させ、源泉利用を不安定化させる恐れがあったからである。その解決策として、管理主体(中間団体)による源泉利用の一元化と配給事業が実施された。源泉利用を一元化し個々の源泉利用者間の対立を解消させるだけではなく、新たな源泉開発を行って湧出量の増加を実現し、個々の内湯利用へ源泉を配給することを可能にした。

本論文の対象である熱海温泉では、利用客の増加に対応する湧出量を確保するため、町行政が主要源泉の一元化を実現すると同時に、個々の内湯利用者(旅館、別荘)への配給事業を行った。温泉使用条例を作成し、住民であれば誰でも温泉が利用できる環境を整備したのである。一方、長岡温泉では、明治期から源泉利用の一元化を達成し、共同湯を利用していたが、20年代以降、個々の内湯利用者への配給事業を行うようになった。源泉の一元化と配給事業は、個々の利用者の源泉利用における負担を減らし、安定的な源泉利用(とくに内湯利用)を実現させる仕組みとして機能したのであった。

このように、1920年代以降、内湯の普及や利用客増加に伴い管理主体(中間団体)に求められる役割は大きく変容した。源泉の管理主体(中間団体)は、個々の源泉利用の調整(私人間の対立を調整)を行うだけではなく、源泉を一元的に所有し、地域住民や旅館、別荘など幅広い利用者への源泉配給を必要とされるようになったのである。その後、高度成長期には、利用客を急増させた多くの温泉地で、効率的に源泉を利用する仕組みとして源泉の一元化と配給事業(集中管理方式)が導入された。熱海や長岡温泉での源泉の一元化と配給事業は、この集中管理方式の先駆けであったといえる。

明治期以降、「近代的土地所有権」制度の導入によって確立した私的土地所有は、近代日本の資源利用・管理に大きな影響を与えた。この点、川島氏らの先行研究は、私的土地所有を前提とした開発が地域(温泉地)の発展に結びつくと認識していた。しかし、私的土地所有を前提とした開発は、資源利用の現場で様々な矛盾を生じさせた。

近代日本における資源管理において重要であったのは、開発を自由に行うことではなく、その資源の利用をいかに安定させるかということであった。私的土地所有を重視した開発によって支えられたのではなく、地域社会の中間団体(資源利用を管理する主体としての会社組織、組合、そして町行政など)が、行政機構の政策を支えにしながらその利用秩序を安定させる担い手として機能した。変化する資源利用や高まる資源の需要(温泉地における利用客の増加や源泉開発の高まりなど)に対して、中間団体が役割を変化させることで(資源利用の調整機能から利用者への配給機能への変化)対応した。また、資源を安定的に利用するだけでなく、一部の利用者に独占されないように、地域住民など幅広い利用者が利用できる仕組み(「開かれた源泉利用」など)を構築することも、資源利用おいて重要であった。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、静岡県下の主要温泉(熱海および長岡)を主たる対象に、近代日本における資源の利用と管理の特質を明らかにすることを課題としている。論文の構成は以下の通りである。

序章 課題と分析視角

第一章温泉地の展開と源泉利用の変化

第二章旧慣と近代的土地所有権の対抗と調整-明治期の熱海温泉を事例に-

第三章町行政による源泉管理と配給事業-戦間期の熱海温泉を事例に-

第四章株式会社による源泉管理-長岡鉱泉株式会社を事例に-

終章

序章では、漁場や林野と同様に、温泉資源が地域住民の共有資源として利用されてきた歴史を有することが確認されたうえで、明治期の「近代的土地所有権」制度導入による源泉への私的所有権の設定が、それまでの資源利用秩序に大きな変化をもたらすものであったことが指摘される。これまでの「温泉権」研究を代表する川島武宜らの見解では、私的所有権の設定が近代以前の資源利用を秩序づけていた共同体的秩序を解体し、熱海等の温泉地での源泉開発の進展をもたらしたとされている。しかし著者によれば、地下で水脈が繋がっている温泉資源は、利用者相互間の関連性が極めて強く、土地所有権に基づく源泉開発の進展は、資源利用をめぐって地域社会の混乱を招く結果となった。こうした認識を前提に、本論文の課題は、開発によって不安定化する源泉利用が、どのように調整されていくのかを明らかにすることにおかれる。また分析視角として、源泉の利用秩序の担い手となる中間団体の役割と、源泉開発の取締や規制を行う府県行政の意義が指摘される。

第一章は、近代日本における、源泉利用・管理に関する概観である。まず、温泉地での源泉利用の方式は、宿泊施設には湯を引かず源泉利用を「外湯(共同湯)」に限る場合と、宿泊施設に源泉を引用し、「内湯」経営を行う場合に二分されることを確認したうえで、著者は900余におよぶ温泉地に関する1923年の全国調査報告書に基づき、旅館が複数以上ある温泉地約300箇所の温泉管理主体が、「共同管理」、「会社組織」、「組合」、「町村」および「共同利用と個人管理の併用」の5つに分類されること、外湯のみを組合や町村が運営する大温泉地(道後や城崎など)が存続する一方で、主要温泉地には内湯を中心とする場合が少なくなく、そこでは個人管理の源泉を含むために、源泉管理が一元化されていない場合が多かったことを明らかにしている。この源泉の共同利用と個人管理を併用する有力温泉地において、利用秩序の不安定化が確認されるケースが多く、その代表的な事例が、以下の第二、三章で取り上げる熱海温泉であった。

第二章では明治期の熱海温泉を対象に、近代的な土地所有権を前提とした源泉開発と内湯利用の進展が、旧慣との対抗と調整の中で、どのように源泉利用の秩序を変容させていたかが実証的に分析される。幕藩体制のもと、内湯経営を大湯間欠泉を利用する湯戸(最大27戸)に限定していた熱海温泉では、明治維新後、源泉の私有化を基盤とする源泉開発が進展し、大湯利用者以外の内湯経営も増加した。これに対して静岡県は1884年に温泉場取締規則を設定し、源泉掘削には地域の「人民協議」による承認を必要とすることを定め、「濫掘」に歯止めをかけようとした。源泉利用者を中心に制定された1900年の申合規約でも、源泉掘削には隣地3名以上の同意と温泉取締所の認可が要求されている。しかし温泉利用客の増加の中で、外部流入者や旅館経営者による無認可ないしは「修繕」名目の源泉開発は続き、日露戦後には源泉利用の安定的な維持が困難となった。1905年、静岡県は取締規則を改正し、違反者への処罰を強化するとともに、警察に源泉開発の認可権を与え、利用秩序の維持をはかったが、警察の認可・管理が不十分であったため、1907年に再び、旧慣に依拠した大湯利用者と、新たな源泉開発者との間に紛争が生じることとなった。県行政は、源泉開発に対して厳しく臨み、紛争の原因となった源泉の埋め立て、新規申請の不許可、および以後の源泉開発の認可を財産区にのみに与える警察命令を出した。しかし大湯利用者側にも、新規に開発された源泉からの湯供給に依存する側面があり、最終的には、濫掘とされた源泉を財産区(熱海区)が購入し、大湯の補給湯とすることで決着が図られた。明治以降、私的土地所有に基づく源泉開発の中で不安定化した源泉利用秩序は、県行政の権力的介入に支えられつつ、地域社会の一機関たる財産区が調整の主体として機能することで、一旦は安定化したのである。

第一次大戦期以降、交通機関の整備もあって熱海温泉の利用者はさらに増加した。第三章では、源泉の不足が懸念される状況の中で、どのように源泉の開発と利用が進展したのかが、町有温泉成立のプロセスの検討を通じて明らかにされている。1921年から1922年にかけて、熱海のシンボルである大湯間欠泉の湧出に変調が生じた。県行政は、温泉場取締規則の改正(1922年)による権限強化にも依拠しつつ、大湯保護へ向けて、大湯以外の源泉湧出量の規制に踏み込んでいく。しかし熱海温泉では、この時期すでに大湯以外の源泉への依存を強めており、県行政による規制はむしろ温泉地経営への阻害要因と認識されるようになっていた。この熱海温泉と静岡県との対立の図式は、関東大震災による新温泉の出現、大湯の最終的な枯渇、県行政の方針転換、そして新たな温泉組合の設立といった事態の変化の中で解消へ向かうが、源泉需要の高まりの中で新たに、温泉の統一利用が源泉確保のための解決策として浮上してくる。新温泉の帰属をめぐって財産区と町との対立が生じたが、1926年には新温泉の町への帰属が決定し、さらに1928年の蜂須賀湯(別荘の源泉)の町有移管を皮切りに、既設源泉の町有化が、県行政の後押しや、開発認可権を楯とした説得にも支えられて進展した。町有による主要源泉の一元化を基盤に、源泉の統一的な配給の仕組みが整備されたのである。1936年には熱海町温泉使用条例が公布され、住民であればだれでも町有温泉から内湯を引くことができるようになった。著者はこの町有温泉の成立を、無駄遣いを排した湧出源泉の効率的な利用と、町民への「開かれた源泉利用」の実現であったと評価している。複数の個人管理の源泉を一元化し、町村管理による源泉利用の安定と効率化を達成したところに、熱海温泉の資源管理の特徴が見出されているのである。

この熱海の事例に対し、同じく静岡県下の長岡温泉を対象に、株式会社による源泉管理を検討したのが、第四章である。川西村長岡区(行政区)における1907年の温泉湧出の確認は、地主等による源泉開発を促したが、ほどなく源泉の枯渇や湧出量の減少が問題として浮上した。その解決策として、長岡区住民により制定されたのが、源泉を長岡区所有とし、私人の源泉開発を禁ずる長岡区規約である。長岡鉱泉株式会社は、この規約に基づき、法人格をもつ源泉所有の主体として設立され、源泉の一元的な所有・管理を行うことになった。同社株主には地域住民および地域の公共機関とも言うべき寺社が名を連ねている。その一方、旅館主等の源泉利用者側は、同社の役員・株主には含まれていなかった。当初の規約に含まれていた内湯経営禁止の条項は第一次大戦期には廃止され、鉱泉会社は源泉開発を行いつつ、増大する内湯での源泉需要に対応していく。新規の源泉掘削に要する資金は、既存株主の資本金払い込みによって賄われた。しかし1934年の丹那トンネル開通を機とする利用客の増大は、さらなる源泉開発を要請し、その資金需要に応ずる増資の過程で、株式の一部が地域外の出資者の所有となったことが確認される。さらに第二次大戦後には、旅館業者の出資と経営参加も進行し、地域住民に限られていた1930年代半ばまでの株主・役員構成は、大きく変化していった。著者は以上の経緯をまとめる中で、会社組織による一元的な源泉管理は、利用客の増加へのすばやい対応を可能にする一方で、地域資金の限界に際して、外部資本による源泉開発を促す契機ともなりうる仕組みであったと評価している。

終章では、以上の内容が要約された上で、戦後の高度成長以降の温泉業の盛行が、各温泉地における、組合や地方公共団体による源泉の集中管理に支えられていたこと、戦前期の熱海・長岡の源泉一元管理は、その先駆けであったことが指摘される。その上で、近代日本の資源管理の特徴は、行政機構の政策に支えられつつ、地域社会の中間団体が利用秩序を安定させる担い手として機能したことにあったと結論づけられている。

II

このような内容をもつ本論文については、以下の特徴を指摘できる。近代日本の温泉資源の利用に関しては、「温泉権」をめぐる法社会学の関心をベースとした、所有論からのアプローチが通説の位置を占めてきた。本論文の貢献は、温泉地の源泉利用の実態とその変遷を、利害関係者間の紛争とその処理に着目しつつ克明に跡付け、近代日本における源泉利用の実態を明らかにしたことにある。私的所有権の確立はたしかに、源泉開発を活性化するものの、そこには不可避的に源泉の枯渇や湧出量の減退が伴い、源泉所有者間の紛争を産み出した。その紛争処理の過程では、県行政と地域社会の中間団体が重要な役割を担っており、中間団体による源泉の一元管理が、熱海等の温泉地の発展を支えることになった。こうした本論文の分析結果は、近代日本の源泉開発・管理方法の進化のプロセスを、はじめて明確に示したものといえよう。それはまた、経済史的アプローチを採ることで達成しえた成果であり、資源管理をめぐる社会科学的研究に、資源管理の経済史ともいうべき、新たな研究領域を付け加える結果となっている。直接の先行研究に乏しい中で、新領域を切り開いた本論文の独創性は、高い評価に値すると考える。

著者のいうところの中間団体(財産区、組合、鉱泉会社、町)の機能を、史料渉猟によって具体的に明らかにしたことも、手堅い成果である。近年の経済史研究では、多様な領域において、中間団体の機能が論点として取り上げられている。県行政との関係も視野に含んだ本論文の議論は、そうした研究史へも一石を投じる成果といえよう。

もっとも、本論文にも問題点が残されている。中間団体の機能が本論文の主要論点であることは上述の通りであるが、行政権限を有する熱海町を、中間団体に含めることの妥当性には、議論の余地がある。また、町有温泉の成立は本論文のハイライトの一つであるが、そこで鍵となる源泉所有者による所有権放棄と町有移管容認のプロセスは、資料的制約が大きいこともあって、必ずしも具体的に明らかにされていない。源泉の町有移管に財産区が抵抗した理由についても、財産区の実態分析がなされていないために、説得力に欠ける面が残っている。

しかしこのような問題点をもつとはいえ、本論文に示された研究成果は、著者が自立した研究者として研究を継続し、その成果を通じて学界に貢献しうる能力を備えていることを十分に示している。したがって審査委員会は、全員一致で、本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論を得た。

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