学位論文要旨



No 124343
著者(漢字) 三津間,康幸
著者(英字) Mitsuma,Yasuyuki
著者(カナ) ミツマ,ヤスユキ
標題(和) セレウコス朝およびアルシャク朝時代の王権の展開と都市バビロン : 『日誌』を主要資料とした研究
標題(洋)
報告番号 124343
報告番号 甲24343
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第866号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大貫,隆
 東京大学 教授 本村,凌二
 東京大学 教授 羽田,正
 東京大学 准教授 高橋,英海
 東海大学 教授 春田,晴郎
内容要旨 要旨を表示する

本論文では,最近刊行されたアッカド語楔形文字資料『(天文) 日誌 (Astronomical) Diaries』を主要資料として用い,そこに言及される諸官職の権限や地位,在職者の性格や行動の特徴について,そしてバビロニア (アッカド語の名はアッカドAkkad) の都市バビロンと前記の諸官職や王らによって構成される王権との関係について考察した。

日誌はアッカド語で『常時観測nasaru sa gine』と呼ばれる粘土板文書の集合である。そして主としてバビロンにおいて,都市の主神マルドゥクの神殿エサギラに代々奉職した書記たち (後述の「バビロン人」に属する) が長年書き継いだ資料と考えられる。それらは1ヶ月分が1まとまりを為すように作られた。このまとまりの内部は,完全な形では,日々の天文・天候,農産物の価格 (銀との対価),五惑星の運動,バビロンを流れるユーフラテス河の水位,そして地上で起こった諸事件の5項目に分かれる。

現存する日誌の年代は前7世紀半ばから前1世紀前半にわたるが,前記の研究テーマに資する内容は,主としてセレウコス朝のバビロン支配期 (前305/4-141/0年) と,アルシャク朝の支配期 (前141/0年以降) の日誌に記されているので,本研究ではこれらの時代を対象として研究を行った。

第1部では,資料の性格を検討した。扱った資料は日誌と,「年代誌Chronicles」である。本研究の対象となる時代を扱う年代誌は,そのほとんどがバビロンで作成された,そして日誌と何らかの関連を持つ,と見られる資料群である。残存する年代誌の数は少ないが,本研究にとって重要なデータを一定量含む。

第1章では,日誌について検討した。日誌が記述する地上的事件は,エサギラに関係することを中心とした,都市バビロンで起こる出来事と,バビロンを統治する王権が関わる出来事の2種類が主であることを示した。

また,日誌中の項目分けの仕方や,各項目内部の事項の配列などにかなりの一貫性があること,この傾向は後代になるほど強まることを明らかにした。これらのことから,特にセレウコス朝時代以降の日誌は厳密な規則に従って作られた一連のテクストであり,その限りにおいてシリーズと呼べること,このゆえに日誌に継続的に現れる官職名などもある種の術語として扱えることを示した。

日誌の作成過程については,天文事象 (と水位) を観測しながら記録する1次的観測記録 (短期日誌) が最初に作成されたこと,そしてこれに価格や地上的事件といった情報を付け加えて作成された中間報告的な記録 (中期日誌,2ヶ月程度までの期間をカバー) があること,さらに中間報告的な記録をいくつかまとめる形で,より長期間をカバーする日誌 (長期日誌) があること,そして長期日誌は最終的な保存資料と考えられ,その多くは4ヶ月 (1年の前期・中期・後期) または6ヶ月 (1年の前半・後半) 分が一枚の粘土板にまとめられる形をとったこと,などを明らかにした。

第2章では,「年代誌」と呼ばれる資料群の性格を検討した。個々のテクストの記録方法や内容にはばらつきがあり,その共通点は3人称で,地上の諸事件を記録するというものにとどまる。しかし総体としてみると,その内容や,記録方法 (の歴史的な変遷) に日誌と類似または共通する点が多く,少なくとも個別の年代誌と日誌との間で,作成の際に相互に参照が行われた可能性は十分にあることを明らかにした。

第2部では,日誌や年代誌にある程度継続的に言及される,王権を構成する諸官職の権限や地位,そして各職に就任した人物の性格や行動の特徴について考察した。資料の性格上,属州バビロニアで活動する者が中心的な対象となった。

第3章では,「上部諸属州」と呼ばれる,セレウコス朝のユーフラテス河以東の領域にはそれを統括する総督が置かれたこと,そして「4将軍の上に立つ将軍rab uqa sa ana muhhi erbet rab uqa」などとアッカド語で呼ばれる官職がこの総督職に相当することを明らかにした。またアルシャク朝時代にもこの官職が引き継がれ,前110年代に「大将軍rabbi uqani」と呼ばれる職に代替されたことを確認した。

第4章では「アッカドの知事mumairu」と呼ばれる,ハカーマニシュ朝時代以来の属州総督 (サトラップ) に相当すると見られる官職が,少なくとも前270年代までは属州バビロニアの財政面の責任者として任務を果たしていたこと,その後も,一時廃止された可能性はあるものの,アルシャク朝時代まで存在が確認できることを明らかにした。

第5章では「(アッカドの) 将軍 rab uqu / uqa / uqani」と呼ばれる官職について,この職が前270年代以降資料に現れ,アルシャク朝時代まで属州バビロニアにおける王朝の軍事力,あるいは軍事行動を統率する職として存続することを明らかにした。

第6章では,神殿の監督に当たったと思われる諸官職について検討した。特に,アルシャク朝時代に王の側近くで仕えたとみられる「祭司たちの長rab kumari」職の存在を明らかにした。また先行研究で地方官として取り扱われていた諸官職 (paqdu, zazakku, purusutattesu, uppudetu) の活動を検討した。そしてこれらのうち,paqduやzazakkuはバビロン市中で活動した地方官とみられることを確認し,一方uppudetuやpurusutattesuについては前記の「祭司たちの長」同様王の側近くで仕えた可能性があることを指摘した。

第3部では都市バビロン内部にいかなる性格を持った集団が居住したのか,そして彼らがどのように王権と関係を取り結んでいたのか,といった問題を検討した。

第7章では「バビロンの長官pahat Babili」と,それによって代表される「(バビロン) 市民pulite」について検討した。「市民」が前2世紀前半にバビロンに登場したギリシア色の濃い集団であることを確認した。またアルシャク朝時代に王らがバビロンに送付した文書の宛名などから判断して,その王権が「長官」「市民」らとの連絡を,後述の「議長」「寄合」「バビロン人」などとの連絡よりも重視したように見えることを述べた。

第8章では「エサギラの議長satam Esagil」「エサギラの寄合kinistu」「バビロン住民maru Babili」,そして彼らによって代表される「バビロン人Babilaya」について検討した。

まず日誌・年代誌における語句の用法を分析し,「バビロン人」がバビロンに「市民」登場以前から居住した原住民を広く指す用語であること,「住民」は前4世紀後半~3世紀前半に資料に頻出する語句で,「議長」や「寄合」など,「バビロン人」の間の代表者的な存在のことを指すこと,問題の資料で「議長」「寄合」の語が実際に用いられるのは (その存在自体は古くに遡るけれども),もっぱら前3世紀後半以降であること,を明らかにした。

またセレウコス朝時代には,エサギラをはじめとするバビロン土着の諸神殿に対する,王権からの物質的な恩恵の例がしばしば見られるが,アルシャク朝時代には類例を見出し難いことを,関連資料を挙げつつ明らかにした。

第9章では,王権が上記の諸集団あるいは個人に対して送った文書および,それらの読み上げによる告知と,情報の受容について考察した。アルシャク朝時代の日誌によれば,諸官職の任命や戦勝といった出来事が,バビロン市中における文書の読み上げによってしばしば告知されること,一方セレウコス朝時代には類例がほとんど見られないことを確認した。そして読み上げられた文書の中にはプロパガンダ的な情報も含まれていること,日誌の書記の側には,その種の情報の受容には慎重な態度が見られることを明らかにした。

第10章では,前3世紀第4四半期以降アルシャク朝時代まで,王や「上部諸属州」,属州レベルの諸官職など,王権を代表する人々によって,エサギラやその関連の聖所で,王や王族,そして供犠者自身の「生命 / 健康bultuのため」という目的で捧げられた供犠および,研究史上これと一緒に取り扱われてきた,王や王族の「犠式dulluのため」に捧げられた供犠とについて考察した。特に日誌によく記される「生命のため」の供犠については,時期によってその形式に変化が見られること (式次第などは共通で「生命のため」という目的が消されるケースを含む) を明らかにした。変化の原因についても,各時期の政治情勢,供犠者の地位,神殿の関与の程度といった問題と関連させて考察した。

終章では主として第2部,第3部の議論を総括し,時間の経過に応じてその研究対象に見られる変化を明らかにし,また変化の原因についての見通しを示した。

第2部で考察した諸官職については,アルシャク朝時代の初期 (前120年代半ばまで) にはギリシア名を持ち,都市 (セレウキア) を居所とするような人々がもっぱら就任し,それ以後は,イラン名を持ち,都市外に居所を設けるような人々が就任することが多いことを明らかにした。その原因について,王権を担う人々がセレウコス朝時代以来のギリシア・マケドニア系,あるいは親ギリシア的な人々から,イラン系で遊牧民の出であるアルシャク王家と同様の出自の人々に入れ替わった,あるいは,非イラン系・非遊牧民出自の人々の間にもイラン名の使用や,都市を離れて生活を送るスタイル (遊牧民を思わせる) に親しむ傾向が現れたという,2つの見通しを示した。

また第3部で考察した,都市バビロン内部の諸集団と王権との関係については,セレウコス朝時代とアルシャク朝時代を比べると,アルシャク朝時代には土着の諸神殿への財物の供与の例が見出し難いこと,一方で王権がバビロン市中のギリシア的な集団である「市民」との連絡を重視したことに注目した。そしてその原因について,当時の「市民」集団に比較的強く見られる軍事的な性格への配慮があったのではないか,あるいはアルシャク朝のコインに刻まれた王の称号や王の胸像などに示された,王たちの親ギリシア的な姿勢と関係するのではないかといった見通しを示した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文のタイトルは「セレウコス朝およびアルシャク朝時代の王権の展開と都市バビロン-『日誌』を主要資料とした研究」であり、その研究対象は、現在大英博物館に保管されているアッカド語楔形文字資料の『(天文) 日誌』(Astronomical Diaries and Related Texts from Babylonia=ADRTB、以下『日誌』)である。合計447個の粘土板から成るコーパスで、記録されている年代は前7世紀半ばから前1世紀前半にわたる。作成に当たったのは、バビロン市内にあって主神マルドウクを祀るエサギラ神殿の神職、具体的にはそこに奉職する書記たちである。バビロンは紀元前4世紀の後半以降、相次いでギリシア・マケドニア系のセレウコス朝とイラン・パルテイア系のアルシャク朝の支配下に置かれた。土着住民の日常言語もアラム語に変わっていたが、エサギラ神殿の書記たちはその間もアッカド語で古来の楔形文字を使って日誌を記録し続けた。1980年代後半から本格的な校訂作業が進み、その大部分の粘土板について写真版、ローマ字の翻字テクストと英訳が刊行されており、一部はその作業がなお継続中である。

本論文は、その内のセレウコス朝とアルシャク朝の支配期に相当する『日誌』を主たる資料として、さらに『(バビロニア)年代誌』(Babylonian Chronicles of the Hellenistic Period=BCHP、以下『年代誌』)と呼ばれる補助資料も用いながら、(1) 『日誌』に言及される諸官職の権限や地位,在職者の権能や行動の特徴、(2) 都市バビロンと支配者である王権との関係、という二つの問題を設定している。全体で3部10章とまとめの終章からなる。

第1部は、『日誌』が厳格な規則によって作成された一連のもの(シリーズ)であること、そこに継続的に言及される官職名がそれぞれ特定の対象を指す術語であることを証明している。また、いくつかの『年代誌』は個別の『日誌』を参照しながら、書かれていることも説得的に論証している。第2部では、ある程度継続的に言及され、支配者側の王権の一部を構成する官職の権限と地位、在職者の行動が分析される。第3部では、対象となる時代の都市バビロンにどのような住民集団が存在したか、それぞれが支配者側の王権とどのような関係にあったかを解明している。特にその内の第10章では、『日誌』に繰り返し現れる「生命のための供犠」と呼ばれる儀式について、それが捧げられる対象、目的、供物の中身、手順などを分析している。最後の終章では、第2部、第3部の議論を総括し、支配者側の王権に属する官職と都市バビロンとの関係に見られる変化を、通時的な観点から明らかにし、その原因について論じている。

次に本研究の独創的な点について言えば、これまで多くの先行研究は、バビロンを含むオリエント世界についても、アレクサンドロスの東征以後アルシャク朝時代までを「ヘレニズム時代」として一括し、その間の数百年に属する資料を共時的に用いて、制度や都市の姿を論じてきた。これに対して本研究は、まずその数百年間の官職や事象についてのデータを時系列的に配列して、実に詳細な一覧表を数種類にわたって作成している。これらの一覧表はこれまでの先行研究にはまったく存在しなかったものであり、国際的にみても今後の研究にとって大変有用な基礎資料となるはずである。また、個々の粘土板に記録されている期間を規準にした「短期日誌」と「中期日誌」への分類、その「中期日誌」がさらに長い期間の「長期日誌」へ編集されてゆく過程の解明もきわめて独創的である。

もちろん、本研究にはいくつかの不足点も残されている。(1) 政治制度に関する静態的研究としては成功しているが、制度の変動に関する動態的研究が弱体である。具体的には、例えば官職の職掌の変化、あるいは、都市バビロン内部の集団が相互に溶解した可能性などを、碑文などの考古学的資料も用いて検討することが必要でもあり、可能でもある。(2) 論文全体が資料をミクロな時間軸の中に位置づけること(第1部)に片寄っている。対象となるテクストは、マクロに見れば、古代メソポタミア文明の最後の局面に当たる。そのことが持つ歴史的・文化史的意義についての考察があるべきである。(3) 空間的にも局所的な問題に集中していて、バビロン周辺の都市や地域との関連づけに乏しい。例えば、第3部第10章のテーゼは、セレウコス朝とアルシャク朝の宗教政策に関する隣接分野の研究とどう両立し得るのか。こうした点についても目配りが望まれる。

しかし、これらは今後の研究に残された課題というべきものであり、前述のような本研究の独創的な貢献の価値を減じるものではない。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/25547