学位論文要旨



No 124344
著者(漢字) 西村,もも子
著者(英字)
著者(カナ) ニシムラ,モモコ
標題(和) 国際制度の形成と国境を越えた企業間協力 : TRIPs協定形成過程における日米欧企業と政府
標題(洋)
報告番号 124344
報告番号 甲24344
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第867号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古城,佳子
 東京大学 教授 小寺,彰
 東京大学 准教授 清水,剛
 青山学院大学 教授 山本,吉宣
 JICA研究所 所長 恒川,惠市
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、民間企業が、国際制度の形成にどのように関与しているのかを解明することを目的としている。近年、企業が国境を越えた協力を通して国際制度の形成に関与する例が増大している。これらの制度は、企業だけで作り出されるものから、非政府主体(NGO)や国家などの様々な主体と共に形成されるものまで様々であり、形成される国際制度には、私的利益の追求を目的とするものにとどまらず、公共財の供給を目指すものも存在する。だが共通しているのは、従来は国家などの公的機関が担ってきた制度化に、民間企業が積極的に関与するようになっていることである。そして、最終的に成立する国際制度は、たとえ法的拘束力をもたずとも各国政府に法改正や行政上の対応を迫るものとなっている。本研究は、このような近年の「私」(企業・市場)と「公」(国家)の相互関係を、企業間の国境を越えた協力を通した国際制度の形成という観点から分析するものである。

企業同士が互いを規律するルールや制度を自主的に形成するということは、古くから行われてきた。近年の新たな形態として注目されるのは、この企業間のルール形成が、国家間制度の形成を目的として行われる場合である。ここには、企業が政府に直接働きかけるという従来的な方法ではなく、企業が他国企業と協力して国家間の制度内容を政府より先に決めようとする新たな政治過程が見られる。本研究は、この新たな政治過程を解明するため、GATTのウルグアイ・ラウンドを通して締結された「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(TRIPs協定)」の形成過程を、事例として取り上げている。

企業が、国家間制度の形成を政府に任せるのではなく、国境を越えた民間協力によって制度内容を決定づけようとする事例はまだ少数にとどまるものの、金融、環境、医薬品、電気通信など、いずれも国家間関係への影響が大きい分野で生じている。だが、その事例の多くは、国際制度の形成が企業間のルール形成の延長として位置づけられ、企業の行動のどこまでが国家間制度の形成を目指すものなのかが明確ではない。これに対して、本研究が事例として取り上げるTRIPs協定の形成過程では、米国、日本、欧州の企業団体がウルグアイ・ラウンドの知的財産権交渉の開催に合わせて民間三極会議を結成し、国際協定案を作り上げ、政府間交渉のモデルとするよう公表するという過程が見られた。ここで示される企業間協力は、国家間制度の形成を目的として行われたことが明らかであり、さらにその協力結果が条文集の形で示されたという点で、国際制度の形成を目的とする企業間協力が端的に示しており、この事例の検証によって、国境を越えた企業間協力を通した国際制度の形成を一般的に説明できる分析枠組みを構築できると考えられる。

国際政治学において、国際制度に対する企業の影響力の重要性は度々指摘されてきたが、その理論化はあまり進んでいない。国際制度論は、国際制度の形成主体を国家に限定することで理論的発展を得てきた。近年の企業の参加の拡大を受けて、私的レジーム論のように企業間の協力行動に着目した研究が増えているが、その研究の大半は企業間関係の解明に重点が置かれ、政府による国際制度の形成過程がどのように変化しているのかという点の分析は手薄になっている。だが、企業が従来的な方法ではなく、政府の頭越しに国際制度の形成を行う事例が増えているのであれば、新たな分析枠組みが必要である。本研究はこの分析枠組みを構築することで、私的レジーム論の理論的な発展を試みている。この新たな政治過程に関する問いは、次の二つである。

(1)新たな国際制度の形成に政府が積極的であるにもかかわらず、企業が、他国企業との協力によって、その制度の内容決定に関与しようとするのはいかなる場合か。

(2)(1)の企業間協力は、どのような場合に国際制度の形成に影響を与えるのか。

これらの問いを検討するにあたって、本研究は、近年の国際制度の形成過程における国家間の対立の多くは、国際制度を形成すべきかどうかという点ではなく、どのような国際基準を設定すべきかという点に集中していることに注目した。そして、企業の国際制度の形成への関与の多くが、この国際基準の形成過程で生じている。一般的に、企業が制度の形成を求めるのは、他の企業との経済活動における不確実性をなくすためと考えられ、その経済活動が国境を越えて行われる場合には、企業は自国の国内規制のみならず他国の国内規制の変更を求めることとなる。だが政府は、自国の国内規制の変更には消極的である場合が多く、特に近年は知識や技術の専門化や複雑化によって、いかなる国際制度を形成することが自国にとって望ましいかを判断することが、ますます難しくなっている。この中で、企業が国際制度の形成に向けて他国企業との協力という方法をとるかどうかは、国際保護基準を設定するために必要となる自国の国内規制の変更を、企業と政府のそれぞれがどのように捉えているかという点が重要になると考えられる。

以上の考察から、上記の論点について、本研究は次の二つの仮説を提示した。

仮説(1)国際制度の形成に政府が積極的になっているにもかかわらず、企業が他国企業と協力して国際制度の形成を目指すのは、企業が必要と考える自国の国内規制の変更に自国政府が反対している場合である。

仮説(2)企業間の協力が国際制度の形成に影響を与えるのは、次の二つの場合である。(i)国家間に対立が生じていた論点について、企業間に合意が成立し、その合意点に基づく相手国との合意の成立に政府が新たな利益を見出した場合

(ii)国家間に合意が成立していた論点について、企業間に対立が生じ、その対立を受けて、政府が相手国との間に新たな利益の対立を見出した場合

TRIPs協定は、知的財産権の保護強化による競争力の回復を図った米国が成立させたとするのが、一般的な解釈である。近年、TRIPs協定の形成過程を国際政治学の観点から改めて検証する動きが生じており、その多くは米国企業の影響力を重視しているが、その影響力がTRIPs協定の制度内容にどのように結びついたのかという点は、明らかにされていない。また、先行研究は、米国企業の影響力の拡大という側面のみを重視しているため、検証対象は米国の企業及び政府にとどまり、日本や欧州の企業や政府が、企業間協力及びGATT交渉に際してどのような行動を示したのかという点は、ほとんど研究されていない。これに対して本研究は、米国のみならず日米欧それぞれの企業と政府の動きを分析している。

事例分析は、TRIPs協定の形成過程を、1970年代後半以降に国際通商の分野で知的財産権問題が取り上げられた過程、1980年代前半に知的財産権問題をGATT交渉の議題とすることが決定された過程、1980年代後半に始まった企業間協力の過程、そして同じく1980年代後半に始まったTRIPs政府間交渉の過程という四つに分けて行っている。

まず、知的財産権が国際通商問題となった過程として、欧米政府を中心に展開された東京ラウンドにおける不正商品の流通阻止の試み、米国政府が国際競争力の低下を目指して進めた知的財産権の保護強化の動き、そして日米欧それぞれの先端技術に関する知的財産権制度の整備の動きを追っている。いずれの場合にも、国内企業の働きかけを受けた先進国政府が、自国や他国の知的財産権制度の変更を求めるという従来型の政治過程が展開され、日米欧の企業と政府の方針に違いはなかったことが示されている。次に、米国のコンピュータ企業や製薬企業の要請を受けた米国政府が、GATTでの知的財産権全体に関する国際制度の形成に乗り出す過程を分析している。その中で、これらの米国企業は知的財産権委員会(IPC)という企業団体を設立し、日欧企業との協力による協定案の作成を目指した。なぜこれらの米国企業は、米国政府の積極的な動きにもかかわらず他国企業との協力を目指したのかという点が検討されている。次に、1986年に始まった、米国IPC、欧州産業連盟(UNICE)、日本経団連の三極の企業団体による民間三極会議の過程が検証される。ここでは、日欧の企業団体が米国企業との協力に参加したのはなぜか、そして企業間の意見調整はどのようにして行われたのかという点を、自国の知的財産権制度の変更に対する企業と政府の方針の違いという観点から分析している。

以上の事例分析から、国際制度の形成に際して企業が他国企業との協力を目指すのは、その企業が必要と考える自国の国内規制の変更に自国政府が反対している場合であることを明らかにし、本研究が示す仮説(1)が整合することを示している。ただし、実際の企業間の議論では、企業が関心を示す論点の全てが争点となるわけではない。本研究は、企業間で争いとなったのは日米欧の国内規制に変更が加えられる可能性がある問題に限られ、その中で企業間の議論が新たな保護基準の設定につながるのは、企業が自国の国内規制だけでなく相手国の国内規制の変更を求め、その変更を相手国企業が認めた場合であることを示している。

最後に、TRIPs政府間交渉について、国境を越えた企業間の協力結果が、日米欧の政府間の対立や合意の成立にどのような影響を与えたのかという点を分析している。当初は大きく対立していた日米欧政府の見解が歩み寄りを見せたのはTRIPs交渉の前半であり、その大枠の合意がその後のTRIPs協定の内容を決定づけることとなった。国家間の対立によってGATT知的財産権交渉が停滞する中で、民間三極会議の参加企業は日米欧政府に対してどのように働きかけたのか、またその中で、企業間の協定案は政府にどのように評価されたのかという点を検証している。そして、民間協定案は政府間交渉における合意可能性と自国への利益の双方を充たす内容となっていたことが、フォーカル・ポイントとして作用する要因となったことを示している。ただし、仮説(2)に示す全ての場合において、民間協定案の内容が国際制度に反映されるわけではなく、企業間の協力結果を政府が評価する際に重要となるのは、企業間の協力活動を通して示された自国の国内規制の変更の可能性を、その国の政府が受け入れるかどうかという点であることを示している。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、非国家主体である民間企業が政府間の国際制度の形成にどのように関与しているのかを解明した論文である。経済的相互依存が深化するにつれ、国境を越えた経済活動にかかわる制度化が国際的に進められているが、本論文は、国境を越えた活動を活発化しているにもかかわらず、国際政治の分析の射程に入れられることが少なかった企業に焦点をあて、企業が国際制度の形成にどのような影響を与えているのかを、GATTの「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(Agreement on Trade-Related Aspects of Intellectual Property Rights: TRIPs協定)」の事例を検討することによって明らかにした労作である。

本論文の構成は、序章、第1章から第7章、終章の全9章である。末尾には略語表、参考文献目録、年表が付され、全体のページ数は260ページである。本論文の要旨は以下の通りである。

序章では、近年、企業間の国境を越えた協力が増加してきており、多様な分野(金融、電気通信、食品、労働、環境など)での国際制度の形成に企業が参加している状況が説明される。その上で、企業間の協力という民間の協力が国家間の制度化という公的な制度化に影響を与えるのか、与える場合にはどのような要因が作用するのか、という本論文の課題が示される。

第1章では、企業が国際的な協力を通して国家間制度の形成に参加することが増加しているが、その参加の形態は多様であり、企業の関与の目的も企業間の情報提供から国際制度形成を目指すものまであることが示された上で、TRIPs協定の事例は、国家間制度の形成に影響を与えることを目的として行われた企業間協力の結果が条文案として示された希有な事例であることが明らかにされる。そして、TRIPs協定形成を主導したアメリカ政府の政策にのみ焦点をあてた既存研究では、知的財産権保護についての政策選好が大きく異なった日米欧の先進国間での合意形成の要因を明らかにできないことを指摘し、日米欧間の交渉と、米国に加えて日欧における企業と政府の関係を分析の射程に入れる必要性を説く。

第2章では、分析枠組みの提示が行われる。まず、本論文の論点二つ、(1)政府が国際制度形成に積極的であるにもかかわらず、当該国の企業が他国企業との協力によって、国際制度の内容の決定に関与しようとするのはどのような場合か、(2)(1)の企業間協力は、どのような場合に国際制度形成に影響を与えるのか、が提示され、それぞれの論点について仮説が立てられる。(1)については、企業が他国企業との協力を進めるのは、企業が必要と考える規制の変更に自国政府が反対している場合である、(2)については、政府間の対立にもかかわらず、企業間に合意が成立し、その合意内容に政府が利益を見いだした場合と、政府間に合意が成立していても企業間で合意が成立していないために政府が利害対立を認識する場合、という仮説である。

第3章以降は、第2章で提示された仮説を検証する部分であるが、第3章から第5章までは、仮説の検証の前提として、GATTという多国間の通商交渉において知的財産権が議題となり交渉が行われるまでの経緯について述べる。第3章では、1970年代半ばまで、日米欧において、新技術の創出に対してどのような政策がとられていたのか、知的財産権問題を日米欧の各政府(欧州はEC委員会)がどのように扱っていたのかが確認される。1970年代の前半までは、米国政府は自由競争を優先させ特許権については軽視する傾向にあったこと、欧州ではEC加盟国の特許制度の調和が主眼であり、知的財産権と産業の振興が結びついてはいなかったこと、が指摘され、政府の産業政策が知的財産権保護の強化に結びつけられることがなかったことが明らかにされる。また、国際的な取り決めとして、パリ条約やベルヌ条約が制定されていたものの、日米欧諸国は独自の知的財産権制度を有しているだけで、国際的な保護強化をめざすことがなかったことが示される。

第4章は、1970年代の後半から1980年代半ばにかけて知的財産権が通商上の問題となる過程を明らかにする。この時期の特徴として、不正商品の流通阻止について不正商品の被害を受けた欧米企業間での企業連合が設立され政府に働きかける動きがあったこと(その結果、GATTの東京ラウンドにおいて不正商品の流通阻止が議題となる)、競争力の低下に直面した米国政府が、自由競争推進から知的財産権保護強化による競争力向上という方針に転換し、他国に知的財産権保護強化を求め始めたこと、知的財産権の保護の対象が先端技術へと拡大したこと、この結果、対象によっては日米欧先進諸国間で対立が生じたこと(コンピューター・プログラムの保護など)が述べられる。すなわち、国際通商分野において知的財産権の保護強化に向けた動きが起こるが、それは国内企業の働きかけを受けた政府が自国ばかりでなく他国の知的財産権制度の変更を求めるに至ったことを意味する。企業と政府間の関係については、この時期においては、日米欧において企業と政府の方針に相違がなかったという分析の結果が提示される。

第5章は、1980年代半ばから後半にかけてのGATTにおいて、知的財産権保護が取り上げられる過程を詳述する。ここでは、企業と政府がどのようにGATTの交渉に対応しようとしたかに焦点があてられる。米国政府は、知的財産権問題を、従来からの二国間交渉ではなく、GATTという多国間交渉の場で扱うようイニシアティブを発揮するが、その背景には、米国企業(特に製薬企業とコンピューター企業)の強い要請があった。米国では、製薬・化学企業を中心として、日欧の産業界との協力を通してGATTで形成されるべき知的財産権協定の民間案を作成することを目的に、IPC(米国知的財産権委員会)という企業団体が設立された。IPCは、具体的な協定案を持たずに他国に制度改正を求める米国政府の交渉の進め方では、知的財産権保護の協定の成立が危ぶまれると危惧し、日米欧間での政策の相違の存在を明らかにする役割を果たした。しかし、この時期においては、GATTで知的財産権保護強化が交渉されることになったものの、交渉は途上国の知的財産権保護強化に焦点があてられたため、日米欧における企業と政府の関係については、途上国の法改正を企業が自国政府に働きかけるという従来のロビイングの形態が見られるにとどまっていた。

第6章と第7章は、本論文が第2章で提示した仮説を検証する部分である。第6章は、一次資料を用い、1980年代半ばから後半にかけて、日米欧で民間三極会議が設立されるという新たな展開において、企業と政府間の関係がどのように展開したのかを明らかにする。IPCは、日欧の産業界に協力を呼びかけていたが、その結果、86年に米国のIPC、日本の経済団体連合会(経団連)、欧州のUNICE(欧州産業連盟)が民間三極会議を結成し、88年には、知的財産権の保護基準に関する企業間の合意文書(「民間協定案」)を公表した。本章は、政府間での交渉が進んでいたにもかかわらず、なぜ民間企業は民間協定案を作成したのかという疑問を提示し、本論文の仮説の(1)を検証する。先ず、民間三極会議の目的は、GATT交渉に向けて知的財産権の保護基準についての産業界のコンセンサスを文書の形で提示することであったこと、保護基準の形成は、同時期に行われていた政府間交渉とは全く独立に進められたこと、日米欧の企業は、具体的な論点毎に保護基準を設定することを目指して意見調整を行ったことが明らかにされる。ここでは、EC委員会と日本政府がGATTにおける知的財産権保護強化に消極的であったこと、このような政府の消極的態度に反対して、日欧企業が企業間協力によって国際制度形成を導き、産業発展や競争力向上につなげようとしたことが多くの資料により明らかにされ、仮説(1)が実証される。

第7章では、仮説(2)について検証が行われる。日米欧政府の間では知的財産権に関する新たな国際制度形成の必要性については合意が成立していたものの、それぞれが提示した協定案には大きな相違があったことが、先ず明らかにされる。その上で、日米欧民間三極会議によって作成された協定案の公表と、これに伴う企業団体の政府に対する説得が、日米欧政府のTRIPs交渉に対する態度を大きく変化させることになった経緯が詳述される。日米欧が、知的財産権の論点毎に具体的な保護基準を提示することにより(コンピュータ・プログラム、トレード・シークレット、差別的措置の撤廃、医薬品等の申請データの保護の場合)合意が形成された経緯が説得的に論じられ、民間協定案が合意形成におけるフォーカル・ポイントとして作用したことが明らかにされる。また、企業間に合意が成立しない場合(権利行使手続の強化や著作隣接権の場合)には、たとえ政府間で合意が成立していたとしても、政府が対立の存在を認識した結果、合意が形成されないということも明らかにされた。

終章では、本論文で明らかにされた点がまとめられた上で、本論文が明らかにした企業間協力の国際制度形成への影響についての仮説が、知的財産権以外の分野にも適用可能であることが示唆され、今後の国際制度化を展望する上での論点として重要であることが示される。

以上のような内容をもつ西村氏の博士論文については、多くの優れた点を指摘できるが、特に次の三点に注目すべきであろう。

第一に、国際関係における相互依存の深化の担い手である企業が国際制度の形成に与える影響について、仮説を提示し実証的に検証したことである。企業については、国際関係における非国家主体として重要性が増したという説明が多くなされてきたが、国際政治にどのような影響を与えるのか、与えるとするといかなる場合か、という点について、実証的に明らかにする研究は未だに少ない。企業についての国際政治学における既存研究は、企業同士が標準についてのルールを定めたりする企業間協力の事例がほとんどであり、政府間の制度化に与える影響については、そのことが言及されることはあっても実証されて来なかった。この点において、本論文は、事例による実証を行った論文として評価できる。

第二に、国際制度について、政府だけでなく民間がどのように関与しているのかを明らかにした点である。国際政治学において国際制度は重要なテーマであるが、中でも国際制度の形成がどのような要因によって行われるのかという点は、多くの国際制度が構築されてきた現状では、重要な論点である。この点について、政府間交渉を従来の政府同士の交渉過程を主として見るのではなく、企業も射程に入れることによって企業間協力が政府間の制度化に影響を与えうることを実証した意義は、国際制度論への貢献という点で、大きい。

第三に、本論文はTRIPs協定の形成過程についての優れた事例研究になっている点である。既存研究のほとんどが、交渉における米国政府の役割に焦点を当てているのに比べ、本研究は交渉において重要な役割を果たした欧州及び日本を射程に入れ、三極間でどのような交渉が行われ、三極の企業がどのように対応したのかがつぶさに調べられている。資料の入手が困難であるにも関わらず、UNICEや経団連の資料収集、及び関係者へのインタビューを行うことによって、欧州と日本における企業の政策選好を析出している。

以上のように本論文の貢献は大きいが、不十分な点がないわけではない。第一に、TRIPs協定を事例にして仮説を検証しているが、この事例での検証がどの程度一般化できるのかという点は、今後の検討課題であろう。本論文はTRIPs協定形成については優れた事例研究になっているが、より汎用性のある仮説の構築という点では、今後、他の事例によって検証を重ねていくことが必要である。第二に、本論文が提示した政府と企業の関係についての仮説においては、政府と企業がどのような選好をどのような理由で有しているかの考察が欠かせない。勿論、本論文は両者の選好とその関係について論じているが、特に政府の選好について国内の政治過程に踏み込んだ更なる分析が必要とされよう。この部分についての考察が今後望まれる。

以上のような不足点はあるものの、これらは本論文の学術への貢献をいささかもそこねるものではなく、むしろ今後の研究の課題と言うべきであろう。以上の点から、審査委員会は、本論文の提出者は、博士(学術)の学位を授与されるのにふさわしいと判断する。

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