学位論文要旨



No 124346
著者(漢字) 小山,洋平
著者(英字)
著者(カナ) コヤマ,ヨウヘイ
標題(和) 統計力学及び確率論に基づいた分子構造揺らぎの主成分分析
標題(洋) Principal Component Analysis of Molecular Conformational Fluctuation Based on Statistical Mechanics and Probability Theory
報告番号 124346
報告番号 甲24346
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第869号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 友田,修司
 東京大学 教授 村田,昌之
 東京大学 教授 川戸,佳
 東京大学 准教授 若杉,桂輔
 東京大学 教授 陶山,明
内容要旨 要旨を表示する

第一章 イントロダクション

生体分子は、その構造を変化させることで機能を発揮している。分子動力学シミュレーションから分子の大きな構造変化を取り出す手法として、原子座標を用いた主成分分析(PCA)が一般的に用いられている。原子座標を用いたPCAでは、分子の構造変化だけを取り出すために、あらかじめ分子全体の運動(並進運動と回転運動)を除く必要がある。並進運動は分子の重心を重ね合わせることで一意に除くことができるが、回転運動は分子が複数の構造の間を遷移するような大きな構造変化を伴う場合、一意に除くことができないことが知られている。この問題を回避するために分子の内部座標を用いた様々なPCAが提案されているが、物理的な意味が不明瞭であったり、適用範囲が限られていたりしており一長一短がある。また、一定の力による摂動により分子の平均構造がどのような変化するかを予測する理論が知られているが、この理論においても分子全体の運動をあらかじめ除いておく必要があるため、分子の大きな構造変化を予測するときには、同様の問題が生じる。このように、従来の原子座標を用いた構造揺らぎ解析手法では、複数の構造の間で構造を変化させて機能を発揮するような生体分子の大きな構造変化を同定し、予測することに困難が生じる。また、分子の内部座標を用いたPCAと摂動による構造変化の関係も未解明であった。

本研究では、分子の安定状態のまわりでの揺らぎや平均構造の変化ではなく、構造の比率(分布)の変化を考えることで任意の物理量のPCAが摂動により自然に定式ができることを明らかにした(第二章)。この摂動によるPCAの定式化に基づき、構造変化を相互作用から理解できるポテンシャルエネルギーを用いた主成分分析を提案した(第三章)。また、分子間の摂動による構造変化を解析するためには条件付期待値を用いた主成分分析を行えばよいことを明らかにした(第四章)。第五章で本研究の主要な結果をまとめ、タンパク質への適用に必要となる課題について議論した。

第二章 主成分分析の摂動による定式化

摂動による分子構造の分布の変化を考え、摂動の大きさを摂動前後の分布のKullback-Leibler divergenceにより定量化した。このとき、Kullback-Leibler divergenceの二次近似の範囲ではPCAは(1)ある摂動を独立な構造揺らぎの成分に分解する、あるいは、(2)大きな構造変化を引き起こす摂動を探す、手法であると解釈できることが分かった。また、このとき、(i) 固有値は摂動による構造の分布変化の大きさを表す、(ii) 固有ベクトルは摂動の組み合わせを表す、(iii) 主成分は摂動による確率変化を表す、ことが分かった。

第三章 ポテンシャルエネルギー主成分分析

このPCAの摂動による定式に基づいて、従来の原子座標を用いたPCAの問題点を解決するために、ポテンシャルエネルギーを用いたPCAを開発した(PEPCA:Potential Energy PCA)。ポテンシャルエネルギーは、物理的意味が明確であり、原子間の相対的な位置だけにするので、その値は分子全体の運動に影響されず、あらかじめ分子全体の運動を除く必要がない。また、分子動力学シミュレーションを行うときには必ずポテンシャルエネルギーが定義されるので、さまざまな分子に一般的に適用することが可能である。このPEPCAにより、どの相互作用の組み合わせが構造変化に重要であるかを同定することや、相互作用を変化させたときの構造変化を予測することが可能である。2つの安定状態の間を構造変化する真空中のアラニンジペプチドにPEPCAを適用し、その有効性を実証した(図)。

最も大きな分子の構造変化を引き起こす相互作用の組み合わせ(第1固有ベクトル)

および引き起こされる確率の変化(第1主成分)

(a) ラマチャンドランプロット上でのPEPCA第1主成分の符号。青は負、赤は正を表す。各点はそれぞれアラニンジペプチドの構造に対応する。青と赤の構造が2つの安定状態に対応していることがわかる。

(b) PEPCA第1固有ベクトル。最も大きい構造変化を引き起こす相互作用の組み合わせを表す。今回のモデルではアラニンジペプチドは共有結合に関する相互作用(1-102)、ファンデルワールス相互作用(103-276)、静電相互作用(277-450)からなる450個の相互作用を持つ。el-6-18は6番目と18番目の原子の間の静電相互作用を表す。

(c) 相互作用の組み合わせの強さを変化させたときの構造の分布の変化。PEPCAは(b)で正の相互作用を強め、負の相互作用を弱めると、青と赤で示された構造の存在確率がそれぞれ増加および減少(より正確には存在確率が変化しない境界(緑の線)は青で示された構造の中に存在する)することを予測する。反対に正の相互作用を弱め、負の相互作用を強めると、青と赤で示された構造の存在確率がそれぞれ減少および増加(より正確には存在確率が変化しない境界(緑の線)は赤で示された構造の中に存在する)することを予測する。これらは2つの安定状態の比率を変化させていることがわかる。

第四章 条件付期待値の主成分分析

第二章では分子の座標の任意の関数のPCAがその分子の分布の変化と関係していることを示した。本章では分子間に摂動を与えたときの分子の分布の変化を扱うためには条件付期待値を用いたPCAを行えばよいことを明らかにした。また、この条件付期待値は通常の分子動力学シミュレーションを行った後に、得られた構造をそれぞれ初期構造として対象分子を固定して、相互作用する分子のみのシミュレーションを行うことにより実際に評価できることが分かった。

この分子間相互作用の分子構造変化に対する一般的な枠組みを利用し、対象分子としてアラニンジペプチドを、相互作用する分子として水分子を考え、水とペプチドの間の相互作用がペプチドの構造変化に対する役割を解析した。このペプチドは水中ではαヘリックス、βシート、polyproline II helix領域に相当する3つの安定状態α、β、PPIIが安定状態として得られた。10nsのMDシミュレーションを行った後、水とペプチドの相互作用の条件付期待値を評価するために、得られた1psごとの構造を初期構造として10000本のペプチドを固定した水だけのMDシミュレーションを行った。水とペプチドの間のポテンシャルエネルギーの条件付期待値を求めた後、条件付期待値PEPCAを適用したところ、第一主成分はαとβ-PPII状態を同定し、第二主成分はβとPPII状態を同定することが分かった。また、第三主成分はPPII状態とα状態の間の遷移状態を同定した。PEPCAではこれらの状態変化に重要な相互作用の情報はそれぞれの固有ベクトルから得られる。その結果、それぞれの固有ベクトルの成分で異なる水とペプチドの間の相互作用の大きな値が見られ、ペプチドの構造変化にこれらの水との相互作用が重要な役割を果たしていることが分かった。また、条件付期待値ではなく、通常のMDシミュレーションから得られる水とペプチドのポテンシャルエネルギーに対してPEPCAを適用したところ、主成分は条件付期待値の場合と比べてペプチドの状態を同定しなかった。このことから、分子間相互作用の分子構造変化への寄与を解析するためには理論から要請される条件付期待値を用いることが重要であることが示された。

第五章 結論

本研究において、摂動の効果を平均構造の変化ではなく構造の比率の変化と捕らえることで、原子座標の任意関数を用いたPCAが摂動により定式化できることが分かった(第二章、第四章)。この主成分分析の摂動による定式化に基づいて、構造変化の解析と予測の実用的な手法としてポテンシャルエネルギーPCA(第三章)と条件付期待値ポテンシャルエネルギーPCA(第四章)を開発した。

図 ポテンシャルエネルギー主成分分析(PEPCA)とその摂動による定式化

審査要旨 要旨を表示する

博士論文および論文提出者の質疑応答に対する委員5名の全体的な評価は「非常に高い」という評価であった.発表途中での簡単な質問を許可しながらの発表であったので,発表時間が40分の予定であったが,60分に延びた.審査委員は,発表者から事前に研究内容の説明を聞いておらず,内容的にも非常に高度な理解力を要するレベルの高い内容だったので,基礎的な質問を受けながらの発表となったが,発表者の明快な応対とわかりやすい説明により,全員が研究内容に関する理解を深めた.

発表の後の質疑応答も非常に活発であり,全体で予定時間90分を大幅に超過する2時間を越える面接となった.各審査委員の質問もきわめて建設的で,研究内容の将来的展望を含め,非常に前向きで論文提出者を激励するような質疑応答に終始した.論文内容には,高い新規性があり,これまでの分子座標による共分散行列を用いた主成分分析(Principal component analysis: PCA)をベースにした分子動力学計算事(MD)の手法の限界を完全にクリアしたPEPCA (potential energy principal component analysis)という新しい理論手法の開発とその応用が述べられており,タンパク質の構造やフォールディング過程のシミュレーションのみならず,タンパク質と薬物の相互作用解析など,幅広い応用が期待されるという,この新しい手法の将来性に関して審査委員全員の意見が一致した.

博士論文の書き方に関して,複数の審査委員から要請があった.論文の内容は専門家にはよく分かるが,分野外の研究者が読もうとした場合,かなり理論的に高度な内容なので分かりづらいのではないかというご意見であった.論文自体はわかりやすい英文で書かれており,論旨も明快でコンパクトにまとめられているので,その点では良いと思うが,日本語の要旨を論文の始めにつけることと,もう少し生のデータを付け加えると,内容を検討しながら読めるので理解しやすくなるのではないか,という示唆があった.論文提出者はそのご意見に従って論文の内容を部分的に改定し,審査委員会の2週間後に審査委員全員の了承を得た.

全体として,審査会では活発な議論が交わされ,論文提出者はわかりやすく説明し,審査委員全員から「今後の研究の発展に期待する」とのコメントが出されて2時間後に終了した.論文提出者にとっても非常に有意義なきわめて前向きな審査会であった.主査としては,今後,PEPCAの理論手法がタンパク質などのより大きな分子に適用され,論文提出者が,次第に限界が見えつつあるタンパク質シミュレーションの分野に革新的な貢献をなすことを願っている.

以上を以って,本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する.

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