学位論文要旨



No 124349
著者(漢字) 朝野,夏世
著者(英字)
著者(カナ) アサノ,ナツヨ
標題(和) 固体状態におけるキラリティー測定法の検討と応用
標題(洋)
報告番号 124349
報告番号 甲24349
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第872号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 黒田,玲子
 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 友田,修司
 東京大学 教授 陶山,明
 東京大学 准教授 栗栖,源嗣
内容要旨 要旨を表示する

近年、医農薬や食品、機能材料分野においてキラル化合物の需要とともに、キラル化合物の識別の重要性が高まっている。キラリティーの解析には、円二色性 (circular dichroism: CD) スペクトルの測定が一般的に用いられる。当研究室では、固体キラル化学の発展を目指し、固体状態のキラリティー測定が可能な全偏光対応型分光装置 (Universal Chiroptical Spectrophotometer: UCS-1: J-800KCM)、1 透過兼用拡散反射円二色性 (diffuse reflectance circular dichroism: DRCD) 分光計 (UCS-2, -3: J-800KCMF,2J-800KCMFII3) 及びStokes-Mueller matrix に基づく固体試料キラリティー解析法1 を開発してきた。DRCD 測定は、固体状態でのin-situ 測定が可能であるため、disk やmull の作製過程での測定物質の変化、マトリックス成分との反応、溶解などを避けることができる。また、非破壊での微量測定が可能であるため、必要な試料の量が少なくてすみ、加えて試料の再利用ができるため、経済的な測定といえ、今後、化学のみならず、医農薬分野での応用が期待される。

拡散反射を利用した紫外・可視や赤外領域での吸収スペクトルの測定は一般的な手法であり、これまで数多くの研究がなされている。しかし、拡散反射を利用したCD の測定例は数少ない。4 固体状態特有の試料の巨視的異方性 (linear birefringence: LB, linear dichroism: LD) や、拡散反射に重畳する正反射がCD スペクトルに及ぼす影響について明らかになっていないため、それらを明らかにし、新たにDRCDスペクトルを測定する方法を提案する必要がある。また、多くの有機化合物やタンパク質は紫外領域に吸収をもつため、有益な情報を得るためにはこの波長領域の測定が確実にできることが望まれる。

そこで、本研究は、UCS-3 を用いて、400 nm 以下の波長領域に吸収をもつ、(R)-6,6'-dibromo-1,1'-bi-2-naphthol (R-6-DBBN) を標準試料として、試料の巨視的異方性と正反射を抑える方法を検討し、紫外領域での拡散反射を利用したCD 測定法の確立を目的とした。さらに、検討した方法を用いて、アキラルなpyrene (PYR) とp-benzoquinone (Q)から成るキラルな1:1 錯体 PYR / Q5のDRCDスペクトルの観測を目指した。PYR / Q は空間群P41 あるいはP43 に属する、キラル超分子構造をもつ一軸性の結晶であり、固体状態でのみキラリティーを示す。これまで、charge-transfer (C-T) 錯体としての研究は数多く行われてきたが、キラリティーに着目した研究は行われていなかった。PYR / Q は、吸光係数が大きく、Q の昇華性により大気中で不安定なため、透過法でのCD 測定が困難な結晶である。したがって、PYR / Q のCD スペクトルを得るためには、拡散反射を利用した測定が唯一の方法となる。

試料の巨視的異方性と正反射がDRCD スペクトルに及ぼす影響を調べるために、測定物質の粒径を変化させてDRCD スペクトルへの影響を検証した。粒径を小さくする(本研究では53 μm 以下)と、LDの値は10(-4)OD 程度まで小さくなり、LB の値も10(-3) OD 以下になると予想され、物質のキラリティーのみに由来したCD シグナルが観測されることがわかった。したがって、粒径を小さくする(本研究では53 μm 以下)ことがDRCD スペクトルに対する試料の巨視的異方性の寄与を抑える上で有効であることが示された。また、粒径が大きくなると拡散反射率の減少に伴い、スペクトルに対する正反射の寄与が増大することがわかった。

正反射の影響が見られるDRCD スペクトルでは、スペクトルのピークシフトや新たなCD シグナルが観測された。本研究では、正反射のスペクトルに対する影響を抑えるDRCD 測定法として、希釈法と光沢紙を利用した微少量測定の2 つの方法を検討した。希釈法では、測定物質を最適径(本研究では53 μm以下)に粉砕し、最適希釈率で希釈することにより、正反射の寄与の小さいスペクトルを得ることができた。光沢紙を利用した微少量測定では、最適径(本研究では53 μm 以下)に粉砕したR-6-DBBN を、希釈せずに市販の光沢紙に微少量(100 μg 以下)擦りつけることにより、希釈剤に希釈した場合と同様に、スペクトルに対する正反射の影響を抑えた測定に成功した。この方法は、希釈剤の影響がなく、物質の拡散反射光をそのまま反映したスペクトルが得られる。試料調製が不要な非破壊測定であり、diskやmull の作製といった試料調製による測定物質への影響を避けることができる。測定試料は回収して再利用することが可能である。さらに、必要な試料の量が少なく、市販の光沢紙を使用して測定できるため、簡便で経済的な測定方法といえる。ただし、粒径の小さな粒子(本研究では53 μm 以下)を光沢紙上に分散させているため、1 つの粒子が空気と接する表面積が希釈法よりも多くなり、PYR / Q のような昇華性の物質は、昇華が促進されるためこの測定には適さない。

そこで、希釈法を用いてPYR / Q のDRCD スペクトルの測定を行った結果、PYR / Q のキラル超分子構造由来のCD 及び吸収スペクトルを得ることに成功した。(Fig. 1)6 空間群P41、P43 それぞれの結晶に対し、鏡像対称のCD スペクトルが得られた。サンプルの回転に依存した変化は見られず、Stokes-Mueller matrix に基づく解析法1 より巨視的異方性由来の見かけのシグナルを含まない真のCD スペクトルであることが示された。また、得られた吸収スペクトルについても、光導波路分光法及び理論計算により、その妥当性を確認した。その結果、正反射の吸収スペクトルへの寄与が最小限に抑えられており、同時にDRCDスペクトルに及ぼす影響も極めて小さいと結論付けられた。

また、PYR / Q は重原子を含まないため、X 線結晶構造解析から絶対配置を決定することができない。しかし、重原子を含む2-chloro-1,4-benzoquinone (2-ClQ) とPYR から、PYR / Qと同一の結晶構造 (P41 あるいはP43) をもつ、単結晶 PYR /2-ClQ を得ることに成功した。PYR / 2-ClQ の絶対配置を決定し、それらのDRCD スペクトルから、PYR / Q の絶対配置を決定することができた。

以上より、本研究では、DRCD スペクトルに対する試料の巨視的異方性と正反射の影響を最小限に抑える方法を検討し、希釈法と光沢紙を利用した微少量測定という、2 つのDRCD 測定法を確立した。さらに、拡散反射法により、吸光係数が大きく、かつ、昇華性である物質の固体状態でのCD スペクトル測定に成功した。この結果から、PYR / Q のように物質の性質上透過法による測定が困難な物質のキラリティー測定も、DRCD 分光計を用いることにより可能であることが示され、DRCD 測定が汎用性の高いキラリティー測定法になり得ることが期待できる。しかし、DRCD はまだ新しい分光法であるため、今後、測定サンプル数を増やし、測定方法の改善、測定結果の信頼性の向上を図っていく必要がある。

1 R. Kuroda, T. Harada and Y. Shindo, Rev. Sci. Instrum., 72, 3802 (2001).2 T. Harada, H. Hayakawa, and R. Kuroda, Rev. Sci. Instrum., 79, 073103 (2008).3 T. Harada, Y. Miyoshi and R. Kuroda, Rev. Sci. Instrum., in press.4 I. Bilotti, P. Biscarini, E. Castiglioni, F. Ferranti and R. Kuroda, Chirality, 14, 750 (2002).5 J. Berstein, H. Regev, F. H. Herbstein, P. Main, S. H. Rizvi, K. Sasvari and B. Turcsanyi, Proc. R. Soc. Lond. A,347, 419 (1976).6 N. Asano, T. Harada, T. Sato, N. Tajima and R. Kuroda, Chem. Commun., 899 (2009).

Figure 1. PYR / Q のDRCD (a) と吸収 (b)スペクトル(- と- - -はエナンチオマー)

審査要旨 要旨を表示する

近年、光学活性を示す医薬品や農薬の普及に伴い、学術分野のみならず、医農薬、食品など産業分野でもキラリティー測定の需要が高まっている。キラリティー測定には様々な方法があるが、測定方法が簡便で、光学純度の決定が容易にできることから、円二色性 (circular dichroism: CD) スペクトルの測定がよく用いられる。一般的に、CD 測定は溶液状態で行われるが、当研究室では、拡散反射を利用した固体のCD (diffuse reflectance circular dichroism: DRCD) 測定に取り組んでいる。拡散反射を利用した吸収スペクトルの測定は黒田研究室ですでに確立されている。しかし、DRCD スペクトルの測定例は少なく、測定方法も確立されていない。

DRCD 測定は、in-situ 測定や微少量測定が期待される反面、スペクトルに対する固体状態特有の巨視的異方性 (linear birefringence: LB, linear dichroism: LD) や正反射の寄与が問題となっている。朝野氏は、(R)-6,6'-dibromo-1,1'-bi-2-naphthol (R-6-DBBN) を用いて、試料の巨視的異方性と正反射がDRCD スペクトルに及ぼす影響について検証し、明らかにした。そして、試料の巨視的異方性と正反射を抑え、試料のキラリティーのみに由来したCDスペクトルを得るための新たなDRCD測定法、希釈法と光沢紙を利用した微少量測定、の2 つを提案した。さらに、提案した測定方法を用いて、既存の固体状態でのキラリティー測定が困難な結晶 (pyrene / p-benzoquinone (PYR / Q)) のCD スペクトル測定を行った。

本博士論文では、第1 章序論において、DRCD 測定法の利点及び問題点が書かれている。これまでのキラリティー測定法よりも簡便で、試料調製に伴う試料への悪影響が避けられる測定法であること、しかし、試料の巨視的異方性の寄与や正反射の影響を避けられないことが述べられている。

第 2 章では理論解析について書かれている。フレネルの式を用いて、正反射に対する希釈の効果について検証している。また、拡散反射率と粒径の関係を述べている。さらに、Stokes-Muller matrixに基づいた、DRCD スペクトルに対する巨視的異方性の寄与の大きさの見積もり方を提示している。

第 3 章では実験方法について書かれている。希釈法と光沢紙を利用した微少量測定について述べられている。第2 章で理論解析した、正反射に対する希釈の効果、拡散反射率と粒径の関係を踏まえ、希釈法では希釈率と粒径の観点から条件検討を行った。光沢紙を利用した微少量測定は、希釈の必要性がなく、粒径の影響のみを検証した。また、PYR / Q のDRCD 測定は希釈法を用いて行われた。光沢紙を利用した微少量を測定では、粒子が空気と接する表面積が希釈法の場合よりも大きく、昇華性の物質は昇華が促進される。PYR / Q はQ が昇華性であるため、空気中で不安定な結晶であるため、PYR / Q のDRCD 測定では希釈法を採用した。さらに、昇華性の低いキラル結晶を作製する目的で、PYRと2-chloro-1,4-benzoquinone (2-ClQ)、PYRと2,5-dichloro-1,4-benzoquinone (2,5DQ)から成る錯体も作製し、PYR / Q との比較を行った。

第 4 章では実験結果について書かれている。希釈法では、R-6-DBBN を粒径53 μm 以下に粉砕し、2 wt%以下まで希釈することで正反射の寄与の小さいスペクトルを得ることができた。測定物質の粒径だけでなく、希釈剤の粒径も小さくすることで、粒子間の光学密着度を高め、正反射を抑える効果が高まることも示されている。光沢紙を利用した微少量測定では、粒径53 μm 以下に粉砕したR-6-DBBN を、100 μg 以下、希釈せずに光沢紙に擦りつけるだけで、正反射の寄与の小さいスペクトルを得ることに成功した。この方法は、粒径を細かくし、均一に光沢紙に擦りつけることで、試料の巨視的異方性も同時に取り除くことができる。in-situ での測定が可能であり、市販の光沢紙に擦りつけるだけという簡便な測定方法から、今後、発展性が見込まれる。希釈法を用いたPYR / Qの測定では、粒径を53 μm 以下に粉砕し、希釈率を10 - 20 wt%にすることで、PYR / Q のキラル超分子構造由来のCD 及び吸収スペクトルを得ることに成功した。Stokes-Muller matrix に基づくキラリティー解析法より観測されたCD スペクトルは、試料の巨視的異方性の寄与の小さい、PYR / Qのキラリティーのみに由来するスペクトルであることが示された。さらに、光導波路分光計法及び理論計算により、観測された吸収スペクトルの妥当性を確認し、正反射の影響を最小限に抑えられたことが示された。また、PYR / 2-ClQ、PYR / 2,5DQ のうち、PYR / 2-ClQ のみがキラル結晶であり、かつ、PYR / Q と同形の結晶構造をもつことが明らかとなった。そこで、PYR / 2-ClQ についてFlack パラメータから結晶の絶対配置を決定し、それらのDRCD スペクトルからPYR / Q の絶対配置とDRCD スペクトルとの相関を決定することができた。

第 5 章では実験結果に対する考察を行っている。試料の巨視的異方性の影響について、シグナルの値が5 mdeg 以下の場合、LD の値が10(-2) OD 程度になると、試料の巨視的異方性の大きさを無視することができなくなるが、粒径を53 μm 以下にすると、LD の値が10(-4) OD まで小さくなり、物質のキラリティーのみに由来したCD シグナルが観測されることがわかった。また、正反射の影響は、正反射による見かけのCD シグナルの出現という形で観測された。正反射のスペクトルに対する効果は、検出される全反射光に占める拡散反射光と正反射光の比率で決定する。その際、重要となるのが拡散反射率である。拡散反射率は吸光係数と粒径の関数であるが、粒径が光の透過可能距離よりもはるかに大きい場合は、物質固有の粒子の形状も拡散反射率を変化させる要因になり得ることを示した。試料の巨視的異方性及び粒径から判断して、DRCD 測定は微粉末結晶の測定に適しているといえる。また、PYR / Q のように性質上、透過法での測定が困難である物質のキラリティー測定も、DRCD 分光計により可能であることが示された。

以上、本論文は、DRCD 測定を行う上で問題となる、試料の巨視的異方性と正反射の影響を明らかにし、新たなDRCD 測定法を確立した。そして、確立した方法を用いて、既存のキラリティー測定が困難であった物質のCD 測定に成功し、DRCD 測定の汎用性の高さを証明した。

従って、本論文は博士(学術)の学位論文としてふさわしいものであると審査委員会は認め、合格と判定した。

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