学位論文要旨



No 124356
著者(漢字) 髙尾,大輔
著者(英字)
著者(カナ) タカオ,ダイスケ
標題(和) ウニ精子細胞内における物質拡散の性質に関する研究
標題(洋) Studies on diffusion properties of materials inside sea-urchin sperm cells
報告番号 124356
報告番号 甲24356
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第879号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 奥野,誠
 東京大学 教授 須藤,和夫
 東京大学 教授 川戸,佳
 東京大学 教授 村田,昌之
 中央大学 教授 上村,慎治
内容要旨 要旨を表示する

ウニ精子を含む,運動機能を持つ真核生物の鞭毛・繊毛は運動に不可欠な軸糸構造を持つ。軸糸の構成成分である微小管とダイニンの相互作用によって鞭毛・繊毛の屈曲運動は引き起こされる。この時,ダイニンは,ATPの加水分解と共役して屈曲運動に必要な力を発生する。また,精子鞭毛では全ての部位で能動的な屈曲運動が起こすことも知られている。すなわち,鞭毛の全長に渡ってダイニンが滑り運動を引き起こすのに十分な量のATPが供給されているはずである。ウニ精子の場合,ATPは鞭毛基部付近に局在するミトコンドリアで生産され,拡散によって鞭毛先端まで供給される。また,この拡散によるATP供給を補う形でクレアチンシャトル機構が働いていることも報告されている。さらに,クレアチンシャトル存在下では,拡散によるATP供給によって鞭毛の屈曲運動が維持できるというシミュレーション結果が報告されている(Tombes et al., 1987, Biopys. J. 52, 75-86)。しかし,このシミュレーションには重要な問題点があった。それは,最も重要なパラメータである,鞭毛内での物質の拡散係数については,筋線維中で測定された値が使用されている点である。鞭毛内の空間は密に存在する軸糸構造により大部分が占有され,物質の拡散速度が他の細胞内に比べて大きく制限される可能性が高い。そこで本研究では,蛍光色素の拡散係数を測定する方法として一般に用いられているFRAP (fluorescence recovery after photobleaching)法を用いて,鞭毛内に取り込ませた蛍光色素の拡散係数を実測した。さらに,その結果を踏まえて過去のシミュレーションを再検証した。

ウニ精子は精巣から放出され受精に至るまでの間に細胞内で様々なシグナル伝達経路が活性化し,これらの経路は時間的・空間的に異なる制御を受ける。例えば海水希釈時の鞭毛の運動活性化や,受精時の頭部での先体反応などがある。しかし,これらの経路はカルシウムイオンやcAMPの濃度変化といった多くの共通の因子が関わる。これらの因子が異なるシグナル伝達経路を時間的・空間的に正しく制御するために,精子の細胞内がうまく区画化されているのではないかと想定した。実際に,哺乳類精子の細胞膜は拡散障壁によって物理的に複数の区画に分割されていることが知られている。また,上皮細胞の繊毛と細胞体の境界部分には細胞内に拡散障壁があり,この部分で繊毛特異的に輸送・局在される物質の通過を選別していることが示唆されている。これらのことから,精子の頭部と鞭毛の境界であるネック(neck)の部分に細胞内拡散に対する何らかの障壁があるのではないかと私は考えた。そこで先述のFRAP法を応用し,ウニ精子のネック付近の物質の拡散性について調べた。

ウニ精子を使ってFRAP解析を行う上で大きな問題点がある。それは,精子の細胞内に取り込ませることのできる蛍光物質の種類が非常に限られている点である。精子は一般的な細胞に比べて大きさが小さいため,微小ガラス針で細胞膜の一部を物理的に透過させるマイクロインジェクション(微量注入法)のような従来手法の応用が難しい。現在精子で唯一確立され一般に用いられている方法としては,目的の蛍光物質のエステル化合物を用いる方法がある。しかし,この方法で使用できる蛍光物質はごく一部の低分子量のものに限られている。そこで本研究では,より多くの分子種で鞭毛内における拡散の性質を調べるために,近年確立された単一細胞エレクトロポレーション(single-cell electroporation)の技術を応用して,種々の蛍光物質を精子細胞内に取り込ませ,そのFRAP解析を行うことにした。

本論文では以下の3つの章にわけて結果および経過を報告する。第一章(Chapter 1)では,ウニ精子における単一細胞エレクトロポレーションの開発について述べる。単一細胞エレクトロポレーションとは,細胞内に導入する物質を充填したガラス微小針に電極を装着し,単一細胞レベルで局所的にエレクトロポレーション(電気穿孔)を行う方法である(図1)。大量の細胞に高圧の電気パルスを与える従来型のエレクトロポレーションに比べて効率がよく,原理的には一分子程度の少量の導入も可能で応用性が高いといった利点がある。ウニ精子では細胞の大きさや溶液の条件などが神経細胞とは大きく異なるため,過去の単一細胞エレクトロポレーションやウニ卵を用いた従来型エレクトロポレーションの報告を参照し,ウニ精子を用いる場合の最適な実験条件を求めた。これにより低分子量の蛍光色素(carboxyfluorescein, Oregon Green, calcein)および比較的分子量の大きい(MW 3,000)デキストラン化合物の取り込みに成功した。これらの蛍光物質は以降に述べる拡散性の定量的解析に十分な量の取り込みが可能であった。分子種によっては取り込みの難しい物質もあり,分子量や正味の電荷といった,分子種に特有の性質が取り込みの効率に影響していると考えている。取り込みに成功したこれら4種の蛍光物質のうち,低分子量の蛍光色素3種について,単一細胞エレクトロポレーションとエステル化合物を用いる方法とでそれぞれ精子細胞内に取り込ませ,第二章(Chapter 2)以降に述べる拡散性の解析を行ったところ取り込み方法による結果の違いは見られなかった。そのため単一細胞エレクトロポレーションが細胞に及ぼす固有の影響は無視できるものと判断した。細胞への物理的損傷も少なく,以降の実験に用いる上で問題はないと結論した。

第二章では鞭毛内拡散係数の実測,およびその結果を踏まえた鞭毛内における拡散的エネルギー供給のシミュレーションについて報告する。初めに,鞭毛内での物質の拡散係数をFRAP法により測定した。得られた拡散係数は低分子量の蛍光色素では分子種によらず約60 μm2/sで,デキストラン(MW 3,000)については26 μm2/sであった。ATP (MW 507)の鞭毛内拡散係数がこれらの低分子量蛍光色素(MW 376623)と同程度だと仮定すると,Tombes et al. (1987)のシミュレーションで用いられた筋線維中でのATPの拡散係数(>150 μm2/s)に比べて2~3倍低い値となる。次に,このように拡散が制限された条件でTombes et al. (1987)のモデルが成り立つのか,同様のモデルを計算することにより検証した。その結果,一般的なウニ精子鞭毛と同程度の長さ40 μmの鞭毛でクレアチンシャトル存在下では,ATPの拡散係数が60 μm2/sであっても屈曲運動に必要なATPは供給可能であると結論できた。しかし,100 μmを超えるような長い鞭毛では他のエネルギー供給機構を考える必要があるという結果が得られた。実際に, 100 μm以上の長さの鞭毛を持つ哺乳類精子では,解糖系によるエネルギー供給が鞭毛屈曲運動において重要な役割を果たしていることが報告されており,私の結論と矛盾しない。このような機構を持たないウニ精子では,拡散的エネルギー供給機構と鞭毛の長さとの間にはある密接な関係があると考えられる。

最後に,第三章(Chapter 3)では精子の頭部と鞭毛の境界であるネックの部分における物質の拡散性について述べる。ネック部分の拡散性を調べるため,初めに,蛍光色素を取り込ませた精子の頭部でのFRAP解析を行った。これにより,頭部と鞭毛の間で物質は少なくとも拡散移動でき,ネック部分で細胞質が完全に分断されているわけではないことが分かった。さらに詳しくネック部分の拡散性を調べるため,鞭毛上の様々な部位でFRAP解析を行い,鞭毛上の位置と見かけ上の拡散速度(蛍光強度の回復時定数)の関係を調べた。その結果,鞭毛の両端(基部と先端)では大きく拡散速度が異なることが分かった(図2)。鞭毛中心部分に比べ,先端部分では見かけ上の拡散速度が遅く,基部付近(ネック付近)では逆に速いという現象が観察された。この現象を説明するために,単純化した計算モデルを作成し,精子の細胞内での物質拡散をシミュレーションした。その結果,この現象は細胞内の構造的要因によるものであることが示唆された。すなわち,先端部分では片側(基部側)でしか物質の交換が起こらず,見かけ上拡散速度が減少し,ネック部分では三次元的構造を持つ頭部と結合している影響から見かけ上の拡散速度が増加するものと考えられる。この計算から,ネック部分での拡散障壁は全く存在しないか,存在しても影響は小さいという結果が得られた。よって,シグナル伝達経路はカルシウムイオンなどの因子の局在を区画化し制限する方法ではなく,他の方法(因子の組み合わせや順番等)で制御されている可能性が示唆された。しかし,上皮細胞の繊毛と細胞体の境界部分のように,ネックでの物質の通過に選択性がある可能性も残されている。

今後は単一細胞エレクトロポレーションの技術を発展・応用し,精子細胞内での一分子蛍光観察などの実験にも新しく展開できると期待している。また一般的な細胞では繊毛に対して大きな細胞体が影響し,繊毛のみの蛍光観察が難しいが,精子では細胞体(頭部)が比較的小さく細胞全体が平面的であるため,鞭毛の蛍光観察には非常に適した材料である。一般的な鞭毛・繊毛の内部や,あるいはそれらと細胞体との間での拡散の性質を調べるための実験モデルとして,精子の細胞内の物質拡散に関する性質をさらに詳しく調べる意義は大きい。

審査要旨 要旨を表示する

真核生物の鞭毛・繊毛は共通して9+2の軸糸構造を持ち、主要構成成分である微小管とダイニンの相互作用によって屈曲運動が引き起こされる。この時、ダイニンは、ATPの加水分解反応と共役することで屈曲運動に必要な滑り力を発生できることがわかっている。つまり、鞭毛の全長に渡って消費量を補う十分量のATPが供給され続けなければ破綻してしまう運動系である。ウニ精子の場合、ATPは鞭毛基部付近に局在するミトコンドリアでのみ生産され、拡散によって鞭毛先端まで供給される。また、このATP供給を補う形でクレアチンシャトル機構が働いていることも報告されている。また、クレアチンシャトル存在下では、拡散によるATP供給のみで鞭毛の運動活性は充分維持できるというシミュレーション結果も報告されている。しかし、このような研究の中で最も重要なパラメータである物質の拡散係数、特に鞭毛内での拡散係数については、実際の測定値はなく、他の条件下で得られた推定値がそのまま借用されて来た。この博士論文の研究では、まず鞭毛内での物質の拡散係数をFRAP法で実測し、その結果をもとに過去のシミュレーションを詳しく再検証している。

ウニ精子を使ってFRAP解析をする上で大きな問題点がある。それは、精子の細胞内に取り込ませることのできる蛍光物質の種類が非常に限られている点である。精子は一般的な細胞に比べて小さいため、微小ガラス針で細胞膜の一部を物理的に透過させるマイクロインジェクション法のような従来手法の応用がきわめて難しい。現在、精子の細胞で唯一確立されて用いられている方法としては、蛍光物質のエステル化合物を用いる方法がある。しかし、この方法で使用できる蛍光物質はごく一部の低分子量のものに限られる。この論文では、より多くの分子種で鞭毛内における拡散の性質を調べるために、近年確立された単一細胞エレクトロポレーションの技術をウニ精子でも応用し見事に成功させている。種々の蛍光物質を取り込ませ、そのFRAP解析を行っている。

本論文は3つの部分に分かれている。第1章では、ウニ精子における単一細胞エレクトロポレーションの開発について述べている。単一細胞エレクトロポレーションとは、細胞内に導入する物質をガラス微小針内に充填し、単一細胞レベルで局所的にエレクトロポレーションを行う新方法で、神経細胞を使った研究で確立されている。ウニ精子では細胞の大きさや溶液の条件などが神経細胞とは全く異なるため、いくつかの困難な点があったが、この博士論文で紹介された研究が、海産動物種を使い、しかも精子のような小さな細胞では、最初の成果である。低分子量の蛍光色素(分子量約500)や蛍光デキストランなど(分子量3,000)の精子内取り込みに成功している。第2章では、この手法を使って、詳しい拡散速度の解析を紹介している。また、その結果をもとに、鞭毛内におけるATPエネルギー供給のシミュレーションについても記述している。得られた拡散係数は、ATP (MW 507)や低分子量蛍光色素(MW 376-623)ではおよそ60μm2/sと見積もられ、以前の推定値(筋細胞内での予想値、>150μm2/s)に比べて2~3倍低い値となることが示されている。このように拡散が制限された条件でTombes et al. (1987)の示したモデルが成り立つのかも再検証している。一般的なウニ精子鞭毛と同程度の長さ40μmの鞭毛ではクレアチンシャトル系が共存すればATPの拡散係数が60μm2/sであっても屈曲運動に必要なATPは供給可能であると本研究は結論している。同様の計算から、100μmを超えるような長い鞭毛では他のエネルギー供給機構(哺乳類精子で見られる様な解糖系の寄与)を考えなければならないとも推測している。

最後の第3章では精子の頭部と鞭毛の境界であるネックの部分における物質の拡散特性について詳しい考察を行っている。この部分での拡散特性を調べるため、初めに、蛍光色素を取り込ませた精子の頭部でのFRAP解析を行った。この観察から頭部と鞭毛の間で物質は少なくとも拡散移動できることはわかった。さらに詳しくネック部分の拡散性を調べるため、鞭毛に沿ったいろいろな場所でFRAP解析を行い、場所と見かけ上の拡散速度(蛍光強度の回復時定数)の関係を調べた。その結果、鞭毛中心部分に比べ、先端部分では見かけ上の拡散速度が遅く、基部付近(ネック付近)では逆に速度が速いという現象を発見している。さらに、本研究は、計算シミュレーションを行った結果、場所による見かけ上の拡散速度の違いは、細胞構造の違いが主たる要因であることが強く示唆された。すなわち、鞭毛の先端部分では片側からの物質の交換が起こらず、見かけ上拡散の速度が減少する点、ネック部分では3次元的な広がりを持つ頭部と直結している影響から見かけ上の速度が増加するという説明をきわめて明瞭に行っている。さらに、ネック部分での拡散障壁は全く存在しないか、存在しても影響は小さいと結果づけている。見かけ上の物質拡散速度(物質がある箇所で枯渇した場合、どの程度の時間で再供給がなされるかというパラメータ)は、細胞の構造や境界条件が大きく影響することを実験と理論の両方ではじめて示した点で意義は大きい。

この研究で開発された手法は、精子細胞内での一分子蛍光観察などの実験にも発展・応用できるものと考えられる。精子は細胞体(頭部)が比較的小さく細胞全体が1次元的な細長い構造体であり、上のような定量的な議論を行うのに格好の材料である。この事実も明確に示されている。この様な新しいアプローチを提供できた点、さらに、鞭毛・繊毛の内部構造と他の物質との相互作用を拡散速度というパラメータを使って調べる研究も可能となり、学問上の展開も期待される。高尾大輔氏が提出した本論文は、以上述べたように、詳細な定量解析と理論的な計算を平行して行った点、新しい実験系へと展開できた点で、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定した。

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