学位論文要旨



No 124360
著者(漢字) 林,洋平
著者(英字)
著者(カナ) ハヤシ,ヨウヘイ
標題(和) 無血清培養法を用いた多能性幹細胞の自己複製と分化に関する分子機構の解析
標題(洋) Molecular Mechanisms of Pluripotent Stem Cell Self-renewal and Differentiation Revealed by Defined Culture Systems
報告番号 124360
報告番号 甲24360
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第883号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石浦,章一
 東京大学 特任教授 浅島,誠
 東京大学 教授 村田,昌之
 東京大学 教授 池内,昌彦
 東京大学 准教授 道上,達男
内容要旨 要旨を表示する

序論

哺乳類胚の発生における最初の細胞分化は胚盤胞期に内部細胞塊とその外側を覆う栄養外胚葉とに分離することである。内部細胞塊は将来個体の全てを形成する。胚性幹(ES)細胞はこの内部細胞塊より得られた細胞株であり、個体の全ての細胞種へと分化する能力、つまり「多能性」を有している。さらにES細胞は、培養条件下において未分化性を維持しながらほぼ無限に分裂を行う能力、つまり「自己複製能」を有している。これらの能力のために、ES細胞は哺乳類の発生機構を知るためのモデル細胞として広く研究に用いられている。さらにヒトES細胞は分化誘導した細胞からの各種の病気に対する再生医療が期待されている。ES細胞を用いた発生機構の解明ならびに再生医療を達成するためには、細胞を安定した状態で維持培養し、特定の細胞種への効率的な分化誘導を行うことが必要であるが、現在これらの技術は未発達である。その一因として、細胞の挙動を制御する生理活性物質の作用の検討がこれまで困難であったことが挙げられる。従来のES細胞の培養では、他種の支持細胞、ウシ胎児血清を栄養因子としてそれぞれ用いてきた。これらの因子由来の不特定物質のために、再現性のある実験結果が得られないことや、添加した生理活性物質の活性が阻害されることがある。これらの障害を取り除き、細胞の挙動を生理活性物質により効率的に制御する目的で、私たちの研究グループはマウスES細胞に対して化学的既知因子のみで構成される無血清培養法を開発している。私はこの無血清培養法を用い、ES細胞の自己複製と分化に関する生理活性物質の作用の検討ならびにその作用の分子機構の解明を目指した。その中でも、細胞外マトリックス(ECM)成分と成長因子である骨形成因子(BMP)の作用を検討した。

ECM成分によるマウスES細胞の自己複製と分化の制御

ECM成分は各種幹細胞に対して、「幹細胞ニッチ」を形成する中心物質として、幹細胞の自己複製ならびに分化を制御していると考えられている。また、ラミニン(LN)やフィブロネクチン(FN)といったECM成分は発生初期から発現し、欠損マウスの解析などから初期発生において重要であることが知られている。以上の知見から、ES細胞に対してECM成分がその自己複製と分化に多大な影響を与えると考えられる。しかし、ES細胞に対するECM成分の影響は、培養条件において不特定なECM成分やその活性に影響を与える成分が入っているため、これまでほとんど解析されてこなかった。

私は未分化性を維持可能な無血清培地を用いて、各種ECM成分であるI型コラーゲン、IV型コラーゲン、ゼラチン(Gel)、FN、LN、ポリDリジン(PDL)でそれぞれコートしたディッシュ上でマウスES細胞を培養した。それぞれの条件においてマウスES細胞の自己複製能のマーカーであるアルカリホスファターゼ活性、Nanog, SSEA1タンパク質の発現を調べると、それぞれ各種コラーゲンやPDL上ではその活性が高く、FNやLN上ではその活性は低下していた。このことから、各種コラーゲン上やPDL上ではマウスES細胞は未分化性を維持可能であることがわかった。 一方、未分化性の指標が低下したFN、LN上のマウスES細胞では胚性組織の源であるエピブラストのマーカー遺伝子の発現が増加していることが定量的RT-PCRによる解析からわかった。

この分子的機構を解明するために、まずECMの主要な受容体であるインテグリンの発現を解析したところ、マウスES細胞はFNやLNに結合するサブユニットは発現していたが、コラーゲンに対するサブユニットは発現していなかった。機能的にもインテグリン複合体を形成する主要なサブユニットであるβ1の中和抗体を培地に添加したところ、FN、LNに対するマウスES細胞の接着のみが著しく阻害され、FN、LN上のマウスES細胞ではインテグリン直下に存在するFAKの強い活性化が引き起こされていた。マウスES細胞では発現していないコラーゲンに対するサブユニットを過剰発現させると、コラーゲン上においてもFNやLNと同様に細胞分化が誘導された。最後にインテグリンシグナルを介さないPDL上や浮遊状態での培養を試みたところ、長期間の培養後も未分化性を維持していた。

以上の結果から、マウスES細胞はECM成分の添加なしで自己複製が可能であることが示唆された。一方、ECM-インテグリンシグナルはマウスES細胞における自己複製から分化への分子スイッチの役割を果たすことが示唆された。以上の研究はES細胞におけるECM成分の影響を解析し、その機能に基づいたES細胞の制御法を確立したという点において意義がある。

BMP4を用いたマウスES細胞から胎盤への分化誘導とその分子的機構

マウスES細胞における多能性はキメラマウス作製実験によって確認することができる。キメラマウスはES細胞を胚盤胞へと移植して作製され、移植された細胞は体のほぼ全ての組織へと分布する。しかし、栄養外胚葉由来の組織である胎盤へはほとんど分布しない。そのため、マウスES細胞は栄養外胚葉、胎盤へと分化することは困難であると従来は考えられてきた。しかし、マウスES細胞にある種の遺伝子操作を行うことで、栄養外胚葉へと分化できるという報告が近年なされている。さらにヒトES細胞においてはBMP4処理によって栄養外胚葉、胎盤の指標となる遺伝子の発現が上昇したという報告がある。以上の知見から、私は無血清培養法を用いて、各種生理活性物質の働きにより、マウスES細胞から遺伝子操作を経ずに栄養外胚葉へと分化できるのではないかという仮説を立て、研究を行った。

無血清培養条件下において、マウスES細胞に対してBMP4を処理したところ、培養4日後にはほとんどの細胞が栄養外胚葉と類似した形態を示していた。この細胞での遺伝子発現を定量的RT-PCR法により調べると、栄養外胚葉で働く転写因子の多くの発現が、マウスES細胞と比較して、上昇していた。さらに栄養外胚葉特異的なタンパク質の発現を免疫染色法によって解析した。以上の結果より、BMP4処理によりES細胞が栄養外胚葉に特異的な遺伝子発現を行うことが示唆された。

この分化した細胞が、生体内で胎盤の形成に寄与できるかどうかを調べるために、胚盤胞へ移植し、キメラマウスを作製した。このキメラマウス胚を調べたところ、未分化なマウスES細胞は胚全体に分布しており、胎盤への分布は見られなかったが、分化した細胞では胎盤への特異的な分布が見られた。以上の結果より、分化した細胞が生体内で胎盤へと分化することが示唆された。

次にこのBMP4によるマウスES細胞の栄養外胚葉への分化における分子的機構を解明することを目的として研究を行った。Cdx2遺伝子は哺乳類の発生において栄養外胚葉の分化誘導に必要な転写因子であり、マウスES細胞に過剰発現させると、栄養外胚葉へと分化誘導できることが知られている。今回のBMP4による分化誘導においてもその発現が上昇することを見出している。Cdx2遺伝子がBMP4-Smad経路の直接の標的であると想定し、1) Cdx2遺伝子のゲノム上に哺乳類間で高度に保存され、2) BMPシグナルの転写因子として働くSmad1の結合配列であるGCCGまたはCGGCを含む、配列を比較ゲノミクスによって探索した。その結果、第1イントロン中に上記の条件に適合する配列を見出した。この領域をクローニングし、プロモーターアッセイを行ったところ、BMP4の濃度依存的なエンハンサー活性があることがわかった。この領域にSmad1タンパク質が結合しているかを調べるためにゲルシフトアッセイならびにクロマチン免疫沈降法を行ったところBMP4によって分化誘導された細胞において、Smad1タンパク質の結合が確認できた。

また、これらの分化誘導は従来のマウスES細胞の培養に用いられているウシ胎児血清や白血病阻害因子(LIF)存在下では阻害された。

以上の結果より、マウスES細胞は遺伝子導入なしでは、この系列へと分化しないと従来考えられてきたが、無血清培養法を用いて、マウスES細胞が遺伝子操作なしでBMP4によって栄養外胚葉、胎盤へと分化することを明らかにした。このことはES細胞における全ての胚性組織に分化できる能力である「多能性」の概念を胎盤という胚体外組織へと広げる意義を持つと考えられる。

結論

本研究では、マウスES細胞に対して無血清培養法を用い、生理活性物質の作用ならびに、その作用の分子機構を解析した。生理活性物質としてはECM成分、BMP4を、それぞれの分子機構としてはECM-インテグリンシグナル、BMP-Smadシグナルに焦点を当てて研究を行った結果、従来の多能性幹細胞の培養方法ではわからなかった生理活性物質の役割と新たな分化誘導法を見出すことが可能となった。その結果、ECM-インテグリンシグナルの作用に基づいた胚性組織への効率的な分化誘導法を確立した。BMP-Smadシグナルの作用により、従来では分化しないと考えられていた栄養外胚葉-胎盤への分化誘導が可能となった。この無血清培養を用いた方法は今後、多能性幹細胞における分子機構の解析や分化誘導に有効であると期待される。

審査要旨 要旨を表示する

林氏は、無血清培養法を用いて、ES細胞の自己複製と分化に関する生理活性物質の作用の検討ならびにその作用の分子機構の解明を目指した。その中でも、細胞外マトリックス(ECM)成分と成長因子である骨形成因子(BMP)の作用を詳細に検討した。

胚性幹(ES)細胞は哺乳類胚の内部細胞塊より得られた細胞株であり、個体の全ての細胞種へと分化する能力、つまり「多能性」を有している。さらにES細胞は、培養条件下において未分化性を維持しながらほぼ無限に分裂を行う能力、つまり「自己複製能」を有している。これらの能力のために、ES細胞は哺乳類の発生機構を知るためのモデル細胞や再生医療のモデルとして広く研究に用いられている。ES細胞を用いた発生機構の解明ならびに再生医療を達成するためには、細胞を安定した状態で維持培養し、特定の細胞種への効率的な分化誘導を行うことが必要であるが、現在これらの技術は未発達である。それを達成するためには、細胞の挙動を制御する生理活性物質の作用を知ることが重要であるが、その検討がこれまで困難であった。細胞の挙動を生理活性物質により効率的に制御する目的で、林氏らの研究グループはマウスES細胞に対する化学的既知因子のみで構成される無血清培養法を開発している。

研究前半において、林氏はECM成分とその主要な受容体であるインテグリンに焦点を当てて研究を行った。その結果、マウスES細胞はECM成分の添加なしで自己複製が可能であることが示唆された。一方、ECM-インテグリンシグナルはマウスES細胞における自己複製から分化への分子スイッチの役割を果たすことが示唆された。以上の研究はES細胞におけるECM成分の影響を解析し、その機能に基づいたES細胞の制御法を確立したという点において意義がある。

研究後半において、林氏はBMPとその主要な細胞内シグナル因子であるSmadに焦点を当てて研究を行った。その結果、マウスES細胞が従来は分化しないと考えられてきた栄養外胚葉、胎盤系列へとBMP処理により分化することを見出した。さらにその分子機構として、Cdx2遺伝子がBMP-Smadシグナルの直接的な標的遺伝子であることを見出した。このことはES細胞における全ての胚性組織に分化できる能力である「多能性」の概念を胎盤という胚体外組織へと広げる意義を持つ。

以上のように、林氏はマウスES細胞に対する無血清培養を用いた研究手法が、多能性幹細胞における分子機構の解析や分化誘導に有効であることを示し、発生生物学、幹細胞生物学上重要な知見をもたらした。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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