学位論文要旨



No 124362
著者(漢字) 松田,いづみ
著者(英字)
著者(カナ) マツダ,イヅミ
標題(和) 自律系指標による隠匿情報検出へのベイズ的アプローチ
標題(洋) Bayesian approach for detecting concealed information with autonomic responses
報告番号 124362
報告番号 甲24362
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第885号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 繁桝,算男
 東京大学 教授 石浦,章一
 東京大学 教授 長谷川,寿一
 東京大学 准教授 村上,郁也
 東京大学 東京大学 石垣,琢磨
内容要旨 要旨を表示する

背景

心の状態を生理反応から推し量ろうとする試みは古くから行われてきた。特に,真実を述べているか分からない人を対象とする犯罪捜査において,このような方法の需要は高く,多くの研究が行われてきた。その中で,心理学的実験手法に則った方法として隠匿情報検査が提案されている。隠匿情報検査では,事件事実と関連する質問(裁決質問)と,それと意味的に類似するが事件とは無関係な質問(非裁決質問)が呈示される。検査中は,質問に対する自律神経系反応(心拍数・皮膚電気活動など)が測定される。裁決質問に対して非裁決質問とは異なる自律神経系反応が生じた場合,被検査者は事件事実を知っていると推定する。自律神経系反応に違いがなければ,被検査者は事件事実を知らないと推定する。隠匿情報検査は,日本の警察において年間約5,000件実施され,犯罪捜査に活用されている。

隠匿情報検査の要は,裁決・非裁決質問に対する自律神経系反応に違いがあるか否かを正確に判定することである。この判定を客観的に行う方法として,統計的判定法が提案されてきた。しかし従来の統計的判定法には,自律神経系反応の個人差が適切に考慮されていないという重大な問題点がある。本研究は個人差の問題を考慮した新たな統計的判定法を提案し,実験データにより精度を検証することを目的とした。

研究1

隠匿情報検査に対する統計的判定法として,判別分析やロジスティック回帰分析を用いた方法が提案されてきた。これらは,既に犯人か無実かが分かっている多くの被検査者のデータ(以下データベース)から各被検査者の認識の有無を正しく判定できる判定式を推定し,それを新たに取得した被検査者のデータに適用して判定を行うものである。しかし,これらの方法の正判定率は十分に高くない。この原因として,自律神経系反応の個人差が考えられる。質問を受けてから自律神経系反応の発現に至るまでに,中枢・末梢器官のそれぞれのレベルで個人差が生じる。従って,同じように裁決質問に関して認識があったとしても,観測される自律神経系反応は個人によって異なる。例えば,裁決質問に対して心拍数に大きな反応を示す人もいれば,皮膚電気活動に大きな反応を示す人もいる。全ての被検査者に同一の判定式を適用する方法は,個人差が大きい自律神経系反応データには不適切である。

そこで研究1では,個人の反応傾向を考慮して判定を行う潜在クラス的判定法を提案した。まず,データベースの被検査者の反応を,その反応傾向に基づき4つの分布(反応クラス)に分類し,各反応クラスに属する被検査者の反応を正しく判定するのに最適な判定式を学習させる。新たな被検査者の判定を行う場合(図1),事前に行われる予備検査での反応に基づき,被検査者が各反応クラスに属する程度を求める。被検査者の本検査でのデータに対して各反応クラスにおける判定式を適用する。各反応クラスにおける判定式の結果をそのクラスに属する程度で重みづけし,全クラスで加算した値に基づき判定を行う。潜在クラス的判定法は,各被検査者の反応傾向に適した判定式による結果を重視することで,判定において個人差を考慮する方法だといえる。

【データ】成人34 名(犯人群19 名,無実群15 名)のデータを取得した。犯人群のみ,5 種類のアクセサリーのうち1 つを選ばせ模擬的に盗ませた。両群の参加者に対し隠匿情報検査が実施された。模擬窃盗に関する検査の前に予備検査が行われた。これは,参加者に5 種類の数字から1 つの数字を選ばせ,選んだ数字についての質問を呈示する検査であった。模擬窃盗に関する検査では,盗まれたアクセサリーについての質問が呈示された。自律神経系指標として心拍数,収縮期血圧,拡張期血圧,皮膚血流量,皮膚コンダクタンス水準,皮膚コンダクタンス反応,呼吸周期,呼吸振幅が測定された。

【分析】モデルのパラメータの推定には一般的に最尤推定法が用いられる。しかし,潜在クラスモデルのような混合分布モデルのパラメータは,最尤推定法での推定が難しいことが指摘されている。本研究では,ベイズ的にモデルを記述することにより,ベイズ的推定法の一つであるGibbs sampler を用いて潜在クラスのパラメータを学習させた。学習データは全参加者の予備検査における反応とした。学習されたパラメータを用いて各参加者の模擬窃盗に関する検査での反応データを判定した。

【結果】潜在クラス的判定法と従来の判定法で判定成績を比較したところ,潜在クラス的判定法の判定成績が高いことが確認された(表1)。

研究2

自律神経系反応の個人差の問題を解決するための別のアプローチとして,個人のデータのみを分析対象とする方法が考えられる。Adachi(1995)は被検査者個人のデータから認識の有無を判定する方法を考案した。被検査者の裁決・非裁決質問に対する反応について,両者が同一の分布に属する(裁決・非裁決質問に対する反応に違いがない)とする無実モデルと,異なる分布に属する(裁決・非裁決質問に対する反応に違いがある)とする犯人モデルを適用する。無実モデル・犯人モデルのうち,データへの当てはまりがよいモデルを採択する。この方法では個人のデータにおける裁決・非裁決質問への反応の違いのみに基づいて判定が行われるため,自律神経系反応の個人差は問題にならない。しかし,隠匿情報検査では測定されるデータのサンプル数が少ないため(3-5程度),分布のパラメータの推定値が安定せず,結果として正しい判定ができないことがある。

この問題点を克服するため,自律神経系反応の時系列データを利用した判定法を考案した。無実の被検査者の反応時系列は,質問に対して反応が生起し,しばらくして元の状態に回復することを繰り返す(図2a 時系列データ)。裁決質問であっても非裁決質問であっても生じる反応に違いはない。しかし,もし犯人であれば,裁決質問に対する反応と非裁決質問に対する反応に違いが生じる(図2b 時系列データ)。つまり,無実の被検査者の反応時系列は,裁決・非裁決両質問に対する反応状態を表す分布(図2a 点線の分布)と,反応が生じていない状態を表す分布(図2a 太線の分布)の2つの分布の混合として表現される(無実分布,図2a 実線の分布)。犯人の被検査者の反応時系列は,裁決質問に対する反応状態を表す分布(図2b 破線の分布),非裁決質問に対する反応状態を表す分布(図2b 点線の分布),反応が生じていない状態を表す分布(図2b 太線の分布)という3つの分布の混合として表現される(犯人分布,図2b 実線の分布)。従って,被検査者の反応時系列が2つの分布で構成されていたら無実,3つの分布で構成されていたら犯人と判定することが可能である。研究2では,「時系列データは3つの分布から構成される」とする犯人モデルと,「2つの分布から構成される」とする無実モデルを隠れマルコフモデルにより構築し,各被検査者の反応時系列データにより適したモデルを採択するという隠れマルコフ的判定法を提案した。隠れマルコフ的判定法は,Adachi(1995)の方法と違い時系列データを用いるので,個人のデータのみしか用いなくても十分なサンプル数が確保できるという利点がある。

【データ】研究1 と同じ実験参加者の,模擬窃盗検査での反応データを用いた。自律神経系指標として実際の検査現場で測定される心拍数,規準化脈波容積,皮膚コンダクタンス水準,呼吸周期,呼吸振幅を使用した。

【分析】各参加者の時系列データに対して犯人・無実モデルを適用した。モデルはベイズ的に記述され,パラメータはGibbs sampler により推定された。

【結果】隠れマルコフ的判定法とAdachi による個体内判定法において判定成績を比較したところ,隠れマルコフ的判定法の判定成績がより高いことが確認された(表2)

研究3

新たな実験参加者27名のデータを用いて,潜在クラス的判定法と隠れマルコフ的判定法の検証を行った。両手法とも既存の手法よりも高い判定成績を示すことが再度確認された。判定失敗事例を観察したところ,潜在クラス的判定法は,予備検査における反応傾向や一般的な反応傾向とは異なる反応を示す参加者に対して誤った判定を行っていた。一方隠れマルコフ的判定法は,一般的な反応傾向とは関係なく裁決・非裁決質問間の反応差があると陽性と判定していた。このように二つの提案手法はそれぞれ異なる特性を持つ。しかし,実務的な観点に基づくと,データベースを必要としない隠れマルコフ的判定法の方がより優れていると考えられる。

考察

提案した潜在クラス的判定法・隠れマルコフ的判定法は従来の統計的判定法と比較して高い判定成績を示した。これは,統計的判定法において自律神経系反応の個人差を適切に考慮したためと考えられる。両提案手法は,データをいくつかの単純な分布に分解して個人差を表現するという混合分布モデルの考えに基づいている。従来混合分布モデルのパラメータ推定は難しいとされてきたが,本研究ではベイズ的に混合分布モデルを構築し,ベイズ的パラメータ推定法を用いることにより,混合分布モデルに基づく判定を実現した。

質問に対する認識が自律神経系反応として出現する過程でさまざまな要因による影響を受けるため,生起する自律神経系反応には大きな個人差が生じる。隠匿情報検査では,その個人差を含む反応データから認識を推定しなければならない。本研究は,ベイズ的混合分布モデルを利用して自律神経系反応の個人差を考慮することにより,自律神経系反応から認識という心的状態をより正確に推定できることを示した。

図1 潜在クラス的判定法による判定プロセス

表1 潜在クラス的判定法,判別分析法,ロジスティック回帰法による正判定率

図2 隠れマルコフ的判定法における無実モデルと犯人モデル

表2 隠れマルコフ的判定法,Adachi(1995)の個体内判定法による正判定率

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,隠匿情報検出にベイズ的アプローチを応用した興味深い研究である。隠匿情報検査は虚偽検出検査とも呼ばれ,心理学的文脈では,事件に関係する事項(裁決項目)と事件に関係しない事項(非裁決項目)間での自律神経系反応の違いから,裁決項目に対する認識の有無を判定する,という基本的な心理生理学的実験手続きに立脚した科学的検査である。しかし,自律神経系反応から認識の有無を統計的に判定する手法は確立されているとは言い難い。この大きな原因の一つは,自律神経系指標の反応性が個人間で大きく異なることにあると考えられる。本論文は,この反応性の個人差の問題を,自律神経系反応の特徴を踏まえた判定モデルを構築することにより解決を試みたものである。

研究1 では,自律神経系反応の個人差を,潜在クラスの導入によって解決することを試みている。類似した反応傾向を示す被検者の反応のグループである潜在クラスを複数導入し,各被検者の反応傾向を各潜在クラスに属する確率として表現するというモデルを構築した。このモデルではさらに,各被検者のデータに,各潜在クラスに属する反応データを判定するのに最適な判定式を適用し,その結果を当該被検者の各クラスへの所属確率により重み付けする。モデルはベイズの定理に基づき定式化され,パラメータもベイズ的に推定された。論文提出者は,この判定モデルを模擬犯罪に関する隠匿情報検査実験から得られたデータに適用し,裁決項目に対する認識の有無を精度良く判定できることを,複数の判定成績の指標により説得的に示している。特筆すべきは,潜在クラスの導入に生理学的根拠が存在する点である。自律神経系指標の個人差は,生体システムに基づきいくつかのパターンに分類できるという知見がある。論文提出者は,生体システムに基づく反応パターンを潜在クラスとして表現することにより,生理学的にも妥当な統計的判定モデルの構築を目指した。モデルの一部の仮定に不自然さは残るものの,この試みは概ね成功していると言ってよいだろう。

研究2 では,より多様な個人差に対応するため,各被検者の時系列データのみから判定を行う方法が提案されている。時系列データの利用することの利点は,各時点がサンプルとなるので個人のデータのみを用いた場合でも安定した判定が行える,また時間的変化に関する情報も判定に利用できる,という点にある。本研究の判定モデルは,裁決項目に認識がある被検者と認識がない被検者の時系列データの違いは,時系列を構成する状態数の違いとして表現されうるという発想に基づいている。つまり,裁決項目に認識がなければ,時系列データは定常時の状態と各項目に対する反応状態の2 つの状態の混合として表現されるが,裁決項目に認識があれば,裁決項目に対する反応状態と非裁決項目に対する反応状態が区別されるので,計3 つの状態の混合として表現される,というものである。論文提出者は,この発想を,2 及び3 の分布を持つ隠れマルコフモデルにより時系列データをモデル化し,よりデータに適した分布数のモデルを選択するというモデル選択の問題に帰着させた。隠れマルコフモデルはベイズ的に定式化され,パラメータの推定から分布数の選択まで一貫してベイズ的アプローチにより行われた。この判定モデルにも隠匿情報検査実験のデータが適用され,良好な判定成績が得られることが多面的に示されている。隠れマルコフモデルを用いた判定法は,裁決・非裁決項目間で自律神経系反応の変化に差があるか否か,という隠匿情報検査の本質を忠実にモデル化した斬新な方法であり,高く評価できる。ただし,時系列解析のどのような側面が判定成績の向上に寄与したかについては,今後さらに検討する必要がある。

研究3 では,研究1, 2 で提案した判定手法の欠点について,それぞれで判定が失敗した事例から整理している。また,その欠点を踏まえた上で,今後の発展可能性について論じている。

以上のように,本論文は,自律神経系指標の個人差を適切に考慮した統計的判定モデルをベイズ的に実現することにより,隠匿情報検査における判定成績が向上したことを確かな論拠により示している。隠匿情報検査に限らず,自律神経系反応の個人差を統計的に扱うことで,自律神経系反応と心理現象との対応がより明確になることを示唆して,本論文は締めくくられている。

心理生理学のような実験心理学の分野では,一般的な統計解析法をそのまま流用している研究が多い。しかし,自律神経系指標など,特殊な変数についてはその変数を解析するのに適した手法があるはずである。論文提出者は,自律神経系指標を変数として扱う研究者の立場から,隠匿情報検査における自律神経系の挙動に関する見識を活かした統計モデルを構築し、実用化できる水準にまで判別システムの完成度を高めた。隠匿情報検査と自律神経系指標についての専門的知識が現象の本質を捉えたモデルの着想を生み,またベイズ統計学と数値的解析に習熟することによって、着想した判定モデルを現実化した。本論文が心理生理学に貢献するところが大きいと判断し,本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

なお,本論文の研究1 はBiological Psychology 誌に,研究2 はPsychophysiology 誌に,それぞれ厳格な審査を経て掲載されている。

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