学位論文要旨



No 124364
著者(漢字) 李,賢郁
著者(英字)
著者(カナ) イ,ヒョンウック
標題(和) 韓国における女性就業移動とライフコース変容に関する地理学的研究
標題(洋)
報告番号 124364
報告番号 甲24364
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第887号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 荒井,良雄
 東京大学 教授 松原,宏
 東京大学 准教授 永田,淳嗣
 東京大学 准教授 梶田,真
 金沢大学 教授 神谷,浩夫
内容要旨 要旨を表示する

近年,韓国における都市化は急速に進行し,現在,約7割の人口が都市部に居住している.特に,首都ソウルは1,000万人の人口規模を持つ巨大都市として成長を遂げ,首都圏人口は2,500万人と全国総人口の約半数を占める.韓国のような新興工業国は,欧米諸国が1世紀に渡って経験した産業化の過程をほぼ半世紀で通過してきた.このような急速な経済成長を遂げた国は,特定都市における製造業の成長とその製造業に向けての活発な人口移動を特徴としている.

本研究は,1960年代から現在に至るまでの韓国における人口移動を新たな手法で分析し,産業の地域構造と個人の地理的な移動を含めたライフコースとの関係について考察しようする.これまで韓国では,政策的に製造業への集中投資が行われてきたが,その結果,特定都市における人口の急増が顕著となった.そのため,就職を目的として発生する就業時の居住地移動が人口移動の大きな比重を占めるに至った.しかし,1980年代末から始まった製造業の衰退とそれに伴う不況に象徴される1997年の通貨危機は,韓国の産業構造に大きな変化をもたらした.それが故に,韓国における就業時の居住地移動も転換期を迎えることとなる.

こうした事態の進行にもかかわらず,基本的な人口移動データの不足のためその実態は明らかになっていない.また,初就業時の居住地移動を個人の成長地,および,進学・結婚といった前後のライフイベントを含めた文脈のなかで捉えるという視点は,これまでの人口移動研究では欠落していた.

本研究の理論的枠組みは,ライフコース研究の成果を踏まえているが,社会・経済的側面における時代効果を主たる分析対象とする社会学とは異なり,地理的空間の側面を時代変化と同時に分析に取り入れている.本研究では韓国女性を出身地別(首都圏・広域市・地方圏)に分け,さらに時代効果を明らかにするため出生年代ごとのコーホート分析を行う.主に取り上げるのは首都圏と地方圏出身女性のコーホートI(1933-57年生まれ),II(1958-67年生まれ),III(1968‐74年生まれ),IV(1975-86年生まれ)である.

第1章では,以上のような問題意識に基づいて,これまでの人口移動研究の成果とその課題について整理する.まず,欧米や日本で行われてきた先進的な人口移動研究における分析視角を紹介し,ライフコースの概念を取り入れた人口移動分析が,韓国の人口移動研究に如何に有効であるかを検討する.また,本研究で用いるデータベースや分析方法を紹介し,このような新しいデータベースの分析が1990年代末以降からの若年層の複雑な就業パターンを理解する上でいかに重要であるかを示す.

第2章では,まず,第1節において,これまでの人口移動の原因となった製造業の成長,特に,政策的に促進されてきた特定都市における産業成長を時代ごとに整理し,このような発展段階を経て構築された産業の地域構造を確認する.第2節では,1990年代半ばから急成長しているサービス産業の実態を先行研究から整理し,韓国においてサービス経済化が現実のものとなったことを明らかにする.サービス経済化の特徴として就業構造のサービス化があるが,一方で非正規雇用の増加を伴うものでもある.したがってここでは,サービス経済化のなかで就業構造の変化とともに雇用形態の非正規化について検討する.これまでの韓国におけるサービス経済化に関する研究では,サービス産業の地域構造が分析されておらず,サービス経済化と地域経済の関連性についての理解が不十分である.したがって本節では,首都圏と地方圏におけるサービス産業の特徴を明らかにし,さらに首都圏と地方圏における就業構造の特徴に関して整理する.

第3節では,製造業の構造転換として,IT製造部門における地域構造調整を指摘する.1990年代から,政府の大規模な補助金で育成されたIT製造部門は,現在,世界でも高い競争力を持つまでに成長した.しかしこれらの産業は,資本集約的な産業であるため,以前のような大量の雇用創出を誘発することはなく,また,単純作業労働と高技術の熟練労働力の両方を必要とするために,首都圏への立地転換が起きていることが確認できた.

続く第3章では,製造業の発展に大きな役割を果たした女性労働力を取り上げ,彼女たちの初就業時に発生した移動パターンを明らかにする.まず,産業・職業別に女性労働力の構成を整理し,第2章と対応した形で,時代ごとの女性労働力の伸長を指摘する.初就業時の移動パターンの分析では,従来の研究で用いられてきた人口移動調査ではなく,「韓国労働パネル調査」という新しい調査資料を用いる.この調査資料を用いることで個人の就業歴・居住歴が追跡でき,初就業時の移動パターンの変化が分析可能となった.

「韓国労働パネル調査」データの分析の結果,首都圏への初就業移動は1990年代を境として,その前後で大きく変化していることが明らかになった.すなわち,1990年代半ばまでは一貫して3割程度続いた移動が,それ以降になると1割にまで減少している.さらに最近では首都圏への初就業移動後,3-5年が経過したところで地元に還流する傾向があることが指摘できる.

第4章では,このような就業移動の変化が発生した構造的な要因について考察する.まず第1節では,サービス経済化がもたらした雇用形態の多様化について整理し,女性雇用における非正規化の進行の状況を明らかにする.さらに雇用の非正規化が,雇用のアウトソーシングの増加をもたらしている構造を分析する.今日の韓国では,各種産業のうちサービス産業による雇用の成長率が最も高いが,中でも事業所サービス産業や社会福祉サービス,対個人サービス業が急成長している.さらに事業所サービス産業の中でも,最も高い成長率をみせているのは,従業者を間接雇用として外部から供給するサービス業である.たとえば,事業所サービス業の一つである人材供給事業は,他産業に女性事務職を,また電子産業の製造業部門に女性生産職を派遣している.

続く第2節では,地方圏における新卒女性事務職の労働市場が,1990年代初期から,首都圏より早く非正規化する一方,首都圏の非正規率は低かったため,地方出身者による首都圏への初就業移動が高く維持されたメカニズムを説明する.首都圏の新卒女性における非正規化は,事務職の場合,1990年代末の通貨危機以降であり,首都圏の非正規率が高まることによって地方圏からの初就業移動は減少していく.事業所サービス業を中心とした首都圏のサービス業の成長と,福祉・公共サービス業を中心とした地方圏のサービス業の成長により,両地域圏の新卒女性は異なる労働市場を経験することとなったのである.さらに,製造業の地域構造調整下において首都圏への集中を見せたIT製造部門における生産職の非正規化を指摘し,高い離職率に伴って首都圏や地方圏から多くの女性労働力が吸収されていることを明らかにした.しかしIT関係における生産職女性は,初就業時に首都圏に移動しても,その後,出身地への還流移動を行っており,生産職においても首都圏への初就業時移動が最終的な居住地の定着にまではつながらなくなっている.ここでは,地方出身女性のインタビュー調査の資料から地方女性の出身地での最終的な残留率が高止まりする構造的な要因を明らかにしている.

第5章では,以上で述べたような産業構造の転換が,如何に女性のライフコースに影響を与えてきたかを考察する.まず,経済が製造業を中心として成長した時代における女性のライフコースを移動者と残留者間で比較した.次に,1990年代半ばからのサービス経済化によって地方出身女性がいかなる就職経歴を持ち,その後のライフコースを形成してきたかを明らかにする.特に1970年前後生まれの世代が,サービス経済化が進展している時期に初就業し,通貨危機を職業経歴の途中で経験してきたことに着目し,このような時代効果がいかに彼女たちのライフコースに影響したかを論じている.

最後の第6章では以上の内容を整理し,韓国のような製造業を基軸とした経済成長の期間が比較的短い国が,急速に進展するサービス経済化でどのように変化を遂げているのかを議論する.さらに本研究で取り上げたライフコースの概念を含む人口移動研究は,これまで韓国社会が辿ってきた変動を理解する上で効果的であることを確認する.

女性のライフコースは,それぞれが生きる時代の状況の中でなされた選択の結果として形成される.時代の状況は,個人には制約として,すなわち選択の幅の形で影響を与える.韓国女性は,これまで結婚・出産に伴う離職と再就職というライフスタイルへシフトしながら,暮らしの中での自己実現を果たしてきた.

しかし,こうしたライフスタイルの選択は,もう一つの大きな制約の中で為される.すなわち,出身地,初就業地,その後の定着地がどこであるかという地域という制約である.韓国の高度経済成長の過程で発生した地域格差は人々に地理的な移動という選択肢を与えるが,その選択は比較的発展が遅い地域,すなわち地方圏の出身者に特有の現象である.地方出身女性は地方圏に生まれたという制約の中で,移動行動はライフコース中の,必然的な選択候補の一つとならざるを得なかった.

コーホートIVの場合は,首都圏および地方圏の産業構造の変化に伴って,移動による生活の改善への期待値は減少したことによってコーホートI~IIIとは異なる意志決定を行っている.すなわち,首都圏への移動は選択肢から外れ生活基盤のある地元,または地元周辺地域へ定着する.現在の経済状況はこれまでより厳しく,安定的な収入を得て生活していくことが難しくなりつつある.

女性の行動パターンの変化は,このような構造変化の中でなされた,より良い生活を求める彼女たちの選択の結果である.地方出身女性においては,親世代が築いてきた生活基盤の下,生まれ育った地域や周辺の都市で暮らすという選択が観察される.このことは,今までの女性が「高度成長モデル」の枠組みでライフコースを形成していたことに比べ,「安定社会モデル」の沿ったライフコースの形成にシフトしつつあることを示しているように思われる.

このような構造は,サービス経済化という,韓国産業構造の変化のなかで生まれている.先進諸国が十数年前から経験してきたサービス経済化に対応したライフコースは,1990年代半ば以降に始まっているにもかかわらず,その事実は,通貨危機というあまりに大きな社会的衝撃のために,意識されることが少なく,現在でも韓国の多くの政策は「高度成長モデル」を引きずったまま進められているのである.

現在の産業構造は人口移動を誘発する効果には乏しく,韓国政府の製造業を中心とする人口再配分政策は必ずしも有効な手段たり得ていない.むしろ,サービス業,中でも高付加価値のサービス業の発展政策への方向転換が必要ではないかと考えられる.サービス経済化における若年女性の地方定着傾向が強まったことを政策にいかし,女性労働力を活発に需要できるサービス産業の育成が求められる.

審査要旨 要旨を表示する

本研究は,1960 年代以降の韓国における人口移動の動向を新たな手法で分析することを目指し,個人の居住地移動と産業地域構造の変化との関係をライフコース・アプローチの視点から考察したものである.

個人の人生を,出生・進学・就業・結婚などといったライフイベントの連鎖と,その背景となる社会経済構造変化との関連で理解しようとするライフコース・アプローチは,近年,地理学や社会学の分野で,中長期的な地域社会変化を分析するために有効な手法であるとして注目されている.しかし,これまでの韓国を対象とした地理学研究では,ライフコース概念を取り入れた先行研究に乏しく,本研究は韓国地域構造分析に新しい段階を開こうとするものである.

戦後韓国では,経済成長初期に首都(ソウル)圏を中心として軽工業が成長したが,その後,地方の中核都市への重化学工業の分散立地が政策的に進められた.そうした産業地域構造の変容は,非農業部門における女性就業を促進すると同時に,地方圏から首都圏あるいは地方中核都市圏へという若年女性の居住地移動パターンが形成された.しかし,1980 年代末からの製造業の衰退と1997 年の通貨危機に伴って韓国の産業構造は転換期を迎えており,女性就業や居住地移動の態様にもその影響が及んでいると考えられる.しかし,こうした事態の進行にもかかわらず,その詳細は明らかになっていなかった.

本論文は6 章から構成されている.第1 章では,欧米や日本で行われてきた先進的な人口移動研究における分析視角を整理し,ライフコースの概念を取り入れた人口移動分析の必要性を指摘した.

第2 章では,戦後韓国の産業地域構造の段階的変化を先行研究および統計資料から整理している.まず,地方の中核都市を中心とした製造業の成長という形で政策的に形成されてきた産業地域構造を確認し,続いて,1990 年代半ばから進行したサービス経済化が非正規雇用の増加という就業構造上の変化を伴ったことを確認した.

続く第3 章では,製造業の発展に大きな役割を果たした女性労働力に注目し,「韓国労働パネル調査(KLIPS)」の個票データを用いて,初就業移動パターンを明らかにしようとした.その結果,高度成長期には高水準で継続していた地方圏から首都圏への移動が 1990 年代以降,激減した事実を見出した.これは,近年の韓国国土構造の変化を理解する上で新しい知見である.

第4 章では,このような就業移動変化の背景をなす要因を,既存統計およびKLIPSデータに基づいて考察した.その結果,地方圏における女性就業の非正規化は,1990年代初期に,首都圏より早く始まっていたことを見出し,それが福祉・公共サービスを中心とした地方圏サービス業の成長に起因していることを指摘した.韓国では,近年の広範な社会状況の変化を通貨危機にだけ結びつけて理解する傾向が強かったが,本章は,地方圏における産業・就業構造の変化は通貨危機以前に始まっており,通貨危機はそれを加速したに過ぎないという可能性を指摘し,重要な論点を提示している.

第5 章では,こうした産業構造の転換に対応した女性のライフコース変容を全般的に考察し,結婚前の就業と離職およびその後の再就業というライフコースが,1990 年代半ばまでに首都圏から地方圏へと段階的に波及していったことを見出した.また,90 年代後半以降には,転職・再就業における非正規化が進行しており,結婚後の再就業が抑制されるという現象を指摘した.以上の分析は,韓国女性ライフコースの半世紀にわたる変化の全容をはじめて明らかにしたものである.

最後の第6 章では以上の知見を整理し,それを踏まえて,韓国女性の今後のライフコースの将来像を展望するとともに,今後の研究課題を提示した.

以上のように,本研究は,世界的に注目されている韓国経済の高度成長過程の中で進行した国土構造の変化と女性のライフコース変容の関係を明確に描き出した点で画期的である.この成果は,韓国国内に留まらず,韓国型の経済成長を目指す途上国をはじめとした多くの国・地域に有効な示唆を与える一方,日本や欧米における人口移動・ジェンダー研究にも新たな知見を付け加えるであろう.したがって,本研究は,地理学をはじめとする多くの関連分野に対して学術的貢献が認められる.よって,本審査委員会は博士(学術)を授与するにふさわしいものと認定する.

UTokyo Repositoryリンク