学位論文要旨



No 124376
著者(漢字) 本良,千隼
著者(英字)
著者(カナ) モトヨシ,チハヤ
標題(和) C3NおよびSiNSiラジカルの電子構造および振電相互作用に関する分光学的研究
標題(洋) Spectroscopic Studies on the Electronic Structure and Vibronic Interactions for the C3N and SiNSi Radicals
報告番号 124376
報告番号 甲24376
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第899号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 遠藤,泰樹
 東京大学 教授 高塚,和夫
 東京大学 教授 永田,敬
 東京大学 准教授 染田,清彦
 東京大学 准教授 真船,文隆
内容要旨 要旨を表示する

【序】

フリーラジカル(free radicals)は不対電子をもつ分子種を指し、反応性が高いため日常の環境で目にすることはほとんどない。しかし、化学反応の中間体としてごく短時間存在し、化学的に重要である。また、物質密度が極めて低く超低温である星間空間においては長時間存在することができる。星間分子の集合である星間雲は星の進化の一部を成し、星間分子の密度やその分布は、その環境や星間雲の化学的な進化の段階によって異なることが知られている。よって、星間物質に関する研究は宇宙科学に関連して重要である。これまでに150 種類以上の星間分子が同定されており、さらなる同定のためには、比較対象となる実験室における観測と同定が欠かせない。

このようなフリーラジカルを含む不安定分子の研究には、分光学的手法が特に有効である。分子の量子状態はその分子構造、化学結合、電磁気的な性質などを反映している。すなわち個々の量子状態を高いエネルギー分解能で計測することで、それらの情報を得ることができる。また、分光法では観測対象の分離、濃縮などが原理的に不要であり、化学種をあるがままの姿で、遠く隔たった場所からでも観測することが可能である。

本研究では、高分解能分光法によって2 つのフリーラジカルを観測し、その詳細な情報を得ることを目的とした。このうちCCCN(C3N)ラジカルは炭素鎖分子の1 種であり、星間分子としても早くから知られていた。炭素鎖分子とは直鎖状に連なった炭素原子骨格の末端に異種の原子が結合した分子種であり、物質科学、宇宙科学の面で興味深い対象である。最近、フラーレンやカーボンナノチューブなどが有用な素材として注目され、広く研究が行われている。しかし、その生成機構については未だ十分に理解されていない。炭素鎖分子はその生成や反応に関わる可能性があることから興味がもたれる。また、多くの炭素鎖分子が星間分子として同定されている。さらに、C3N ラジカルは電子基底状態に極めて接近した電子励起状態をもつ。接近した2 つの電子状態の間ではBorn-Oppenheimer 近似の破れである振電相互作用が強く現れ、その解明は分子科学的に興味深い対象である。

もう1 つのテーマであるSiNSi ラジカルについては、これまで極めて限られた情報しか得られていない。星間分子として同定されたケイ素を含む分子はまだ少ないが、星間空間におけるケイ素の存在量は比較的多く、今後さらなる同定が期待される。また、SiNSi ラジカルはDIBs(Diffuse Interstellar Bands)と呼ばれる宇宙科学上の未解決問題に関連して興味がもたれる。DIBs とは可視域から近赤外域に300 本以上観測されている吸収バンドのことである。発見以来80 年以上経過するが、どのような物質による吸収であるのかほとんど判っていない。SiNSi ラジカルについて量子化学計算を行ったところ、可視域に強い吸収バンドをもつ可能性が見出された。そこでDIBs のキャリアーとしての可能性についても検討した。

【C3N ラジカルの第一電子励起状態とその分子構造】

C3N ラジカルに関する先行研究から、かなり低い励起エネルギーを持つ第一電子励起状態Aが存在することが明らかにされてきた[1,2]。本研究においてはその詳細な情報を得るため、高分解能の分光手法により初めてこの状態を観測した。目的のエネルギー領域での実験に適当な赤外光源がないため、既に観測されている紫外域の第二電子励起状態 B 2Πi を経由して誘導放射励起(SEP)分光法を用いて高分解能スペクトルの観測を行った。C3N ラジカルはパルス放電と超音速分子ジェットを組み合わせて、Ar で希釈したシアノアセチレン(HCCCN)ガスから生成した。これにより、分子の並進速度が極めて揃った状態となり、不安定分子も観測できる。

B 2Πi 状態の異なる対称性をもつ2 つの振電準位をそれぞれ励起することで、4 つのΣ-Σ 振電バンドと4 つのΠ-Πバンドを観測できた。観測された準位のエネルギー構造は図1 のようになっており、Σ 準位とΠ 準位が組となっている。炭素鎖分子はπ 共役系をもつ結合をしているため、その多くは直線形の分子構造をしている。C3N の A 状態も直線構造として議論されてきていた。しかし、観測されたエネルギー構造は、Σ 準位とΠ 準位がほぼ等間隔に並ぶ直線分子のそれとは異なっており、非対称コマのエネルギー準位構造を示している。また、Π 準位について予想されるスピン軌道相互作用定数に比べて観測された値がかなり小さいことも分子が非直線であることを支持する。よって、観測された準位を非対称コマのKa = 0, 1 準位として解析を行った。最小二乗解析の結果、スピン回転相互作用を含む実効的なハミルトニアンによって、観測された準位をよく再現できた。従って、C3N ラジカルの第一電子励起状態はA2A'であり、強いRenner-Teller 効果によって分子構造が非直線形となっていることが明らかとなった。この電子状態においてビニル型骨格を持つ C=C-C ΞNの共鳴構造が支配的となっていることが、非直線構造が安定である理由の1 つと考えられる。観測された中で最も高い振動準位においては、Renner-Teller ペアの相手の状態2A"との強い相互作用によると見られる回転準位構造の変化が見られ、この状態の直線構造へのポテンシャル障壁は比較的浅いと見積もられた。非直線性を考慮したMS-MR-CASPT2/cc-pVTZ レベルのab initio 計算においても、C-C-C 結合がわずかに曲がった構造となる浅いポテンシャルが予想され、今回の実験結果を支持する。

【SiNSi ラジカルの電子状態と振電相互作用】

1. 紫外域の電子励起状態

Ar で希釈したN2 ガスにフェニルシラン(C6H5SiH3)を飽和させたガスを用い、パルス放電と超音速ジェットの組み合わせによってSiNSi ラジカルを生成した。観測はレーザー誘起蛍光(LIF)分光法によって行った。

30400-33100 cm(-1)の領域において多くの振電バンドが観測された。そのうち15 本のバンドをSiNSi 由来であると同定できた。それぞれのバンドについて回転解析を行い、それらを5 種類のバンド2Σ+-2Π、2Σ((±))-2Π、2Π-2Π、2Δ-2Π、および2Φ-2Δ として解析できた。2Φ-2Δ 型のバンドはホットバンドで、他はX (000)Πg 準位からのバンドと帰属できた。

15 本のバンドのうち7 本はC2Δu-X2Πg 遷移の新しい振電バンドに帰属された。このうちC (020)Σ-X(000)Π バンドは変角振動によって生じる振動角運動量の分子軸射影成分l の選択則 Δl = 0 を満たさない。これは、C~ (020)Σ 準位が振電相互作用によってΣ 電子状態の振電準位と混合していると考えることで説明できた。振電相互作用に関する研究例の少ないΔ 電子状態に対してBrown とJorgensen [3]らの取り扱いによって振電構造を解析できた。得られたRenner-Teller パラメータは、C(020)(μ/κ)Σu 準位とC(060)μΣu 準位におけるスピン回転相互作用の大きさの違いを説明しうる。

観測された振電バンドのうち6 つは新たな D2Σg+- X2Πg 電子遷移のバンドとして解析できた。振動解析の結果、D2Σg+ 状態に対してω1 = 608.01(46) cm(-1), ω2 = 148.2(16) cm(-1), ω3 =969.57(72) cm(-1) の結果が得られた。D2Σg+ 状態の平衡構造における結合長はre(Si-N) =1.6316(37) A と求められた。

2. 可視域の電子励起状態

1.で観測されたC2Δu 状態とD2Σg+状態から分散蛍光スペクトルを測定した。その結果、C2Δu 状態からはX2Πg 状態のみが観測されたが、D2Σg+ 状態からのスペクトルにはX2Πg から10000-16000cm(-1)高いエネルギー領域に2 つの振電構造が観測された(図3)。Ab initio 計算による予想を元に、2 つの振電構造をA2A1 状態とB2B1 状態に帰属した。D2Σg+ 状態の励起する変角振電準位を替えることによって、A2A1、B2B1状態の変角運動に伴うポテンシャル曲線の変化の様子が明らかとなり、どちらの状態も非直線構造をとると結論付けられた。また、両者は直線構造の12Πu 状態と相関しており、直線構造へのポテンシャル障壁はX(000)Πg 準位から約13800 cm(-1) の高さをもつと推定された。C2Δu 状態とD2Σg+ 状態からの発光緩和先の違いは、それらの電子状態の電子配置によって説明できる。

最後にA 2A1 状態とB 2B1 状態のLIF 分光法による高分解能観測を試みた。13300-14300cm(-1)の領域にSiNSi のA2A1- X2Πg あるいはB2B1- X2Πg 遷移に帰属できる4 本のバンドが観測された。そのうち1 つのバンドは回転解析の結果、A (Ka = 2)B2-X (000)Πg バンドに帰属された。この上位状態は分散蛍光スペクトルの解析から予想した直線構造への障壁より500cm(-1)低エネルギーに位置しており、分子構造が非直線形であることを支持する。観測された4 本の振電バンドは報告されているDIBs とは一致しなかった。

[1] M. C. McCarthy, C. A. Gottlieb, P. Thaddeus, M. Horn, and P. Boschwina, J. Chem. Phys. 103,7820 (1995).[2] K. Hoshina and Y. Endo, J. Chem. Phys. 127, 184304 (2007).[3] J. M. Brown and F. Jorgensen, Adv. Chem. Phys. 52, 117 (1983)

図2 SiNSi ラジカルのD(010)Πu-X(000)Πg バンド

図3 D2Σg+ 状態の単一振電準位を励起して観測された分散蛍光スペクトル

審査要旨 要旨を表示する

短寿命の不安定分子種は化学反応過程の研究に重要なものであり、その研究は大気科学や、燃焼化学、星間化学などとも強い関連を持っている。しかしながら、様々な化学反応中で重要性が指摘されているにもかかわらず、未だにその構造、電子状態などの詳細が解明されていないラジカル種も多い。本研究で論文提出者は、C3NとSiNSiを取り上げ、それらの詳細な分光学的研究を行った。特に、これらのラジカル種の関与する化学反応ダイナミクスを議論する際の基礎となる電子励起状態の詳細と、複数の電子励起状態間の相互作用の詳細な解明を目指した。

論文は全体で4章からなり、第1章は一般的な導入に当てられている。ここではC3Nのような炭素鎖ラジカルやシリコンを含む分子の研究の意義が、特にそれらの分光学的研究の持つ意味を中心に議論され、さらに星間化学における当該ラジカルのスペクトル観測の重要性が指摘されている。また、本論文で取り上げた二つのラジカル種に共通なテーマとなっている、縮重した電子状態を持つ直線分子に特有な振電相互作用であるRenner-Teller効果の説明と、その研究の意義が与えられている。続いて第2章では、本論文で取り上げた分子の一つであるC3Nの分光についてまとめられている。第3章は、もう一つの分子種である SiNSiの結果がまとめられており、第4章でこれら二つの分子種をまとめた議論が行われている。以下、個別の結果について説明する。

第2章で取り上げ、議論されているC3Nラジカルは、30年あまり前に星間分子として検出された炭素鎖ラジカルの一つで、星間化学研究の鍵ともなっている重要な分子種である。近年理論計算により、中赤外域に第一電子励起状態が存在することが指摘され、その電子構造に興味が持たれていた。この第一励起状態は、その後、近紫外域の蛍光の分光から実際に波長約5ミクロンの領域にあることが確かめられたが、その詳細は明らかになっていなかった。本研究では、この状態の観測に、2台のレーザー光により紫外域の電子遷移を経由してより長波長のエネルギー準位の情報を得るという、誘導放出分光法を適用した。C3Nのような不安定分子の分光にこのような手法を用いるのは、実験技術的には困難であったが、本研究では他の方法では得られない高い分解能のスペクトルを観測することができた。このようにして得た詳細なエネルギー準位構造の解析から、第一電子励起状態の位置を正確に決定したのみならず、電子基底状態と近紫外域の第二励起状態では、このラジカルが直線構造を取っているのに対し、問題の第一電子励起状態はわずかに曲がった非直線の構造を取っていることを明らかにした。また、この結果を裏付けるために高精度の分子軌道計算を行い、第一電子励起状態の位置、その構造など定性的に実験結果を支持する結果を得ている。

第3章では、SiNSiラジカルを取り上げその電子スペクトルの観測と、観測した電子励起状態の帰属、電子励起状態間の相互作用の解析などを行っている。このラジカルは、これまで極めて限られた実験データしかなかったものであるが、本研究では、近紫外域にこのラジカルのものと考えられる一連のスペクトルを観測し、その詳細な解析からそれらが対称性の異なる二つの電子状態への遷移に帰属できることを明らかにし、そのエネルギー準位構造を解明した。その結果、基底状態とこれらの励起状態はSiNSiの結合をした直線構造を取ることを明らかにした。また、縮重した状態で存在するRenner-Teller効果も観測し、その詳細を明らかにした。

さらに、これらの励起状態からの蛍光を分光することで、可視域に別な電子励起状態が存在することを初めて見いだした。それを基に、直接可視域の分光を行うことで、それらの電子状態への遷移も観測し、実際にそのような電子励起状態が存在することを確認した。シリコンは炭素と同族であり、SiNSiはCNCと等電子価の分子である。そのため、その電子状態には一定の対応関係があると予測される。実際、近紫外域に観測され、同定された電子遷移は、CNCのそれと性格の近いものであったが、可視域のそれは、対応のとれないものであった。これは理論計算で予測されていた非直線のSiNSiに相関するものと考えられ、炭素原子とは異なるシリコンの化学結合の特異性を反映したものと解釈された。

第4章では、これらの一連の結果から得られた知見が、それぞれの分子の特徴を中心に、電子状態間の振電相互作用を軸として、まとめて議論されている。

このように、本研究は、星間化学や様々な化学反応過程で重要と考えられている二つのラジカル種を取り上げ、その詳細を明らかにしたもので、その学術的な価値は極めて高いと評価できる。なお、これらの研究結果は、現在投稿論文としてまとめているところである。これらの結果は、遠藤泰樹、住吉吉英との共同研究(第2章の内容に関してはその他に星名賢之助との共同研究、第3章の内容に関しては、その他に福島勝との共同研究)であるが、ほとんどすべての内容は論文提出者が主体となり実験、解析、考察を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断した。

よって本審査委員会は、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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