学位論文要旨



No 124383
著者(漢字) 弓削,達郎
著者(英字)
著者(カナ) ユゲ,タツロウ
標題(和) 電気伝導体における非平衡定常状態の分子動力学シミュレーション
標題(洋) Molecular dynamics simulation of nonequilibrium steady states of electrical conductors
報告番号 124383
報告番号 甲24383
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第906号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 清水,明
 東京大学 教授 佐野,雅己
 東京大学 准教授 伊藤,伸泰
 東京大学 准教授 佐々,真一
 東京大学 准教授 福島,孝治
内容要旨 要旨を表示する

平衡統計力学の大きな役割の一つは、ミクロな階層での運動方程式を解くことなくマクロな物理量の期待値を計算する処方箋を与えることである。一方、非平衡定常状態でこれと同様のことが可能かどうかはほとんど分かっていない。本研究の最大の目的はこのような理論的枠組みを作る際の手がかりとなるような、非平衡定常状態における普遍的な現象を見出すことである。

非平衡定常状態にはいろいろなものがあるが、平衡状態に近い領域では、局所平衡や、線形応答理論のように平衡状態のまわりでの駆動力に関するベキ展開による記述が可能である。しかし、さらに非平衡度を上げた領域に入ると、こういった手法は適用できなくなる。本研究で対象とするのは、このような非平衡度の高い状態を含めたものである。そういった領域へと容易に非平衡度を上げることができる典型的な系として、電気伝導系が挙げられる。そこで、まずは電気伝導系を手本として、非平衡定常状態を研究する上での標準となるようなモデルを提供することを目指した。

モデルは電子、フォノン、不純物という3種類のミクロな構成要素(粒子)からなる古典系で、全ての粒子間に短距離相互作用がある。この系に外部電場をかけて電子を駆動することで電流を流す。フォノンは系の端で熱浴とエネルギーをやり取りするようになっている。電場から電子に供給されるエネルギーは電子とフォノンとの相互作用によりフォノンに移り、最終的にはフォノンから熱浴へと放出される。これにより、マクロに一様な非平衡定常状態が実現される。また、不純物は全く動かないとし、バルク領域での系の並進対称性をあからさまに破り、これによって静止系を作っている。

このようなマクロな電気伝導体のモデルにおいては、そのミクロな階層での粒子の運動は粒子間の多体相互作用などにより非常に複雑になっている。そのため、解析的な手法でその非平衡状態を調べることは難しい。そこで、本研究では分子動力学(MD)シミュレーションによってミクロな階層での運動方程式を数値的に解き、非平衡条件下でのミクロな状態の統計的性質を調べるという、計算物理学的手法を用いることにした。

まず、このモデルの基本的な性質として、直流電場に対する系の応答を調べたところ、平衡状態近傍での線形応答領域、及びそこから遠く離れた非線形応答領域において、非平衡定常状態が少数個のマクロパラメータを指定すればきちんと実現することを確認した。また、平衡状態近傍での交流電場に対する応答からこのモデルがKramers-Kronig の関係式を満たすことも示し、線形応答領域の物理をきちんと再現するモデルであることを確認した。

このモデルを本格的な非平衡系の問題に適用する前に、long-time tail の問題に取り組んだ。Long-time tail とは物理量の時間相関関数が長時間の領域でベキ的な減衰を示すことである。特に、流体系では平衡状態での粒子の速度の自己相関関数が2 次元ではおよそt(-1) に比例するテールを持つことが知られており、それに伴って拡散係数が系の長さに対して対数的な発散を示すことが指摘されていた。流体系は、電気伝導のモデルの言葉では不純物が全くないのに相当する系である。電気伝導度はEinstein 関係式により電子の拡散係数に比例するが、室温における電気伝導の実験で電気伝導度が系の長さに依存するという報告はない。電気伝導体には必ず不純物が含まれるため、これは(電子間の)多体相互作用と(不純物による)一体ポテンシャル散乱が共存する系ではテールの性質が変わる可能性を示唆している。そこで、不純物濃度を系統的に変えて、電子速度の自己相関関数を調べた結果、t(-1) に近い振舞(不純物濃度小のとき)から-t(-2)に近い振舞(不純物濃度大のとき)へとクロスオーバーすることを見出した。このクロスオーバーが起こる不純物濃度はかなり小さく、この結果によって現実の伝導体では発散をもたらすようなテールはほぼ出ないということを示した。また、-t(-2) という振舞は不純物はあるが電子間相互作用がないのに相当する系と同じであることや、現象論的な解釈からこのクロスオーバーが電子系を流体的とみなせるかどうかのところで起こることも明らかにした。

また、非平衡定常状態における相関関数も調べた。不純物濃度が小さい領域では非平衡度が大きくなるにつれ、t(-1) に近いテールの振幅が大きくなり、不純物濃度が大きい領域では非平衡度が大きくなるにつれ、-t(-2) に近いテールの出現が早くなることを見出した。

さらに、電気伝導度を直接計算し、その系の長さに対する依存性を調べた結果、t(-1)に近いテールが見られるような不純物濃度の場合でも電気伝導度は系の長さにはほとんど依存しないことが分かった。

以上のように、このモデルでは主に並進対称性に起因する、マクロ極限での物理量の異常な振舞は観測されず、このモデルが現実の電気伝導体の実験結果と矛盾しないきちんとしたモデルであることが示された。

モデルの妥当性が十分に確認されたところで、最初の目標であった、非平衡定常状態における普遍的な現象を模索する試みを行った。ここでは、電流ゆらぎに着目して研究を進めた。

平衡状態とその近傍では揺動散逸関係式によってゆらぎと線形応答が結びついている。例えば電気伝導系では、電流のspectral intensity をSI (w;E) とし、微分応答関数のフーリエ変換をμ(w;E) としたとき、平衡状態(E = 0) において

SI (w;E = 0) = 2kBT0Reμ(w;E = 0) for ∀w

が成立つ(T0 は熱浴の温度)。一方、非平衡度の強い状態ではこの関係は破れることが知られている。しかし、破れ方に普遍性はあるのかといったことはほとんど分かっていなかった。

このことを調べるのに適した系として、電気伝導体や発光素子などの運動量輸送を伴う流れを持つ非平衡系がある。その中で、メゾスコピック伝導体等の単純な系ではショットノイズ(流れの平均値の絶対値に比例するゆらぎ)の出現が搖動散逸関係式の破れに寄与することが知られている。

一方、マクロに一様な電気伝導体ではメゾ系でのモデルや結果を素朴に拡張して適用することはできないため、搖動散逸関係式の破れに本質的に寄与するゆらぎの性質は理論的には全く分かっていない。また実験的にも、マクロな半導体では、試料依存性が強く、普遍性を期待できない1/f ノイズの寄与が大きく、搖動散逸関係式の破れに普遍性があるのかは分かっていない。そこで本研究では、マクロに一様な電気伝導体のMD モデルを用いて、その電流ゆらぎの性質を調べた。このモデルは、1/f ノイズをもたらすと考えられている要因(キャリアの総数のゆらぎなど)を排除したモデルになっているので、実験では見るのが難しい1/f ノイズ以外のゆらぎも見ることができる。

解析の結果、非平衡定常状態における低振動数領域での電流ゆらぎSI を、熱ゆらぎS(thI) と過剰ゆらぎS(exsI) に分解し、その際に熱ゆらぎをS(thI) = 2kBT0Reμ という適切な形に定義することで、過剰ゆらぎにシンプルな性質が存在することを見出した。それは、電流の平均値〈I〉Eを大きくしていくに従って、過剰ゆらぎが

という、2つの漸近的な振舞の間をクロスオーバーしていくという性質である。これの後者の振舞は、揺動散逸関係式はいわゆるショットノイズの出現によって破れるということを示している(W はFano 因子と呼ばれ、系ごとに決まる定数)。この結果は一様なマクロ伝導体では初めて示されたものである。この結果とメゾ系などの単純な系との結果を併せることにより、運動量輸送のある非平衡系ではショットノイズが揺動散逸関係式の破れに本質的に寄与するという普遍性を見出した。これは、非平衡定常状態の分布関数は、そのまわりのゆらぎを調べるとショットノイズを再現しなければならないということを示唆している。

さらに、マクロ伝導体において、搖動散逸関係式が破れて、ショットノイズが現れ始めるクロスオーバーの点が、ある種のエネルギー緩和長に相当する距離間での電位差と温度との大小関係で決まると推察し、この解釈に基づいてメゾ系での結果を拡張した過剰揺らぎの関数形を提案した。

以上のように、本研究では非平衡定常系のきちんとしたモデルを作ることに成功した。また、非平衡定常状態において広く観測される現象を見出した。これは非平衡定常状態における普遍性の存在を強く示唆するものであり、非平衡統計力学へとつながるものと期待される。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は5章からなり、第1章は序論、第2章はモデルとその基本的な性質について、第3章は長時間テイルについて、第4章は電流揺らぎについて、第5章は総まとめ、をそれぞれ論じている。

統計力学は、平衡状態については完成している。一方、非平衡定常状態にまで統計力学を拡張しようという試みは、昔から多くの研究者により試みられてきたが、平衡状態の近傍を除くと、未だに誰も成功していない。そもそも、統計力学のような普遍的な理論が成立するためには、対象とする物理系たちが、何らかの普遍的な性質を持っていることが必要であるが、一般の物理系たちの非平衡定常状態が、そのような普遍的性質を十分に持っているかどうかさえ、よく分かっていない。本論文は、そのような非平衡定常状態の普遍的性質を見つけ出すことを目的としている。

第1章では、まずこのような大目標を説明し、さらに、その詳細な説明も行っている。すなわち、非平衡定常状態をその非平衡度の強さに応じていくつかの領域に分け、それぞれの領域でどのような普遍的理論がこれまでに知られているかを概観している。そして、本研究が対象とするのは、駆動力と状態との対応は一対一ではあるものの、非平衡度が高いために、局所平衡仮説や平衡状態のまわりでの駆動力に関するベキ展開では記述できないような、本格的な非平衡定常状態が生じる「非摂動領域」であることを明記している。そして、非摂動領域が実現される典型的な系が電気伝導系であることを指摘し、ゆえに本論文では電気伝導系を手本として非平衡定常状態を研究する標準モデルを提供することを宣言している。

第2章では、モデルとその基本的な性質について説明している。本研究で提案されたモデルは、それぞれ「電子」「フォノン」「不純物」と呼ばれる3種類のミクロな構成要素(粒子)からなる古典系で、全ての粒子間に短距離相互作用がある。この系に外部電場をかけて電子を駆動することで電流を流す。フォノンは系の端で熱浴とエネルギーをやり取りするようになっている。電場から電子に供給されるエネルギーは電子とフォノンとの相互作用によりフォノンに移り、最終的にはフォノンから熱浴へと放出される。これにより、マクロに一様な非平衡定常状態が実現される。また、不純物は全く動かないとし、バルク領域での系の並進対称性をあからさまに破り、これによって静止系を作っている。

また、このようなモデルにおいては、粒子の運動は粒子間の多体相互作用などにより非常に複雑になっているため、解析的な手法でその非平衡状態を調べることはほとんど不可能であることを指摘し、そのために、分子動力学(MD)シミュレーションによって運動方程式を数値的に解くという解析手法を採用することを説明している。

さらに、このモデルの基本的な性質を調べるために、平衡状態とその近傍の統計力学的性質を調べている。その結果、平衡状態近傍での線形応答領域、及びそこから遠く離れた非線形応答領域において、非平衡定常状態が少数個のマクロパラメータを指定すればきちんと実現することを確認した。また、平衡状態近傍での交流電場に対する応答からこのモデルが分散関係を満たすことも示し、線形応答領域の物理をきちんと再現するモデルであることを確認している。

第3章では長時間テイルについて調べている。長時間テイルとは物理量の時間相関関数が長時間の領域でベキ的な減衰を示すことである。特に、流体系では平衡状態での粒子の速度の自己相関関数が2 次元ではおよそt(-1) に比例するテールを持つことが知られており、それに伴って拡散係数が系の長さに対して対数的な発散を示すことが指摘されていた。流体系は、電気伝導のモデルの言葉では不純物が全くないのに相当する系である。電気伝導度はEinstein 関係式により電子の拡散係数に比例するが、室温における電気伝導の実験で電気伝導度が系の長さに依存するという報告はない。電気伝導体には必ず不純物が含まれるため、これは(電子間の)多体相互作用と(不純物による)一体ポテンシャル散乱が共存する系ではテールの性質が変わる可能性を示唆している。そこで、不純物濃度を系統的に変えて、電子速度の自己相関関数を調べた結果、t(-1) に近い振舞(不純物濃度小のとき)から-t(-2) に近い振舞(不純物濃度大のとき)へとクロスオーバーすることを見出した。このクロスオーバーが起こる不純物濃度はかなり小さく、この結果によって現実の伝導体では発散をもたらすようなテールはほぼ出ないということを示した。また、-t(-2) という振舞は不純物はあるが電子間相互作用がないのに相当する系と同じであることや、現象論的な解釈からこのクロスオーバーが電子系を流体的とみなせるかどうかのところで起こることも明らかにした。

さらに、非平衡定常状態における相関関数も調べている。不純物濃度が小さい領域では非平衡度が大きくなるにつれ、t(-1) に近いテールの振幅が大きくなり、不純物濃度が大きい領域では非平衡度が大きくなるにつれ、-t(-2) に近いテールの出現が早くなることを見出した。

さらに、電気伝導度を直接計算し、その系の長さに対する依存性を調べた結果、t(-1) に近いテールが見られるような不純物濃度の場合でも電気伝導度は系の長さにはほとんど依存しないことを確認している。

以上の解析によりに、このモデルでは主に並進対称性に起因する、マクロ極限での物理量の異常な振舞は観測されず、このモデルが現実の電気伝導体の実験結果と矛盾しないきちんとしたモデルであることが示された。

第4章は、非平衡定常状態における普遍的な現象を見いだすために、電流揺らぎを詳しく調べている。まず、平衡状態とその近傍では、揺動散逸関係式によってゆらぎと線形応答が結びついていることが知られている。例えば電気伝導系では、電流のspectral intensity をSI(ω;E)とし、微分応答関数のフーリエ変換をμ(ω;E) としたとき、平衡状態(E = 0) において

が成立つ(T0 は熱浴の温度)。一方、非平衡度の強い状態ではこの関係は破れることが知られている。しかし、破れ方に普遍性はあるのかといったことはほとんど分かっていなかった。

このことを調べるのに適した系として、電気伝導体や発光素子などの運動量輸送を伴う流れを持つ非平衡系がある。その中で、メゾスコピック伝導体等の単純な系ではショットノイズ(流れの平均値の絶対値に比例するゆらぎ)の出現が搖動散逸関係式の破れに寄与することが知られている。

一方、マクロに一様な電気伝導体ではメゾ系でのモデルや結果を素朴に拡張して適用することはできないため、搖動散逸関係式の破れに本質的に寄与するゆらぎの性質は理論的には全く分かっていない。また実験的にも、マクロな半導体では、試料依存性が強く、普遍性を期待できない1/f ノイズの寄与が大きく、搖動散逸関係式の破れに普遍性があるのかは分かっていない。そこで本研究では、マクロに一様な電気伝導体のMDモデルを用いて、その電流ゆらぎの性質を調べた。このモデルは、1/f ノイズをもたらすと考えられている要因(キャリアの総数のゆらぎなど)を排除したモデルになっているので、実験では見るのが難しい1/f ノイズ以外のゆらぎも見ることができる。

解析の結果、非平衡定常状態における低振動数領域での電流ゆらぎSI を、熱ゆらぎS(thI) と過剰ゆらぎS(exsI) に分解し、その際に熱ゆらぎをS(thI) = 2kBT0Reμ という適切な形に定義することで、過剰ゆらぎにシンプルな性質が存在することを見出した。それは、電流の平均値〈I〉E を大きくしていくに従って、過剰ゆらぎが

という、2つの漸近的な振舞の間をクロスオーバーしていくという性質である。これの後者の振舞は、揺動散逸関係式はいわゆるショットノイズの出現によって破れるということを示している(W はFano 因子と呼ばれ、系ごとに決まる定数)。この結果は一様なマクロ伝導体では初めて示されたものである。この結果とメゾ系などの単純な系との結果を併せることにより、運動量輸送のある非平衡系ではショットノイズが揺動散逸関係式の破れに本質的に寄与するという普遍性を見出した。これは、非平衡定常状態の分布関数は、そのまわりのゆらぎを調べるとショットノイズを再現しなければならないということを示唆している。

さらに、マクロ伝導体において、搖動散逸関係式が破れて、ショットノイズが現れ始めるクロスオーバーの点が、ある種のエネルギー緩和長に相当する距離間での電位差と温度との大小関係で決まると推察し、この解釈に基づいてメゾ系での結果を拡張した過剰揺らぎの関数形を提案した。

以上のように、本研究は非平衡定常系の標準的なモデルを構築し、それを用いて非平衡定常状態において広く観測される現象を見出した。これは非平衡定常状態における普遍性の存在を強く示唆するものであり、非平衡統計力学の進展に重要な寄与をした論文であると認められる。

なお、本論文は、清水明氏、伊藤伸泰氏との共同研究であるが、論文提出者が主体になって分析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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