学位論文要旨



No 124384
著者(漢字) 吉川,敬
著者(英字)
著者(カナ) ヨシカワ,タカシ
標題(和) パルス放電ノズルにより超音速ジェット中に生成される不安定分子種の分光学的研究
標題(洋) Spectroscopic studies of transient species produced in a supersonic jet by a pulsed-discharge nozzle
報告番号 124384
報告番号 甲24384
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第907号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 遠藤,泰樹
 東京大学 教授 増田,茂
 東京大学 教授 永田,敬
 東京大学 准教授 染田,清彦
 東京大学 准教授 真船,文隆
内容要旨 要旨を表示する

【序】

近年大気汚染、酸性雨、地球温暖化といった大気化学に関する地球規模の問題が大きな注目を集め、世界中の人々が関心を抱いている。この問題を解決する事はもはや現代の科学者の使命であり、あらゆる分野の研究が企業、大学を問わず幅広く行われている。この一連の研究成果により最近では、大気中には微量しか存在しないが、一連の化学反応サイクルを考える上で重要な不安定分子種であるラジカルを特定、調査することができるようになった。中でも含硫黄ラジカル(例えばHS, HSO)は、酸性雨の原因と考えられるエアロゾルとなる大気中のH2SO4の生成機構に関係があり、極めて重要である。大気中におけるこれらのラジカルのモニタリングや生成機構のモデリングは、環境問題の原因を解明し、未来を予測するために必要不可欠である。気相におけるこれらの不安定分子種の分光パラメーターは、大気中のモニタリングに有効となる。一方、炭素鎖ラジカルは宇宙の星間雲中に様々なものが存在することが報告されており(例えばCCCN, CCS)、星間化学の分野から注目を集めている。最近では炭素鎖ラジカルの中でも負イオン種の存在(例えばC6H-, C5N-)が確認され、星間空間中における炭素鎖ラジカルの生成機構について活発な議論が行われている。星間空間中のラジカルを同定する際には、気相の高分解能による分光学的なデータが使われる。このため、炭素鎖ラジカルの高分解能による分光実験は大変意義深い。本研究では、超音速ジェット法とパルス放電ノズル(PDN)を組み合わせて、不安定分子種を効率よく生成し、高感度、高分解能の分光法での観測を行った。実験ではレーザー誘起蛍光(LIF)分光法によりCl2, HSO, およびNC3Oラジカルの電子遷移を高分解能で観測した。また、分散蛍光(DF)分光法によりHSO, およびNC3Oラジカルの基底状態の振動数を決定した。CCCCl, およびCCCFラジカルの純回転遷移をフーリエ変換型マイクロ波(FTMW)分光法により高分解能で観測し、分子構造と電子構造に関する知見を得た。

【Cl2のレーザー分光】

Cl2は典型的なハロゲン分子であり、これまで多くの分光学的な研究がなされており、多くの電子状態で精密な分光パラメーターが報告されている。しかし、準安定状態であるA' 状態の観測は専らTellinghuisenらの発光分光に限られ [1]、分光パラメーターの精度はあまりよくない。

実験ではCCl4またはCl2をArで0.3%に希釈したサンプルガスを真空チェンバー中に噴出し、同時にパルス放電を起こし、LIFスペクトルを観測した。低分解能のLIF測定を行ったところ、215-260 nmの領域で数多くのCl2の振電バンドが観測された。観測された振電遷移はD'(2g) - A'(3P2)と帰属された。また、観測されたバンドの蛍光寿命はすべてレーザーのパルス幅(数ns)と同じくらいであったが、これはIshiwataらによって報告されているD' 状態の寿命4 ns [2]と一致していた。低分解能で観測された振動バンドの一部を線幅0.02 cm(-1)の高分解能でLIF測定を行った。観測された遷移周波数と既報のD' 状態の分光パラメーター [3]を用いてDunham型の展開式で最小二乗解析を行いA' 状態の分光パラメーターを決定した。これにより、今回新たにA' 状態のRKRポテンシャルを精度よく決定した。

【HSOラジカルのレーザー分光】

HSOの分光学的な研究は、1977年にSchurathらによって電子励起状態である 状態が化学発光により初めて観測され、その振動構造が解明された [4]。その後、LIF分光法により 2A'(00n3=3,4) - 2A"(000)遷移が高分解能で観測され、分子構造が決定された。更にマイクロ波分光により基底状態の純回転遷移が観測され、超微細構造定数を含む分子定数が高い精度で決定された。しかし、 状態の高分解能による観測は、これまでn3=3,4に限られ、基底状態の振動構造に関する実験的な知見も極めて少ない。

観測にはLIF, DF 分光法を用いた。O2を10%含んだArの混合試料をdimethyl disulfide (CH3SSCH3)の溶液中を通し、パルス放電させることでHSOラジカルを超音速ジェット中に生成した。 (006) - (000)の振電遷移の一部について、高分解能LIFスペクトルを図1に示す。図より微細構造がよく分解できていることが分かる。本研究で高分解能で観測したバンドは、 2A'(00n3=0-8) - 2A"(000), (013) - (001)であり、すべてc-type遷移であった。報告されている回転定数 [5]を基に図1のように帰属し、観測された遷移周波数を開殻分子のスピン分裂を含む非対称こまのハミルトニアンを用いて最小二乗解析を行った。解析の際、基底状態の分子定数はマイクロ波の値に固定し、バンドオリジン、 状態の回転定数およびスピン-回転相互作用定数を決定した。本研究で新たに 状態のn3=0-2,5-8の振電準位について回転定数、スピン-回転相互作用定数を決定することができた。また、観測されたDFスペクトルはn3モードの強いprogressionとn1,n2モードの弱い振動バンドを示していた。これにより本研究で基底状態のn1,n2モードの振動数を、初めて直接的に決定した。

【NC3Oラジカルのレーザー分光】

炭素鎖ラジカルNCnOの研究は歴史が浅く、分光学的に十分な情報が得られていないのが現状である。この系列のひとつであるNC3Oは、LIF分光法でTakadaらによって 2P状態がで初めて観測された [6]。観測された振電バンドはS-S型およびP-P型の平行遷移であった。また、基底状態に関してはNCCO, NC3OラジカルについてFTMW分光法による純回転スペクトルが観測されている [7]。回転解析の結果、これらのラジカルは基底状態において直線構造の極限では2Pをとるが、強いRenner-Teller効果により実際には屈曲構造をとっていることが報告されている。しかし、基底状態における振動構造の報告はされていない。

観測には 状態からの蛍光を用いてDF分光法を用いた。acetylcyanide(CO(CH3)CN)/Arをサンプルガスとしてパルス放電を起こし、真空チェンバー中に噴出した。観測されたDFスペクトルを図2に示す。上側にはpumpバンドとしてS-S型、下側にはP-P型を選んだスペクトルを示している。図から明らかなように観測されたDFスペクトルはどちらも∠CCCの変角振動モードn7のprogressionが非常に強い。これは 状態が直線構造をとり、基底状態が強いRenner-Teller効果により屈曲構造をとるということと矛盾しない。また、本研究により基底状態のn1,n2,n3,n7モードの振動数が初めて決定された。

【CCCX(X=F,Cl)ラジカルのマイクロ波分光】

炭素鎖ラジカルの一つであるCnX(X=F,Cl)は星間空間中に存在することが期待されるため、電波天文学の観点から関心が持たれている。最近CCCl、C4Clの回転遷移がFTMW分光法により観測された。一方CCCClはNeマトリックス中の電子遷移が吸収分光法により観測されていたが、これまで基底状態の分子構造に関する実験的な報告例はない。また、CnFはCFを除いてこれまで実験的な報告例は全くない。一般に炭素鎖ラジカルは、電子配置に類似性があるため、炭素の数が偶数か奇数かでその系統(C(2n)XとC(2n+1)X)が分類される。直線構造の限界でCX、CCCXの基底状態は2P であり、電子励起状態は2D である。このとき二つの電子状態間のエネルギー差は大きく、これらの状態間の相互作用は小さい。他方CCCl、C4Clでは、これらのエネルギー差は非常に小さい。このため、CCClとC4Clでは基底状態の回転遷移に強い振電相互作用が観測されている。

CCCClの生成にはC2H2 0.3 % / CCl4 0.2 %を、CCCFの生成にはC2H2 0.1 % / CF4 0.1 %をNeで薄めた混合ガスを用いた。FTMW測定により、CCCClでは二つの同位体種、CCC(35)Cl とCCC(37)Cl に対してN = 2-1からN = 6-5までの回転遷移を観測した。図3はCCCCl の回転スペクトルを示している。二つの同位体種のスペクトル強度比はCl原子の自然存在比と対応していた。また、スペクトルから微細構造、および超微細構造がともによく分解できていることが分かる。同様の実験をCCCFに対して行い回転スペクトルを得た。観測された回転遷移はCCCF, CCCCl共に2S 型のスペクトルパターンを示していた。そこで観測された遷移周波数を2S のハミルトニアンを用いて最小二乗解析を行った。本研究で決定された双極子-双極子相互作用定数はCCCF, CCCClに対して、-285, -29 MHzとなり、共に負の値となった。これはこれらのラジカルの不対電子軌道が p 対称性を持ち、基底状態が 直線構造の限界でP 状態であることを意味している。本研究で観測された回転遷移は2S 型のスペクトルパターンであったため、強いRenner-Teller 効果により P 状態の縮重が解け、分子構造は基底状態で屈曲構造をとっていると考えられる。実際、回転解析により決定された分子定数は超微細構造定数を含め、高精度のab initio計算で得られた非直線構造での値と非常によく一致している。図4にab initio計算で得られたCCCF, CCCClの分子構造を示す。また、決定されたCCCF, CCCClの分子定数からこれらのラジカルの分子構造、電子構造の系統的な議論を行った。

[1] P. C. Tellinghuisen, B. Guo, D. K. Chakraborty, and J. Tellinghuisen, J. Mol. Spectrosc. 128, 268 (1988)[2] T. Ishiwata, H. Takekawa, and K. Obi, Chem. Phys. 177, 303 (1993)[3] J. -H. Si, T. Ishiwata, and K. Obi, J. Mol. Spectrosc. 147, 334 (1991)[4] U. Schurath, M. Weber, and K. H. Becker, J. Chem. Phys. 67, 110 (1977)[5] M. Kakimoto, S. Saito, and E. Hirota, J. Mol. Spectrosc. 80, 334 (1980)[6] H. Takada, Master's Thesis, The University of Tokyo (1999)[7] Y. Sumiyoshi, H. Takada, and Y. Endo, Chem. Phys. Lett. 387, 116 (2004)

図1 HSO のLIF スペクトル

図2 NC3O のDF スペクトル

図3 CCCCl の回転スペクトル

図4 CCCCl とCCCF の分子構造

審査要旨 要旨を表示する

近年、オゾン層破壊、地球温暖化、酸性雨などの大気環境汚染など大気化学に関する地球規模の問題が大きな注目を集め、現代の科学の解決すべき重要な課題となっている。そのため、これらの問題に関連する多くの研究が積み重ねられているが、そこに大気中に微量に存在するラジカル種が大きな役割を果たしていることが様々な研究で明らかになっている。しかしながら、大気反応中で重要性が指摘されているにもかかわらず、未だにその構造、電子状態などの分かっていないラジカル種も多い。本論文は、様々なラジカル種をフーリエ変換マイクロ波分光法と、可視・紫外域のレーザー分光法とを用いて検出し、それらの構造、および分子内の運動ダイナミクスを明らかにしたものである。大気科学との関連から本研究で取りあげた系は、硫黄を含むラジカルであるHSOと塩素分子Cl2である。前者は大気中に放出された硫黄化合物が順に酸化され、最終的には硫酸となり、酸性雨の元となる化学反応過程の中間体として重要な分子である。後者は、それ自身は安定な分子であるが、反応活性な電子励起状態の詳細を明らかにしたものである。また、気相中の不安定分子の分光学的な研究が重要な寄与をする分野として、星間化学がある。星間空間中で検出される可能性のある反応中間体としては、長い炭素鎖を持つものが重要である。そのような候補分子として、論文提出者は、NC3O、C3Cl、C3Fを取り上げ、それらの詳細な分光学的研究を行った。

論文は全体で7章からなり、第1章は一般的な導入に当てられている。ここでは大気化学や星間化学における、当該ラジカルのスペクトル観測の重要性が指摘され、それらの分光学的研究の意義が述べられている。第2章は実験装置の説明に当てられており、可視・紫外域の電子スペクトルの観測に用いられたレーザー分光法と、純回転スペクトルの観測に用いたフーリエ変換マイクロ波分光法の詳細が説明されている。また、研究対象としたラジカル種の生成・検出の鍵となった、パルス放電ノズルと、それを用いた不安定分子種の生成法の説明がなされている。第3章から第7章までが個別のラジカル種の実験、解析と、そこから得られた結果に基づく議論に当てられている。以下、個別の結果について説明する。

第3章は、Cl2分子の電子スペクトルの検出と、その結果の議論に当てられている。当初、塩素を含む不安定分子種の検出を試みて塩素を含む混合気体の放電生成物のスペクトルを観測しており、その中に観測されたものである。215から272 nmの領域に渡り、塩素を含む分子(例えばCCl4)の放電生成物として観測されたスペクトルが、最終的には、Cl2分子の準安定状態からの電子遷移に帰属された。この研究により、これまで明らかになっていなかったこの分子の高い電子励起状態の詳細を明らかにすることができた。

第4章は、硫黄を含む不安定なラジカル種、HSOの電子スペクトルの観測と、その結果の議論に当てられている。このラジカルは、20年あまり前に、可視域のスペクトルがレーザー分光法で観測されていたが、観測された波長領域の限られたものであった。本研究では可視域の広い範囲にわたってスペクトルを観測し、その全体にわたって詳細な解析を行い、このラジカルの特徴を明らかにした。

第5章は、 星間分子としての存在が期待される炭素鎖ラジカルの一つであるNC3Oのレーザー分光の結果である。可視域のレーザー励起スペクトルはすでに先行研究により観測されていたが、本研究では、励起状態からの蛍光の分光により電子基底状態の振動構造を明らかにし、理論計算の結果と比較した。その結果、このラジカルは基底状態で非直線構造を取ることを明らかにした。

第6章は、これも炭素鎖分子の一つであるC3Clの純回転スペクトルの観測と、その結果の解析、議論にあてられている。CnClの分子式を持つ一連の炭素鎖ラジカルは、特に炭素数が偶数のものは非常に低い電子励起状態を持ち、状態間に強い振電相互作用があることが知られている。奇数の場合は、これまで実験データがなく、その構造も不明であったが、本研究では初めてC3Clのスペクトルを観測し、その構造がわずかに非直線であること、偶数の炭素のそれとは、電子構造が大きく異なることを明らかにした。

第7章は、上記の塩素がフッ素に置換されたラジカル種であるC3Fラジカルの純回転スペクトルの観測、解析、議論にあてられている。結果をC3Clのそれとの比較を行い、その分子構造や電子状態、化学結合様式などの類似点や相違点を議論している。

このように、本研究は、大気化学や星間化学で重要と考えられている一連のラジカル種を取り上げ、その詳細を明らかにしたもので、その学術的な価値は極めて高いと評価できる。なお、これらの研究結果のうち、第3章と第5章の内容は、各1報の論文としてすでに印刷公表されている。第4章と第6章の内容も、それぞれ1報の論文として投稿され、現在印刷中である。さらに第7章の結果についてもすでに投稿済みである。これらの結果は、遠藤泰樹、住吉吉英、との共同研究(第5章の内容に関してはその他に星名賢之助、高田英之との共同研究)であるが、ほとんどすべての内容は論文提出者が主体となり実験、解析、考察を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断した。

よって本審査委員会は、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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