学位論文要旨



No 124394
著者(漢字) 市川,翼
著者(英字)
著者(カナ) イチカワ,ツバサ
標題(和) 対称性から見た素粒子物理における量子もつれ
標題(洋) Entanglement in Particle Physics from the Viewpoint of Symmetries
報告番号 124394
報告番号 甲24394
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5292号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 清水,明
 東京大学 教授 酒井,英行
 東京大学 教授 上田,正仁
 東京大学 専任講師 和田,純夫
 日本大学 教授 藤川,和男
内容要旨 要旨を表示する

量子力学が原子スケールでの物理法則として確立された直後から,古典力学との相違は度々議論されてきた.特に,量子状態の重ね合わせが可能であることは,量子力学に従う物理系が粒子性と波動性とを同時に持ち得ることを反映しており,非常に特徴的な性質である.この重ね合わせの原理を多体系に適用した場合,量子もつれ状態と呼ばれる,一粒子状態の直積としては書き表わせない状態を構成することができる(スピン二個の一重項状態等).この状態が古典力学的な描像では理解できないものであることは,1935 年のEinstein,Podolsky,Rosen による思考実験や,これを受けたSchr¨odinger による思考実験,及び1964 年のBell 不等式の提案という一連の研究により,理論的に示されている.また,Aspect らによる光子を用いたBell 不等式の破れの観測がある程度成功したことにより,実験的にも量子もつれの存在とその特徴が示されたことになる.

量子もつれ状態は以上のような基礎物理学的興味のみならず,近年発展しつつある量子情報科学の実現においても必要不可欠な要素であり,光子以外の様々な物理系においても,量子もつれ状態の生成および物理的性質の吟味が盛んに行われるようになってきている.ただし,素粒子物理学では,90 年代後半になって初めてK 中間子対及びB 中間子対が量子もつれ状態であることが実験的に確認されており,量子もつれの研究が他分野に比べ立ち遅れていたと言わざるをえない.本学位論文では,素粒子の持つ対称性に着目することで,素粒子物理に現れる量子もつれの性質や特徴を明らかにした.以下に本学位論文中の主要な結果を詳述する.

B-中間子系を用いた量子論の非局所性の検証

量子もつれの特徴を端的に表す現象にBell 不等式の破れがある.Bell 不等式は局所性,実在性及び実験条件を実験者が操作可能なこと,という古典力学的にはほぼ自明な三つの仮定を満たす局所実在論と呼ばれる理論を基にしており,実験的に測定可能な相関関数だけから構成されている.このことから量子力学相関関数をBell 不等式に代入可能であり,量子もつれ状態から得られる相関関数はBell 不等式を破ることが示される.つまり,量子もつれ状態の性質は局所実在論では説明できない.Bell 不等式の破れの検証実験は光子,スピン系,低エネルギー核子など様々な物理系で行われいる.しかしながら,質量を持つ高エネルギー粒子を用いた検証実験の可能性については近年まで論争が行われており,確定的な結論が得られていない状況であった.本学位論文ではCP 対称性の破れを無視した場合にB-中間子対を用いたBell 不等式の検証実験が可能かという問いに取り組んだ.B-中間子の場合,実験条件を自由に選択することが現状では困難であり(図1 参照),Bell 不等式を導くには仮定を補充する必要がある.我々はB-中間子の崩壊現象が対をなすもう一方のB-中間子の崩壊現象と独立であるという仮定と,崩壊現象が時間的に等質であるという仮定を局所実在論に要請することでBell 不等式を構成することが可能であることを示した.また,KEK で行われているBelle 実験の現在の実験条件でBell 不等式の破れの検証実験が可能かどうかについても解析を行った.Belle 実験では対をなすB-中間子それぞれの崩壊時刻ではなく,その差のみを測定しており,そのために検証実験の実現が困難であることが分かった.

一方でBell 不等式の導出には実験環境の不十分さは勘案されておらず,検出器の効率がある閾値ε よりも低い場合や,量子もつれ状態をなす個々の粒子への測定が互いにspace-like な時空点で行われてない場合,Bell不等式の破れが実験的に検出されようとも,それが直ちにBell 不等式を導く仮定のうち少なくとも一つが否定されることにはならないことが示されている.現在のところ,上記の二つの問題点を同時に克服した実験はなされていない.我々はBelle 実験の現在の実験条件がこれらの問題点を克服しているか検証した.検出効率についてはB-中間子が多重崩壊を起こすために,崩壊の各段階における検出効率が高いにも関わらず全体ではε 以下であることが分かった.ただし,崩壊の等方性が検証できれば,データの補完により実効的にε を越えた検出効率が得られる.また,Belle 実験で得られるデータは崩壊時刻の差であることから,対をなすB-中間子が互いにspace-like かどうかは確定的に決められない.ただし,B-中間子対を生成する電子陽電子衝突のエネルギーを十分大きくすることでspace-like に離れたB-中間子対を高確率で生成でき,問題点を解決できる.また,崩壊時刻そのものを測定できるように測定器を改良することでも解決できる.以上まとめると,本学位論文において,B-中間子対を用いたBell 不等式の破れの検証が原理的に可能であり,崩壊時刻そのものの測定と崩壊の等方性が保証されればBelle 実験において非常に確度の高い実験が行えることを示した.

交換対称性と多体量子もつれ

前項で素粒子の量子もつれが他の物理系のそれと同様に量子力学の基礎的側面の研究に有用なものであることを示した.本項では素粒子論で現れる量子もつれの定性的な特徴について考察する.多体量子系においては定性的に異なる量子もつれ状態が数多存在することが知られており,それらの分類が盛んになされている.ただし粒子数n が増えた場合についての解析は非常に難しく,一般のn での分類は未だ知られていない.一方で素粒子論では素粒子を多体系として取り扱うが,系に交換対称性を課し,ボゾンとフェルミオンだけを考えることが多い.本学位論文では,この対称性に注目し,以下の結論を得た:n 体ボゾン系では大域的量子もつれ状態(構成粒子が全て互いにもつれあっている状態)か完全直積状態jψi = -ni=1jφii のみが許され,n 体フェルミオン系では大域的量子もつれ状態のみが許される.この主張はエニオンに対しても拡張可能である.つまり,素粒子の量子もつれ状態を考える場合,大域的量子もつれ状態に着目すればよい.

部分分解性に基づいた多体量子もつれ測度の構成

前項における多体量子もつれの定性的性質の研究の結果を受け,量子もつれの定量的な評価についての考察を行った.量子情報科学においては定量的評価のために量子もつれ測度と呼ばれる写像を用いることが多い.また,この写像は局所操作と古典通信に対する単調減少性等,いくつかの要請を満たさねばならない.二体系の純粋状態に対しては量子もつれ測度の一般的構成法が知られており,それに基づいて様々な量子もつれ測度が提案されている.一方,多体系では,二体系での構成法で本質的な役割を果たすSchmidt 分解に対応する操作が存在しないため,様々な観点から構成法が提案されている.このような状況を受け,二体系における量子もつれ測度から出発し,多体量子もつれ測度を構成する試みがなされており,この方針に基づきMeyer とWallach やLove らが多体量子もつれ測度を提案している,

本学位論文では,Meyer-Wallach 及びLove らと同様の方針に基づき,多体量子もつれ測度族fRm(ψ)gnm=2を構成した.ここでn は粒子数とする.この量子もつれ測度は任意のn 体純粋状態に適用可能であり,m = 2のときLove らの量子もつれ測度に,m = n のときMeyer-Wallach の量子もつれ測度に一致し,先行研究の自然な拡張になっている.また,著しい性質として,Rm(ψ) = 0 のとき量子状態jψi はm 個の部分系の直積状態に分離可能であることが挙げられる.このことからRm(ψ) は部分分解性という多体量子系特有の特徴を反映した量子もつれ測度と言うことが出来る.

また、定性的に異なる大域的量子もつれ状態であり,かつ置換対称性を持った状態であるGHZ 状態jGHZi = (1/p2)(j0ion+j1in),W状態lWi=(1/n)(l10 ... 0+l010... 0+...+0... 01) 及びDicke状態に対してRmの計算を行った.GHZ 状態及びW状態についての結果を図2 に示す.Rm(GHZ) はm について単調増加関数であり,かつ下限1/2 を持つ.一方でRm(W) は粒子数が大きいところでは単調減少関数かつ1/2 を上回らない.このように非常に対照的な振る舞いをすることが分かった.このことは本学位論文で提案した量子もつれ測度族を使用することにより,より詳細に大域的量子もつれ状態の性質を記述することが可能であると解釈できる.

結び

本学位論文では素粒子系に着目し,その量子もつれの意義及び性質についての考察を行った.素粒子は他の物理系と同様局所実在論の検証が可能な系であり,その量子もつれは大域的なものであることを示した.また大域的量子もつれ状態をより詳細に特徴付ける量子もつれ測度族を構成した.これらの結果は非常に基礎的な結果ではあるが,他の物理系に比べて立ち遅れていた,量子もつれの観点からの研究の第一歩であると言える.今後,同様の方針での素粒子論研究が待たれる.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は5章からなり、第1章は序論、第2章はベルの不等式の破れをBメソンで検証する可能性についての研究、第3章は同種粒子系の多体状態の量子もつれについての研究、第4章は多体量子状態の量子もつれの測度についての研究、第5章はまとめと結論をそれぞれ記している。

本論文は、近年盛んになっている量子もつれ(エンタングルメント)について、申請者の研究をまとめたものである。それは、以下で述べる3つの研究内容からなる。

まず第1に、量子もつれについて最も基本的で重要な関係式である、ベルの不等式の破れをB中間子で検証する可能性についての研究である。ベルの不等式の破れの検証実験は光子,スピン系,低エネルギー核子など様々な物理系で行われいる.しかしながら,中間子を用いた検証実験の可能性については近年まで論争が行われており,確定的な結論が得られていない状況であった.本学位論文ではCP対称性の破れを無視した場合にB-中間子対を用いたベルの不等式の検証実験が可能かという問いに取り組んだ.B-中間子の場合,実験条件を自由に選択することが現状では困難であり,ベルの不等式を導くには仮定を補充する必要がある.本論文はB-中間子の崩壊現象が対をなすもう一方のB-中間子の崩壊現象と独立であるという仮定と,崩壊現象が時間的に等質であるという仮定を局所実在論に要請することでベルの不等式を構成することが可能であることを示した.また,KEKで行われているBelle実験の現在の実験条件でベルの不等式の破れの検証実験が可能かどうかについても解析を行った.Belle実験では対をなすB-中間子それぞれの崩壊時刻ではなく,その差のみを測定しており,そのために検証実験の実現が困難であることが分かった.また、検出器の効率がある閾値εよりも低い場合や,量子もつれ状態をなす個々の粒子への測定が互いにspace-likeな時空点で行われてない場合,ベルの不等式の破れが実験的に検出されようとも,それが直ちにベルの不等式を導く仮定のうち少なくとも一つが否定されることにはならないことが示されている.現在のところ,上記の二つの問題点を同時に克服した実験はなされていない.本論文はBelle実験の現在の実験条件がこれらの問題点を克服しているか検証した.検出効率についてはB-中間子が多重崩壊を起こすために,崩壊の各段階における検出効率が高いにも関わらず全体ではε以下であることが分かった.ただし,崩壊の等方的が検証できれば,データの補完により実効的にεを越えた検出効率が得られる.また,Belle実験で得られるデータは崩壊時刻の差であることから,対をなすB-中間子が互いにspace-likeかどうかは確定的に決められない.ただし,B-中間子対を生成する電子陽電子衝突のエネルギーを十分大きくすることでspace-likeに離れたB-中間子対を高確率で生成でき,問題点を解決できる.また,崩壊時刻そのものを測定できるように測定器を改良することでも解決できる.以上まとめると,本学位論文において,B-中間子対を用いたベルの不等式の破れの検証が原理的に可能であり,崩壊時刻そのものの測定と崩壊の等方性が保証されればBelle実験において非常に確度の高い実験が行えることを示した.

第2に、同種粒子系の多体状態に特徴的な量子もつれについての研究である。ただし、同種粒子系での可観測量の対称性がもたらす効果は考慮されておらず、本論文の結果は限定された状態にのみ適用可能であることが、最初に注意されている。多体量子系においては定性的に異なる量子もつれ状態が数多存在することが知られており,それらの分類が盛んになされている.ただし粒子数nが増えた場合についての解析は非常に難しく,一般のnでの分類は未だ知られていない.本論文では、特にボゾンまたはフェルミオンの同種粒子の系について考察し、以下の結論を得た:n体ボゾン系では大域的量子もつれ状態(構成粒子が全て互いにもつれあっている状態)か完全直積状態|ψ>=〓ni=1|φ>iのみが許され,n体フェルミオン系では大域的量子もつれ状態のみが許される.この主張はエニオンに対しても拡張可能である.つまり,素粒子の量子もつれ状態を考える場合,大域的量子もつれ状態に着目すればよい.

第3に、多体量子状態の量子もつれの測度についての研究である。量子情報科学においては定量的評価のために量子もつれ測度と呼ばれる写像を用いることが多い.また,この写像は局所操作と古典通信に対する単調減少性等,いくつかの要請を満たさねばならない.二体系の純粋状態に対しては量子もつれ測度の一般的構成法が知られており,それに基づいて様々な量子もつれ測度が提案されている.一方,多体系では,二体系での構成法で本質的な役割を果たすSchmidt分解に対応する操作が存在しないため,様々な観点から構成法が提案されている.このような状況を受け,二体系における量子もつれ測度から出発し,多体量子もつれ測度を構成する試みがなされており,この方針に基づきMeyerとWallachやLoveらが多体量子もつれ測度を提案している,本論文では,Meyer-Wallach及びLoveらと同様の方針に基づき,多体量子もつれ測度族{Rm(ψ)}nm=2を構成した.ここでnは粒子数とする.この量子もつれ測度は任意のn体純粋状態に適用可能であり,m=2のときLoveらの量子もつれ測度に,m=nのときMeyer-Wallachの量子もつれ測度に一致し,先行研究の自然な拡張になっている.また,著しい性質として,Rm(ψ)=0のとき量子状態|ψ〉はm個の部分系の直積状態に分離可能であることが挙げられる.このことからRm(ψ)は部分分解性という多体量子系特有の特徴を反映した量子もつれ測度と言うことが出来る.

本論文は、以上の3つの研究項目を合わせた全体として見れば、量子もつれに関する研究として、博士論文として十分な内容を持つものと審査委員全員が認めた。

なお、本論文は、筒井泉氏・田村智志氏・米沢信拓氏・佐々木寿彦氏との共同研究であるが、論文提出者が主体になって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

よって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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