学位論文要旨



No 124395
著者(漢字) 稲田,智志
著者(英字)
著者(カナ) イナダ,サトシ
標題(和) 顕微分光法によるInGaAsP系光通信波長帯半導体レーザーの光学利得と内部損失の研究
標題(洋) Investigation of optical gain and internal loss in InGaAsP telecommunication-wavelength semiconductor lasers by microscopic spectroscopy
報告番号 124395
報告番号 甲24395
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5293号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 黒田,寛人
 東京大学 准教授 岡本,徹
 東京大学 准教授 三尾,典克
 東京大学 教授 尾鍋,研太郎
 東京大学 教授 清水,明
内容要旨 要旨を表示する

1.5μm波長帯InGaAsP系半導体レーザーは、今日の長距離・高速光通信の主要なデバイスとして用いられている。材料の結晶成長・加工技術やデバイスの実用化・産業応用は進んでいるものの、基礎物理的な研究の報告は未だ少ない。これはひとつには分光用光源や検出器を含め、分光計測上の制約が大きいためである。そこで本研究では、1.5μm光通信波長帯における顕微分光法を開発し、それを用いてInGaAsP系半導体レーザーの利得吸収スペクトルを広波長範囲かつ広注入電流領域において計測し、そこから光学利得および内部損失を精密に評価し、そのデバイス物性物理を明らかにすることを目的とした。

第1章では、本論文全体の序論として研究背景や目的、論文の構成について述べた。特に、半導体レーザーの利得吸収スペクトル測定や内部損失評価方法に関する先行研究をレビューした。

第2章では、半導体レーザー研究に用いられる概念・用語の定義と、本研究において重要となるそれらの導出方法について述べた。モード利得、マテリアル利得、内部損失、ミラー損失、外部微分量子効率、内部量子効率などの用語に加え、利得吸収スペクトル測定のためのHakki and PaoliやCassidyの方法、内部損失、内部量子効率を求める従来の評価方法について述べた。内部損失、内部量子効率の従来の評価方法では、これら2つのパラメータの注入キャリア密度依存性を無視する仮定が問題である。この点を指摘し、理論的に解析したPiprekらの論文についても説明した。

第3章では、本研究で用いた4種類のInGaAsP系半導体レーザー試料について述べた。試料は、私自身が米国ルーセント・ベル研究所で作製した発振しきい値Ith=38mAの埋め込み型多重量子井戸レーザー、東京工業大学荒井・西山研究室で作製された低発振しきい値Ith=5mAの埋め込み型2重量子井戸レーザー、同研究室・ナノテクノロジーネットワークプログラム(NNP)で作製された2種類のBCB埋め込み型量子細線レーザーである。

第4章では、利得吸収スペクトル測定系の開発について説明し、実際にその測定系を用いて精度の高いスペクトルデータを導出する過程について述べた。本研究では、冷却InGaAsダイオードアレイと分光器を検出器として用いた導波路放出光(ASE)スペクトル測定系とコンティニューム光源を用いた透過スペクトル測定系を組み合わせることで広い波長範囲および注入電流領域における利得吸収スペクトルを評価できるようにした。発熱の影響を制御・評価するために、CWおよびパルスでの電流駆動を可能にした。

Fig.1は開発した測定系を用いて得られたInGaAsP系多重量子井戸レーザーの室温における利得吸収スペクトルである。1430nmから1700nmにおよぶ非常に広い波長範囲の利得吸収スペクトルが得られた。また、I=0mAから発振しきい値Ith=38mAにわたる広い注入電流領域の利得吸収スペクトルが得られており、注入電流の増加に付随するピーク利得および透明領域での吸収係数の増加、およびピーク利得波長のシフトの様子が同時に観測できるようになった。

第5章では、今回開発した測定系を用いて得られたInGaAsP系量子井戸レーザーの利得吸収スペクトルから、内部損失や内部量子効率をキャリア密度に対して独立に評価し、従来の内部損失評価方法との比較を行った。

Fig.2は、ピークモード利得および利得吸収スペクトルの透明領域から見積もった内部損失を注入電流に対してプロットした結果である。ピークモード利得と内部損失の差はマテリアル利得に光閉じ込め係数をかけた量に等しい。これは理論計算の結果との比較が可能な量であり、その注入電流依存性も評価ができた。さらに、モード利得の外挿線と内部損失の交点からI=5mAと透明電流も見積もることができた。

Fig.3は、Fig.2で得られた利得吸収スペクトルの透明領域から見積もった内部損失、電流一光出力(IL)特性から求めた発振しきい値注入電流密度、端面反射率を0.3として計算したミラー損失および全損失(ミラー損失と内部損失の和)を共振器長に対してプロットしたものである。破線は従来の評価方法の結果(20cm(-1))を表しており、共振器長に対して一定となっている。共振器長が短くなるにつれて発振しきい値注入電流密度は大きくなり、それにつれて利得吸収スペクトルから見積もった内部損失の値も50から54cm(-1)と大きくなっていくのがわかる。

Fig.4は、Fig.3で得た内部損失およびミラー損失とIL特性から求めた外部微分量子効率から見積もった内部量子効率を共振器長に対してプロットしたものである。破線は一般的な評価方法から見積もった値(40%)を表しており、共振器長に対して一定となっている。共振器長が短くなるになるにつれて、利得吸収スペクトルから見積もった内部量子効率が80%から40%へと悪化していくのがわかる。

以上のように両者の方法で見積もられる値は大きく異なっていた。これは従来の評価方法が内部損失および内部量子効率の共振器長依存性を考慮していないことに起因しており、今回その問題点に関して初めて実験的な検証を行うことができた。

第6章では、低しきい値InGaAsP系2重量子井戸レーザーの利得吸収スペクトルの低温から室温までの温度依存性を評価し、自由キャリア(FE)近似モデルおよび静的プラズマ遮蔽効果を考慮したハートリーフォック(SHF)近似モデルとの比較を行うことで、クーロン相互作用の光学利得への影響について考察を行った。

Fig.5は5Kから室温(293K)までの利得吸収スペクトルの温度依存性評価の結果である。各温度ともピーク利得付近から透明領域までの広い波長範囲および注入電流範囲で利得吸収スペクトルが得られており、温度上昇とともにピーク利得が長波長側にレッドシフトしているのがわかる。5Kのスペクトルでは半値全幅がおよそ6.5meVであり、非常に先鋭であることから、構造揺らぎによる不均一広がりの寄与が100K以上の高温では無視できるほど小さいことがわかる。すなわち温度上昇に伴うスペクトル幅の増大は、キャリア間散乱やLOフォノン散乱などの内因的効果による均一幅が大きくなるためであると考えられる。

Fig.6は100Kにおけるピーク利得に対するフェルミ端での利得の傾きの実験値を理論計算と比較したものである。実験値を青色、FE近似による計算結果を黒色、SHF近似による結果を赤色で表している。理論値では、スペクトルのブロードニングを表すダンピング定数を変えて計算を行っている。ピーク利得が大きい領域では、利得の傾きがダンピング定数に依っていないことがわかる。また、FEモデルで得られた利得の傾きよりも、クーロン相互作用を考慮しているSHFモデルのほうが、より実験値に近い結果となった。

同様の比較を150Kから室温まで行ったところ、いずれの温度においてもクーロン相互作用を考慮した計算結果のほうが、実験値に近い値であった。このことから、利得吸収スペクトルのフェルミ端ではクーロン相互作用による効果が現れていることが明らかになった。

第7章では、InGaAsP系BCB埋め込み型量子細線レーザーの室温および5Kにおける利得吸収スペクトル評価を行い、第6章で評価した量子井戸レーザーのものと比較した。評価した量子細線レーザー試料は、導波路幅が設計通りにいかず広くなってしまい、レーザー発振や、光導波路の単一横モード化を行うことはできなかった。

Fig.7は室温および5Kにおける利得吸収スペクトルの比較結果である。1次元系量子細線レーザーの結果を青色、2次元系量子井戸レーザーの評価結果を黒色で表している。破線は透明領域から見積もられる内部損失を表している。

室温においては、内部損失の値は同程度であるものの、井戸に比べて細線のピーク利得が小さく、スペクトル幅が大きかった。

しかし、5Kにおいては細線のほうが井戸よりも利得吸収スペクトルの立ち上がりが急峻でそのスペクトル幅も細くなることがわかった。また、細線のほうが内部損失が28cm(-1)と大きいにもかかわらず、井戸と同程度のピーク利得が得られることもわかった。これは井戸から細線へと状態密度が先鋭化することによる利得幅の減少およびピーク利得の増加を示していると考えられる。

今回評価した試料は、単一横モード動作しないため定量性や精度を議論できる評価は行えなかったが、低温(5K)において顕微分光を用いることで、マルチ横モードによるスペクトルへの影響を分解して観測することができた。

第8章では本研究で得られた上記の知見をまとめ、今後の課題を記した。

Fig.1広波長および広注入電流領域で得られた利得吸収スペクトル

Fig.2各注入電流に対するピーク利得と内部損失の変化の様子

Fig.3共振器長に対する内部損失、発振しきい値、注入電流密度、ミラー損失、全損失のプロット

Fig4共振器長に対する内部量子効率のプロット

Fig.5 5K から室温(293K)におけるInGaAsP系量子井戸レーザーの利得吸収スペクトル

Fig.6 100K でのフェルミ端での利得の傾きの比較

Fig.7 5K、室温における量子細線および量子井戸レーザーの利得吸収スペクトル比較

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、材料やデバイスに比べ基礎物理的研究が少ない1.5μm帯レーザーの現状を打破すべく1.5μm光通信波長帯における顕微分光法を開発し,それを用いてInGaAsP系半導体レーザーの利得吸収スペクトルを広波長範囲かつ広注入電流において計測し,そこから光学利得および内部損失を精密に評価し,そのデバイス物性物理を明らかにすることを目的としている。

第1章では、本論文全体の序論として研究背景や目的,論文の構成について述べられている。

第2章では,半導体レーザー研究に用いられる概念・用語の定義と,本研究において重要となるそれらの導出方法について述べられている。特に内部損失,内部量子効率の従来の評価方法では,これら2つのパラメータの注入キャリア密度依存性を無視する仮定が問題である事を指摘している。

第3章では本研究で用いた4種類のInGaAsP系半導体レーザー試料に付いて述べられている。

第4章では,利得吸収スペクトル測定系の開発について説明し,実際にその測定系を用いて精度の高いスペクトルデータを導出する過程について記述されている。

第5章では,今回開発した測定系を用いて得られたInGaAsP系量子井戸レーザーの利得吸収スペクトルから、内部損失や内部量子効率をキャリア密度に対して独立に評価し,従来の内部損失評価方法との比較を行った結果がまとめられている。

第6章では低閾値InGaAsP系2重量子井戸レーザーの利得吸収スペクトルの低温から室温までの温度依存性を評価し,自由キャリア(FE)近似モデルおよび静的プラズマ遮蔽効果を考慮したハートリーフォック(SHF)近似モデルとの比較を行うことで,クーロン相互作用の光学利得への影響について考察結果である。

第7章では、InGaAsP系BCB埋め込み型量子細線レーザーの室温および5Kにおける利得吸収スペクトル評価を行い,第6章で評価した量子井戸レーザーのものと比較した結果が記述されている。

第8章では,本研究で得られた上記の知見をまとめ,今後の課題と本研究の意義が述べられている。

本研究により,はじめて明らかにされた実験事実は,半導体注入型レーザーにおいて,内部損失,および内部量子効率が,注入キャリア密度に依存することを見出した事である。従来の光学利得の測定には主として,媒質の共振器長を数点変化させた試料を用意し,その利得の共振器長依存性の傾きより利得係数を求める方式がとられている。この方式では仮定として,内部損失および内部量子効率が注入キャリア密度に依存しないという条件での利得係数しか得られず,又,多数の試料を用いることにより試料ごとの不均一性が得られたデータに不確実性を与えている。

本研究ではオプティカルマルチチャンネルアナライザー(OMA)を、独自工夫を加え,実験の最適化を行い,OMAにより短時間に精密なデータ取得と解析ができる実験方法を開発している。

その結果,吸収のある領域,閾値近傍の透明領域,利得の生じる領域からピーク利得への移り変わりとピークシフトを広波長,および広注入電流領域で測定することに成功した。

均一幅に関してはフリーキャリアモデルとハートリーフォックモデルの理論(SHF)と静電遮蔽効果を含む実験結果の比較を行った。その結果,均一幅をローレンツ関数でなく理論的にセコンドハイパボリック関数で近似することにより,自由電子モデルよりもクーロン相互作用を考慮したSHFモデルがより適切に実験値を再現できる事を結論している。

一方,未だ未解決の問題が多い低次元化にレーザー特性の変化に関して興味深い結果も得ている。

本研究は,低次元物性と半導体レーザーが組み合わさった基礎物性実験がかなり困難な系において独自の計測法を考案し,又,詳細精密な解析に耐える実験データを取得し,理論との比較も行うなど,この分野における進展に貢献できたものと考えられる。

なお、本論分第4,5章は木下,吉田,岡野,井原,秋山との共同研究であるが,論文提出者が主体となって分析および検証を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって,論文提出者はレーザー物理学について十分な学識を持ち,又,同分野に新しい知見を与えたと認められ,博士(理学)の学位を受けるにふさわしいものと審査委員全員一致により認められた。

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