No | 124397 | |
著者(漢字) | 大能,直哉 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | オオノ,ナオヤ | |
標題(和) | 反陽子ヘリウム原子のオージェ崩壊率の研究 | |
標題(洋) | Study of the Auger decay rate of antiprotonic helium atoms | |
報告番号 | 124397 | |
報告番号 | 甲24397 | |
学位授与日 | 2009.03.23 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(理学) | |
学位記番号 | 博理第5295号 | |
研究科 | 理学系研究科 | |
専攻 | 物理学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 反陽子ヘリウム原子は、反陽子、ヘリウム原子核、電子から構成される3 体の特異原子である。反陽子を物質中に入射した場合、通常は原子核との強い相互作用によって1 ps 程度の短時間で対消滅する。一方、反陽子をヘリウム標的中に入射した場合は、入射した反陽子の約3 %が約3 μs の寿命を持つ反陽子ヘリウム原子を形成し、物質中で長時間消滅を免れることができる。この長寿命現象は1991 年に初めて実験的に観測され、その後の研究によって反陽子ヘリウム原子の構造や生成・消滅の過程等が明らかにされた[1, 2]。また、レーザー光を用いて反陽子ヘリウム原子の消滅を誘導し、遷移周波数を測定することが可能となった。実験手法や装置の改善を重ねることで測定精度を向上させ[2, 3]、2006 年の実験では264 nm から726 nm の範囲に渡る12 種類の遷移の遷移周波数を0.9 ~1.9 × 10(-8) の精度で測定した。一方、測定精度の向上と並行し、3 体系の理論計算に関しても理論家によって改善が重ねられ、相対論的補正や量子電気力学による補正を加えた高精度な計算によって10(-9) の精度が得られている。この理論計算値を実験結果と比較することで、反陽子電子質量比を2 × 10(-9) の精度で決定した[4, 5]。この結果は、科学技術データ委員会(CODATA) による陽子電子質量比に関する2002 年の推奨値(CODATA2002) と誤差の範囲内で一致した。また、2007 年に発表された最新の推奨値(CODATA2006) では、我々の反陽子電子質量比に関する実験結果が陽子電子質量比決定に用いられる実験結果の一つとして採用されている。 一方、レーザ分光によって反陽子ヘリウム原子の崩壊過程であるAuger 崩壊の崩壊率についても測定を行うことができる。理論計算では準位のエネルギーと崩壊率は複素エネルギーとして同時に計算され、両者は同程度の精度を持つとされているが、これまでの測定では、崩壊率が1 GHz 以下の遷移に関しては理論計算値と一致する結果が得られている一方、20 GHz 程度以上の崩壊率を持つ準位では、測定した6 種類の準位の内4 種類の準位で、実験誤差を基準として最大約4σ、実験の中心値を基準として最大約270 倍の大きな違いが観測されている[6, 7]。また、Auger 崩壊は電子が連続状態へと遷移する過程でありその計算は波動関数の距離の大きな部分に依存するため、Auger 崩壊率に関する比較によって、遷移周波数に関する比較では困難な波動関数の検証が可能である。そこで本研究では、Auger 崩壊率をより高精度に測定し、理論計算の妥当性を遷移周波数の測定とは独立に検証することを目的として実験を行った。 実験は欧州素粒子原子核研究機構(CERN) の反陽子減速器(Antiproton Decelerator) を用いて行った。本研究では、共鳴曲線の自然幅Γ と崩壊率γ の関係2Γ = γ/2π を用いてAuger 崩壊率を決定した。この際、共鳴曲線の線幅の増加に寄与する効果について系統的な測定を行うため、レーザー出力及び標的密度を変化させて測定を行った。また、標的の運動によるDoppler 幅、反陽子ヘリウム原子の構成粒子の持つ角運動量の相互作用によって生じる準位の分裂、レーザー光の線幅を考慮し、共鳴曲線のフィットの際にそれらの影響を差し引いた。本研究では図1に示す準位について測定を行った。 測定の結果、レーザー出力の変化に対しては何れの遷移に対しても明確な依存性は観測されなかった。一方、標的密度に対しては遷移によって異なる依存性が観測された。まず、616.7 nm の遷移では標的密度の増加に対して線幅が増加する様子が観測された。標的密度に対して線形な依存性を仮定しゼロ密度への外挿値を求め、p4He+ の(37, 33) の準位のAuger 崩壊率として44.8±2.6 GHz という値を得た。この結果は、2 種類の理論計算値と実験誤差の範囲内で一致した。また、過去の実験では理論計算値と大きく異なる結果が得られていたが、有限の標的密度における測定値であることを考慮することで矛盾無く理解することができた。713.8 nm 及び710.6 nm の遷移では標的密度に対しても明確な依存性は観測されなかった。そこでこれらについては測定値の平均値を求め、p4He+の(38, 33) 及びp3He+ の(37, 32) の準位のAuger 崩壊率としてそれぞれ363±7 GHz 及び837±77GHz という値を得た。p4He+ の(38, 33) の準位では、一方の理論計算値とは本研究の中心値を基準として約0.9 倍、本研究の誤差を基準として約8σ の差が観測され、もう一方の理論計算値とは約2倍、約40σ の差が観測された。また、p3He+ の(37, 32) の準位では、理論計算値との差は両者とも約0.8 倍、約2σ であった。 遷移による標的密度依存性の違いについて考察するため、反陽子ヘリウム原子中の電子が励起状態にある状態の影響を考慮した。電子励起状態のエネルギーは、反陽子とヘリウム原子核の2 体系のエネルギーと、この2 体系と電子の系のエネルギーの和として近似した。これを通常の反陽子ヘリウム原子のエネルギーと比較した所、本研究で標的密度依存性が観測されたp4He+ の(37, 33) の準位は、np = 32、ne = 3 の電子励起状態とエネルギーの近い準位であることが示された。ここで、準位の間のエネルギー差が十分小さい場合、波動関数の混合によって準位の寿命は変化すると考えられる。また、電子励起状態は角運動量の違いに対するエネルギー差が小さいため周囲のヘリウム原子との衝突によるStark 効果によって消滅する過程が存在し、この場合の崩壊率は標的密度に依存すると考えられる。この結果、p4He+ の(37, 33) の準位の崩壊率が標的密度に依存したと考えられる。一方、近くに電子励起状態が存在していないp4He+ の(38, 33) の準位及びp3He+ の(37, 32)の準位に関しては、本研究では標的密度に対して線幅の変化が見られなかった。これらの準位では、崩壊率が衝突の周波数と比較して大きいため衝突による影響を受けにくいことも標的密度依存性が観測されなかった理由として考えられる。今後の研究では、同様な標的密度依存性が予想される他の準位の測定による検証が重要である。 また、光学Bloch 方程式を用いた数値計算によって、信号強度の飽和による線幅の増加量を評価した。本研究では反陽子ヘリウム原子の崩壊数に対応する信号を測定しており、その信号強度は始状態の反陽子ヘリウム原子の数によって制限される。このため、レーザー出力が十分大きな場合やレーザーパルスが十分長い場合は、遷移波長中心付近では信号強度が飽和するのに対し裾の部分では信号強度の増加が続き、結果として共鳴曲線の線幅は増加する。計算で得られたレーザー出力依存性を用いて求めたゼロレーザー出力への外挿値を本研究の結果と比較した所、両者の差は713.8 nm 及び710.6 nm の遷移では数%、616.7 nm の遷移では約14 %であった。713.8 nm 及び710.6 nm の遷移では計算から予想される線幅の増加は本研究の測定値と理論計算値の間の差と比較して小さく、この差は飽和によるものではないと考えられる。また、616.7 nm の遷移では計算で見られる程の強い依存性は実験では観測されておらず、本研究の条件下ではレーザー出力依存性はより小さい状況であったと考えられる。ただし、数値計算によって線幅の増加量を正確に見積もることは困難であるため、今後の研究ではレーザー出力についてより広い範囲で測定し、線幅の依存性を実験的に確認することが必要であると考えられる。 図1: 反陽子ヘリウム原子のエネルギー準位図と、本研究で測定した準位。p4He+ の(np, lp) =(38,33) 及び(37, 33)、p3He+ の(37, 32) のAuger 崩壊率を測定した。各準位の測定は、p4He+ の713.8nm 及び616.7 nm の遷移、3He+ の710.6 nm の遷移を用いて行った。np 及びp は反陽子の主量子数及び軌道角運動量量子数を表す。 図2: (a): 616.7 nm の遷移の共鳴曲線の半値全幅。標的密度に対して線幅が増加する様子が観測された。標的密度に対して線形な依存性を仮定し、標的密度0 への外挿値を求めた。(b), (c), (d): 本研究のAuger 崩壊率の結果と過去の実験(Yamaguchi et al.[7]) 及び理論計算値(Korobov[8]、Kinoet al.[9]) との比較。 | |
審査要旨 | 本論文は、「反陽子ヘリウム原子のオージェ崩壊率の研究」を、5章からなる和文でまとめたものである。反陽子ヘリウム原子のレーザー分光によってオージェ崩壊率を高精度に測定し、3体系の理論計算と比較検証する実験を行い、その結果と解析および考察を述べている。第1章で、序論として、反陽子ヘリウム原子のこれまでの研究概要と本研究の目的を述べ、第2章で、研究の基礎事項として、ヘリウム原子による反陽子の捕捉過程、反陽子ヘリウム原子のエネルギー構造および放射遷移・オージェ遷移と準安定性、レーザー分光による遷移エネルギーおよびオージェ崩壊率の測定の手法について説明している。第3章で本実験に用いた実験設備および方法を述べ、第4章で実験の結果と考察を述べている。第5章で、結論をまとめている。 本研究の実験は、欧州素粒子原子核研究機構(CERN)の反陽子減速器(Antiproton Decelerator)を用いて行われた。すなわち、陽子シンクロトロンで加速された陽子ビームを用いて反陽子を生成し、それを反陽子減速器を用いて冷却・減速したのち実験領域へと引き出し、低温のヘリウム標的に入射した。それによって生成された反陽子ヘリウム原子に、波長可変レーザー光を照射し、吸収の共鳴曲線を測定した。光吸収の検出には、光を吸収して不安定状態に遷移したのち起こる反陽子の消滅を用い、消滅に伴って放出される荷電π中間子を、チェレンコフ検出器およびデジタルオシロスコープを用いて検出・抽出した。本研究では、連続波チタンサファイアおよび色素レーザーからの種光をパルスレーザー励起の色素媒質で増幅することで、線幅が約50MHz、出力約15mJ、パルス時間幅約20nsの出力光を得た。先行研究では線幅が10GHz程度の市販のパルス色素レーザーが用いられていたが、本研究の光源はオージェ崩壊率の測定精度および限界を改善するために、著者が立上げにも参加し、整備・運転を行ったものである。これらの実験装置を整備・運転し、限られたビームタイムの中で計画通り円滑に実験を遂行し、十分な統計量の実験データを取得したことは高く評価できる。 本研究では、p- 4He+ の(37,34)→(38,33)に対応する713.8nmの遷移、p- 3He+の(38,34) →(37,33) に対応する710.6nmの遷移、p- 4He+の(36,34) →(37,33) に対応する616.7nmの遷移について測定を行った。特に、ヘリウム標的密度や入射レーザー強度への依存性を詳細に調べ、共鳴幅に比べ十分広い波長範囲で測定波長点数を増やして測定するなど統計量の改善を加えて、実験を行った。 その結果、まず616.7nmの遷移について、ヘリウム標的密度とともに共鳴の幅が線形に増大する明確な依存性を観測した。線形フィットのゼロ密度外挿値から、オージェ崩壊率として、44.8±2.6GHzという値を新たに得た。この値はKorobovやKinoらの理論計算の結果と良い一致を示した。先行研究であるYamaguchiらの実験結果が本研究の実験結果や理論計算結果と大きく食い違って大きな値を与えていたことも、有限のヘリウム標的密度での実験値であったことを考慮するとコンシステントに理解できた。713.8nmおよび710.6nmの遷移については、ヘリウム標的密度依存性は観測されなかった。しかし、先行研究よりも、主に統計量が改善されたことにより誤差が小さくなり、その結果Korobovの理論計算値により近い、363±7GHzおよび837±77GHzというオージェ崩壊率の値を新たに得た。なお、上記3つのいずれの遷移についても、本研究での測定の範囲内では、吸収の飽和幅による効果の寄与は実験的に認められなかった。オージェ崩壊率として、これらの信頼性の高い新たな値を得たことは、本分野への大きな貢献として高く評価できる。 また、これらの結果に対する考察として、本論文では、ヘリウム標的密度依存性の有無について、その状態のエネルギーの近くに、反陽子ヘリウム原子中の電子励起状態のエネルギーが在るか否かが影響しているのではないかという仮説を述べ議論をしている。また、光学ブロッホ方程式によるモデル計算により、レーザー強度に対して飽和幅がどれだけ寄与するかについて数値計算を行って、考察を行っている。これらの考察は、今後の研究に対する有用な指針を与えている。 以上、本論文の内容は、博士論文として高い評価に値すると判断される。 なお、本論文の中核をなす研究内容は指導教官らとの共著論文として学術誌に公表予定であるが、測定装置の整備・運転、実験の計画と遂行、結果の解析など大部分は論文提出者が主体となって行ったものと判断される。 よって、論文審査委員会は全員一致で博士(理学)の学位を授与できると認めた。 | |
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