学位論文要旨



No 124399
著者(漢字) 河原,創
著者(英字)
著者(カナ) カワハラ,ハジメ
標題(和) 銀河団ガスの非一様性とその宇宙論的意義
標題(洋) Inhomogeneity in Intracluster Medium and Its Cosmological Implications
報告番号 124399
報告番号 甲24399
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5297号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,忠幸
 東京大学 准教授 半場,藤弘
 東京大学 准教授 安田,直樹
 東京大学 教授 中川,貴雄
 東京大学 講師 中澤,知洋
内容要旨 要旨を表示する

現在、最も標準的な宇宙の構造形成理論は、暗黒物質とバリオンからなる密度場の初期の小さな揺らぎが自己重力により成長し、銀河、銀河団、大規模構造といった諸階層が作られていくというものである。中でも銀河団は、可視光によるメンバー銀河(図1a、c)、高温プラズマ(銀河団ガス)から発せられるX線(図lb)や宇宙背景放射の銀河団ガスによるスペクトル変形、「スニャーエフ・ゼルドビッチ効果(SZ効果)」(図ldの等高線)等による観測が可能である。宇宙背景放射、銀河分布、超新星などの他の方法と並ぶ宇宙論モデルの検証手段となっている。銀河団を用いた宇宙論をさらに精密に行うためには、銀河団構成要素の良いモデリングをすることが必要である。銀河団ガスは、これまでβモデルと等温近似が多く用いられてきた。本論文では、βモデルのような半径のみに密度が依存するようなモデルでは考慮されてこなかった、密度、温度のゆらぎが、どのような特徴を持つか、また銀河団を用いた宇宙論にどのようなインパクトを与えるかを明らかにする事を目的としている。

○非一様性の対数正規モデル

本論文では、まず暗黒物質とバリオンからなる初期の密度揺らぎを重力、流体力学的に計算させて得うれた高分解能の宇宙流体シミュレーション中の銀河団に基づいて、密度、温度の非一様性の統計的性質を探った(第三章)。宇宙流体シミュレーションの中にできた大きな銀河団6個を切り出し、密度、温度の動径平均とその周りのゆらぎの分布を調べた。図2は得られた温度ゆらぎ、密度ゆらぎの分布関数を示している。得られた分布は温度、密度共に対数正規関数により近似できる事を発見した。異なる計算手法で得られたシミュレーションでも同様の性質が確かめられたので、普遍的な性質であると言える事ができる。また、温度ゆらぎ一密度ゆらぎ間の相関は弱い事が分かった。この対数正規モデルを発見し、これを用いて、二つの宇宙論的問題に非一様性の影響を調べた。

○銀河団の温度推定

本論文では、ゆらぎの銀河団の温度推定に関する系統誤差を調べた。銀河団の「温度」は質早推定に用いられる重要な量であるρ銀河団ガスの密度、温度ではガスは衝突電離平衡にあるため、温度がプラズマの電離状態を決める。X線放射は主に熱制動放射と金属イオンによる輝線で決まるため、X線スペクトルは温度と金属量の関数になる。実際の観測では、これを利用してX線スペクトルから推定した温度、スペクトル温度、T(spec)を銀河団の代表温度として用いる。一方、理論シミュレーションでは、代表温度の定義は、銀河団ガスが不均一なため式(1)のように重み関数Wを用いて平均量で定義せざるを得ない。

これまで慣例的にWをX線放射率ととった放射率重み付き温度

がスペクトル温度に対応するとして、様々な宇宙論的応用がされてきた。Mazzottaらはスペクトル温度は放射率重み付き温度より系統的に低い値を与える事を指摘した。この温度推定のバイアスは銀河団を用いた宇宙論パラメタ推定に直接影響する。彼らは、代わりにスペクトル温度を数パーセントで再現する新たな温度、Spectroscopic-1ike温度、

を提案した。これを用い二(Rasiaらはシミュレーション中の銀河団を調べ、T(si)~O.7T(ew)を結論した

本論文では、この温度バイアスの原因が銀河団ガスの非一様性にあると考え、先の対数正規モデルを用い、このバイアスを解析的表式を構築して、このバイアスを説明することを試みた(第四章)。

まずシミュレーション銀河団から直接X線模擬スペクトルを作成し、X線解析ツールXSPECを用いて、スペクトル温度を求めた上で、放射率重み付き温度、Spectroscopic-1ike温度と比較した結果、前者に対しては、スペクトル温度の方が1-2割程度低く、後者は数パーセントで一致する事を確認した。そして、対数正規モデルと動径分布を用いて、Spectroscopic-like温度と放射率重み付き温度の比を求め、解析的にこの温度推定バイアスを記述する事に成功した。・解析モデルによるとバイアスは密度、温度の動径分布だけではなく、温度揺らぎが大きな原因.となっている事が分かった。また、解析モデルの結果はシミュレーションから求めたバイアスを良く説明する事が示された(図3)。

○SZ効果を用いたハッブル定数め系統誤差

次に、SZ効果とX線輝度を利用,したハッブル定数(Ho)の推定にゆらぎが及ぼす影響を調べた。この推定方法は宇宙の距離梯子を用いることなくハッブル定数が推定できるシンプルな方法であるにもかかわらず近年の観測結果(例えばHo=60±3km/s/Mpc:Carlstrometal.2002)は他の推定方法(宇宙背景放射:73±3km/s/Mpc、セファイド72±8km/s/Mpc)より15%程度低い推牢値を与えている。本論文では、銀河団ガス非一様性~また上の温度推定バイアスを用いて、推定方法の系統誤差を説明する事を試みた(第五章)。

SZ効果を用いたハッブル定数推定の原理は等温βモデルの仮定に基いている。銀河団中心のSZEとX線輝度を用いて、視線方向のコア半径を求める事ができる。この際、温度はスペグトル温度を用いている。X線輝度空間分布をフィットする事で天球面方向のコア半径に対応する角度を求める事ができる。これらを用いると銀河団までの角度距離が分かるためハッブル定数を推定する事ができる。本論文では温度、密度の非一様性、温度動径分布や非球対称性がこの推定方法にどのような系統誤差を与えるかを、従来のような放射率重み付き温度でなくスペクトル温度を用いて調べた。まず従来から言われているように、非球対称性については多くの銀河団を用いる事で誤差を小さくする事ができ、おもに統計誤差として扱える事を確認した。

次に対数正規モデルと温度動径分布のモデルを用いて系統誤差を解析的に表すと、密度揺らぎ、温度動径分布、温度推定バイアスの三つが大きな系統誤差であることが分かる。この内、密度揺らぎはハッブル定数を過大評価する方向の、残り二つは過小評価する方向のバイアスとなることが分かった。次にシミュレーション中の銀河団を用いて模擬観測をし、解析モデルと比較した結果、両者はよく一致し、全体として10%程度の過小評価を与える事が分かった(図4)。また、もしスペクトル温度ではなく放射率重み付き温度を用いた場合、バイアスはほとんどないという結果を得た。これは従来の同様の研究と結果と矛盾しない。つまり、従来の同様の研究でバイアスがないとされていたのは、温度推定バイアスめある放射率重み付き温度で解析を行っていたからである事が分かった。本論文の結果は実際の観測結果が他の方法より15パーセント程低いハッブル定数推定値を与えている事を説明する事ができる。

〇二次元観測量から三次元揺らぎの抽出

非一様性のモデルである対数正規モデルは、宇宙流体シミュレーションに基づいて構築されたものである。そこで、本論文では更に、実際の銀河団のX線観測データから密度揺らぎの統計的情報を引き出す事を試みた。観測量は必然的に二次元投影されたものであるので、まず非一様性の三次元的統計的情報を二次元X線輝度分布から引き出す方法を開発した。その上で実際の銀河団のX線観測データを解析した(第六章)。

まず投影による効果を調べるために密度揺らぎが対数正規分布に従うような場合のX線輝度分布を多数作成し、X線輝度の動径分布からのゆらぎ、輝度ゆらぎの分布関数を求めた。その結果、輝度ゆらぎの分布関数も対数正規分布に従う事が分かった。また、輝度揺らぎの大きさ、と、密度揺らぎの大きさ、パワースペクトルの関係を求めた。さらにX線輝度分布から密度揺らぎのパワースペクトルを推定するため、輝度揺らぎのパワースペクトルのベキと密度揺らぎのパワースペクトルのベキの間の関係を求めたところ、ほぼ同じである事が分かった。また系統誤差の可能性として温度揺らぎ、温度動径分布、密度動径分布、望遠鏡の角度分解能について検討を行った結果、どれも統計誤差に比べ大きくないことが分かった。次に実際の銀河団のChandra衛星によるX線データの解析を行った。クーリングコアを持たない銀河団という条件のもと、Chandraのアーカィブデータ中、最も光子統計の良い観測データを持つ銀河団であるAbel13667を選んだ。そして、X線輝度揺らぎの分布を求めた所、対数正規分布が最も良く'致した(図5)。充分光子統計の良い観測データを用いたためポアソン統計による影響はほとんど無視できる。また、合成銀河団で得られた関係式をもちいて、(三次元)密度揺らぎの大きさを推定した。この結果は銀河団ガスの密度揺らぎに対する対数正規モデルの兆候を確かめた初めての観測結果であると言える。

本論文では、銀河団ガス内の温度、密度揺らぎが、温度推定、ハッブル定数推定といった銀河団を用いた宇宙論やその解釈に大きく影響することを示した。また、揺らぎの対数正規モデルを示唆する観測的な結果を初めて示した。本論文で発展させた非一様性のモデルは、今後の様々な観測機器による銀河団の観測データの解釈、宇宙論モデル検証のさらなる精密化に寄与する事ができると考えられる。

図1:銀河団A2218の様々な観測。可視光による観測(a:1)Digitized Sky Survey、c:Hubble Space Telescope)、X線による観測(b:すざく衛星)、SZ効果(d等高線:OVRO/BIMA)とX線分布(dカラー:ROSAT)

図2:温度ゆらぎ(左パネル)密度ゆらぎ(右パネル)の分布。実線(赤)が全体のデータ。破線(黒)が対数正規関数によるフィット。細線は各半径で分けたシェルごとの分布。

図3:温度推定バイアス(k=Tsl/Tew)の解析モデルによる予言(縦軸)とシミュレーションの模擬観測よる値(横軸)。アスタリスク(青)は動径分布のみによる効果、十字(赤)は局所的な揺らぎによる効果、四角1黒)はこれらの効果を合わせたバイアス。

図4:ハッブル定数推定値の系統誤差。fH=Ho推定値/Ho真の値6黒誤差棒が模擬観測値。誤差棒は異なる視線方向による標準偏差の1シグマを示している。緑実線が解析モデルによる予言。赤、青はそれぞれ、スペクトル温度ではなく従来の放射重み付け温度を用いた場合と、温度動径分布を考慮した場合。

図5:Abel13667のX線輝度揺らぎ分布関数。青線が実データ。赤が対数正規分布によるフィット、緑が正規分布によるフィット、ピンクが平均光子数によるポアソン分布、オレンジが正規分布する量の自乗の分布関数によるフィットをそれぞれ示している。

審査要旨 要旨を表示する

本論文では、銀河団ガス内の温度、密度揺らぎが、温度推定、ハッブル定数推定といった銀河団を用いた宇宙論やその解釈に大きく影響することを示した。また、揺らぎの対数正規モデルを示唆する観測的な結果を初めて示した。本論文で発展させた非一様性のモデルは、今後の様々な観測機器による銀河団の観測データの解釈、宇宙論モデル検証のさらなる精密化に寄与する事ができると考えられる。

第2章では、銀河団研究の解説について、銀河間物質の密度プロファイルや温度プロファイル、銀河団中の高温ガスからのX線放射、さらにSZ効果によるハッブル定数の決定の現状が述べられている。本論文に必要な銀河団に関する様々な定式化がこの章で行われている。

第3章では、暗黒物質とバリオンからなる初期の密度揺らぎを重力、流体力学的に計算させて得られた高分解能の宇宙流体シミュレーションの結果、形成された銀河団に基づいて、密度、温度の非一様性の統計的性質の研究が行われている。シミュレーションから大きな銀河団6個を切り出し、密度、温度の動径平均とその周りのゆらぎの分布を求めると、温度、密度共に対数正規関数により近似できる事を発見した。異なる計算手法で得られたシミュレーションでも同様の性質が確かめられ、普遍的な性質であると言える事ができる。この発見は、今後、銀河団が関係する宇宙論的問題に対して、実際の計算で非一様性の影響を調べることが可能となるため意義は大きい。

第4章では、銀河団の温度推定に関する系統誤差に対するゆらぎの効果の研究である。銀河団の「温度」は質量推定に用いられる重要な量である。銀河団ガスの密度、温度ではガスは衝突電離平衡にあるため、温度がプラズマの電離状態を決め、高温ガスに対応するX線観測で温度を測定することができる。一方、理論、シミュレーションでは、代表温度の定義は、銀河団ガスが不均一なため重み関数を用いて平均量で定義せざるを得ない。この二つの温度の間に系統的な違い(温度バイアス)が、銀河団を用いた宇宙論パラメータ推定に直接影響する事が指摘されてきた。本章では、先の対数正規モデルを用い、この温度バイアスの原因が密度、温度の動径分布だけではなく、銀河団ガスの非一様性にあることを示した。

第5章は、SZ効果とX線輝度を利用したハッブル定数の推定にゆらぎが及ぼす影響についての研究である。スペクトル温度を用い、温度、密度の非一様性、温度動径分布や非球対称性が推定方法にどのような系統誤差を与えるかを調べた結果、密度揺らぎ、温度動径分布、温度推定バイアスの三つが大きな系統誤差であることが分かり、それらの定量的な評価からくSZ効果を用いた推定法が実際に他の方法にくらべて10%程度の過小評価を与えることを導いた。これは銀河団中のゆらぎが実際に宇宙論パラメータの推定に影響を与える事を示す結果であり、非常に興味深い。

第6章では、実際の銀河団のX線観測データから密度揺らぎの統計的情報を得ることが試みられている。観測量は必然的に二次元投影されたものであるので、非一様性の三次元的統計的情報を二次元X線輝度分布から引き出す方法を開発し、その上で実際の銀河団のX線観測データが解析されている。投影による効果を調べるために密度揺らぎが対数正規分布に従うような場合のX線輝度分布を多数作成し、投影後の輝度ゆらぎの分布関数も対数正規分布に従う事を導いた。Chandraのアーカイブデータ中、最も光子統計の良い観測データを持つ銀河団であるAbe113667を用いてX線輝度揺らぎの分布を求めた所、対数正規分布が最も良く一致した。また、合成銀河団で得られた関係式をもちいて、(三次元)密度揺らぎの大きさを推定した。この結果は銀河団ガスの密度揺らぎに対する対数正規モデルの兆候を確かめた初めての観測結果であると言える。

第7章は全体を通した結論付けである。本論文において、銀河団ガス内の温度、密度揺らぎが、温度推定、ハッブル定数推定といった銀河団を用いた宇宙論やその解釈に大きく影響することが初めて示され、また、揺らぎの対数正規モデルを示唆する観測的な結果が初めて示された。本論文で発展させた非一様性のモデルは、今後の様々な観測による銀河団の観測データの解釈、宇宙論モデル検証のさらなる精密化に寄与する。

なお、本研究の一部はKlaus Dolag,Eric D.Reese,須藤靖,北山哲,Elena Rasia,佐々木伸,清水守との共同研究であるが、論文提出者が主体的に分析、検証を行っており、その寄与は十分であると判断される。

よって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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