学位論文要旨



No 124425
著者(漢字) 望月,敏光
著者(英字)
著者(カナ) モチヅキ,トシミツ
標題(和) InAs劈開表面に吸着したFe原子層における二次元スピングラス的ふるまい
標題(洋) Two-dimensional spin-glass like behavior in submonolayer Fe films deposited on InAs cleaved surfaces
報告番号 124425
報告番号 甲24425
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5323号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 勝本,信吾
 東京大学 教授 福山,寛
 東京大学 教授 榊原,俊郎
 東京大学 准教授 川島,直輝
 東京大学 教授 樽茶,清悟
内容要旨 要旨を表示する

[研究動機]

物質中のスピン間相互作用がランダムであり、全ての相互作用を得することの出来る状態が存在しない系では、スピングラスと呼ばれる秩序相がしばしば見られる。スピングラス中ではスピンがランダムな方向を向いたまま周囲との相互作用によって凍結しており、帯磁率の温度依存性における鋭いカスプ状ピークや交流帯磁率の周波数依存性といった特異な物性を示す。スピングラスは解析的に扱うのが難しい系であるばかりでなく、数値計算で取り扱う上でも難問であり、計算物理の分野で盛んに研究されている。スピングラスの研究を通じて生まれた数値計算の手法はタンパク質の構造解析や回路設計の最適化問題といった他分野の計算機科学にも応用されている。

系の次元が下がるとスピングラス秩序は起きづらくなる。再近接スピン間の相互作用だけを考えた正方格子系では有限温度でのスピングラス転移はないものと計算されている。実験的には2 次元のスピングラスは層状物質や薄膜において報告されているが、単原子層における厳密な意味での2 次元スピングラスは報告されていない。

こうした中で、InAs やInSb に吸着させた強磁性原子の単原子層は2 次元スピングラスの探索の舞台として有望である。InAs 表面上のFe 原子の間の相互作用は原子間の位置関係によって符号を変えることが計算によって示唆されており、ランダムに散らばった原子のスピン間相互作用にはフラストレーションが期待される。従って吸着を低温で行うことで吸着物質の拡散や凝集を最小限に留めて吸着原子が半導体表面の上にランダムに散らばった状態を実現すれば、ある被覆率でのスピングラスを期待できると考えられる。

InAs やInSb に吸着させた原子層でのスピングラスの探索においては、その表面に誘起される反転層2 次元電子系が非常に強力なプローブとなる。InAs やInSb といった、バンドギャップの小さい半導体に別の物質を極少量吸着した系においては、その表面に伝導電子系が誘起されることが知られていた。この伝導電子系が1 m2 /Vs 程度の高い移動度を持つ、並列伝導のない完全な2 次元性を持つことを我々は発見している。この2 次元電子系の電気抵抗には表面のスピン状態が何かしらの形で反映されることが期待できたので、この電気伝導測定を通じて表面吸着Fe 原子層のスピングラスの探索を行った。

[実験装置]

我々は劈開面2 次元電子系の電気伝導測定が行うための極めて特殊な形状の試料を開発した。また低温、超高真空中で劈開したインジウム砒素表面に金属を吸着し、さらに強磁場を印加して磁気抵抗測定を行うための専用の試料ホルダー及び冷凍機の開発行った。

図1 に劈開面2 次元電子系の電気伝導測定を行うための試料および測定のための試料ホルダーの低温部分を示す。試料は傷に非常に繊細であるが全ての面に金属端子を配置せねばならない。また作成した試料の表面には絶縁ワニスが極めて薄く塗布されており、並列伝導の発生を防いでいる。

試料ホルダーの心臓部は4 K 部分に取り付けられた試料へ金属を吸着するためのフィラメント及び1 K ポットと熱接触した試料回転台である。これらは直径5 cmの円筒型超高真空チャンバー内にコンパクトに収められている。これを用いて試料の劈開、金属の吸着、そして電気伝導測定を全て低温・超高真空環境を保ったまま行うことが出来る。

[磁気抵抗効果の履歴現象]

我々はFe 吸着誘起のInAs 表面2 次元電子系で2 次元系に平行な磁場下での磁気抵抗効果の履歴現象を観測した。これは0.4 原子層付近の特定の吸着量領域でのみ観測された。2 次元系に垂直に磁場を掛けた場合の磁気抵抗振動の様子などから2次元系のスピン偏極は起きておらず、抵抗変化が表面吸着物質と2 次元系の間のスピン交換散乱によるものであると考えられた。

図2 (a)は0.42 原子層のFe を吸着したInAs 表面2 次元電子系の平行磁場下での磁気抵抗効果である。Fe を吸着して初期冷却した後の試料の対角抵抗率は223.0 Ω であるが、平行磁場を9 T 印加することで抵抗は1.5 Ω 減少した。(b)に拡大して示したように、続く9 T → -9 T の磁場掃引時と更にその後の -9 T → 9 T の掃引時では磁気抵抗効果のピークが0.8 T 程度ずれており、明らかな履歴現象が観測された。(c) で示したのは履歴現象が見られない0.17 原子層の際の平行磁場下の磁気抵抗効果である。Fe 以外の吸着物質を使った場合の平行磁場下の磁気抵抗効果もこれと非常に似ている。 (a) (b)の磁気抵抗効果も大まかな形は似ているが、磁気抵抗効果の値が3 T 程度の磁場下で負になっている。これは0.4 原子層程度のFe 吸着系でしか見られない特徴である。

[磁気抵抗効果の長時間緩和]

履歴現象が見える2 次元系は、磁場の掃引後に時間の対数に比例した非常に遅い緩和を示した。この緩和は常に抵抗の減少として表れ、残留磁気抵抗効果の幅が磁場掃引後、時間と共に増大することを示していた。

[残留磁気抵抗効果の印加磁場依存性]

磁場印加による抵抗の減少は12 K で試料をアニールする事で解消される。これによって試料はFe 吸着後の初期冷却時と同じ状態になる。これを用いて、負の残留磁気抵抗効果の印加磁場依存性の系統的な測定を行った。その結果Ising 異方性に対応する残留磁気抵抗効果の磁気方位依存性が観測された。また低温で磁場を加えるゼロ磁場冷却時よりも12K で磁場を印加して試料を冷却した磁場中冷却時の方が大きな残留磁気抵抗効果が得られることが分かった。これは吸着したFe 層にIsing 異方性があり、またゼロ磁場冷却時よりも磁場中冷却時の方が残留磁化が大きいことを示している。

[結論]

残留磁化がゼロ磁場冷却時と磁場中冷却時で異なる様子を示すことや、残留磁化が長時間緩和緩和することはスピングラスの特徴である。今回Fe 吸着系の磁気抵抗効果でこれに対応する振る舞いが見られた。Fe の抵抗はs-d 相互作用を通じて吸着Fe のスピン状態に影響されている(図5)と見られるので、吸着したFe 原子層は厳密な2 次元性を伴うスピングラスというこれまで見られたことのない特異な磁気秩序を示したと言える。

図1

(左) 劈開面の2 次元電子系の電気伝導測定をするためのInAs またはInSb 試料の形状。バルクウェハを加工して作成する。こちらから見えていない面にも電圧端子2 本が配置されている。こうした特殊形状でありながら表面の原子レベルで傷が無い状態である必要があり、試料作成は非常に難しい。

(右) 試料を劈開し、低温超高真空を保ったまま金属蒸着し、電気伝導測定までを行うための試料ホルダーの低温部の概念図。

図2

(a) 0.42 原子層のFe を吸着したInAs 表面2 次元電子系の平行磁場下での磁気抵抗効果。黒で示した三角のシンボルは磁場の初期印加時の磁気抵抗効果で、赤で示した白抜きの丸は続く9 T → -9T の磁場掃引時、青で示した丸はさらに続く-9 T → 9 T の掃引時の磁気抵抗効果を示す。明らかな履歴現象および3 T前後での負の磁気抵抗効果が特徴。

(b) (a)の拡大図。9 T → -9 T と-9 T → 9T で磁気抵抗効果のピークが0.8 T 程度ずれている。

(c) 同じ試料の、0.17 原子層における平行磁場下の磁気抵抗効果。4 T 以上での正の磁気抵抗効果の形は0.42 原子層の場合と大差無いが、磁気抵抗効果の値は常に正の値を取る。

図3:

(a) 0.42 原子層における、9 T → 0 T の磁場掃引後の磁気抵抗効果の長時間緩和。1.7 K では時間の対数に比例した緩和が見えているが、4.0 Kではそうならない。またいずれも単一時定数の指数減衰ではフィットされない。こうした長時間緩和はスピングラスの残留磁化の長時間緩和に対応する振る舞いである。スピングラスの緩和も単一字定数の指数減衰では表されずない長時間緩和を見せるが、統一的にある関数形になるということもない。

(b) 0.42 原子層の平行磁場下1.5 T における磁気抵抗効果の緩和。磁場を印加してきた方向に関わらず抵抗が減少していく様子が見える。これは表面の磁化と抵抗の値が1:1 だと考えると理解が難しい。吸着Fe 層のスピンが安定状態になることによるスピン交換散乱の抑制か、あるいはスピンの空間的なランダムネスが時間と共に変化し、2 次元電子系のフェルミ波数から離れていくことで散乱が抑えられる効果ではないかと見ているが、決定的な事はまだ分からない。

図4: 0.42 原子層のFe 吸着InAs 表面2 次元電子系における、残留磁気抵抗効果の印加磁場依存性。2 次元面に垂直な磁場を印加した場合に抵抗はもっとも早く減少し、平行な場合はもっとも遅かった。また低温で磁場を印加するよりも磁場中で試料を冷却する方が抵抗の減少幅が大きかった。但し減少幅の飽和値はどの条件でも1.58 Ω であった。

図5: 磁気抵抗効果測定を系統的に行うことで得た、InAs 表面の吸着Fe 原子層の磁気秩序の描像。Fe 原子間は直接及びInAs 原子を2 から4 原子程度経由した間接の相互作用の競合によってフラストレートしておりスピングラス相となる。

Fe 原子の状態はs-d 交換相互作用による散乱により2 次元電子系の電気抵抗に反映される。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は6章からなる。第1章は序論であり論文の構成について簡単に述べている。第2章は研究の背景となるスピングラスに関する物理学研究のレビューである。本研究では低次元スピングラス、また、スピン系に由来する散乱によって電気伝導がどう変化するかが重要な課題であるので、これらを中心としたレビューになっている。第3章は実験の舞台であるInAs表面にFe原子を吸着した系のFe原子の状態およびInAs側の2次元電子系についてのこれまでの研究のレビューである。実験は走査プローブによる表面原子配置研究、および著者の所属するグループの伝導研究が中心であり、第1原理バンド計算、同構造エネルギー計算の結果も紹介されている。

第4章以降が、本研究の詳細な記述と議論である。第4章では、本研究に特有の実験技術が詳述される。低温でInAsの清浄表面を得るための試料の準備方法、電極の取り方、Feの蒸着方法など。一連の技術は著者所属の研究グループで継続して開発してきたものであり、論文提出者(著者)一人の創始になるものではないが、著者が開発の中心人物の一人ではあった。特にFeの蒸着に関する技術開発は主に著者によるものであり、また細かな改良を重ねて質の良いデータを取る努力をすることで、本論文の中心課題とは直接関係ないが、このような系で初めて明確な量子ホール効果を観測することに成功している。

第5章が本論文の中心となる、零磁場近辺での履歴を伴う磁気抵抗に関する実験結果の詳述である。Fe原子で表面修飾をして得られるInAs2次元電子系に垂直に磁場を印加するとシュブニコフ-ド・バース磁気抵抗振動が得られ、ラシュバ効果による変調が生じている。以上は、修飾原子によらない性質であり、Fe原子による系特有の現象は、(1)零磁場冷却と電子系に平行な磁場を循環後の電気抵抗の差(以下これをΔρとする)、(2)零時場付近での磁気抵抗の履歴現象、として現れることを、本論文において初めて見出している。これらを中心とする伝導現象を調べ、その原因を探ることが本論文のテーマである。

(1)のΔρの零磁場抵抗に対する比をFeの被覆率に対して調べると、被覆率0。3付近から急速に現れる。この被覆率は(110)表面の最安定位置が満充填され次のサイトにFe原子が付き始めるところである。移動度や2次元電子濃度の変化からもこのことが支持される。最安定位置のFe原子系は反強磁性が安定と計算されているが、別なサイトにFe原子が付くことでスピン間相互作用がランダムになりフラストレーションが生じることが期待される。また、温度を一旦12Kまで上昇し、零磁場で再度冷却すると抵抗値は元の値に戻り(アニール現象)、アニール温度がこれより低いと抵抗値は中間的な値に戻る。

一方、(2)の履歴現象も同じ条件で現れる。この現象に特徴的なのは、循環磁場を経験することで、電気抵抗に緩やかな緩和が生じることである。磁場循環の後に零磁場で電気抵抗を測定すると、1000秒オーダーでのゆっくりとした抵抗減少が観察され、この抵抗減少は、3桁にわたって(測定した限り)時間の対数に比例していることを見出している。

以上の結果から、著者は、可能なモデルとして、Fe原子スピンの2次元スピングラス形成を挙げている。履歴を伴う磁気抵抗は、非磁性の修飾原子による2次元電子系では見られないため、Fe原子スピンに由来するものと考えられる。低温での温度循環によるアニールや、時間の対数に比例する緩和現象も、2次元スピングラスに由来するものであるとして矛盾しない。

ただし、スピングラス以外の可能性を排除はできていない。すなわち、超常磁性やクラスター強磁性でも同様な現象が生じる可能性がある。また、帯磁率と電気抵抗とをつなぐ機構としてFeスピン-2次元電子スピン間の交換相互作用を考えているが、この機構によってスピングラス形成が観察されたような磁気抵抗にどのようにして現れるかも説明されていない。

最終第6章では、以上の結果から、更に仮説を確認し、理解を深めるためにはどのような実験と理論的探索を行うべきかについて簡単に述べられている。

2次元のスピングラスは物理的興味から長い間実験的探索が試みられているが、未だ確定的な結果は得られていない。本論文の結果も確証を得たとするには不十分であるが、大変難しい実験を高い精度と再現性が得られる状態にまで技術開発を行い、曲がりなりにもスピングラスが最も可能性の高い仮説と言えるまでに質を高めたことは2次元スピン系、また表面2次元電子系の研究にとって大きな一歩であると評価できる。

なお、本論文の第5章は、岡本徹、枡富龍一各氏との共同研究であるが、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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