学位論文要旨



No 124477
著者(漢字) 細谷,和正
著者(英字)
著者(カナ) ホソヤ,カズマサ
標題(和) ホフマン-ピリジン錯体からの新規機能性錯体への展開
標題(洋) Development of a new functional complex based on the Hofmann pyridine complex
報告番号 124477
報告番号 甲24477
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5375号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 錦織,紳一
 東京大学 教授 西原,寛
 東京大学 教授 塩谷,光彦
 東京大学 教授 上田,寛
 東京大学 准教授 島田,敏宏
内容要旨 要旨を表示する

1 序

Hofmann pyridine 錯体Fe(py)2Ni(CN)4 (py = pyridine)は、金属錯体をホストとするHofmann型包接体の研究過程において合成された錯体であり、平面四配位のNi(II)と八面体六配位のFe(II)がシアノ基を介して交互に配列し、Fe(II)にpy がtrans 位で配位した二次元シート構造の積層からなることが1977 年に報告された。Hofmann 型包接体においては類似の二次元シートの積層間が包接空間として機能するが、Hofmann pyridine 型錯体は積層が密に詰まり包接空間が失われているため包接体のホストとはならない。1996 年に、Fe(py)2Ni(CN)4 が200K 付近で高スピンと低スピン間のスピンクロスオーバー(SCO)を転移として示すことが報告された。本研究は、このHofmann pyridine 錯体Fe(py)2Ni(CN)4 を構造発展させ、SCOに包接機能を付加して新規の機能性錯体を得ることを目的とした。構造発展は、Fe(py)2Ni(CN)4 の二次元シート構造の要である[Ni(CN)4]を[Zn(CN)4]や[Cd(CN)4]に置き換える手法、py 配位子を他の配位子に置き換える手法の二つの手法により行った。

2 Mn(py)2M(CN)4 (M = Ni, Zn, Cd)

第一の方法、四面体四配位構造の[M(CN)4] (M = Zn, Cd)によって平面四配位構造の[Ni(CN)4]の置換する手法は、全体の構造を二次元構造から三次元構造へ発展させて協同効果の増強をはかりスピン転移のあり方を変えようとする狙いがある。しかしながら、さまざまな試行の結果Fe(py)2M(CN)4 (M = Zn, Cd)の合成は達成されなかった。そこで、合成実験中に結晶で得られた、Fe(II)をMn(II)に置換したMn(py)2M(CN)4 (M = Ni, Zn, Cd)の結晶構造とSCO を検討した。M = Ni の場合にはHofmann pyridine 錯体Fe(py)2Ni(CN)4 と同形の二次元骨格、M = Zn およびCd の場合には四面体四配位の[M(CN)4](2-)にMn(II)が連結したHofmann-Td pyridine 錯体の三次元骨格であった。磁化率を測定したところ、2 K から300 Kの間でCurie-Weiss 常磁性を示し、SCO は認められなかった。Mn(II)が高スピン状態であることから、シアノ基やpy という強い配位子を作用させたにもかかわらず、Mn(II)においては配位子場強度がSCO を起こすには足りないことがわかり、やはりSCO サイトとしてFe(II)が適していると確認された。

3 Fe(4,4'-bipyridine)Ni(CN)4・nH2O

第二の構造発展として、Fe(py)2Ni(CN)4 において二つの軸配位子py を架橋配位子として機能する4,4'-bipyridine(4,4'-bpy)で置換して二次元のシート構造同士を連結させて三次元化すると同時に包接空間を作る試みを行った。その結果、Fe(4,4'-bpy)Ni(CN)4・2.5H2O(以下1 と表記)の粉末を、モール塩、4,4'-bpy ならびにK2[Ni(CN)4]・H2O から得て、赤外吸収スペクトル、元素分析(CHN 元素分析ならびにキレート滴定)、熱重量分析、粉末X 線回折パターンなどのキャラクタリゼーションを行った。1 は粉末状でしか得られないため、構造情報を得る目的でNi K-edge およびFe K-edge EXAFS スペクトルの測定を行った(比較対象としてFe(py)2Ni(CN)4 の測定も同時に行った)。測定により得られたEXAFS 関数のフーリエ変換を図1 に示す。1 とFe(py)2Ni(CN)4 のフーリエ変換は類似しており、1 のNi サイトならびにFe サイト近傍の構造はFe(py)2Ni(CN)4 のそれに近い構造であると考えられる。EXAFS の結果と上記の分析から、1 は平面四配位のNi(II)と八面体六配位Fe(II)を含み、このNi(II)とFe(II)がシアノ基を介し交互に連結した二次元シート構造が4,4'-bpy によりFe(II)に配位することで連結された連続三次元フレームワーク状錯体であると推測された。

橙色の1 はエタノール蒸気中に置くことにより濃橙色(2)に、アセトン蒸気中に置くことにより黄色(3)に変色するベイポクロミズムを示した。2 の拡散反射スペクトルにおいて全体的な吸収強度の増加、3 においては460 nm 付近の吸収の短波長側へのシフトが観測されている(図2)。2 および3 は空気中で不安定であり、すぐに橙色の1 に戻る。1 から2 ならびに1 から3 への色変化において錯体の重量が増加することから、1 は包接機能を持ちフレームワーク内にエタノール、アセトンの分子を取り込むものと考えられる。また、2および3 を液体窒素で冷却したところ、2 の濃橙色(3 は黄色)から赤紫色へのサーモクロミズムが観測され、温度変化によるSCO が示唆された。

磁化率測定により得られた1, 2, 3 のχT-T プロットを図3 に示す。1 はSCO を示さないが、2 は160 K から220 K の範囲においてヒステリシスを伴った二段階のスピン転移を、3は2 に比べ低温(120 K 付近)で二段階のスピン転移を示した。2、3 とも、転移は完全に起こるわけではなく、低温で磁化が観測され高スピンのFe(II)が残っている。このことから、2 および3 にはSCO を起こすFe(II)サイトとSCO を起こさないサイトが共存していると思われる。

室温および77 K において1, 2, 3 の、(57)Fe メスバウアースペクトル測定を行った。1 と2で得られたスペクトルを図4 に示す。1, 2, 3 の各スペクトルにおいて二種類のFe(II)サイトに対応する二種類のシグナルが観測された。2 と3 の場合、そのうち強度の大きいシグナルにのみスピン転移に対応する線形変化がみられた。対して、強度が弱く四極子分裂の大きいシグナルは1, 2, 3 のいずれにおいても線形変化はみられなかった。この強度の弱いシグナルの存在は、磁化率測定で転移が不完全であったことに対応しており、その由来は構造欠陥と推測される。

1 が有機物を取り込むことでSCO が発現する理由についてははっきり分かっていないが、3 のIR スペクトルから取り込まれたアセトンには水素結合が存在することが示唆されている。このことから取り込まれた有機物が水素結合を介しFe(II)の局所構造・配位子場に変化を与えるなど、有機物が入り込むことで-種のケミカル・プレッシャーが1 のフレームワーク錯体にかかり協同効果が増強されスピン転移発現に繋がっているものと推測される。

4 まとめ

本研究では、Hofmann-pyridine 錯体Fe(py)2Ni(CN)4 を構造発展させてMn(py)2M(CN)4 (M =Ni, Zn, Cd)ならびにFe(4,4'-bipyridine)Ni(CN)4・nH2O(1)を得た。Mn(py)2M(CN)4 (M = Ni, Zn,Cd)は、既報の錯体と同じ結晶構造で、SCO を示さなかった。これに対し、1 ではベイポクロミズム現象および有機物を取り込むことによるスピン転移が発現することを見出した。そのスピン転移の様相は、有機物の種類に依存した。本研究では、報告のほとんどないベイポクロミックFe(II)錯体を見出したのに加え、包接現象とスピン転移に相関を持たせ、有機物ゲストの有無によりスピン転移挙動を制御することに成功した。1 にみられた蒸気応答性は材料の機能性を考える上で新しい可能性を提示するものと期待される。揮発性有機化合物の検出等、応用という点で興味が持たれ、新規材料を模索するためのモデル物質としての役割を担うと考えられる。

図1 EXAFS 関数のフーリエ変換

図2 拡散反射スペクトル

図3 1 - 3 のχT-T プロット

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、ホフマン-ピリジン錯体と呼ばれる遷移金属錯体からのスピンクロスオーバーと包接機能の結びつきによる新しい物性をもつ金属錯体の開発を主題とし、4章からなる。第1章は、序章であり、スピンクロスオーバーおよび包接化合物などの一般論と現在までの研究背景について、また、本研究の出発点となるホフマン-ピリジン錯体の結晶構造と物性について述べるとともに、本研究の目的および二つの開発手法が提示されている。第2章では、第1の開発手法に基づき合成されたマンガン(II)を含む3種類のホフマン-ピリジン錯体類似の錯体の結晶構造とスピンクロスオーバーの可能性について述べられている。第3章が、本論文の主要部となる。ここでは、第2の開発手法に基づいて開発された新たな鉄(II)錯体の合成、キャラクタリゼイション、物性測定、およびその結果発見された有機物ゲストの吸蔵に伴うベイポクロミスム現象、また吸蔵ゲスト種に依存するスピン転移、そしてスピン転移における特異な同位体効果とそれらに対する考察が述べられている。最後の第4章は、全体を通してのまとめである。

既に、金属錯体化学の分野において、スピンクロスオーバーや包接現象の個々の物性は、それほど珍しいものではない。複数の特性を持ち、それが相関して新たな物性を示す錯体の開発が現代的な研究目標となっている。本論文で述べられる鉄錯体は、この線に沿うものであり、その中でもユニークな特性を持つ。開発の出発点としたホフマン-ピリジン錯体が温度に依存したスピンクロスオーバーを示すことは既に知られていた。一方、この錯体は、金属錯体ホストのなす古典的な包接化合物であるホフマン型包接体の類縁化合物でもあった。しかしながら、ホフマン-ピリジン錯体にはホストとしての機能はなく、ゲストを吸蔵することは出来ない。そこで、一部の金属イオンの交換による構造改造と配位子交換による構造改造の二つの手法で、スピンクロスオーバー特性を保存したまま包接能を付加し、吸蔵するゲスト種の変化による物性発現の制御を狙ったのが本論文の主目的である。結果として第1の方法は達成できなかったが、第2の方法はうまく機能した。これは、単座のピリジンを架橋配位子4,4' -ビピリジンで置き換え、構造の3次元化とともにゲストのための包接空間の確保を行うというものである。合成された鉄錯体そのものは、スピンクロスオーバーを示さなかったが、エタノールやアセトンといった有機物の蒸気への接触で、それらの分子をゲストとして吸蔵すると色が変わるベイポクロミスム現象を示し、さらに、このゲストを吸蔵した錯体はヒステリシスを伴うスピン・クロスオーバー(スピン転移)を示した。その転移の様相は、ゲスト種によって異なり、エタノールでは2段階の、アセトンでは1段階の転移であった。すなわち、この鉄錯体は、化学的な外的条件による色変化とスピンクロスオーバーのON、OFFが可能で、さらにその発現の仕方まで制御可能という多重機能錯体である。ゲストに依存したスピンクロスオーバーの変化を示す錯体は、今までにもいくつか例はあるが、ベイポクロミスムを示し、かつスピンクロスオーバーの発現様式をゲスト種の交換で簡単に変えられる例はおそらく初めてであろう。残念ながら、結晶性の問題により、結晶構造が不明で詳細なメカニズムの解明には至っていないが、EXAFS、メスバウアスペクトル、粉末X線回折パターン等から可能な限りの構造情報を得て考察を行っている。元の鉄錯体は3次元的なフレーム構造を持ちながらも構造柔軟性があり、これがスピンクロスオーバーの発現を妨げている。しかし、ゲストが内包されることにより一種のケミカル・プレッシャーがフレーム構造にかかり剛性が増し、これが協同的なスピンクロスオーバーの発現につながっていると考察されている。また、重水素化したアセトンを吸蔵したものにおいて、転移のヒステリシス幅が約2.5倍に拡大した。通常、重水素化の効果は転移点の上昇を引き起こすが、ヒステリシス幅の大幅な拡大は今までに例が無く、新しい知見である。

以上の成果は、金属錯体の物性化学の分野に新たな知見をもたらし、今後のこの分野の展開にも影響を与えるものであり、十分の学術的内容と意義を持っていると認められる。なお、本論文第2章は、関谷亮、錦織紳一との、第3章は高橋正、岡本芳浩、錦織紳一との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験、分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク