No | 124483 | |
著者(漢字) | 鈴木,宏明 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | スズキ,ヒロアキ | |
標題(和) | 質量分析法及び計算化学による糖鎖構造解析法の研究 | |
標題(洋) | Studies on Structural Analyses of Carbohydrates by Mass Spectrometry and Theoretical Calculation | |
報告番号 | 124483 | |
報告番号 | 甲24483 | |
学位授与日 | 2009.03.23 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(理学) | |
学位記番号 | 博理第5381号 | |
研究科 | 理学系研究科 | |
専攻 | 化学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 糖鎖は発生、免疫、癌化など多様な生命現象に関わる生体物質であり核酸、タンパク質に次ぐ第三の生命鎖と呼ばれ、精力的に研究が進められている。糖鎖機能の解明のためにはその構造解析が必須であるが、糖鎖構造の複雑さにより解析が困難であることに加えて、生体糖鎖は通常極微量で機能するものが多く核酸やタンパク質のような増幅が不可能であることから、高感度かつ簡易な糖鎖構造解析法が望まれている。近年のエレクトロスプレーイオン化法(ESI)、マトリックス支援レーザー脱離イオン化(MALDI)等のソフトイオン化法の発展により極微量の生体高分子の気相イオン化が可能となったことに加え、タンデム質量分析法で得られるMS/MS, MSn 等の断片化スペクトルの解析によりその構造解析が可能であるため、質量分析法は高感度かつハイスループットな糖鎖構造解析法として期待されている。そこで発表者は博士課程において、質量分析法による糖鎖構造解析の汎用性向上を目指し、効率的イオン化、及び断片化反応機構の解析について研究を行った。 【MALDI による糖鎖の効率的負イオン化】 発表者は修士課程において、負イオンMALDI 質量分析法による系統的な糖鎖構造解析法を確立した。安定な負イオンである糖鎖のクロリドイオン付加分子[M+Cl]-を用いる本分析法は、正イオン解析とは異なる構造情報を得られることから糖鎖構造解析に有用であるものの、イオン化効率が低く実際の解析のボトルネックとなっていた。そこで[M+Cl]-に着目し、その効率的生成について検討した。 マトリックスとしてβ-カルボリンの一種であるハルミン(Figure 1)を用い、塩化アンモニウムを添加することで[M+Cl]-の生成を行った。添加する塩化アンモニウムのハルミンに対する当量を変化させて種々のオリゴ糖鎖(グルコオリゴ糖、ラクトオリゴ糖、オリゴキトサン)のイオン化効率を算出した結果、塩化アンモニウムの添加量に相関してイオン化効率が増加し、ハルミンに対して4 当量以上加えるとイオン化効率がほぼ一定になる事が分かった(Figure 2a)。これは従来報告されているイオン化効率の30 倍以上に相当する。一般的に過剰な塩類の共存はイオン化を阻害することが知られており(イオン抑制)、添加する塩類は試料分子に対して当量程度添加した場合に最も効果的とされている。しかしながら[M+Cl]-生成条件ではマトリックスに対して当量以上の過剰な塩添加においてもイオン化効率が増加しており、添加塩がマトリックスに作用していることが示唆された。 マトリックスの状態変化を解明するため、ハルミン-塩化アンモニウム共結晶を調製し、その固体表面の蛍光およびUV 吸収スペクトル測定により共結晶の状態変化を調べたところ、結晶中のハルミンが塩酸塩を形成していることが分かった。ハルミン塩酸塩のUV 吸収スペクトルはハルミンと比べて長波長側にシフトしており(Figure 2b)、窒素レーザー(337 nm)の吸収効率が増加することでイオン化効率の増加に寄与しているものと推察される。他のマトリックスについても同様の塩化アンモニウム添加実験を行った結果、ハルミン塩酸塩が最も効率的負イオン化が可能なマトリックスであることが分かった。 【負イオン化糖鎖断片化機構の解析】 質量分析法による糖鎖構造解析において、断片化スペクトルの正確な帰属、解釈のためには断片化反応機構の解明が不可欠である。負イオン化糖鎖の断片化解析は異性体の識別などの構造解析に有用な手法であるものの、その断片化反応については未解明な点が多く反応機構の研究が望まれている。そこで実験、理論的手法の併用により、負イオン化糖鎖の断片化反応機構について解析を行った。 異なる断片化パターンを与えることが既知であるルイス型糖鎖の構造異性体Lewis a (Lea)とLewis X (LeX)を選び、解析した。両異性体のクロリドイオン付加分子の断片化スペクトル(Figure 3)において、分岐GlcNAcの3 位と4 位のグリコシド結合の開裂により各異性体に特異的な断片化パターンが観測され、断片化イオンの強度比からグリコシド結合の安定性はLea;3 位 < 4 位、LeX;4 位 < 3 位であった。反応機構に関わる官能基を調べるためルイス糖鎖誘導体の断片化スペクトルとの比較を行ったところ、GlcNAc アノマー位プロトン及びアセトアミド基が3 位グリコシド結合の開裂反応の進行に必要であることが分かった。 一般的にアニオン付加分子の断片化は、アニオンによる脱プロトン化を経て結合開裂反応に至ると考えられていることから、脱プロトン化を経由する機構について計算したところLea、LeX 共にグリコシド結合開裂の活性化エネルギーは3 位 < 4 位となり、LeX の断片化スペクトル強度比を説明できないことが分かった。そこで、脱プロトン化分子を経ない機構として、3 位断片化(Z-type)反応では、アセトアミド基の窒素原子が1 位炭素原子を攻撃することによる3 位糖残基の脱離の後に脱プロトン化反応が進行すると考えた(Scheme 1a)。一方、4 位断片化(C-type)反応は塩化物イオンによるアセトアミド基の水素引き抜きと同時に4 位のグリコシド結合が脱離する機構を推定した(Scheme 1b)。これらの機構を検証したところ、断片化イオン強度比と矛盾しない活性化エネルギーが得られた。この結果はZ-type 断片化において糖残基の断片化が脱プロトン化よりも先に進行する可能性を示唆しており、従来想定されていた反応経路とは異なる経路の存在を提示するに至った。 【正イオン化糖鎖断片化機構の解析】 質量分析法による糖鎖構造解析は、イオン化が容易なナトリウムイオン付加分子[M+Na]+の解析が数多く報告されており、これらの正イオン化糖鎖の断片化に関する一般性のある法則の確立は構造解析に有用であると考えられる。そこで一般性のある断片化法則の確立を目指し、様々なグリコシド結合の開裂反応について量子化学計算(HF/6-31G(d))による解析を行い、衝突誘起解離(CID)実験により得られた各グリコシド結合の安定性と比較した。 グルコース(Glc), ガラクトース(Gal), マンノース(Man)のグリコシド結合について、2位のヒドロキシ基の攻撃による反応機構(Scheme 2)を想定し計算を行った。解析の一例として、Glcα1-4Glc, Glcβ1-4Glc の断片化反応のエネルギープロファイル (Figure 4)を示す。計算の結果Glc, Gal のグリコシド結合開裂に要する活性化エネルギーはα-結合の方が α-結合よりも低かった。この理由として、α-結合では開裂反応の遷移状態がアノマー効果により安定化されるためであると考えられる。一方、Man1-4Man のグリコシド結合の安定性はβ-結合 < α-結合と関係が逆転した。この現象はα-Man 結合が1,2-trans-glycoside であることから、α-Man 結合の開裂反応は遷移状態において歪んだ配座を経て進行するため、活性化エネルギーが増加することに起因する。 次に、断片化反応の活性化エネルギーとナトリウムイオン付加による糖鎖イオンの安定化エネルギー(Δ(298))との相関を調べた(Figure 5)。相関図からナトリウムイオンとの錯形成による安定化エネルギーはグリコシド結合断片化反応の活性化エネルギーと一次の相関を有していた。さらに、1,2-trans-glycoside (β-Glc, β-Gal,α-Man)は1,2-cis-glycoside (α-Glc, α-Gal, β-Man,α-Fuc)よりも反応の活性化エネルギーが高く、安定なグリコシド結合であることが分かった。この理由は先に考察したように、1,2-cis-glycoside ではアノマー効果によりグリコシド結合開裂反応の遷移状態が安定化され、活性化エネルギーが1,2-trans-glycoside の遷移状態よりも低下するためである。一方β-GlcNAc, β-GalNAc の場合、立体化学的な制約によりScheme 2 に示す反応機構とは異なり、6 位ヒドロキシ基が関与する別種の機構で開裂反応が進行するため、開裂反応の活性化エネルギーはα-GlcNAc, α-GalNAc よりも低かった。 シアリル結合(NeuNAcα2-3Gal, NeuNAcα2-6Gal)についても解析を行ったところ最も不安定な結合であることが分かった。この要因として、シアル酸残基に含まれるカルボン酸由来の酸性プロトンが反応機構に関与しているため、開裂反応が進行しやすいと推察される。また、1-6 結合の特徴として他の結合よりも断片化反応の活性化エネルギーが高い傾向があった。1-6 結合は柔軟な立体配座を取ることが可能であり、ナトリウムイオンに対する酸素原子の配位数が増加することで、他の結合よりも大きく安定化を受けるためであると考えられる。 計算により求めた活性化エネルギーの序列はα-Man > β-Gal > α-GalNAc > β-Man (Manβ1-4GlcNAc) > α-Gal >α-Man (Manβ1-4Man) > β-GalNAc 〓 α-Fuc > α-NeuNAcとなり、種々のオリゴ糖鎖のCID実験から導出されたグリコシド結合の安定性と一致することが分かった。この結果はモデル化二糖による断片化反応の解析が、より複雑な構造を有する糖鎖の断片化の解析に適用可能であることを示している。 【結論】 本研究において、負イオンMALDI 質量分析法による糖鎖解析においてイオン化効率が低かった問題をマトリックスへの塩化アンモニウム添加により飛躍的に改善することができた。このイオン化条件を適用して得られた負イオン化糖鎖の断片化反応について実験および理論的手法を併用して解析を行い、従来考えられていた反応機構とは異なった機構の存在を提示した。さらに同様の手法を用いて種々のグリコシド結合を有する正イオン化糖鎖の断片化反応機構解析を行い、複雑糖鎖の解析にも応用可能な一般性のある断片化規則を確立した。 Figure 1. ハルミンの構造 Figure 2. 塩化アンモニウムの添加量に対するイオン化効率のプロット(a)、ハルミン、ハルミン塩酸塩のUV 吸収スペクトル(b) Figure 3. Lea (a), Le(X) (b)のESI-CID スペクトラと断片化の帰属 Scheme 1. Z-type (a)、C-type (b)断片化の推定反応機構 Scheme 2. Glcα1-4Glc のグリコシド結合開裂の推定反応機構 Figure 4. Glcα1-4Glc (a), Glcβ-4Glc (b)の断片化反応のエネルギープロファイル(kcal/mol) Figure 5. ナトリウムイオンに対する安定化エネルギーとグリコシド結合開裂反応における活性化エネルギーの相関図 | |
審査要旨 | 糖鎖は発生、免疫、細胞間相互作用など多様な生体機能を担う重要な鍵物質であり、生命科学分野において核酸、タンパク質に次ぐ第3の生命鎖として精力的に研究が進められている。この一方で糖鎖構造の生体内機能解明のために必須であるその構造解析は核酸、タンパク質と異なり複雑な分枝様式を有するため、その方法論は確立されていない。この中で、生体から得られる機能性糖鎖は極微量であることが多いことにより、高感度な分析手法として質量分析法による糖鎖構造解析の研究が広く試みられているが、汎用性使用には至っていない。本論文は質量分析法の基礎的な要素であるイオン化と断片化反応に着目し、本法によるハイスループットな糖鎖構造解析法を目指した基盤的な研究、及び得られた知見について記述されており、本論1~4章から構成されている。 本論文第1章は序論であり、質量分析法による糖鎖構造解析の概略について述べられている。特に、本論文提出者が修士課程までに研究を進めたマトリックス支援レーザー脱離イオン化質量分析法(MALDI-MS)による負イオン糖鎖構造解析法、およびここでの糖鎖構造解析における断片化反応機構解析の意義について詳細に記述されており、本研究における着眼点、独創性、および糖鎖構造解析への寄与が明確になっている。 第2章では、負イオンMALDI-MSにおける糖鎖解析の欠点となっていた低イオン化効率の克服について述べられている。ここでは糖鎖のクロリドイオン付加分子[M+Cl]-の効率的生成を目指し、一般的な負イオン生成用マトリックスとして近年報告されたハルミンにクロリド源としての塩化アンモニウムを加えて条件検討を行った結果、マトリックスに対して塩を過剰に加えることで、従来の報告に比べ30倍程度の効率的イオン化を達成した。これは、過剰な無機塩共存下においてイオン化が抑制されるという陽イオン化での従来の常識に反する現象であったためその詳細を解析したところ、塩添加によるマトリックスへのレーザーエネルギー移行の促進によることを示した。これは負イオンMALDI-MSにおける低イオン化効率を解消し、糖鎖構造解析の汎用性向上に寄与するものである。 第3章及び第4章では質量分析計内における正、負イオン糖鎖の断片化反応機構について、実験及び量子花学計算を併用して解析している。第3章では従来研究例が少なかった負イオン糖鎖の断片化反応機構解析について、生体糖鎖であるルイス型糖鎖をモデルとして行った詳細が述べられている。ここでは断片化反応機構に関与する官能基を、これを除去した構造改変体の断片化スペクトルとの比較を行うことで特定し、この知見を基に反応機構を推定し、量子化学計算により検証している。この結果、従来考えられていたものとは異なった断片化機構の存在を提案するに至り、実験と計算化学によるアプローチが合理的な反応機構解析に有用であることを示している。 第4章では従来実験データの多い正イオン糖鎖、特にナトリウムイオン付加分子[M+Na]+に注目し、種々のグリコシド結合の一般的な断片化規則の構築を目指した反応機構解析について記述されている。本章では主要な生体糖の断片化反応を網羅的に解析するため、様々なグリコシド結合を有するモデル2糖に関し、断片化反応を解析している。量子化学計算によって得られたモデル2糖のグリコシド結合の安定性は、多様な糖鎖の断片化実験によって導出されたグリコシド結合の安定性と良い一致を示しており、この解析がより複雑な糖鎖の断片化が説明可能となることを示した。本研究で導出したグリコシド結合の安定性を基に断片化スペクトルのシミュレートが可能となり、質量分析法による構造未知糖鎖の迅速な構造解析への寄与が期待される。 以上本論文の研究内容は、MALDI-MSによる効率的負イオン化と正、負イオン糖鎖の断片化反応の解析を行ったものであり、いずれも質量分析法による糖鎖構造解析の汎用性向上に寄与するものと認められる。本研究課題立案の一部については橘和夫及び福井一彦(産業技術総合研究所生命情報工学研究センター)との協同によるが、研究実施計画の構築と研究結果への考察は全て論文提出者自らが行っており、研究成果の本論文への寄与については高く評価できる。よって本論文提出者である鈴木宏明は博士(理学)の学位を授与されるに値するものと認める。 | |
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