学位論文要旨



No 124484
著者(漢字) 長谷川,雄大
著者(英字)
著者(カナ) ハセガワ,ユウタ
標題(和) 鉄二価スピンクロスオーバー錯体の光異性化による光磁気効果
標題(洋) Photomagnetic Effects through Photoisomerization in Iron(II) Spin Crossover Complexes
報告番号 124484
報告番号 甲24484
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5382号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西原,寛
 東京大学 教授 大越,慎一
 東京大学 准教授 島田,敏宏
 東京大学 准教授 狩野,直和
 東京大学 准教授 錦織,紳一
内容要旨 要旨を表示する

本論文は鉄二価スピンクロスオーバー錯体の光異性化による光磁気効果について記述したものであり、以下の五章から構成される。

【第一章】緒言

光磁気効果とは、光誘起により物質の磁気的な性質が変化することである。将来的な分子素子としての応用を目指した金属錯体の光磁気効果に関する研究が盛んに行われている。その研究対象の一つであるスピンクロスオーバー(SCO)錯体は、外場刺激により高スピン、低スピン状態という二つの電子状態間の変化を誘起する物質である。SCO錯体自体の光吸収を利用した光磁気効果は魅力的であるが、両スピン状態間を安定に変換するには固体.低温条件を必要とするのが現状である。この制限を克服可能な方法として、フォトクロミック部位をSCO錯体に導入する方法があることに筆者は注目した。フォトクロミック分子の多くは異性体間に大きな活性化エネルギーを持つため、光異性化前後の状態を室温付近で保つ。従って、配位子の異性化により両スピン状態間の自由エネルギー差を変化させることにより、スピン状態を室温付近で制御することができる(Ligand-ddven light-induced spin change、LD-LISC)。この原理に基づいた研究例は稀有で、鉄(II)錯体で異性化に伴う磁気量変化を調べられた例は無い。上記の背景から、筆者は本博士課程において、【第二章】アゾベンゼン部位の光異性化を利用した可逆的な光磁気効果、【第三章】スチルベン部位のcis⇒trans片道光異性化を利用した光磁気効果、の2テーマについて研究を行った。また、【第三章】における錯体は、様々な結晶溶媒を含んで結晶化したため、これら結晶のスピン状態およびSCO挙動について検討した。更に固体状態におけるcis⇒trans片道光異性化について検討を行い、その結果固体状態におけるLD-LISCに基づく光磁気変換を達成した【第四章】。

【第二章】アゾベンゼン部位の光異性化を利用した可逆的な光磁気効果

アゾベンゼンの示す、多色光による可逆なtrans⇔cis光異性化を利用した磁気変換を目指し、ピリジルベンズイミダゾールにアゾベンゼンに導入した配位子、trans-azopybim(1)、およびその鉄(II)錯体、【Fe(1)31(BF4)2.3H20(図1)を合成.同定した。[Fe(1)3](2+)は結晶性に乏しく、また溶液中において様々な配位異性体を持つことが示唆された。

[Fe(1)3](BF4)2-3H2Oはアセトン中スピン平衡挙動を示し、室温付近に転移点を持つ(T(1/2)=279K)ことから、室温における光磁気効果が期待される。この錯体はアセトン中、355、440、550nmに吸収を持ち、それぞれπ-π*遷移、n-π*遷移、1MLCT遷移に帰属される。365、436、546nmの光照射により生成するcis体の割合は、光定常状態(PSS)においてそれぞれ33、13、13%であると見積もられた。

室温における、光異性化に伴う磁化率変化をEvans法を用いて調べたところ、磁化率は365nmの照射により増加、続く436nmの照射により減少し、繰り返し応答が観測された(図2)。cis体への異性化に伴うπ*軌道準位の上昇が電子逆供与能の低下を招き配位子場を弱めたため、365nm照射により高スピン状態が増加したと考えられる。

【第三章】スチルベン部位のcis⇒trans片道光異性化を利用した光磁気効果

スチルベン類の1電子還元体はcis⇒trans片道異性化を示す。この種の異性化は光電荷移動過程においても同様の機構に基づき誘起され得ると考えられる。そこで、スチルベンを2,6-ビス(ピラゾイル)ピリジン(dpp)に導入した配位子、trans-dpp(2)、cis-dpp(3)およびそれら鉄(II)錯体、[Fe(2)2](BF4)2.acetone、【Fe(3)2】(BF4)2について検討した。これらの合成は図3に従い行った。

配位子2、3はアセトン中、S1吸収帯励起にあたる313nmの光照射によりスチルベンの異性化に典型的なスペクトル変化を示した。2のPSSにおける異性化率は70%であった。このように配位子がtrans⇔cis光異性化を示すのに対し、鉄(II)錯体の可視光照射による光異性化挙動は顕著に異なっていた。[Fe(3)2】(BF4)2は新たな吸収帯を極大吸収波長450nmに持ち、1MLCT遷移に帰属される。図4のように、[Fe(3)2】(BF4)2は436nmの光照射時においてスペクトル変化を示し、PSSにおけるスペクトルは[Fe(2)2](BF4)2と一致した。また、[Fe(2)2](BF4)2に436nmの光を照射してもスペクトル変化は無かった。以上から[Fe(3)2](BF4)2は436nmの光照射によりcis⇒trans片道光異性化を示すことが分かった。

[Fe(3)2](BF4)2の[Fe(2)2](BF4)2への光異性化に伴う磁化率変化をEvans法を用いて調べたところ(図5)、照射前後を比べると高スピン状態の割合に転移点付近で15%ほど違いがあることが分かった。照射前後のSCOに対する熱力学パラメータは温度可変紫外.可視吸収スペクトルから得たそれぞれの熱力学パラメータと良い一致を示した(表1)。

【第四章】[Fe(2)2](3F4)2および[Fe(3)2](BF4)2の固体状態におけるスピン状態、SCO挙動および光異性化挙動

・[Fe(2)2](BF4)2の固体状態におけるスピン状態およびSCO挙動

2のような styryl 基程度のサイズの置換基をdpp配位子に有する鉄(II)錯体においては、dpp配位子同士のπ-πスタッキングが阻害されるため、結晶溶媒を含みやすくなることがこれまでの報告から予想される。このことは、同じ構造式の錯体でも結晶化条件により複数の溶媒和結晶が得られることを示唆する。固体状態におけるSCO現象の構造一磁気相関に関する知見は、 LD-LISC による光磁気変換を目指す際重要と考えられる。

そこで[Fe(2)2](BF4)2を種々の溶媒から再結晶したところ、 acetone (空間群:P21/c)、3×MeCN.H20(P-1)、4×MeNO2(P-1)、 2×propylene carbonate (C2/c)、0.5×diethyl ether (P-I)を含む単結晶を得ることに成功した。

スピン状態は配位環境の平均配位結合長から決定できる(図6)。スピン状態は溶媒の種類により異なり、室温付近まで低スピン状態を保つものから、低温まで高スピン状態を保つものまで様々であった。これは5種の結晶のパッキングの仕方がそれそれ異なっており、化学圧力や、静電的相互作用の影響が異なるためだと考えられる。一方、SCO挙動にも違いが見られ、[Fe(2)2](BF4)2.4MeNO2はなだらかなSCOを示すのに対して、[Fe(2)2](BF4)2.acetone は凍結効果.ヒステリシスを伴う急激なSCOを示した(図7)。[Fe(2)2](BF4)2.acetone の cooperativity factor は 1.38 と高く、この結晶内の錯体間に強い協同効果が働いていることが分かる。

他の錯体のベンゼン環とピリジン環の平面角と比較した場合、[Fe(2)2](BF4)2.acetone は片側の配位子の平面角が特異値をとっていた。そこで、この原因を調べたところ協同性と強い関係があることが分かった。b軸から見たパッキングの様子を図8に示す。図中赤で示したねじれたベンゼン環は、近接するc軸とac軸方向に存在する錯体のピラゾイル環との衝突を避けるためねじれていた。更にこのベンゼン環は一方のピラゾイル環とπスタックし安定化していた。すなわち、ねじれたベンゼン環を介した錯体間の相互作用がac面内に働いたことにより、強い協同効果が現われたと考えられる。

・[Fe(3)2](EF4)2の固体状態における光異性化挙動

[Fe(3)2](BF4)2のKBrペレットへの436nmの光照射によるIRスペクトル変化を調べたところ、その光定常状態におけるスペクトルは[Fe(2)2](BF4)2とよい一致を示した(図9)。従ってcis⇒trans 光異性化は固体状態においても発現することが分かった。微結晶においても、照射に伴い黄色から赤色への変化が観測された。

構造解析および磁化率測定から、[Fe(3)2](BF4)2は低温まで高スピン状態を保つことが分かった。これに対し、[Fe(3)2](BF4)2に光照射したサンプルは100-300Kの温度領域でなだらかなスピンクロスオーバーを示した。つまり、LD-LISC現象に基づき、固体状態における光磁気効果を観測することに成功した。

【第五章】結論

SCO錯体に光異性化部位としてアゾベンゼン、スチルベンを導入し、それぞれの光化学特性に対応した光磁気変換を溶液状態で達成した。また、スチルベン-鉄錯体については、スピン状態の異なる種々の溶媒和結晶を得ることができた。これらから得た知見はSCO現象の構造一磁気相関の解明及び、本原理による固体状態における光磁気変換の志向にあたり有益であった。 cis⇒trons 光異性化は固体状態においても可能であり、これに伴いスピン状態は変化した。

以上筆者は本博士課程において、厳しい制限を持つSCO錯体の光磁気効果の発現環境を、SCO錯体に光異性化分子を組み込むという方法により大きく拡張可能となることを明らかとした。この結果は、実環境で動作可能な光応答型分子素子の志向に当たり有用であると考えられる。

図1【Fe(1)3]2+の化学構造

図2【Fe(1)3】(BF4)2の365,436nm光照射に伴う磁化率変化

図32、3、[Fe(2)2】(BF4)2.acetone、【Fe(3)2](BF4)2の合成スキーム

図4[Fe(3)2](BF4)2の436nm光照射に伴う紫外可視吸収スペクトル変化(アセトン中)

図5[Fe(3)2](BF4)2の溶液中における磁化率および436nmPSSにおける磁化率

表1錯体のSCOに対する熱力学パラメータ

図6[Fe(2)2](BF4)2の各種溶媒和結晶における平均配位結合長の温度依存性

図7[Fe(2)2](BF4)2.acctone の磁化率

図8[Fe(2)2](BF4)2.acetoneの錯体間のパッキング

図9[Fe(3)2](BF4)2(照射前:黒、照射後:赤)および[Fe(2)2](BF4)2(青)のIRスペクトル

審査要旨 要旨を表示する

本論文は5章と付録からなり、第1章は研究の一般的な背景、第2章はアゾベンゼン部位の光異性化を利用した可逆的な光磁気変換、第3章はスチルベン部位の片道異性化を利用した光磁気変換、第4章は第3章で用いた鉄錯体の固体中における磁性と光異性化挙動について、第5章は研究成果のまとめについて述べられている。

第1章では、光磁気効果、スピンクロスオーバー錯体(SCO)、SCO錯体を用いた光による光磁気変換方法について述べている。まず、既存の光誘起SCO現象としてLIESST現象を挙げ、これが固体・低温条件という厳しい制約を必要とする一方、フォトクロミック部位をSCO錯体に導入することでこの制限が克服可能とできることを指摘している。次にこの原理(LD-LISC)に基づく研究によって、将来的な光応答型分子素子としての応用が期待される一方で、LD-LISCに関する研究例が稀有であることを述べている。これらの点が、本論文においてLD-LISC現象の解明と発展について研究を行う動機とされている。

第2章ではアゾベンゼンとピリジルベンズイミダゾールを接合した配位子を用いた鉄錯体を用いた、室温における可逆的な光磁気効果に関する研究を記述している。本章で用いた新規錯体は多色光によりアゾベンゼン部分の異性体比を変化させ、かつ室温付近でSCOを示すという性質を持つ。これら両性質を利用することが室温における可逆的な光磁気効果達成の鍵となっている。また、溶液中の磁化率の定量測定法であるエバンス法を利用することで、この研究領域で初めて光異性化に伴う磁気量変化を定量評価することに成功している。

第3章では、スチルベンの片道異性化が注目されている。まず、スチルベン類の1電子還元体がシス体からトランス体への片道異性化を示し、これが光化学的にも生成可能であることを述べた上で、片道異性化は鉄錯体においてもその電荷移動吸収帯励起により誘起可能であることを予想している。その予想は論文中におけるスチルベンを2,6-ビス(ピラゾイル)ピリジンに接合した配位子を用いた鉄錯体において実証されている。また、配位子、鉄錯体、対応する亜鉛錯体の照射波長と光定常状態におけるトランス体の生成比の関係を調べ、鉄錯体の電荷移動励起状態が特異的にスチルベン部位の片道異性化を進行させることを示した。一方で、両錯体は溶液中それぞれ異なるスピン平衡状態を取ることを温度可変吸収スペクトルから示した。また、エバンス法を用いた実験では、片道異性化による光磁気効果を示した。

第4章では、第3章で用いたトランス、シス錯体の固体中の磁性と光磁気効果について述べている。その前半においては、トランス錯体の5種類の溶媒和結晶を作成している。これら結晶中の錯体のスピン状態を比較し、スピン状態は錯体の化学構造が同じであるにも関わらず結晶の種類に応じて様々であることを示した。パッキングの様子と関連文献を参考に、このような結果が得られたのは固体中では化学圧力の影響がスピン状態に強い影響を与えるためだと考察している。これら結晶の内、アセトンを含む錯体は磁気的性質、構造ともに興味深く、論文中で詳述されている。具体的には、凍結効果、協同効果を示すことなどからこの結晶中では錯体間の共同性が高いことを示した上で、その原因は配位子片側のねじれたベンゼン環と近接する錯体のピラゾール環の間に働く錯体間の相互作用に起因することを示している。

続く後半では、シス錯体の固体中における光異性化挙動について述べられている。シス錯体のKBrペレット中へ可視光を照射したところ、黄色からオレンジ色への色変化が観測され、光照射後のIRスペクトルがトランス錯体の錯体と一致したことなどから、固体中においてもシス体からトランス体への片道異性化が利用可能であることを実証した。結晶状態においてもシス錯体は光異性化は可能であり、光照射前の錯体、つまりシス錯体、が高スピン状態を取るのに対し、光照射後、つまりトランス錯体、はスピンクロスオーバーを示した。つまり、LD-LISC現象に基づき、固体状態における光磁気効果を観測することに成功している。

第5章では以上の結果を総括し、今後の研究展望を述べている。また付録として構造解析結果などを記している。

以上、本論文では、厳しい制限を持つSCO錯体の光磁気効果の発現環境を、SCO錯体に光異性化分子を組み込むという方法により大きく拡張可能となることを明らかとしている。本博士論文において解明された新規なフォトクロミック分子の特異な性質は、機能分子化学の分野を大きく進展させると期待される。なお、本論文第2章、第3章、第4章、は久米晶子、西原 寛との共同研究であり、一部はすでに学術雑誌として出版されたものであるが、論文提出者が主体となって実験および解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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