No | 124533 | |
著者(漢字) | 金,玟廷 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | キム,ミンジョン | |
標題(和) | 韓国開港期における宮殿建築の西洋化過程に関する研究 : 外国人接客空間とその室内意匠・家具を中心に | |
標題(洋) | ||
報告番号 | 124533 | |
報告番号 | 甲24533 | |
学位授与日 | 2009.03.23 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(工学) | |
学位記番号 | 博工第6967号 | |
研究科 | 工学系研究科 | |
専攻 | 建築学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 開港期の宮殿建築における外国人謁見所・迎接室・宴会所の空間とその室内意匠・家具の特徴について考察してきた。考察を進めるに当たって、使用された時期の順に昌徳宮期・景福宮期・ロシア公使館期・慶運宮期に分けそれぞれの西洋化の影響について検討した。その中でも、朝鮮の宮殿が王宮として使用された昌徳宮期・景福宮期・慶運宮期における外国人接客空間の西洋化過程を建築・空間的側面と室内意匠・家具の側面から考察した結果、以下が明らかとなった。 建築・空間の側面では、外国人謁見所として使用するための洋風建築の造営が為されなかったことが指摘できる。外国人謁見所としては、かつての既存の韓国伝統建築がその役割を担った。これらの建築物は、いずれも王の日常政務をはじめ、朝鮮の王族や官僚などの政務奏上や接見のために用いられたいわば「便殿」の性格を持つものであった。これは、「正殿」で日本と中国の使臣の謁見を受けた開港以前から変化した点である。一方、「便殿」の使用においては国ごとの差は見られなかった。 慶運宮期に入ると、洋風建築の惇徳殿が外国人謁見所として使われ始めた。しかしこの洋風建築の使用は大韓帝国の外交権が日本政府に剥奪される第1次日韓協約の影響によるもので、大韓帝国の意向による洋風建築の受容ではないことが明らかとなった。 以上より、朝鮮あるいは大韓帝国政府は、西洋人外交官との接見が行われる謁見所であっても、洋風建築を導入することより朝鮮の伝統的な謁見儀礼を保ち、こうした儀礼に対応できる伝統建築をそのまま使用する方法を採用したと指摘できる。 なお、慶福宮期に入ってからは、王妃と外国人との接見が散見される。だが、王妃と外国人の謁見というのは、あくまでも非公式の内謁見として取り扱われ、王と王妃が揃って公式謁見に出るようなことも一切なかった。王妃の内謁見所についてもそのために新たな洋風建築を建造する必要性が認められることは一切無く、既存の王妃の居所がそのまま用いられた。しかし王妃の内謁見所は、王の公式あるいは非公式謁見所と比べ、内部意匠の面でより西洋化されていたことが分かる。とりわけ王妃の席として洋風のソファが用意され、また謁見者のためにも洋風の椅子が設けられ、両者ともに洋風の椅子座であったのが大きな特徴である。 次に、室内意匠と家具の特徴からは、以下が明らかとなった。 外国人謁見所の室内意匠は、全体的に素朴な様子であった。具体的には、謁見儀礼の空間的基準である「楹」が存在し、玉座には朝鮮伝統の「交椅」という椅子が採用され、床には伝統的な敷物が敷かれていた。このような構成が謁見室の「定型」であった。こういった構成下に洋風の室内意匠の要素として、外国製のカーペットが用いられ、そして王のテーブルに西洋風のテーブル掛が掛けられたケースが登場した。 一方、謁見所とは対照的に、謁見前に外国の賓客が待機・休憩をした迎接室における室内意匠には相当多くの洋風要素が導入された。テーブルや椅子などの洋風家具をはじめとして、ふるまわれた料理や飲み物まで洋風であった。このような傾向は外国人の迎接室のみでなく王室宴会場でも同様に現れたことが確認できた。すなわち、室内意匠からも、謁見所においては朝鮮の伝統を守り、外国人に対し朝鮮の儀礼に従うことを求めることで、自国の「威厳」を示した一方で、迎接室や宴会場においては西洋文化を積極的に導入し、彼らの文化に理解・配慮するという傾向があったことを確認することができた。 さて、古来の「椅子座」が、開港期における外国人外交官との接見においても採用されたことが明らかとなった。「椅子座」には「交椅」という古くから王室行事で使用された折りたたみ式の椅子が用いられた。もちろん「交椅」は、王の位置を高くすることによって彼の「権威」を示す目的で使用されたと考えられる。さて、外国人による謁見の際には、「交椅」は謁見を受ける朝鮮の国王のための「座具」であったが、清公使との謁見に限りその例外的な使用法が見られる。謁見を行う清公使のためにも椅子が用意されたが、その際、椅子の種類は王が使用したのと同じ「交椅」が採用されたと考えられるのである。ただそれぞれの色彩は異なっており、王には赤漆が塗られた「竜交椅」が、清の使臣には、黒漆の「交椅」が準備されたと推測される。一方、王の謁見儀礼中どのように「交椅」が使用されたかをみれば、最初は「座礼」で各国公使らの謁見儀礼を受け、ただ王が公使らに答礼をする際のみ立ち上がる作法が取られたが、徐々に「立礼」で公使らの謁見儀礼を受け始め、自らの答礼が終わった後に座るという作法への変化を見ることができる。 「交椅」の使用法に見られるもう一つの変化は、王室宴会が行われるにあたってそれが宴会用の椅子として用いられた点である。こうした使用例は1896年の日本親王の訪問時から見られ、高宗と依仁親王だけのための座具ではなく、宴会場で多数の人々が囲んで座れる「四仙床」というテーブルの使用に伴い、これに対応できる椅子として、多数の「交椅」が用いられたことが分かる。この宴会の席次は「曲座」の方式で決められた。 儀礼空間とそのヒエラルキーついては以下が明らかとなった。 まず、謁見所では、上座である北壁に玉座を配置し、謁見者は南側に位置する。そして謁見所で最も重要な空間的要素は儀礼行為の基準である「楹」であると言える。 次に、謁見儀礼の一環としてのアプローチについて以下が明らかとなった。 まず、謁見所の正面階段の使用に際しては、外国人外交官はヒエラルキーが最も低い西側階段を通った。ただし、国書奉呈のために入場する際に限り、ヒエラルキーが最も高い中央階段が用いられ、奉呈式を終え退出する際には、いつもの西側階段が使われた。謁見所の出入口には東夾門が採用された。また、迎接室においては「階段上下」というヒエラルキーが成立していたが、日常の謁見では階段の上で朝鮮官僚による迎接が行われたのに対し、外国の王族による謁見の場合に限って階段の下まで降り迎接する儀礼が成立していた。 なお、謁見儀礼をはじめとして謁見空間の使用にあたって近代ならではの変化が模索されたが、一定の近世的な要素も残されていたことが確認できた。国書奉呈の際に外国人外交官に中央階段を通ることを許したにもかかわらず、日本公使に限り西側階段を通らせたのはその一例である。こういった国ごとに異なった儀礼の適用は、開港のはるか以前から外交関係を維持してきた清との謁見儀礼において多く見られた。清の場合は、日本と対照的に特別な礼遇が採用された。例えば、朝鮮の国王が謁見所内の「楹」の外側まで出て、清の公使の出迎えをした点、また彼らのために椅子を用意し、茶礼を行った点が挙げられる。なにより注目されるのは、謁見のために参内する際、唯一清公使のみ輿に乗ったまま宮殿に入るのが許された点である。ところが、1894年頃に全ての外国人外交官に宮殿内での輿使用を許可するようになった。また大韓帝国期に入り、国家儀礼を整備し『大韓儀礼』を公布することになり、近世の外交儀礼から抜けだして近代化を目指す姿勢も見られた。 以上、謁見所と迎接室における空間・室内意匠と家具・儀礼の特徴について論じてきた。次に宴会場の室内意匠と調度品について検討し、以下を指摘することができた。 王室宴会において王が自ら参席する例はきわめて少ないが、王が同席する際には、王は外国人外交官や朝鮮の官僚とは別のテーブルに着座し、仕切りによって空間が分断された。また室内意匠を見ると、テーブルと椅子をはじめとしてカーペット・カーテンが設置され、家具や調度品もマホガニーやシルクなどの素材が用いられた高級の手工芸品であった。こういった高価な洋風家具と調度品は、外国から王にプレゼントされたかあるいは王の内帑金で購入されたものが多かった。宴会場における西洋の影響は、家具や調度品のみでなく儀礼作法にも及ぼされ、王と外国人公使らの謁見の際には朝鮮の伝統儀礼が取られたのとは対照的に、朝鮮官僚と外国公使が参席する宴会においては、握手の礼という西洋の作法が用いられるようになった。 ここまでの考察は、朝鮮宮殿における外国人接客空間を対象としたものであった。これに対し、高宗が朝鮮の宮殿を離れ、ロシア公使館に滞在した時期における外国人謁見空間の特徴は次のようである。この時期は、なにより朝鮮を巡る日本とロシア間の政治的な利害関係が対立した時期だが、こうした状況が謁見所の選択にも影響を及ぼしたことは、小村寿太郎弁理公使の信任奉呈式と依仁親王の謁見の事例を通じて確認できた。なお、高宗はロシア公使館に滞在していたが、外国公使との公式謁見は慶運宮で行われていたことが明らかとなった。公式謁見所の室内意匠は、極めて簡素なもので、飾り物と言えるものはほぼなく、ただ床に白い敷物が敷かれていた。洋風の意匠要素が見られなかった一方、日本の依仁親王による謁見では、西洋風の握手の礼が取られ、親王のために椅子が用意されたことが分かった。なお、この時期の朝鮮王室での西洋風の意匠と家具の採用は、謁見所のみならず高宗の御所でも見られた。これは、あくまでも高宗が一年間ロシア公使館で生活しなければならかったことによるが、彼がはじめて洋風建築で生活し、西洋文化を経験する契機を持たらした。居所の室内空間には、「床榻」と記録されていたベッドを始めソファ・カーペット・蝋燭シャンデリア・カーテン・天蓋・ストーブが設けられるなど、ほとんどが洋風で整えられた。韓国伝統の意匠要素としては、カーペットの上に敷かれていた虎皮とベッドの側に置かれていた3段の箪笥が唯一のものであった。 最後に、外国貴賓の迎賓館と宿舎について検討を行い、上流階級の住宅から始め、メレンドルフ邸・統理交渉通商事務衙門の接待用官邸・大觀亭・漢城賓館(ソンタグホテル)の順に、その系譜が継続したことを明らかにした。 上流階級の住宅・メレンドルフ邸・統理交渉通商事務衙門の接待用官邸は、朝鮮の伝統家屋をその内部のみ洋風で改装したものであった。家具については、王室から持ち出された外国製のテーブルと椅子が設けられ、また朝鮮で急遽に制作された洋風の木製ベッドも用意されていた。一方、洋風の迎賓館あるいは宿舎として、大觀亭とソンタグホテルが建てられた。大觀亭は、1889年のドイツ親王の訪問をきっかけで登場するが、最初から迎賓館として使用するために建設したものではなかった。元々はアメリカ宣教師のハルバートの住宅であったものを朝鮮王室で購入、宮内庁の顧問官であったアメリカ人サンズに下賜されたのだと推定される。朝鮮政府により創立された公式迎賓館は1902年に設立され、ソンタグホテルと知られている漢城賓館である。このホテルには25の客室があり、大規模な宴会場・結婚式場・結婚披露宴場などが設けられていた。経営は宮内府の外国人接待係を勤め、25年間高宗を支えてきたドイツ人女性ソンタグに委任され、日韓併合まで朝鮮の迎賓館としての役割を担った。 | |
審査要旨 | 本論文は、韓国において西洋文化が導入された1876年の開港以後の建築西洋化を解明することを目的としている。 西洋文化は王室をはじめとする上流階級に影響を及ぼすことになる。とくに朝鮮王朝の宮殿における外国人の接客空間が、朝鮮王朝の西洋文化理解度のようなものであり、それに対する反応がどのようなものであるかをダイレクトに示す場であった。一方そこは、自国の伝統儀礼が守られ、かつその儀礼に応じる空間でもあった。本論文は、このように「伝統」と「西洋」が共存していた朝鮮王朝の宮殿の接客空間の、空間構成、室内意匠、家具等の実態を明らかにし、その西洋化過程を究明しようとするものである。研究対象は、宮殿の謁見所を中心に、迎接室、宴会所、王室賓館である。 これらの施設は西洋化の影響がもっともはやく及ぼされた建築であり、また、朝鮮政府が主体となって西洋化・近代化を進めた建築でもある。それにもかかわらず、韓国近代建築を論ずるにあたって、開港期の宮殿建築に関する研究はほとんど行なわれてこなかった。宮殿建築の西洋化過程を追う研究においても、論考の対象とされてきたのは現存する慶運宮の西洋館と、日韓併合以降、日本によって西洋化された昌徳宮に限られてきた。 本論文では視野を広げ、伝統的な宮殿建築も含め、開港以降王宮として用いられたすべての宮殿を取り上げ、そのなかで外国人とのかかわりが深かった接客空間に着目している。 開港期の歴史的背景と王宮の関係は、 1.開港直後の昌徳宮を用いた時期 2.正宮である景福宮を用いた時期 3.王妃暗殺を契機として高宗がロシア公使館に滞在した時期 4.新しく造営された慶運宮を用いた時期 に分類される。 韓国宮殿における最初の洋風建築は、1888年頃に景福宮に建てられた「観文閣」である。1891年には景福宮に高宗の書斎が建設される。以後、慶運宮期にはいると多数の洋風建築が建設されてゆくようになる。 開港期における昌徳宮の宮殿建築については、『高宗実録』と『承政院日記』によって、この時期の外国人謁見を調べている。謁見所はすべて便殿の性格をもつ建物であり、「殿」または「堂」がつくヒエラルキーの高い建築であったことが知られる。そこでは伝統儀礼が用いられていたが、次第に洋風の要素が導入されていく。その実例として、メレンドルフの謁見からその作法を見ると、そこでは礼儀作法から室内意匠まで韓国伝統に則ったものだった。日本公使を謁見する高宗は座礼であったが、清使節の謁見の場合は高宗が「楹外」まで出て迎接し、「茶礼」や「椅子」まで用いられた。また、外国人宴会場の「席次」についても考察を加えている。ふるまわれた料理は西洋風が加えられた折衷様式であったことも明らかにされている。 景福宮期に入って外交官との謁見が増加する時期になっても、洋風の謁見所は新築されなかった。謁見所として用いられた伝統建築は、いずれも王の執務室の性格をもつものであった。ただ、王の姿勢は「座礼」から「立礼」に変わっていった。景福宮の多数の謁見所のうち中心となったのは「乾清宮」であった。この建物の「長安堂」の「大庁」で謁見が行われた。王と王妃の非公式謁見所は、公式謁見所より西洋化が進められていたことも知られる。 ロシア公使館の外国人謁見所期と考えられる時代には、高宗はほとんど外部に出なかったと考えられてきたが、外国人の公式謁見のためには慶運宮に出かけていたことが明らかになった。一方、非公式謁見はロシア公使館で行われていた。この時期には西洋化された意匠要素はあまり見られなかったが、日本の依仁親王の謁見では、西洋式の「握手の礼」が取られ、親王には椅子が用意された。 慶運宮期の外国人謁見所は、1904年までの公式謁見では韓国伝統建築が用いられ、非公式謁見では洋風建築がしばしば用いられた。西洋化された建築には「威寧殿」と「徳弘殿」があった。1904年以後登場する洋風の謁見所は「惇徳殿」である。しかしこの建物は第一次日韓協約の影響による受動的な採用であった。 外国賓客の迎賓館と宿舎としては、メレンドルフ邸、統理交渉通商事務衛門の接待用官邸、大観亭、漢城賓館(ソンタグホテル)が、順次存在したことを明らかにした。 以上、本論文は開港期の韓国西洋化の過程を実証したもので、斯界の学術研究に資するところ大である。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 | |
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