No | 124534 | |
著者(漢字) | 鏡,壮太郎 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | カガミ,ソウタロウ | |
標題(和) | 十九世紀フランスの建築装飾産業に関する研究 | |
標題(洋) | ||
報告番号 | 124534 | |
報告番号 | 甲24534 | |
学位授与日 | 2009.03.23 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(工学) | |
学位記番号 | 博工第6968号 | |
研究科 | 工学系研究科 | |
専攻 | 建築学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 本研究は、十九世紀のフランスにおける建築装飾の産業化過程をあつかったものである。ここでは、当時の建築装飾がどのような素材や技術を用いて製作され普及されていったのか、またそこにおいていかなる芸術家、技術者、製造者、職人といった人々が活躍し、それぞれがどのような役割をはたしていたのかといった点に注目していく。このようなテーマはこれまでの建築史研究ではそれほどあつかわれてこなかったもののように思われるが、大衆社会が発達した十九世紀のフランスにおいてはとくに芸術と産業の融合は重要なテーマとされており、こうして建築装飾産業の研究からはフランスの十九世紀という時代の特性を明らかにすることができるように思われる。そして当時は建築においては折衷主義の時代であったことから、本研究では十九世紀フランスの建築装飾産業の実態を具体的に把握することで、この産業と同時代の折衷主義建築との間の思想や態度における関係性を明らかにすることを目的とする。 本論は五つの章から構成されるが、これらは大きく二つにわかれており、第一章から第三章までが十九世紀の装飾産業の展開過程をあつかったものであり、第四章と第五章において具体的な建築、ここでは新ルーヴル宮とパリのオペラ座があつかわれている。つまり前半部で十九世紀の建築装飾産業の実態を把握し、後半部でそれらと関連させて同時代の折衷主義建築の特徴を分析していこうとするものである。 まず第一章では、装飾の生産に関わる職能についてみていく。ここではおもに装飾家と産業芸術家について、その職能の展開過程や内容を検討する。十九世紀においては装飾がいわば芸術の一分野として自律していく過程がみられるといえるが、それはこれら装飾の生産にたずさわる芸術家たちの職能の自律と平行した現象でもあった。これはとくに十九世紀において装飾家の職能におけるモデルの構想者としての側面が強調されるようになる傾向や、またそれらが包含されていった産業芸術家の職能の出現においてみられる。フランス産業製品博覧会の報告書をたどるかぎり、これらの人々は1830年代頃より活躍がみられるようになったといえる。またこのような産業芸術をとくに教育の力において改善していこうとしたのがフランス各地につくられた素描学校であった。とくにパリの素描学校は十八世紀後半につくられたものだが、これは十九世紀にも大きな重要性をもっていた。しかしながらそこにおける教育は徐々にアカデミー化の傾向をみせるようになり、これはとくに1870~1880年代において装飾芸術という芸術のひとつの新たなジャンルが出現する原動力となった。このようなながれからは、1830~1870年までの時代が、産業芸術という概念がとくに先鋭化された時期とみなすことができる。 このような産業芸術家たちの活躍は具体的に彫刻家ジュール・クラッグマンや、図案家、室内装飾家のシャルル・セッシャン、ジュール・ディエテルルらの活躍にもみることができる。そしてこれらの人々は徐々に建築家の職能領域をおかすようになる傾向をみせ、これは建築家が諸芸術の統率者としての自身の職能について自問し、また協会を設立するなどの職能確立の動きをみせるようになるひとつの契機となったといえる。 次に第二章では、十九世紀に新しく開発され、あるいはとくに大きな発展をみせた装飾に関する素材や技術があつかわれる。具体的にはここでは、テラコッタとエナメル、擬石板紙、鋳鉄、ガルヴァノプラスティ、鉛、亜鉛という六つの素材、技術の発展の歴史やその内容を分析する。これらはすべておもに彫刻的な装飾に関するものであるが、十九世紀には彫刻は絵画にくらべより産業化の影響がつよくみられた分野であった。そしてここでとりあげられる素材や技術は、とくに同時代の建築と関連のふかいものであったといえる。ここではこれらについて、とくに具体的な製造者やこれらの人々がおこなった技術革新が明らかにされるが、このような分析をとおして当時の装飾の技術が多くの部分において同時代の建築文化、とくに中世やルネサンス時代の芸術の復興と結びついていたことがわかる。十九世紀におこなわれた技術革新には、過去の経験的な手仕事を科学の力で再現可能な産業技術として復興するという側面もあったのである。 またこのような素材や技術全般において、とくに重要であったのが鋳造や成型といった複製技術であった。十九世紀には大衆の趣味の教育の必要性などからこのような複製技術が大きく発達するが、これにより当時は複製作品も芸術としてみなすべきとする主張などもみられるようになっていた。このような事実や当時のさまざまな発言からは、十九世紀の大衆社会においては芸術作品の評価基準はもっぱら素材よりも作品の形におかれていたことが読みとれる。 また第三章では、装飾図集と装飾カタログについての分析をおこなう。装飾図集は十六世紀頃よりみられるが、とくに十九世紀には当時の産業芸術を改善する目的から多く出版された。これら十九世紀の装飾図集の通時的な分析からは、装飾がこの時代を通じて徐々に相対化され分析されて、そして芸術におけるひとつの自律した分野を構成すべく理論化されていく過程をみることができる。一方で十九世紀の装飾カタログの分析からは、当時どのような装飾製品が製作されていたのかを具体的にみることができ、またこれらの製品の特徴を各分野ごとに明らかにすることができる。 また十九世紀には建築設計において、このような装飾カタログから装飾モチーフを選択し、それらを組合せていくという手法がみられるようになっていた。そこでは設計者のオリジナリティは、どちらかといえばこの組合せの仕方において発揮されたといえるが、このような傾向は十九世紀におけるエコール・デ・ボザールの建築教育や同時代の解剖学の研究成果などにみられた構成の概念とふかく関係するところがあり、これは十九世紀において本質的な概念であったといえる。そしてパリの素描学校における装飾の構成の授業からは、この概念が装飾の分野でも大きな重要性をもっていたことがわかる。 第四章と第五章では、第二帝政期におけるもっとも大規模なモニュメントである新ルーヴル宮とパリのオペラ座について、とくに技術的、産業的側面に注目しながら検討していく。ここで第二帝政期の建設工事をあつかうのは、この時期フランスの建築装飾産業がとくに重要な展開をしめしたからであり、またとくにモニュメントをあつかうのは、このような大規模な工事には当時多くの芸術家や製造者が参加していたため、そこから建築工事におけるこれらの人々の役割を具体的にみることができるためである。 この新ルーヴル宮とパリのオペラ座にはいくつか対照的な点がみいだせる。例えば前者は増築工事であり、後者は新築工事である。また前者では工事予算にかなりのゆとりがみられたのにたいし、後者ではそれはとくに制限されたものであった。また前者においては当時の雇用促進の目的から非常に多くの芸術家が工事に参加しているが、後者ではその数はある程度抑制されたものであった。新ルーヴル宮は完成後にとくに建物の各部分における不調和がみられるという批評が多かったが、これはこの工事に膨大な数の芸術家が参加したことが一因であったと思われる。そしてこれらの人々は建築家ルフエルによって統率されるべきであったものの、この工事ではそれは充分にはおこなわれていなかったといえる。 このような新ルーヴル宮の状況は、オペラ座の特徴を際だたせることになる。オペラ座については、ここでおこなわれた設計コンペの批評や提出された計画案の分析から、これらの案がそこに用いられた様式ではなく、機能や外観のモニュメント性といった観点から評価されていたことがわかる。また工事過程における建築家ガルニエの費用削減案の分析からは、ガルニエも同時代の産業芸術の分野においてみられたのと同様、装飾において素材よりも形を重視していたことがうかがえる。さらにそこにおいてガルニエがとくに重視していたのは、この建築における諸要素間の調和であった。ガルニエは例えば彫刻作品については彫刻家たちが遵守すべきシルエットを自ら厳格にさだめるなど、オペラ座の工事においてはつよい指導力を発揮したが、これは諸芸術の統率者としての建築家の役割を充分にはたしてものであり、その結果、オペラ座ではすぐれた調和が実現されることとなった。 以上の十九世紀の装飾産業の研究からは、まず当時の大衆社会においては装飾において素材ではなく形が重視されたこと、また建築装飾産業における既製品装飾は、とくにその選択と構成に建築家の創意がもとめられていたことなどがわかる。そしてそこにおいて本質的な基盤として重要であったのが調和の概念であった。こうしてこれらの分析から、十九世紀の折衷主義は同時代の建築装飾産業と、形、構成、調和といった概念を介して関連させることができるように思われる。 | |
審査要旨 | 本論文は、十九世紀のフランスにおける建築装飾の産業化過程をあつかったものである。ここでは、当時の建築装飾がどのような素材や技術を用いて製作され普及されていったのか、またそこにおいていかなる芸術家、技術者、製造者、職人といった人々が活躍し、それぞれがどのような役割をはたしていたのかといった点に注目していく。 このようなテーマはこれまでの建築史研究ではそれほどあつかわれてこなかったもののように思われるが、大衆社会が発達した十九世紀のフランスにおいてはとくに芸術と産業の融合は重要なテーマとされており、こうして建築装飾産業の研究からはフランスの十九世紀という時代の特性を明らかにすることができる。 本論は五つの章から構成されるが、これらは大きく二つにわかれており、第一章から第三章までが十九世紀の装飾産業の展開過程をあつかったものであり、第四章と第五章において具体的な建築、ここでは新ルーヴル宮とパリのオペラ座があつかわれている。 まず第一章では、装飾の生産に関わる職能についてみていく。ここではおもに装飾家と産業芸術家について、その職能の展開過程や内容を検討する。 第二章では、十九世紀に新しく開発され、あるいはとくに大きな発展をみせた装飾に関する素材や技術があつかわれる。具体的にはここでは、テラコッタとエナメル、擬石板紙、鋳鉄、ガルヴァノプラスティ、鉛、亜鉛という六つの素材、技術の発展の歴史やその内容を分析する。十九世紀におこなわれた技術革新には、過去の経験的な手仕事を科学の力で再現可能な産業技術として復興するという側面もあった。 第三章では、装飾図集と装飾カタログについての分析をおこなう。装飾図集は十六世紀頃よりみられるが、とくに十九世紀には当時の産業芸術を改善する目的から多く出版された。これら十九世紀の装飾図集の通時的な分析からは、装飾がこの時代を通じて徐々に相対化され分析されて、そして芸術におけるひとつの自律した分野を構成すべく理論化されていく過程をみることができる。一方で十九世紀の装飾カタログの分析からは、当時どのような装飾製品が製作されていたのかを具体的にみることができ、またこれらの製品の特徴を各分野ごとに明らかにすることができる。 第四章と第五章では、第二帝政期におけるもっとも大規模なモニュメントである新ルーヴル宮とパリのオペラ座について、とくに技術的、産業的側面に注目しながら検討していく。ここで第二帝政期の建設工事をあつかうのは、この時期フランスの建築装飾産業がとくに重要な展開をしめしたからであり、またとくにモニュメントをあつかうのは、このような大規模な工事には当時多くの芸術家や製造者が参加していたため、そこから建築工事におけるこれらの人々の役割を具体的にみることができる。 新ルーヴル宮とパリのオペラ座にはいくつか対照的な点がみいだせる。例えば前者は増築工事であり、後者は新築工事である。また前者では工事予算にかなりのゆとりがみられたのにたいし、後者ではそれはとくに制限されたものであった。また前者においては当時の雇用促進の目的から非常に多くの芸術家が工事に参加しているが、後者ではその数はある程度抑制されたものであった。新ルーヴル宮は完成後にとくに建物の各部分における不調和がみられるという批評が多かったが、これはこの工事に膨大な数の芸術家が参加したことが一因であったと思われる。 このような新ルーヴル宮の状況は、オペラ座の特徴を際だたせることになる。オペラ座については、ここでおこなわれた設計コンペの批評や提出された計画案の分析から、これらの案がそこに用いられた様式ではなく、機能や外観のモニュメント性といった観点から評価されていたことがわかる。また工事過程における建築家ガルニエの費用削減案の分析からは、ガルニエも同時代の産業芸術の分野においてみられたのと同様、装飾において素材よりも形を重視していたことがうかがえる。さらにそこにおいてガルニエがとくに重視していたのは、この建築における諸要素間の調和であった。ガルニエは例えば彫刻作品については彫刻家たちが遵守すべきシルエットを自ら厳格にさだめるなど、オペラ座の工事においてはつよい指導力を発揮したが、これは諸芸術の統率者としての建築家の役割を充分にはたしてものであり、その結果、オペラ座ではすぐれた調和が実現されることとなった。 以上の十九世紀の装飾産業の研究からは、まず当時の大衆社会においては装飾において素材ではなく形が重視されたこと、また建築装飾産業における既製品装飾は、とくにその選択と構成に建築家の創意がもとめられていたことなどがわかる。そしてそこにおいて本質的な基盤として重要であったのが調和の概念であった。こうしてこれらの分析から、十九世紀の折衷主義は同時代の建築装飾産業と、形、構成、調和といった概念を介して関連させることができる。 以上は興味深い文化史的建築研究であり、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 | |
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