学位論文要旨



No 124535
著者(漢字) 戸田,穣
著者(英字)
著者(カナ) トダ,ジョウ
標題(和) 18世紀末から19世紀初頭にかけてのフランス建築の諸相 : ジャック=ギヨーム・ルグラン (1753-1807)論序説
標題(洋)
報告番号 124535
報告番号 甲24535
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6969号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 准教授 藤井,恵介
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 岸田,省吾
内容要旨 要旨を表示する

本研究では、18世紀末から19世紀初頭にかけて活躍した建築家ジャック=ギヨーム・ルグランを中心に据えて、建築の諸相をあきらかにすることを目的とした。第1章では建築史上、たびたび名前をひかれる建築家でありながら、これまで包括的な研究およびその経歴がまとめられていなかったジャック=ギヨーム・ルグランについて、国立古文書館、パリ市古文書館、国立土木学校資料、国立美術学校資料などを中心に調査し、誕生から死去までの活動を明らかにした。そのなかでも国立土木学校資料から、これまで混乱のあった生年を確定するとともに、父の出自、土木学校入学の契機、そこでの学業などを明らかにした。そして結婚証明記録から、家族構成を明らかにするとともに、義父であるクレリッソーとの関係を明らかにした。他に、美術アカデミー議事録その他により、ルグランが公式の美術行政の中でどのような動きを示したかを明らかにし、とくに建築アカデミー会員選挙を通じて、その世代論を明らかにした。

第2章では、ルグランが企図した「建築一般史」の構想を、その序説である『建築一般史序説』を中心に、その他の彼のテクストを用いることで、考察した。ルグランの「建築一般史」の構想が、従来指摘されてきた当時の「ピクチャレスクな旅」の流行や「建築博物館」の構想とともにあることは指摘されてきた。本研究で明らかにしたのは、ルグランが、「ピクチャレスクな旅」やジャン=ニコラ=ルイ・デュランの『建築比較図集』などに寄せた他人のための解説文も含めて、みずからの「建築一般史」の一部とみなしていたことである。そのなかには20世紀まで未完の草稿として残されたピラネージ兄弟が出版を企画していた『ピラネージ作品集』のための『ジャン=バティスタ・ピラネージ氏の作品と人生について』や、カサスの建築模型コレクションのために執筆した『様々な民族の建築の傑作コレクションについて』が含まれていた。また「建築一般史」の目的な教育にあることを明らかにした。「建築教育」の問題は、パリに亡命中であったピラネージ兄弟にも共有されており、彼らは出版による「完全な建築講義」という企画を抱いていた。ルグランもまたアカデミーに提出された『講義計画あるいは完全な建築講義』のなかで、みずからが理想とする建築講義を提案している。

そしてルグランの『建築一般史序説』からルグランが依拠した18世紀の美学と、そこからのルグランの離脱を明らかにした。ルグランは大きな枠組みを、とりわけバトゥ『単一の原理に還元された芸術』に借りているが、バトゥに代表される18世紀の一般的な美学との比較から、ルグランが古典的な「自然の模倣」と「古代人の模倣」の概念を、「自然誌」の影響を媒介として、独自の「自然の模倣」概念へと展開したことを論じた。ルグランにとっての「自然の模倣」とは、形態としての自然、あるいは理念としての自然の模倣なのではなかった。芸術作品を、自然の中から生まれながらも、そこから自律した存在としてとらえる古典的な「自然の模倣」概念にたいして、ルグランが唱えたのは「自然と建築との協働」の概念である。そして建築が自然に参入していくためにこそ「不変の自然の原理」を学ぶことが要請された。

その際に、応用されたのが「自然誌」の知識である。ルグランは「自然の模倣」に動物の形態だけでなく、その行為、利器、生態の模倣までをも含めた。これは「古代人の模倣」に即して語られていた「行為の模倣」の概念を「自然の模倣」へと移す行為である。またルグランやデュランが利用した、一覧表(タブロー)による比較という方法と同様の手法を、同時代の「自然誌」の方法にみいだし、建築史あるいは考古学との同時代的平行関係を明らかにするとともに、バトゥの模倣の概念と、ブレのニュートン廟にみられる「空」の模倣と、ルグランが共有した天文学へのオブセッションをあきらかにした。

第3章では、これまで利用されてこなかった新しい資料群----雑誌・蔵書コレクション----を利用することで、国家とモニュメントと公衆の関係を探るとともに、ルグランによるフランス建築史通史の構想を明らかにした。前半では『芸術ジャーナル』誌をにぎわした1800年の国家記念柱のコンクールに題をとり、ひとつのモニュメントを巡って百出した多様な議論を確認整理するとともに、公衆の意見を受けて、モニュメントのイコノロジーが修正を迫られる過程を明らかにした。共和制のイコノロジーが帝政のイコノロジーへと遷移する様が明らかとなる。後半では18世紀建築についての同時代人からのはじめてのまとまった批評テクストであるルグランの『アナール・デュ・ミュゼ』誌上の建築批評は、現在においても18世紀建築史研究において、最も頻繁に引用されるテクストのひとつでありながら、それをルグランのテクストとして捉え分析した研究はなかった。本論では、「ルグランのフランス建築史」という観点から、ルグランがフランス建築に認めていた主要なプロブレマティックを明らかにした。

そして補章では、本研究に新しいパースペクティヴを与えたルグランの没後競売カタログについて若干の紹介と、特筆すべき項目について考察を行った。ルグランは当代きっての知識人であり、その蔵書コレクションはきわめて充実したものだった。近年、フランス建築史研究において主要なテーマである建築と出版との関係を考える上でも貴重な史料である。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、建築史上、たびたび名前をひかれる建築家でありながら、これまで包括的な研究およびその経歴がまとめられていなかったジャック=ギヨーム・ルグランを中心に据えて、18世紀末から19世紀初頭にかけてのフランス建築の諸相をあきらかにすることを目的とした。

第1章ではジャック=ギヨーム・ルグランについて国立古文書館、パリ市古文書館、国立土木学校資料、国立美術学校資料などを中心に調査し、誕生から死去までの活動を明らかにした。そのなかでも国立土木学校資料から、これまで混乱のあった生年を確定するとともに、父の出自、土木学校入学の契機、そこでの学業などを明らかにした。そして結婚証明記録から、家族構成を明らかにするとともに、義父であるクレリッソーとの関係を明らかにした。他に、美術アカデミー議事録その他により、ルグランが公式の美術行政の中でどのような動きを示したかを明らかにし、とくに建築アカデミー会員選挙を通じて、その世代論を明らかにした。

第2章では、ルグランが企図した「建築一般史」の構想を、その序説である『建築一般史序説』を中心に、その他の彼のテクストを用いることで、考察した。ルグランの「建築一般史」の構想が、従来指摘されてきた当時の「ピクチャレスクな旅」の流行や「建築博物館」の構想とともにあることは指摘されてきた。本研究で明らかにしたのは、ルグランが、「ピクチャレスクな旅」やジャン=ニコラ=ルイ・デュランの『建築比較図集』などに寄せた他人のための解説文も含めて、みずからの「建築一般史」の一部とみなしていたことである。

そしてルグランの『建築一般史序説』からルグランが依拠した18世紀の美学と、そこからのルグランの離脱を明らかにした。ルグランは大きな枠組みを、とりわけバトゥ『単一の原理に還元された芸術』に借りているが、バトゥに代表される18世紀の一般的な美学との比較から、ルグランが古典的な「自然の模倣」と「古代人の模倣」の概念を、「自然誌」の影響を媒介として、独自の「自然の模倣」概念へと展開したことを論じた。ルグランにとっての「自然の模倣」とは、形態としての自然、あるいは理念としての自然の模倣なのではなかった。芸術作品を、自然の中から生まれながらも、そこから自律した存在としてとらえる古典的な「自然の模倣」概念にたいして、ルグランが唱えたのは「自然と建築との協働」の概念である。そして建築が自然に参入していくためにこそ「不変の自然の原理」を学ぶことが要請された。

その際に、応用されたのが「自然誌」の知識である。ルグランは「自然の模倣」に動物の形態だけでなく、その行為、利器、生態の模倣までをも含めた。これは「古代人の模倣」に即して語られていた「行為の模倣」の概念を「自然の模倣」へと移す行為である。またルグランやデュランが利用した、一覧表(タブロー)による比較という方法と同様の手法を、同時代の「自然誌」の方法にみいだし、建築史あるいは考古学との同時代的平行関係を明らかにするとともに、バトゥの模倣の概念と、ブレのニュートン廟にみられる「空」の模倣と、ルグランが共有した天文学へのオブセッションをあきらかにした。

第3章では、これまで利用されてこなかった新しい資料群--雑誌・蔵書コレクション--を利用することで、国家とモニュメントと公衆の関係を探るとともに、ルグランによるフランス建築史通史の構想を明らかにした。前半では『芸術ジャーナル』誌をにぎわした1800年の国家記念柱のコンクールに題をとり、ひとつのモニュメントを巡って百出した多様な議論を確認整理するとともに、公衆の意見を受けて、モニュメントのイコノロジーが修正を迫られる過程を明らかにした。共和制のイコノロジーが帝政のイコノロジーへと遷移する様が明らかとなる。後半では18世紀建築についての同時代人からのはじめてのまとまった批評テクストであるルグランの『アナール・デュ・ミュゼ』誌上の建築批評は、現在においても18世紀建築史研究において、最も頻繁に引用されるテクストのひとつでありながら、それをルグランのテクストとして捉え分析した研究はなかった。本論では、「ルグランのフランス建築史」という観点から、ルグランがフランス建築に認めていた主要なプロブレマティックを明らかにした。

そして補章では、本研究に新しいパースペクティヴを与えたルグランの没後競売カタログについて若干の紹介と、特筆すべき項目について考察を行った。ルグランは当代きっての知識人であり、その蔵書コレクションはきわめて充実したものだった。

以上を通じて本論文は18,19世紀フランス建築理論の解明に寄与した。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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