学位論文要旨



No 124555
著者(漢字) 保呂,聰
著者(英字)
著者(カナ) ホロ,サトシ
標題(和) 静水圧を用いたES細胞の分化に関する研究
標題(洋)
報告番号 124555
報告番号 甲24555
学位授与日 2009.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6989号
研究科 工学系研究科
専攻 機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 牛田,多加志
 東京大学 教授 大島,まり
 東京大学 教授 佐藤,文俊
 東京大学 准教授 古川,克子
 物質材料研究機構 名誉フェロー 立石,哲也
内容要旨 要旨を表示する

高齢化社会に突入している現在においては慢性関節リウマチや変形関節症などの関節軟骨についての疾患が深刻な問題となっている.従来は,これら関節疾患では人工関節置換術が行われてきたが,長期間の使用によって骨と人工関節との間にゆるみが発生するため定期的に再手術する必要があり,特に高齢者の負担となっていた.そのため,人工関節置換術に代わり,自家細胞を用いた軟骨再生医療が注目を浴びてきており,実際に臨床応用もされているが,採取できる軟骨細胞に限界があること,採取と移植の二段階手術が必要であるといった欠点が指摘されている.それらの欠点を解決するため,ES細胞などの幹細胞から軟骨細胞を作製し,それを移植するといった再生医療が求められており,幹細胞から軟骨細胞への分化研究が求められている.一方で,全ての細胞に分化することが可能なES細胞についての研究は,主に化学的刺激を用いることによって多数行われているが,それらの研究では臨床での安全性が不透明な外来因子を用いている.そのため,化学的刺激に比べ,より安全な物理的刺激によるES細胞の分化制御法が研究され始めているが,これまでにES細胞は高いせん断応力により動脈内皮細胞に,低いせん断応力により静脈内皮細胞に,また,引張刺激により平滑筋細胞に分化誘導されることが報告されており,実際の生体内で受ける物理的刺激とES細胞の分化は関連付けられると考えられている.そこで,生体内で軟骨細胞へ負荷されている静水圧刺激に注目し,ES細胞への静水圧負荷システム,およびその前後の培養系を構築して,静水圧負荷がES細胞の分化に与える効果を検証した.また,静水圧を最も効果的に負荷する方法や条件を検討するためには,静水圧の負荷によって発せられるシグナルを計測することが重要となってくる.そこで,静水圧負荷下でのES細胞およびそのシグナルのリアルタイム観測系を構築し,典型的なシグナル応答であるCa(2+)の挙動を検証した.静水圧を用いたES細胞の分化誘導実験

マウス由来ES細胞株CCEを3日間浮遊培養しEmbryoid body (EB)を作製し,20 MPaの静水圧を60分間負荷した.その後,あらかじめゼラチンでコーティングしたプレートに播種し,7日間静置培養した後に細胞を回収して細胞染色及びリアルタイムRT-PCRに供した.

その結果,アルシアンブルー染色および,サフラニンO染色において静水圧を負荷したES細胞がそれぞれ濃青色,濃赤色に染色された.一方でアルカリフォスファターゼ染色,オイルレッド0染色においては差が見られなかった(Fig.1).また,リアルタイムRT-PCRの結果については,Collagen typeII mRNAの発現は,静水圧負荷を行った群で有意に上昇しており,負荷していない群の約4倍(P<0.01)を示した.また,Sox9 mRNAの発現においても有意差こそ示されなかったものの(P=0.05),約40倍と大幅に上昇する傾向が示された.一方で,Collagen type IやRunx2の mRNAにおいても発現がそれぞれ約5倍(Pく0.001),13倍(P<0.05) 有意に上昇していた.Oct4については有意差こそ示されなかったものの(P=0.06),静水圧負荷によって減少する傾向が示された(Fig.2).

プロテオグリカンの産生がアルシアンブルー染色およびサフラニンO染色で確認されたこと,Collagen type II, Collagen type I, Sox9,およびRunx2の発現がコントロール系に比べて増加していること,さらにOct4の発現が減少していることから,静水圧刺激はマウスES細胞の骨・軟骨系への分化を促進することが示唆された.一方で,骨分化マーカーであるアルカリフォスファターゼの産生は,染色においてコントロール系と差が見られなかった.これらのことから静水圧刺激はES細胞を軟骨細胞,骨芽細胞いずれの細胞へも分化誘導する可能性があり選択性は高くないが,軟骨細胞への分化を比較的強く誘導することが示された.今回の結果は,静水圧によって幹細胞を軟骨細胞へ分化させることが可能であることを示しており,幹細胞から再生軟骨組織を創製するための基盤技術としての静水圧負荷技術の可能性を示した.

コラーゲンゲル包埋組織の作製

幹細胞を用いた再生医療の実現には,これまでに検討したような幹細胞から目的の細胞へと分化させる技術と共に,細胞の構造を移植後一定の期間保持するための足場へと細胞を呼び込む技術も必要である.また,足場はあくまでも細胞の生体組織の再生誘導を助けるための仮の構造物であるので,炎症・異物反応を起こさずに残存するか,あるいは生体吸収されることが要求される.そこで異物反応を起こさず,実際に軟骨や皮膚,気管などの再生誘導において臨床研究が進められているコラーゲンゲルを足場として,上述の方法で静水圧を負荷したマウスES細胞をさらに21日間培養し,そのコラーゲンゲルへの接着性および分化の有無を評価した.

その結果,組織切片のHE染色の結果から,コラーゲンゲルの内部でも細胞が壊死することなく接着,増殖していることが示された.また,マウスES細胞に静水圧を負荷した後,コラーゲンゲルで包埋し再度培養した場合でも軟骨分化が促進されることがトルイジンブルー染色によって明らかになった(Fig.3).これらのことから,静水圧を用いてES細胞から軟骨細胞を誘導し,臨床に用いる際にはコラーゲンゲル包埋による移植法が有効である可能性が示された.

静水圧を用いたiPS細胞の分化誘導実験

ES細胞には,免疫拒絶の問題や倫理的な問題があるが,iPS細胞の出現によりそれらは乗り越えられようとしている.そこで,マウスiPS細胞株iPS-MEF-Ng-20D-17に前述と同様の方法で静水圧を負荷し,リアルタイムRT-PCRを用いてその分化を評価した.

その結果,静水圧刺激により,Sox9のmRNAの発現が約1.4倍上昇し,また,Collagen typeIIのmRNAの発現は,有意差は示されなかったものの(P=0.08)上昇傾向を示した.その一方でCollagen type I,Runx2,およびOct4のmRNAの発現は静水圧刺激の有無による大きな変化は観察できなかった(Fig.4).

このことから,静水圧刺激はマウスiPS細胞においては骨芽細胞への分化を誘導しない一方で,軟骨細胞への分化を若干ではあるが誘導する可能性が示された.一方で,Oct4の発現がコントロール系と差が無かったこと,Collagen type IIの発現においても有意差が示されなかったことから,マウスES細胞に比べてマウスiPS細胞は今回の実験方法では静水圧によって軟骨細胞へ分化誘導されにくいことが確認された.これまでに,化学的刺激を用いた分化制御において,同様の方法で刺激を負荷した場合ES細胞とiPS細胞ではその分化能力が異なるということが平滑筋細胞への分化や心筋細胞への分化において確認されている.これらのことから,将来の臨床応用が期待されているiPS細胞であるが,その分化制御においては化学的な刺激によるものであれ,物理的な刺激によるものであれ,ES細胞と同一の刺激を負荷するのではなく,負荷条件を検討する必要があると考えられた.

静水圧負荷によるES細胞のシグナル伝達のリアルタイムイメージング

マウス由来ES細胞株CCEを3日間浮遊培養しEBを作製した後に,あらかじめゼラチンでコーティングしたサファイアガラスに播種し,さらに1日間静置培養した.その後,細胞をCa(2+)蛍光指示薬Fura-2で染色した後に20MPaの静水圧を約5分間負荷し,その際の340nm励起波長における蛍光量と,380nm励起波長における蛍光量の相対値(ratio)を計算する事によって,静水圧負荷下におけるES細胞のCa(2+)挙動を計測した.

その結果,静水圧刺激を停止した直後にratio上昇を観察した(Fig.5)

これまでに,ES細胞に物理的な刺激を負荷した際のCa(2+)挙動を計測した報告はされていないが,血管内皮細胞などの成熟細胞へ物理的刺激を負荷した際にはCa(2+)濃度が急激に上昇した後に,次第にゆるやかになるように下降するということが報告されており,また,軟骨細胞に静水圧刺激を負荷した際にはそのCa(2+)濃度の上昇は静水圧負荷後に発生するということが報告されている.今回の実験結果でも,静水圧負荷後にratioが上昇し,次第にゆるやかに下降していることから,静水圧負荷後のratio上昇はピントのずれによるものではなく,Ca(2+)濃度の上昇によるものだと考えられた.これらのことから,ES細胞へ静水圧を負荷すると,負荷後にCa(2+)濃度が上昇することが示され,最も未分化な細胞であるES細胞にも成熟軟骨細胞と同様の静水圧負荷感受機構がすでに存在することが示唆された.

Fig. 1 Stained ES cells: hydrostatic pressured ES cells (A) and controls (B)

Fig. 2 Relative mRNA expressions of hydrostatic pressured ES cells.

*:P<0.05 **:P<0.01 ***:P<0.001 Mean±S. E. M.(n=4)

Fig. 3 Stained ES cells in collagen gel: hydrostatic pressured ES cells (A) and controls (B)

Fig. 4 Relative mRNA expressions of hydrostatic pressured iPS cells.

*:P<0.05 Mean±S. E. M.(n=8)

Fig. 5 Amount of rise in ratio caused by hydrostatic pressure

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,「静水圧を用いたES細胞の分化に関する研究」と題し,本文6章からなる.以下に論文の概要,続いて各章についての要旨を述べる.

高齢化社会に突入している現在においては慢性関節リウマチや変形関節症などの関節軟骨についての疾患は深刻な問題となっており,再生医療への応用を目指して幹細胞から軟骨細胞への分化研究が求められている.一方で,全ての細胞に分化することが可能なES細胞についての研究は,主に化学的刺激を用いることによって多数行われているが,それらの研究では臨床での安全性が不透明な外来因子を用いている.そのため,化学的刺激に比べ,より安全な物理的刺激によるES細胞の分化制御法が研究され始めているが,これまでにES細胞は高いせん断応力により動脈内皮細胞に,低いせん断応力により静脈内皮細胞に,また,引張刺激により平滑筋細胞に分化誘導されることが報告されており,実際の生体内で受ける物理的刺激とES細胞の分化は関連付けられると考えられている.そこで,本研究では生体内で軟骨細胞へ負荷されている静水圧刺激に注目し,ES細胞への静水圧負荷システム,およびその前後の培養系を構築して,静水圧負荷がES細胞の分化に与える効果を検証した.また,ES細胞における静水圧刺激の認知の有無を細胞レベルで評価するため,静水圧負荷下でのES細胞およびそのシグナルのリアルタイム観測系を構築し,典型的なシグナル応答であるCa(2+)の挙動を検証した.

1章 「序章」では,研究の背景としてES細胞などの幹細胞について得られている知見や,これまでに提案されてきた関節疾患の治療法およびその問題点,物理的刺激と細胞の分化との関連,細胞の物理的刺激認知機構についての仮説を述べ,また,静水圧を細胞へと負荷したこれまでの研究を総括した.また,これらをもとに,本研究の特色である,静水圧刺激をES細胞へと負荷することの持つ意義について述べた.

2章 「目的」では,序章の内容を背景として本研究の目的を述べた.具体的には静水圧刺激をES細胞へと負荷する二種類のシステムを構築すること,およびそれらのシステムを用いて,一方では静水圧刺激がES細胞の分化へ与える影響を検証し,他方では静水圧を負荷したES細胞内のCa(2+)挙動を検証するという目的を示した.

3章 「実験方法」では,本研究で使用した細胞種やその培養法,分析の手法などの実際の実験手順について述べた.

4章 「実験結果」では,まず比較対象として化学的刺激を負荷した際のES細胞の分化をリアルタイムPCRを用いて分析した結果を述べた.次に,いくつかの分析手法を用いて静水圧刺激を負荷されたES細胞の分化を評価した結果を述べた.具体的には複数の染色法やウエスタンブロッティング,アルカリフォスファターゼ活性測定,およびリアルタイムPCRを用いて評価したが,それらによって静水圧刺激は,化学的刺激と同様にES細胞の骨・軟骨系細胞への分化を誘導することを世界で初めて実証した.また,静水圧負荷後の静置培養日数と分化誘導との関連を検証した結果を示し,本論文で提唱した実験方法では静置培養日数は7日間が適切であることを示した.続いて,ES細胞に比べ,倫理的な問題や免疫拒絶の問題などが少なく,より臨床応用への期待がされているiPS細胞へと静水圧刺激を負荷し,その分化の有無を検証した結果を示した.そこでは,iPS細胞はES細胞に比べてその分化能力は劣るものの,静水圧刺激によってある程度軟骨細胞へ分化誘導されるということ,また,その一方で骨細胞への分化は誘導されないということを示した.次に,静水圧を負荷した後に担体へと播種した際のES細胞の分化誘導の有無を調査し,コラーゲンゲルへ播種した場合も静水圧刺激によって分化誘導が促進されることを示し,その臨床応用への可能性を示した.静水圧刺激によるES細胞内のCa(2+)挙動を検証する実験においては,まず,細胞へ刺激を負荷しない際の挙動を観察し,刺激無負荷時にはCa(2+)濃度が大きく変動をしないことを示した.また,これまでにすでにES細胞内のCa(2+)濃度を一過性に上昇させることが知られているATPをES細胞へと負荷し,そのCa(2+)濃度の上昇を観察することにより,構築した計測システムの有効性を確認した.こうしてその有効性を確かめたCa(2+)濃度計測システムを用いて静水圧を負荷した際のES細胞内のCa(2+)濃度を計測した結果,これまでに報告されている成熟軟骨細胞と同様に,ES細胞においても刺激除去時にCa(2+)濃度が上昇することを世界で初めて観測し,未成熟なES細胞にも成熟軟骨細胞と同様に静水圧感受機構がすでに存在している可能性を示した.

5章 「考察」では,本研究で得られた結果を過去の文献と照らし合わせた上,それらが持つ意義を分化誘導実験とCa(2+)濃度計測実験に分けて述べた.また,得られた知見を今後の再生医療においてどのように利用すべきかを述べた.

6章 「結論」では,本研究で得られた結果の総括を述べた.

以上のように,本論文では静水圧刺激をES細胞へと負荷する二種類のシステムを構築し,さらにそれらのシステムを用いて,静水圧刺激がES細胞を骨・軟骨系細胞へと分化誘導可能であるということや,ES細胞にも成熟軟骨細胞と同様に静水圧感受機構が存在している可能性があることを示したが,これらは,工学的手法を用いることによって再生医療に貢献出来る大きな可能性を示しており,工学的な意義が大きいと考えられる.

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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